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2011年7月17日 (日)

「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」

前回のエントリーに偽装本願寺布教師は反論できませんでした。「かたし」の意味さえ知らないのですから仕方ないと思います。この件でコメント欄に2chで書かれてあったことを教えて頂きました。抜粋すると

正常な脳

AとBの2つの場合がある。ということは、AかBの2通りに分かれる。
(当たり前過ぎて説明がいらない)

カルト脳の典型例

AとBの2つの場合がある。だからAしかないのだ。
(意味不明)

正常な脳

「かたい」=難しい=できることもある

カルト脳

「かたい」=不可能=絶対にできない

偽装本願寺布教師もここまで馬鹿にされては可哀相な気もしますが、自業自得でしょう。

さて、九品については善導大師のお言葉に沿って、昨年11月に偽装退会者と議論になり、偽装退会者が逃亡したのですが、そのことを偽装本願寺布教師は忘れてしまっているようです。同一人格でさえ過去のことは忘れるのですから、”別人格”を装っているなら尚更覚えていないのでしょう。

当時のことを御存知ない方は、前回挙げたエントリーを読まれれば宜しいかと思いますが、長文ですので簡単に整理しておきます。

『玄義分』では、九品について

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

となっています。

上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。
以上が善凡夫です。

一方で下品上生・下品中生・下品下生については

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

となっていまして、

下品上生・下品中生・下品下生が、無善造悪の凡夫です。これが悪凡夫です。

これら九品をまとめて

またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、九品をして差別せしむることを致す。
(中略)
いまの時の善悪の凡夫をして同じく九品に沾はしめんと欲す。

と善導大師は仰っています。

つまり、
仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」=善のできる凡夫と悪しかできない凡夫

ということです。実に簡単な国語の問題です。
どこをどう読んだら、

仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=下品下生

となるのでしょうか。
かたし」の意味も、現代語さえ理解できない高森会長や講師部員に、古文が理解できると期待する方が間違っています。

この基本的なことが全く判らないのに、19願意など到底判る筈もありません。

高森会長が消し去りたいmixiでの三願転入の法論ですが、そこで根本的に間違っているのが、19願の対機についてでした。
上記の『観無量寿経』の九品の違いが判れば、善は善のできる人に勧められたのであって、善のできない悪人には善が勧められていないことが判ります。では、19願は何の為に建てられたのかということについて、親鸞聖人が仰ったのが『教行信証』化土巻・要門釈の最初のお言葉です。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。

ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

これが正しく理解できれば、19願の対機が判ります。mixiでは初期の段階でこのお言葉が出されて、以後高森会長も弘宣部もこうへい氏も、まともに反論できませんでした。その内容を紹介しておきます。

>この「群生海」が、聖道門の人に限る、という根拠は見当たりません。
>あれば聖人のお言葉でお示しください。

などと書かれていますが、なぜ要門釈をわざわざ断章取義して解釈なされるのでしょうか。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、
虚なるものははなはだもつて滋し。

あなたが引用した要門釈のお言葉の前半部分がこれです(僕も引用したとおりです)。ここが抜けているから、そのようなおかしな疑問が出てくるのです。
このお言葉の意味は、

外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、
実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり堅出堅超に入るといえども、真実のものは
はなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

そして次の

ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく
諸有海を化したまふ。

に続くのです。
ですから、要門釈のお言葉で「聖道門の人が対象」と親鸞聖人はハッキリ仰っているのです。

こうへいさんが引用された真門釈の「それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。
のお言葉についてですが、宗祖はこの一文では20願を勧められながらも、この真門釈の最後(真門決釈)には、
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。
みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、
仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

と、真門自力念仏の行者を深く悲嘆されているのですが、
これは要門の機を調育して弘願真実に入れしめるために暫く誘発されたと
先師方は解釈しておられます。つまり、これもあくまで暫用還廃(暫く用いて還って廃す)の法門です。

大経和讃に言われる、
定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ をしえざれども自然に 真如の門に転入する」の意味で仰ったものと思われます。
20願を勧められた箇所はここだけです。御本典以外の他の御著書にも見当たりません。
ですから、真門釈で20願を勧められた部分はそれだけ慎重に解釈しなければなりません。
一方で、19願を勧められたところは御本典やその他の御著書に一ヶ所もありません。

元来、宗祖が19願を勧められなかったならば、こうへいさんが主張されるが如きの
「三願転入の教え」
なるものは、根本から成り立ちません。

また、こうへいさんはさかんに「19願の対機は十方衆生なのだから…」と強調して言われますが、
まず『真宗大辞典』(永田文昌堂)で「十方衆生」の項の説明をひくと、こうあります。

四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。十方世界に棲息する無数の生類を
総称して十方衆生という。即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。
第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、
立願の精神を究れば、第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り、
第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、漏らす所多々あれども、
第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、皆ひとしく全く仏力にて救わんとする
誓願なるが故に、一の衆生として漏るることがない。そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも
漏らすことなくその意が至極広いが、第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、
その意は狭いとする

逆から申しますと、18願文の最後に「唯除五逆誹謗正法」とあるのは、抑止門の意といわれていますが、
これは抑止する必要があるから言われている事です。18願における十方衆生とは逆謗の機をもひろく含むのです。
もし、18・19・20の三願の「十方衆生」が同じ意味ならば、三願ともに「唯除五逆誹謗正法」となければならないのです。ところが、19願・20願にはありません。必要が無いからです。
19願の対機は十方衆生のうち「修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り
20願の対機は十方衆生のうち「植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る」のです。

断章取義の親鸞会では、総合的に文章を読むことができないのです。親鸞会の理論は、断章取義で成り立っていますので、親鸞会が示した御文の前後を読めば、そのトリックを簡単に見破ることができます。聖教でさえ断章取義するのですから、論文の断章取義など朝飯前のことです。このことは、

「親鸞会のトリック」
絶対に議論に勝つ人

を読まれれば、親鸞会の手口がお判りいただけるでしょう。
19願の対機については「親鸞会の邪義を正す」にまとめてあります。

”三願転入の教えの誤り1”

会員との問答(19願・諸善・方便)

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コメント

M野講師には、うんざりです。
過去に論破された内容を繰り返すだけの能無しとわかりました。
断章と捏造、改ざん、歪曲でしか語れない親鸞会は、無能集団です。

投稿: 幽霊会員 | 2011年7月17日 (日) 10時36分

幽霊会員 様

私もうんざりしています。一人格としても末期ですが、団体としても末期でしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年7月20日 (水) 06時29分

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