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2011年7月 3日 (日)

人の主張をネジ曲げてまでエントリーを書き、その上機の深信について未だに理解できないとは…

構って欲しくて仕方のない自称本願寺布教師は、結局、こちらからの質問には全く答えることができませんでした。

(再掲)

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

それと、

「地獄一定」が万人共通

とまで断言するのであれば、龍樹菩薩が御自身のことを地獄一定と仰ったお言葉を出してからにしなさい。曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

も出しましたが、それを「地獄一定」と誰でも解釈できる根拠を出してみなさい。

こんな簡単な質問にも答えられないと言うことは、

1.高森会長・講師部員は「宿善すくなきもの」である。
2.『観無量寿経』によって、親鸞会の宿善論、三願転入の教え、善の勧めは論理的に破綻している。
3.龍樹菩薩・曇鸞大師が、御自身のことを「地獄一定」という意味で仰ったお言葉はない。

ということで決着です。これ以上議論の余地はありません。私の書いたものを断章取義しネジ曲げてしか、反論に偽装したエントリーを書けないのですから、卑怯とか姑息を通り越して、同じ人間としてこちらが恥ずかしくなります。

さて、前々回

『御文章』の正しい読み方

で、2chのスレッド上で行われた法論を紹介したのには、「一切衆生必堕無間」の誤りを知って頂くこと以外にもう1つの意図がありました。それは、親鸞会の主張は、自分に都合よく解釈できそうな1つの根拠を最初から最後まで言い続け、それに明らかに反する根拠を完全に無視するものです。2chの親鸞会側の人物は、論調も、論理展開も、言い訳も、自称本願寺布教師と全く同じです。当ブログ上でも、昨年2月に、論調も、論理展開も、言い訳も内容まで殆ど同じ法論がありました。

カルト思考の愚かさ

がその結論ですが、何の進歩も向上もしていないことがよく判ります。
当ブログでは、親鸞会と違い、根拠を豊富に出しています。その根拠に対して何等触れられないのが、親鸞会と偽装本願寺布教師です。その一方で、偽装本願寺布教師が出した根拠の1つに直接触れていないだけで大騒ぎです。小学生の口喧嘩レベルです。

『勅伝』の法然上人のお言葉については、敢て解説を省略して試してみたのですが、思った通りの能力でした。出血大サービスで補足しておきましょう。

龍樹菩薩も天親菩薩も曇鸞大師も「地獄一定」???

で偽装本願寺布教師の出した『勅伝』第二十一のお言葉の前にある以下のお言葉をわざわざ出したのに、関連が理解できないのでしょう。

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

法然上人は十方衆生を善人と悪人とに分けて仰っています。

一には罪つくる時乗ずるなり。其故は、かくのごとく罪をつくれば、決定して地獄に落べし。しかるに本願の名号を唱れば、決定往生せん事のうれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。

が「末世の凡夫十悪五逆の罪人」悪人について仰ったことで、たとえば強盗・放火・殺人を平気でしてきた耳四郎が、このように知らされるのは、よく判る話です。「上は天親竜樹」の善人のことではありません。善人については

二には道心おこる時乗ずるなり。其故は、此道心にて往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかたおこれども、いまだ生死をはなれず。故に道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはずたゞ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂べきとおもふ時に、他力本願に乗ずるなり。

と教えられています。無始より自分でおこした仏道を求める心(自力の菩提心)で「生死をはなれ」ようとした善人が18願で救われる時にどう知らされるのか、それが自力無功ということである、と法然上人が仰ったお言葉です。

『高僧和讃』

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

と同じことです。
これについて

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)

で説明した通りです。少しは理解できたでしょうか?

尤も

十方衆生=逆謗の屍

という妄想に取り憑かれていると全く理解できないでしょうが。

『御文章』2帖目第9通も同じことです。これを善人にまで適応しようとするから無理があるのです。『御文章』では、地獄に堕ちる人を限定して仰っていることは何度も述べた通りです。地獄に堕ちない善人が、「地獄ならではおもむくべきかたもなき身」と知らされるとでも本気で思っているのなら、可哀相です。
また『歎異抄』の「地獄一定」のお言葉の意味については、『執持鈔』と比較して見なければならないと何度も説明してきました。『執持鈔』では、「地獄」を「悪道」と言い換えて仰っています。同じ内容が『恵信尼消息』にもあります。親鸞聖人のお言葉として

上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば

と書かれています。常日頃から親鸞聖人がこのように仰っていたことが想像できます。しかし、「悪道」「世々生々にも迷ひければ」であって「地獄」とは仰っていません。

善人、悪人についての分類で判りやすいのが九品でしょうが、善導大師が『玄義分』で教えられていることを

M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です

でも紹介しました。悪人とは、下品上生、下品中生、下品下生のことですが、下品上生についてのみ示せば

「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

(現代語訳)

ただ五逆と謗法を作らないだけで、そのほかの悪は皆ことごとく造り、わずか一念も慚愧する心がない。そういう者が命終わろうとする時、善知識がその人のために大乗を説き、教えて念仏させるのに遇う。一声すると、そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、この人を来迎し、そこで往生を得る。
このような悪人は、すべて人の常に見るところである。もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

です。五逆と謗法を作っていない悪人は、「さだめて三塗に入りていまだ出づべからず」であって、「地獄一定」でもましてや「必堕無間」でもありません。悪人でも罪の軽重によって、地獄に堕ちる者もいれば、地獄に堕ちない者もいるのです。地獄に堕ちない善人が、「地獄一定」と必ず知らされる訳がないでしょう。小学生でも判る理屈です。

十方衆生=地獄一定=下品下生

という妄想から脱することができなければ、今回のエントリーも永久に理解できず、これまでの御粗末法論と同様に、人の主張をネジ曲げて、同じ根拠をひたすら言い続けるしかないでしょう。

ここにこう書いてあるのだから、これがすべてだ、他のお言葉は関係ない

という調子で。

それとついでに、高森会長が”無常の虎の譬え話”をすべて創作できるとは最初から思っていませんし、どこかからのパクリでしょうと書いた通りですが、そのパクリ元を知っているなら是非とも教えてもらいたいものです。

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コメント

どうも今回の夢幻界裡の覚醒さんのブログは高森会長自らのコメントかも知れない。
今まで何回も会長自らのコメントはあったが、ことごとく論破されたので、
今回は必死で探しているのかも。

しかし、教えと味わいの違いがどうしても理解できないようだ。
親鸞聖人も法然上人も我が身が地獄一定と知らされ、そう味われている。
一方、龍樹・天親菩薩は善人、あるいは聖者なのだ。
その区別が出来ていない。あるいはわざと言っている。

今の現代に生きる我々は、確かに煩悩具足の凡夫であり、地獄一定が身上かもしれないが、
どこに一切衆生が地獄一定と書かれているのか。
中には本人の業によって地獄に行かない人もいるかも知れない。

しかし、そんなことにいつまでこだわっているのか。
そんなに講師達は高森会長のご恩が大事なのか。高森会長のこだわりが大事なのか。
高森会長、劫業多生のご恩を受けている阿弥陀様をどう思っているのか。

阿弥陀様のご恩を受けなければ現在の自分はあり得ないのに。
地獄一定の我が身なら、阿弥陀様のご恩に報いるべきである。
阿弥陀様のご恩に報いる一番大事なことは、
「我が身は十悪五逆の罪人、その私をそのまま救うと誓われている阿弥陀様の声を
現在、ただ今、そのまま、救うぞの声を一人でも多く、今聞かせてもらう事」である。

講師のあなた達には、届かないかも知れないが、阿弥陀様は分け隔て無く呼びづめなのだ。

高森会長、貴方は伊藤康善師や増井悟朗師のご恩をどう考えているのか。
貴方を直接導かれた善知識方である。
この方達は、貴方の善知識である。
貴方が隠そうが、逃げようが、貴方に注がれた慈悲は絶対に消えることはない。
なぜなら阿弥陀様の慈悲だからである。

いい加減目を覚ませ、82歳になってまだこだわるのか。
懺悔せよ。
阿弥陀様に向かって我が身を懺悔せよ。
御信心を頂きながら、我が身の業に振り回されている自分に気がつけ。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

とくよしみね

(高森会長、どうか、どうか、気づいてください。私は貴方のご縁が無ければ今の自分はありませんでした。
本当に、本当に気が付かれて欲しい。自分の家族を一番に思われることはよく分かりますが、
阿弥陀様は全ての人に平等に誓いを立てておられるのです。貴方の家族だけでなく会員の後生も
考えてあげてください。どうか、どうか、お願いします。偉そうに言っていますが、本当に気づいて欲しいのです。
何度でも、何度でも私は言います。お願いします。)

投稿: とくよしみね | 2011年7月 3日 (日) 23時49分

M野講師の文章には、反吐が出る。
あれで筋が通っていると思っているなら、義務教育をやり直すできですよ。
超一流大学にどうやって入ったのかは知らないが、現在は中学生よりも思考レベルが低い。

六道を出離した聖者が地獄に堕ちることが有るとでも思っているなら、出離の意味がわからない、
もしくは思考が破綻している。
出離しても地獄一定と必ず知らされる、と考えているなら、地獄の意味がわからない、もしくは
思考が破綻している。

いずれにしても、M野講師のいうことを正当化できる理論は皆無である。

やっぱり、義務教育を受け直すべきであろう。

投稿: どんちゃん | 2011年7月 4日 (月) 08時15分

とくよしみね 様

お気持ちはよく判りますが、余程のショックを与えないと変わらないと思います。


どんちゃん 様

会長も講師部員も義務教育を受け直せば、少しは自分の愚かさに気が付くかもしれません。

投稿: 飛雲 | 2011年7月 6日 (水) 06時57分

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