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2011年7月 6日 (水)

善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり

『教行信証』信巻には、『涅槃経』に説かれた阿闍世の回心について、長々と引文されています。もちろん『涅槃経』で省略されているところもありますので、省略されずに引文されている部分は親鸞聖人が重要視された部分ということです。
前回の続きです。

 大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。

多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯せりと記せず。この人の所作三悪に至らず。もし還つて心を得ば、また犯といはず。王もと国を貪してこの父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟しをはりて、心に悔恨を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

 王よ、衆生の錯乱に総じて四通りがある。一つには貪欲によるもの、二つには薬によるもの、三つには呪われたことによるもの、四つには過去の行いによるものである。王よ、わたしの弟子たちの中にも、この四つの錯乱がある。

錯乱したものが多くの悪をつくったとしても、わたしはこの人が戒律を犯したとはしない。錯乱したものが作った悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。もし正気に戻ったなら、そのものが戒律を犯したとはいわないのである。王は、かつて国王の位につきたいという心から父王を殺害した。それは貪欲による錯乱からしたのであるから、どうして罪になろうか。王よ、人が酒によって母を殺し、酔いが醒めてから後悔するようなものである。この行いもまた報いを受けないものと知るがよい。王は今貪欲による錯乱から王を殺害したのであって、正気でしたことではない。正気でしたことでないのなら、そうして罪になろうか。

現在の日本の裁判とも共通するものがあります。異常な精神的状態であった場合には、罪として問われないということです。したがって、正常な判断などできる筈のない赤子までも、五逆罪・謗法罪を生まれながらに造っていると脅す高森会長の教えは、仏教とは相容れません。外道以外の何物でもありません。

更に釈尊は続けられます。

 大王、たとへば幻師の四衢道の頭にして、種々の男女・象・馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、たとへば山谷の響きの声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂へり、有智のひとはそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨あるが、詐り来りて親付するがごとし。愚痴の人は謂うてまことに親しむとす、智者は了達してすなはちそれ虚しく詐れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂はん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂はん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。大王、人の夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、われみなこれを了れり、すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとへば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざれば、すなはちまた酔はざるがごとし。また火と知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出づるときにおいて種々の罪を作る、月の出づるときにおいてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。{乃至}

(現代語訳)

 王よ、たとえば幻術師が、街の四つ角でさまざまな男女、象や馬、飾り物や衣服などの幻を見せるようなものである。愚かな人はそれを真実と思うが、賢い人は真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また山びこのようである。愚かな人は真実の声と思うが、賢い人はそれが真実の声ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また怨みをいだいているものがいつわって親しげに近づいてくるようなものである。愚かな人は本当に親しくなったように思うが、賢い人はそれが嘘いつわりであると知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また人が鏡を持って自分の顔を見るようなものである。愚かな人はそれが真実の顔と思うが、賢い人はそれが真実の顔ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また逃げ水のようである。愚かな人はこれを水であると思うが、賢い人はそれが水ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また蜃気楼のようである。愚かな人は真実と思うが、賢い人はそれが真実のものではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王世、また夢の中で五欲の楽しみを受けるようなものである。愚かな人はこれを真実と思うが、賢い人はそれが真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。

 王よ、殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方もわたしはすべて知っているが、わたしに罪があるのではない。王が殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、たとえば人が酒についてよく知っていても、のまなければ酔わないようなものである。王もまた同じである。殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、ある人が太陽の出ているときにはさまざまな罪を犯し、また月の出ているときには盗みを働き、そして、太陽や月が出ていないときには罪を犯さないとしよう。この場合、太陽や月によって罪を犯すけれども、しかしこの太陽や月には罪があるのではない。殺害もまた同じである。(中略)

凡夫が真実と思うことと仏が真実と知っておられることとは別の事であるということです。それは、殺生を含む罪悪についてもそうです。人の行為について、それが罪になるのかならないのか、凡夫の考えていることが間違っていると釈尊は丁寧に教えてくださっています。
何をしても、

それは五逆罪だ、謗法罪だ、無間地獄に堕ちる罪だ

と何かの1つ覚えのように言いふらしている高森会長や講師部員は、この間違った考えの典型です。何も判らないのに判ったように振舞って、会員を脅していることの方が余程恐ろしい罪です。

罪の本質について仰ったのが『正像末和讃』悲歎述懐讃

罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

(現代語訳)

罪業はもともと形がないものであって、
誤った想いや常に変化して持続しない想いによるものです。
人間の本性は本来清らかであるけれども、
今のこの世に真実の心を持った人はいないのです。

です。仏教は、有の見も無の見も間違い教えています。罪悪が固定の形のあるものと思い込んでいるのを有の見といい、その有の見が真実と信じ込んでいる自分に無条件服従せよ、といっている人物こそが、迷いの凡夫です。
『正像末和讃』の一番最後にまとめの2首があります。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
 まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは
 おほそらごとのかたちなり

(現代語訳)

よしあしという文字を知らない人はみんな、
真実の心を持った人です。
善悪の文字を知ったかぶりをして使う人は、
かえって大嘘の姿をしているのです。

善悪の字しりがほ」「おほそらごとのかたち」とは、誰の事でしょうか。すべての人は五逆罪・謗法罪を造っていると断言して会員を脅している高森会長と講師部員です。

是非しらず邪正もわかぬ
 このみなり
 小慈小悲もなけれども
 名利に人師をこのむなり

(現代語訳)

物事の是非も知らず、 邪・正の判断もできない
この私です。
人間としての小さな慈悲さえも持っていないこのような身ですのに、
世間から名誉や利益のために人の先生と呼ばれることを好んでいるこの私なのです。

親鸞聖人がこのように仰ったのは、謙遜ではありません。この『涅槃経』を真面目に読んだ人ならば、同じ様な気持ちになると思います。仏と余りにも違う御粗末な智慧しか持ち合わせていないことが判るからです。
ところが、「自分は阿弥陀仏の本願を説き切っている」「阿弥陀仏の御心が判るのは自分だけだから従え」、更には「自分は会員の後生のことばかりを念じている」と言っている人物は、親鸞聖人とは心が違うのです。天地雲泥の差があるのです。

『涅槃経』も『教行信証』も読んだことがないのに、傲慢極まりなく、「おほそらごとのかたち」をした人物が、

唯一無二の善知識!!

正気ですか、会員の皆さん。
高森会長の教えていることで、聖教と合っているところはどこですか?探さないといけないほど違っています。なぜなら、仏教と真宗の勉強をしたことがないのですから。

高森会長と取り巻き連中の「善悪の字しりがほ」「おほそらごとのかたち」には、退会者一同、飽き飽きしています。会員の皆さんも、事実から目をそらさず凝視してください。

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コメント

 本当に、こんなバカ教祖とバカ講師に騙され続けている会員さんが可哀想です!哀れです。会員の皆さん早く、早く目を覚まして下さい!
 私も永らく会員でしたが離れて見てみると、冷静な目で親鸞会の醜さがよく判ります。会員の皆さん一時的でもいいですから親鸞会と距離をとってはどうでしょうか?嘘ではありません。すると不思議と見えてくるものです。一時的でもいいんです。

投稿: トライチ | 2011年7月 7日 (木) 19時37分

教行信証のこのあたりは親鸞会脳では理解不能でしょう。親鸞聖人、頭がおかしくなられたんでしょうと言い出すかもしれませんね。

投稿: | 2011年7月 7日 (木) 22時02分

トライチ 様

マインドコントロールがしっかり効いている時には、外部から何を言われても聞く耳を持ちません。しかし、少しでも疑問が生じたならば、自分で調べようという気持ちも起こってきます。トライチさんの仰るように、一時的でも親鸞会と距離を置くことは、自分の頭で考える余裕ができます。自分の人生ですから、会員にはよく考えてもらいたいものです。


名無し 様

高森会長もびっくりしているのではないですか。
『教行信証』にこんなことが書かれてあったとは知らなかった、と。

投稿: 飛雲 | 2011年7月 9日 (土) 06時59分

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