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2011年7月13日 (水)

18願の「十方衆生」の御心

これまで述べてきたように、親鸞聖人は18願の救いには、洩れるものがないことを『涅槃経』を多用して証明されたのです。高森会長のように、

「十方衆生」とあるから、すべての人のことだ

という単純な理屈で説明された箇所はありません。前にも言いましたように、「十方衆生」というお言葉は、他の経典にもありますし、同義の「一切衆生」も多くの経典にあります。従って、高森会長のような理屈をいくら並べてみたところで、聖道門の学僧は聞く耳を持たないでしょう。
それで親鸞聖人が注目されたのが、「唯除五逆誹謗正法」だったのです。それが『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

なのです。つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。

この内容が、一年前のmixiでの法論の中心でした。高森会長がこうへい氏(H田講師)の代わりに原稿を作ってまで臨んだ法論でしたが惨敗し、その衝撃は、トピックまで消去せざるをえないほどでした。尤も消去したところで、多くの人がその内容を保存していますので、今更誤魔化すことはできません。そのあたりが、浅知恵なのでしょう。

さて、『大無量寿経』の18願は、異訳の経典を参照することで、親鸞聖人の仰った意味がよりはっきりします。

親鸞聖人が『教行信証』行巻に『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介されています。

 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。

ここに紹介されている『大阿弥陀経』と『平等覚経』の御文は、共に、前半が『大無量寿経』の17願で、後半が『大無量寿経』の18願にあたります。
『大無量寿経』18願の「十方衆生」について『大阿弥陀経』では

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類

であり、『平等覚経』では

諸天・人民・蠕動の類

と表現されています。人間だけではなく、虫までが含まれています。親鸞聖人が『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介された理由の1つが、『大無量寿経』18願の「十方衆生」の御心を明らかにすることであったのです。生命のあるもので、洩れているものは皆無なのです。

一方で、聖道門の学僧が18願をどのような願と見做していたのかを知らないと、親鸞聖人の御心が理解できないと思います。法然門下を弾圧する直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあります。「下機を誘ふるの方便なり」とは、悪人を仏法に誘う方便ということです。念仏往生の願である18願が真実などとは全く思っていないのです。
また法然上人がお亡くなりになられた後、明恵高弁が書いた『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあります。法然上人の教えられた念仏往生の願とは、「下劣根機の為」であって、「天下の諸人」のためのものではない、という考えです。
つまり、18願は悪人を仏法に導くための方便の願であり、善人には関係ない願であるということです。
悪人は、

18願 ⇒ 19願 ⇒ 聖道門

という道程を通ると聖道門では考えられていたのです。もちろん善人である自分達が18願から始めるなどという発想は、聖道門の人にはありませんでした。

これを逆手に取られたのが、親鸞聖人の三願転入なのです。
善人は、

聖道門 ⇒ 19願 ⇒ 18願

という道程があり、善人のために聖道門、19願という方便の教えが説かれているということです。悪人や18願をすでに信じている人が、聖道門や19願から始めるという理屈も、根本的におかしな話です。

親鸞聖人は、18願はどんな悪人でも洩れることなく救われることを『教行信証』信巻で明らかにされ、化土巻で聖道門の考えの誤りを説明されます。

その結論が、『教行信証』化土巻・要門釈

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

です。「極重悪人」には18願しか救われる手立てのないことは既に、親鸞聖人は説明済みですが、善人である「定散の諸機」も結局は「極重悪人」同様、18願しかないのだ、と仰ったお言葉です。
その証明として、親鸞聖人御自身の体験を三願転入として述べられたのです。

要するに、『教行信証』を通して親鸞聖人は、18願の「十方衆生」はどんな悪人も洩れなく救われるだけでなく、どんな善人も18願によらなけば救われない、という善人悪人関係なく救われる18願の説明に終始されたのです。
それは『教行信証』を書かれた目的が、法然上人の『選択本願念仏集』の正しさを立証するというためでありましたので、至極当然なことです。

それを、当時の時代背景も知らず、『選択本願念仏集』に書かれてあることも知らず、もちろん『教行信証』を読んだこともない高森会長と講師部員に、親鸞聖人の教えが理解できる筈がありません。
大沼師の著書を断章取義して、無二の善知識を気取っているお山の大将に、いつまでも尽き合って人生を無駄にしたい会員はどうしようもありません。しかし、そんな会員も他人を騙すことだけは止めてもらいたいものです。

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コメント

毎度毎度、親鸞会にトドメを刺すような明快な記事で、感服致しております。
しかし某講師のブログ等を見ますと、切られても切られても死なないコントの志村けんを思い出して、
一瞬笑えてきますが、、現実はコントではないのでMC中毒とはいえ見ていて苦しいですね。。

投稿: YGM | 2011年7月14日 (木) 09時59分

会長は仏教に元々興味がなく、人集めの道具として利用しているだけだと考えると辻褄が合うと思います。
曲がりなりにも寺の息子ですから、僧侶が大事にされているのを見て思い付いたのでしょう。

投稿: | 2011年7月15日 (金) 02時12分

YGM 様

「誰が何と言おうと、私が信じている高森先生が正しいの」という状態でしょう。
「鰯の頭も信心から」の典型例となっています。


名無し 様

会長のことをよく知る人が、「先生は寺の息子で社会に出たことがないから世間の常識が通用しない我が侭なんだ」と言っていましたが、仏教を利用して自分の欲を満たしたい一心なのでしょう。最初からそのつもりであったとまでは断言しませんが。

投稿: 飛雲 | 2011年7月15日 (金) 06時09分

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