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2011年7月21日 (木)

『大無量寿経』『観無量寿経』も読んだこともなくて、善知識を演じられますか

極重の悪人である下品下生の往生について、前回、『観無量寿経』と善知識方の御文を挙げました。親鸞聖人は『唯信鈔文意』で更に詳細な解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

親鸞聖人も、下品下生の者が往生するのに、「善をしなければならない」ということは、全く仰っていません。念仏だけなのです。当たり前のことです。善をしようとも思わないのが、下品下生ですから、善を勧めて何を期待するのでしょうか?

真実の経典である『大無量寿経』三輩段の下輩は、

それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。

(現代語訳)

次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができる。

です。『大無量寿経』の下輩は、『観無量寿経』の下品上生・下品中生・下品下生に当ります。つまり悪凡夫のことですが、悪凡夫は「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」なのです。さまざまな功徳を積むことができない、善をすることができない者ということです。
高森会長が、我々には雑毒の善ができる、と断言していますが、雑毒の善ができれば功徳を積むことができますので、下輩ではありません。雑毒の善さえもできない者が下輩なのです。
高森会長も講師部員も、こんな基本的なことが全く判っていないのです。

雑毒の善のできない悪人が、浄土に往生したいと願って、善をせずに念仏1つで往生を遂げるのです。
浄土に往生したいと願うことも、善とは関係ないのです。

『顕真』6月号には、

後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。

と書いていますが、一体何のつもりでしょうか?
善をしなければ後生が苦にならず驚きもしない、と言いたいのでしょうが、『大無量寿経』『観無量寿経』を読んだことがない異安心・無教学の暴露でしょう。
平生から善をしていない悪人、善のできない悪人が、浄土往生を願うのです。大無量寿経』『観無量寿経』を読んでみなさい。
ですから、後生が苦になり驚く必要もありません。

全人類が極重の悪人と断言している割には、悪人の往生について何も知らないのです。

韋提希の場合はどうでしょうか?

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

と釈尊が定善・散善の話をされる前に、浄土往生を願っているのです。

また耳四郎は、強盗・放火・殺人を平気で犯してきた者であり、獲信後でさえも善に励むどころか泥棒さえ止められなかった根っからの悪人でしたが、法然上人の御説法を1度聞いただけで獲信した、と親鸞会でも認定しているではないですか。

善をしなければ、後生が苦にならず驚きが立たないなどと、馬鹿げた理屈を捻り出しただけのことです。
とにかく会員に善(金集め・人集め)をさせることができれば、理由など何でもいいのです。マインドコントロールの効いている会員を騙すことなど容易いこと、と高森会長も講師部員も、会員を弄んでいるだけです。

高森会長の言うことに、根拠も理論も何もありません。あるのは私利私欲のみです。無教学で善知識をいつまでも演じられると思ったら、大間違いですよ、高森会長。

黙っていては血圧が上がってお体に悪いと思いますので、いつでも反論してください。

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コメント

昔は高森会長は「法に向けば、頭下げてでも『どうか皆さん聞いて下さい』の心がある。機に向けば、『聞きたい者だけ聞けばよい』の心がある。その両方が同時にあるのだ」と言っていました。
しかし、飛雲さんたちへの反論、応答無きことからすると、「聞いて下さい、聞かせたい」の心は今や無いですね。「聞きたい者だけ聞けばよい。ワシに異を唱えない者だけ聞けばよい」になっています。もっとも、機ありて法なし、機の偏重に傾ききった親鸞会ならばそうなるも道理かと思いますが。
聞かせたい心があれば、「親鸞会を(教学的に)批判してくる人たちは、どこにつまづいてあんなこと言ってくるのか。どう言ってあげれば分かってくれるのか」と謙虚になって対応、説得を模索するはずです。応答なきことは、知慧、慈悲ともに貧しきことを露呈しています。

投稿: 広島の名無し | 2011年7月21日 (木) 13時08分

僕を救ってくれたサイトがあります。
「親鸞会教義の誤り」です。
そして、日々僕を励ましてくれるサイトがあります。
「飛雲〜親鸞会の邪義を通して、正しい親鸞聖人の教えをお伝えしたい」です。

本当に、感謝しています。ありがとうございます。

投稿: | 2011年7月21日 (木) 20時52分

広島の名無し 様

教義上の批判に対して反論を依頼すると、会員は除名になります。つまり、自分の間違いを知りながら、会員を騙し続けているのですから、「聞いて下さい、聞かせたい」の心は皆無です。高森会長に期待することは何もありません。


名無し 様

有難うございます。仕事の片手間でブログを書いていますので、影響も限定的なのが残念です。できる範囲内でブログを書き続けていきますので、御意見があれば仰って下さい。

投稿: 飛雲 | 2011年7月21日 (木) 21時54分

意見も何も、矢継ぎ早に繰り出される経典の根拠とその正しいであろう解釈に、ただただ圧倒されるだけです。

正しいであろうと言うのは、こちらがあまりに無学なため、根拠の証文とかを丁寧に読めないためです。一所懸命に書いてくださっているのに、申し訳ないです。これほどに手厚い分量で、なお、お仕事の片手間とは、本当に頭が下がります。

高森親鸞会のマインドコントロールが、完全に解けたのは、「教義の誤り」「飛雲」以降のことです。これだけは、どんなに感謝してもしきれません。

更新など、ご無理なさらず、ぼつぼつとお導きください。今後ともどうかよろしくお願いします。

投稿: 東海の博文 | 2011年7月22日 (金) 03時26分

東海の博文 様

こちらこそ、よろしくお願いいたします。
親鸞会の邪義を論破することは、容易いことです。少し勉強すれば、誰でも破邪できますよ。

投稿: 飛雲 | 2011年7月22日 (金) 07時17分

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