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2011年7月20日 (水)

「親鸞聖人のみ教えに善のすすめは 本願寺 ない」は、当たり前でしょ

30年程前に、親鸞会は本願寺へ法論を仕掛けたものの反撃にあい、詭弁で誤魔化して本願寺に呆れられたのですが、その後に親鸞会が自信満々に主張していたことが、

これが論争点
 親鸞聖人のみ教えに善のすすめは
  本願寺 ない
  親鸞会 ある

でした。無教学丸出しです。
前回紹介しました『教行信証』行巻・念仏諸善比校対論

勧無勧対

(現代語訳)

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

これさえ親鸞会は知らないのです。親鸞聖人が諸仏は善の勧めはないとまで仰っているのに、親鸞聖人御自身が善の勧めがある、と教えられたと考える愚か者がいるかということです。
こういうと、

では悪をすれば救われるというのか

という愚問を親鸞会はしてきますが、それが自力だと以前にも言ったとおりです。”善をすれば救われる”と思うことと、”悪をすれば救われる”と思うことは、同じことです。親鸞会は自力が何か全く判っていないのです。

ところで、親鸞会が「親鸞聖人のみ教えに善のすすめがない、と本願寺は言っている」と断言して攻撃しているのに、「本願寺が善を勧めている、19願を勧めている」根拠を一生懸命捏造して喜んでいる愚か者がいますが、大丈夫かと心配になります。
高森会長以外にも高森会長と同じことを教える布教師が何人も本願寺にはいると言いたいのなら、唯一無二の善知識というのが嘘であったことを証明するだけです。ストレス発散のために便所の落書きブログを書いているのでしょうが、もう少し考えて書かないと、親鸞会の足を引っ張るだけですよ、と誰か諭してあげてください。

この親鸞会の敵なのか味方なのか自分でも判っていない人物が、何ヵ月も答えることのできない質問

『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

が、未だに理解できないのでしょう。
『観無量寿経』には、下品上生・下品中生・下品下生の往生が説かれてあり、平生も臨終にも善を全くせずに念仏1つで往生を遂げるのです。往生するのに、善が要らないのです。

全人類が下品下生と断言するなら、下品下生がどのようにして往生を遂げるのかくらいは知っておくべきです。

『観無量寿経』では

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
 そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

これを『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

(現代語訳)

『観無量寿経』の中に、<きわめて重い罪をかかえた悪人に、この他の手だてはない。ただ弥陀の名号を称えて、極楽世界に往生させていただくばかりである>と説かれている。

と教えられています。親鸞聖人は『正信偈』

極重悪人唯称仏

とあり、蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解説なされているのです。
極重の悪人がどうすれば往生できるかという質問に対して、簡潔明瞭に

極重悪人唯称仏

なのです。
これは極悪最下の人間の、しかも最悪の状況であってでも、念仏によって往生できることを釈尊はじめ、歴代の善知識方が教えてくだされているのです。

ですから、極重の悪人ではない人が平生から念仏の教えを聞いていたならば、なお往生できるのです。法然上人は『選択本願念仏集』

念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。

と教えられています。これは「黒田の聖人へ遣わす御文」の法然上人のお言葉、

罪は十悪・五逆のものむまると信じて、少罪おもおかさじとおもふべし。罪人なほむまる、いはむや善人おや。

と同じです。
往生するには念仏1つだから、諸善に心を留めるなよ、これが真宗の常識中の超常識です。

親鸞聖人のみ教えに善のすすめは
  親鸞会 ある

これでどれだけ笑われているか、高森会長も講師部員も会員も、考えてみたこともないのでしょう。
親鸞会の会員は『観無量寿経』を自分で読んでみてください。その時点で、”無二の善知識”よりも教学は上になります。

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コメント

「親鸞聖人の教えに善の勧めは、本願寺"ない"、親鸞会"ある"」。このように書かれたビラが配られたのは、もう30年近く前のことですね。今でも親鸞会にはこのビラが残っているのでしょうか。もしこのビラを復活させ正面切って本願寺と論戦するなら、私は親鸞会に対して「天晴れ!」の賛辞を惜しみません(敬意を表する、のとはちょっと違います。蛮勇を讃える(?)、という感じですね(^_^;))。
でも、このビラは、親鸞会の教義的立場を端的に示すものですから、是非復活させるべきですよ、親鸞会どの。"一枚看板"、"旗印"です。

投稿: 広島の名無し | 2011年7月20日 (水) 09時14分

>親鸞会が「親鸞聖人のみ教えに善のすすめがない、と本願寺は言っている」と断言して攻撃しているのに、
>「本願寺が善を勧めている、19願を勧めている」根拠を一生懸命捏造して喜んでいる愚か者がいますが、大丈夫かと心配になります。
>高森会長以外にも高森会長と同じことを教える布教師が何人も本願寺にはいると言いたいのなら、
>唯一無二の善知識というのが嘘であったことを証明するだけです。

指摘のとおりだと常々疑問に思ってました。

自称・本願寺布教使氏は、なにやら本派寺院のHPの文章だったり本派学僧の説を引用しては、真宗界の常識=本願寺の伝統教学=親鸞会の説、
みたいな主張を繰り返してますが、全く筋が通ってませんよね。

親鸞会は三業惑乱以降の本願寺教学を公式でボロクソにこき下ろしてたはずですから、江戸後期・明治以降の学者の伝統教学だろうが
HPの文章だろうが引用しても意味が無い。

「こいつらは間違ってるが、こいつらだってこう言ってる。これが真宗の常識であり、親鸞会の説だ」みたいな事言ってるわけですから、
自分が何言ってるのか考えなおしてみるべきでしょうね。

また、本願寺派も親鸞会を浄土真宗ではない団体とみなしてます。いやしくも高森教団に所属する人間が、自分たちを「浄土真宗ではない」とみなしてる
本願寺教団に所属する人の言葉を借りてしゃべらなきゃならないだなんて、恥知らずにも程がある。

自称本願寺布教使さん、わかってます?
本派の一僧侶の解釈をいくら持ち出しても、無駄。何も証明したことにならないよ。
親鸞会は本願寺教学を全否定してる。それを信じてるあんたが本願寺の伝統教学=真宗の常識=親鸞会の説なんて言っても自分で矛盾を生み続けてるだけなの。

投稿: | 2011年7月20日 (水) 11時42分

今回のエントリーは目の付けどころが鋭いですね。
本当に親鸞会教義の誤りが凝縮されています。
新宗教学の常識を知っている人にとっては一目瞭然でしょうが、会以外の書籍も法話も事実上禁止されている会員にとって気づくのは難しいところだと思います。

投稿: | 2011年7月20日 (水) 12時59分

広島の名無し 様

高森会長のハッタリが効かなくなった今、ビラを配付する勇気はないでしょう。


先の名無し 様

自称本願寺布教使には、理屈は通じません。心配になるほどの幼稚な知能となってしまいました。これが親鸞会の恐ろしさです。


後の名無し 様

親鸞会の主張を覆すには、短い根拠と単純な理論でなければ理解できないでしょう。それほど幼稚な低レベルの思考です。会員も思考を回復してもらわないと、親鸞会の間違いに気付くのは難しいです。

投稿: 飛雲 | 2011年7月21日 (木) 21時47分

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