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2011年7月22日 (金)

自力にこだわる異安心の者には、「生死の因縁は不可思議なり」「遠く宿縁を慶べ」が理解不能

親鸞会で教えている「宿善論」の根拠として時々引用する『唯信鈔』

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

ですが、この理論には矛盾があることを聖覚法印が教えられるために言われた文です。「これは違うぞ」、というのを「これが正しい」という意味で親鸞会は引用しているのですから、断章取義だといっているのです。そのことを半年以上も前に偽装本願寺布教師に

哀れなM講師へ質問

で質問しているのに、結局答えることができませんでした。矛盾に気が付いたからでしょう。このヘンテコ「宿善論」については何度も何度も述べてきましたが、最近では

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り19

で簡単にまとめました。

親鸞会のこの理屈で言えば五逆の罪人は「宿善少なきもの」となりますが、その「宿善少なきもの」の五逆の罪人でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、五逆罪を造っていない我々は、「宿善少なきもの」と思うのは間違いなのです。
つまり、平生に仏法を聞いていない宿善の少ない五逆罪を造った人でさえ、往生できるのだから、平生から念仏の教えを聞いていて、五逆罪を造っていない我々には宿善がもちろんあり、五逆罪の人よりもなお往生できるといえるのです。

下品下生の五逆の者が、十回の念仏で往生を遂げる、という聖道門の道理からは信じ難いものであったために、宿善ということが論じられたのです。

宿善の意味については

「親鸞会の邪義を正す」
宿善の意味

で詳しく解説しています。
今まで出していない根拠でいうならば、『安楽集』でもこのことは問題になっています。

いまこの『経』(観経)のなかには、ただ一生罪を造りて、命終の時に臨みて十念成就してすなはち往生を得と説きて、過去の有因無因を論ぜざるは、ただこれ世尊当来の造悪の徒を引接して、その臨終に悪を捨て善に帰し、念に乗じて往生せしめんとなり。ここをもつてその宿因を隠す。

これはこれ世尊始めを隠して終りを顕し、因を没して果を談ずるを名づけて別時意の語となす。なにをもつてかただ十念成就するは、みな過去の因ありと知ることを得る。『涅槃経』にのたまふがごとし。「もし人過去にすでにかつて半恒河沙の諸仏を供養し、またすでに発心し、しかうしてよく悪世のなかにおいて大乗の経教を説くを聞けば、ただよく謗らざるのみ、いまだ余の功あらず。もしすでに一恒河沙の諸仏を供養し、およびすでに発心して、しかる後に大乗の経教を聞けば、ただ謗らざるのみにあらず、また愛楽を加ふ」と。

この諸経をもつて来験するに、あきらかに知りぬ、十念成就するものはみな過因ありて虚しからず。もしかの過去に因なきものは、善知識にすらなほ逢遇ふべからず、いかにいはんや十念して成就すべけんや。『論』(摂大乗論釈)に、「一の金銭をもつて千の金銭を貿ひ得るは一日にすなはち得るにはあらず」といふは、もし仏意によれば、衆生をして多く善因を積みてすなはち念に乗じて往生せしめんと欲す。

(現代語訳)

今この《観経》の中では、ただ一生のあいだ罪を造って、命が終わろうとするとき、十念を成就して往生をうるという果だけを説いて、過去の因のあるやなしやを説かれていない。ただこれは、世尊が後の世の罪を造るともがらを誘引し、その臨終の時に悪をすてて念仏に帰依し、十念することによって往生させようとされる。それゆえ過去世の因を隠して説かれないのである。これは、世尊が始めを隠して終りだけを顕わし、因を語らずに果だけをいわれるので、これを別時意の語というのである。どうして臨終の十念が成就するのは、みな過去の因があるのだということを知ることができるかといえば、《涅槃経》に説かれているとおりである。

もし、人が過去に、かって半恒河沙の諸仏を供養し、また菩提心をおこしたならば、悪世の中において大乘経を説くのを聞いて、これを誹謗しないが、なおそのほかの功徳はない。もし一恒河沙の諸仏を供養し、また菩提心をおこしたならば、後に大乗経を聞いて、ただ仏法をそしらぬばかりでなく、またよくこれを喜ぶ。

 こういう経を持って来て証明すると、明らかに、十念が成就するのは過去の因があってそれがむなしくないことが知られる。もし、過去の因がなかったならば、善知識にさえ、なお逢うことができない。ましていわんや十念が成就するはずがあろうか。《摂大乗論》に、

一金銭の因をもって、千金銭の果をうることは、一日ですぐに得るのではない。

というてあるのは、もし仏の思召しによれば、衆生に多く善因を積ませ、すなわち念仏させて、それによって往生させようとされるのである。

過去の因なくしては、五逆の者が善知識に逢うこともできないし、往生できるものではないことを仰ったものです。
では、その過去の因とは何かについて、源信僧都は『往生要集』

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}

また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。

善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。

また《大集経》の第七巻に説かれている。

もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

と教えられています。「生死の因縁は不可思議なり。」です。五逆の者のように、「薄徳のもの」でも「聞くことを得るも、その縁知りがたし。」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるので、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

それを覚如上人が『口伝鈔』で、

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

と教えられているのです。結局のところ、18願を信じるか信じないかと、過去世の善根との関係は判らないので、18願を聞いて信じる機が「宿善あつきもの」であり、聖道門の人のように18願を聞いても信じない機が「宿福なきもの」なんだと、覚如上人は仰った訳です。

ですから親鸞聖人は「遠く宿縁を慶べ」と表現なされているのです。獲信したならば、過去世からの阿弥陀仏との御縁を慶びなさい、です。自分がこれだけのことをしてきたから、獲信できた、と思うのは、親鸞聖人の領解とは違いますが、異安心の者には判らない境地です。

現代文も読めないし、古語の基礎的な言葉である「かたし」の意味も理解できないような人物には、今回のエントリーを理解することは「かたし」というよりも”不可能”に近いでしょう。

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