« 『御文章』の正しい読み方 | トップページ | 人の主張をネジ曲げてまでエントリーを書き、その上機の深信について未だに理解できないとは… »

2011年7月 2日 (土)

「十方衆生=逆謗の屍」という妄想に取り憑かれた親鸞会

十方衆生が逆謗の屍というのは、大沼師からのパクリです。『法界』には、

十方の有情一人として逆謗の屍でない者は居ないのだ。若しないとすれば法蔵菩薩は願行を成就し替えなければならないのだ。五劫思惟の古に有漏の凡夫の腹底を見抜かれた時、世出世の最低の悪は逆謗の屍であることを見抜いて願行を成就されてあるのに素直な者と自惚れて居ては凾蓋相応しないのだ。
 調熟の光明のお育てにより調機誘引されて素地のまんまが照し出された時、唯除逆謗と除かれた屍が自分であった事に気がつくのだ。

とあります。高森会長の著書、説法の内容と同じです。ここでは省略した五逆罪、謗法罪の説明を大沼師はこの前に詳しくしていますが、やはり高森会長と全く同じです。

何から何まで高森会長は大沼師からパクリまくっていますが、これは親鸞聖人の教えとは異なっています。前回紹介した法論でも明らかですが、善知識方は、そのようなことを誰も仰っていません。

詳しくは「親鸞会教義の誤り」の

一切衆生は必堕無間なのか5

一切衆生は必堕無間なのか6

一切衆生は必堕無間なのか8

一切衆生は必堕無間なのか9

で教えられています。また

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(五逆・謗法・闡提と必堕無間)

でもまとめてあります。

さて、

十方衆生=逆謗の屍

という概念を自分のこととして捉えるなら構いませんが、それを他人に対して脅しの文句として使うとカルトになるし、仏法を誹謗する事になるのです。なぜなら、聖道門の教えは無駄になってしまうからです。親鸞会では、

19願が無駄であるというのか

と、教義批判者に暴言を浴びせますが、聖道門を無視する親鸞会を

聖道門が無駄であるというのか

と、聖道諸宗から同じ理屈で非難されるでしょう。親鸞会は仏教のイロハが全く判っていない謗法の輩なのです。

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

でも述べてある通り、
超エリートには聖道門、聖道門についていけないエリートには19願、19願も無理な人には20願、どうしようもない落ちこぼれである十悪五逆の極重の悪人には最初から18願が説かれたのです。
ということです。善知識方で聖道門の教えを否定された方は、誰1人おられません。釈尊が機に応じて説かれた教えですから、当たり前です。
このことを『教行信証』化土巻に『法事讃』を引かれて

またいはく、「如来五濁に出現して、宜しきに随ひて方便して群萌を化したまふ。あるいは多聞にして得度すと説き、あるいは少しき解りて三明を証すと説く。あるいは福慧ならべて障を除くと教へ、あるいは禅念して座して思量せよと教ふ。種々の法門みな解脱す」と。

(現代語訳)

また『法事讃』にいわれている。
「釈尊は五濁の世にお出ましになり、それぞれに応じた手だてによって衆生を導かれる。あるいは仏の教えを多く聞いてさとると説き、あるいは少し教えを理解して三明を得ると説く。あるいは六波羅蜜の行を修めて煩悩を除くと説き、あるいは座禅によって深く思いをめぐらせよと説く。さまざまな教えにより、みな迷いを離れることができるのである」

と教えておられます。聖道門ももちろん正しい教えなのです。

善知識方が問題にされたことは、時機不相応ということです。我々は、時と機において相応しないから、聖道門を捨てて浄土門に帰せよ、と皆同じことを教えられているのです。19願諸行往生についても同様で、19願諸行往生を否定されたのではなく、悪凡夫には不相応だから、18願念仏往生しかないぞ、と異口同音に18願1つを教え勧めて下されているのです。

それを『教行信証』化土巻に門余釈として

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
 しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
 『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

と教えられているのです。
悪凡夫に19願、定散二善を勧められたどころか、悪凡夫にはできないから「本願一乗海」である18願1つを信じなさい、と仰っていることがお判り頂ける筈です。

それを更に進めて仰ったのが親鸞会の好きな『一念多念証文』の「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。…」の御文です。聖道門の機である聖者も、定散の機である善凡夫も、最後は18願に帰入しない限り救われないのだ、という権仮方便論を親鸞聖人が展開されたのであって、悪凡夫に善を勧めた根拠などという愚かな解釈がどうしてできるのでしょうか?
低い知能を恥じなさい、と言いたいです。

龍樹菩薩も含めた

十方衆生=逆謗の屍

という妄想に取り憑かれている限り、今回のエントリーは全く理解できないでしょう。仮に理解できたとしても、保身の為に謗法し続けるのでしょうね。哀れなものです。

|

« 『御文章』の正しい読み方 | トップページ | 人の主張をネジ曲げてまでエントリーを書き、その上機の深信について未だに理解できないとは… »

コメント

http://mugenkairi.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/index.html#entry-70467642

に愚かな自称本願寺の僧侶が、なおも愚かな内容を書き続けています。よほど地獄が好きなのですね。

それにしても断章がひどいです。気になったのは、飛雲さんが「真宗界では誰も知りません」と仰ったのは、

http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-7048.html

にて、「”無常の虎の譬え”は、親鸞会の会員なら誰でも知っている内容ですが、真宗界では誰も知りません。」という内容です。本当にひどい話です。

投稿: 淳心房 | 2011年7月 3日 (日) 07時55分

M野さん、ピエロよりも笑える芸を振舞ってくれています。
ブログで書けば書くほど、M野さんの愚かさが目立つのですが、本人はそう思っていないのでしょう。
これで一矢報いた、とほくそ笑んでいるかと思うと、本当に本当に哀れでなりません。
昔から飛雲さんは同じことを質問されています。
龍樹菩薩が逆謗の屍か?龍樹菩薩が地獄一定か?
そんな訳ないので、永久に答えられず、言い訳ブログを延々と書き続けるのでしょう。
同期のA医師に診てもらった方がよいですよ。

投稿: M野さんへ | 2011年7月 3日 (日) 07時56分

淳心房 様
M野さんへ 様

余程地獄に堕ちたいのでしょうね。
世間善も踏みにじり、仏法をネジ曲げることなど髭を撫でるよりも易いことなのでしょう。
この世から地獄ですね。

投稿: 飛雲 | 2011年7月 3日 (日) 08時42分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 『御文章』の正しい読み方 | トップページ | 人の主張をネジ曲げてまでエントリーを書き、その上機の深信について未だに理解できないとは… »