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2011年7月26日 (火)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り28

「さよなら親鸞会」同様、当ブログも親鸞会で宣伝してくれているお陰で、アクセス数が増えました。それに伴い、退会者も増えてます。大変よい傾向です。

さて、『顕真』7月号の続きです。

疑難と答え5
弥陀の本願は矛盾か

(疑難)
「弥陀が十方衆生を煩悩具足・造悪不善の者と見抜いて十八願を建てられているのに、十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」

(答え)
「諸善は、往生浄土の方便なり」
「諸善は、みな弥陀の方便なり」
「諸善は、信心獲得の因縁なり」
 これら善知識のご教導を、「諸善を励めば弥陀に救われる(他力信心)ことだ」と聞き誤る人が少なくない。
 とんでもない誤解である。
 0をいくら加えても0であるように、人間の行う善はいくら励んでも自力である。
 自力はいくら努めても他力にはならぬから、弥陀の浄土に往生はできないのだ。

ここで、「諸善は、信心獲得の因縁なり」が善知識のご教導という前提で勝手に書いていますが、この根拠が無いのです。

これは『口伝鈔』を読めば簡単に論破できるのですが、2通りとは1通りということだ、と断言して、それが幼稚な思考だと指摘されると黙ってしまい、「難しい」は可能性0ではないよ、と指摘するとやはり黙ってしまうような知恵しかない人には理解できないと思います。

親鸞会は、宿善、方便、因縁という言葉ですべて曖昧にして誤魔化そうとしていますが、高森会長の宿善に対する主張を確認しておきましょう。

『本願寺なぜ答えぬ』には、

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と書いています。更に『教学聖典(5)』には

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

とあります。
これと『口伝鈔』の親鸞聖人のお言葉として紹介されている

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と、覚如上人の解説

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と、『唯信鈔』と高森理論を合わせますと

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、親鸞聖人のお言葉を言い換えてみると、

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

です。

どこか違いますか?

されば、覚如上人は親鸞会の宿善論を前提とされた場合に、往生との関係を、「かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず」と結論付けておられます。つまり「宿善あつきひと」「宿悪おもきもの」かどうかで往生できるかどうかを決めることはできない、ということです。親鸞会用語でいえば、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まらないということです。
これが高森会長の教えている

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

諸善は、信心獲得の因縁なり

と同じだという人は、幼稚園児以下の思考でしょう。通常の思考がある人なら、覚如上人は、高森理論を完全に否定されていることが判られるでしょう。

更に、もう一度、『往生要集』のお言葉を見てみましょう。

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。
(中略)
問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。

ここで源信僧都は、遇法の因縁について過去世の善根との関係で仰っています。
過去世に聖道門の修行を八万年も続けられた「宿善あつきひと」であっても、18願を聞いて信じ求めることはできないのに、五逆の罪人のような「薄徳」の「宿悪おもきもの」であっても、容易く18願を信じ求めることがあるのです。まさに「生死の因縁は不可思議」なのです。
源信僧都も覚如上人も同じことを仰っているのです。

ですから覚如上人は

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて

と、親鸞会でいうところの宿善の厚薄は過去のこととして、それにこだわるのが自力であるから捨て去って、すべて他力におまかせしなさい、と仰っているのです。

これが自力無功・他力全託の二種深信です。
つまり、親鸞会の宿善論を捨てることが自力を捨てることなのです。何度も言っている通りです。自力とは何かが判れば、簡単な話です。

mixi等での法論で、高森会長が敗戦を誤魔化すために、

自分は正しい信心を体得している幸せ者で聖教を正しく理解できるが、未信や異安心の者には正しい聖教の意味が判らず可哀相だ

という内容のことをワンパターンで言ってきます。これは負けを事実上認めたも同然です。もし本当に判っているなら、相手のどこがどう間違っているか、そして正しくはこうだと、論理的に説明できる筈ですが、それはいつもありません。単なる負け犬の遠吠えです。

善知識の条件は体験と教学とが揃った人、と親鸞会では説明してきましたが、悪知識も同じですね。
悪知識とは間違った体験おかしな教学とが揃った人物、まさに高森会長以下講師部員のことです。

聖教上の根拠を挙げての反論はいつでも受け付けます。ただし、2と1の違い、難しいの意味も判らない人は、遠吠えを続けてください。

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コメント

「諸善は、信心獲得の因縁なり」とは親鸞会の前々からの主張です。
親鸞会では因果の道理は因縁果の道理、因縁和合して結果が出る、原因のない結果は億に一つ兆に一つもないと教えています。
諸善が信心獲得の因縁なら、信心獲得に必要なすべては諸善であるという意味になります。
「阿弥陀仏は捨てて諸善を勧める高森会長に帰命せよ」といえば理屈が会いますね。
此処にも本音が出ています。

投稿: | 2011年7月27日 (水) 00時38分

名無し 様

仰る通りです。
高森会長にとっては、阿弥陀仏も浄土も地獄も関係ないのです。自分に従って、金集め人集めをせよ、だけです。

投稿: 飛雲 | 2011年7月27日 (水) 06時20分

以前に親鸞会の言葉で親鸞会教義を理解しているとお聖教を読むのが難しくなってしまうと書いた者ですが、今回もわかりやすいですね。
高森会長はお聖教にある言葉や文章をバラバラに切り取って、独自の意味に塗り替えた上で都合よく組み合わせ、更にパクリの文章を利用して偽の根拠をいくつも創作し、それを根拠だとして独自の教理(飛雲さんいうところの高森理論)をこれこそが浄土真宗だと言ってきました。いわば浄土真宗の捏造です。

ですからお聖教を自分の力で読むことのできる人はよいのですが、親鸞会語(高森語)しか知らない人が間違いを理解するには、まず親鸞会語の示す意味と本来の浄土真宗のお言葉の示す意味との違いのギャップを知って理解できないと難しいのです。意味が全然違ってしまっていますから。高森会長の使い方は、部分的に意味の重なる部分を強調していたりする全く間違いでもない定義をしてそれを重ねて利用しているから気付きにくくなっています。

今回の記事なら、親鸞会語でいう宿善あつきひと宿善おもきものがお聖教で正しくはどういうものと言われているのか、それを踏まえて聖人のお言葉に当てはめると親鸞会理論の間違いがわかるというところです。ありがとうございます。

投稿: 権兵衛 | 2011年7月27日 (水) 09時56分

権兵衛 様

貴重な御意見、有難うございました。
参考にさせていただきました。

投稿: 飛雲 | 2011年7月27日 (水) 20時46分

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