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2011年7月19日 (火)

韋提希が定善を試みたと説く聖教はない

300を超える当ブログのエントリーの中で、『観無量寿経』について相当の割合で述べていると思います。それは『観無量寿経』の内容は、創作アニメ王舎城の悲劇だと勘違いしている人が未だにいるからです。
2と1の違い、難しいの意味、善人と悪人は違う、こんな幼稚園で教えるような説明からしないといけないのですが、一応『観無量寿経』についてまとめておきます。

まず、『観無量寿経』には善人が登場します。それは頻婆娑羅王です。頻婆娑羅王は目連尊者から戒律を授けられ、阿那含と成っていますので、間違いなく善のできる善人でした。悪しかできない悪人ではありません。これくらいは判りますか?
詳しくは

釈尊はなぜ韋提希のもとへ行かれたのか?

に書きました。
この時点で、親鸞会の主張する

十方衆生=下品下生=逆謗の一機

の破綻していることが判ります。法然上人と親鸞聖人のお言葉でいえば、『勅伝』の

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

『教行信証』信巻

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

によって、智覚禅師は、上品上生の善人であったことも判ります。詳しくは

高玉・智覚は、みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

でも述べました。
このように善人が間違いなくいるのですから、『勅伝』にある法然上人のお言葉、

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

ももちろん正しいのです。『持名鈔』

如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

も正しいのです。当たり前です。私が勝手に

善のできる善人に定散二善を説かれた

と言っているのではありません。善知識方のお言葉に沿って言っているのです。

では、

釈尊は悪人の韋提希に定善をさせたのではないか

という間の抜けた反論を親鸞会はよくしてきますが、その聖教上の根拠を出せるかと言えば出せません。
昨年8月にO講師と法論した際にも出せませんでした。当ブログでは以下のところです。

「諸善には諸仏の勧めはない」との親鸞聖人のお言葉も知らないとは

「一切衆生必堕無間」を正当化するために、善知識方のお言葉を否定するO講師

また昨年10月のM講師(偽装本願寺布教師とは別人)との法論でも、根拠は出てきませんでした。それは、

M講師からの反論-三願転入の教え

M講師からの2回目の質問書(回答が一切無いもの)

にあります。
そして今回偽装本願寺布教師が反論として提示した根拠が、本願寺派末寺の説だけです。聖教上の根拠ではありません。
つまり、

どんなに頑張ってみたところで、韋提希が定善を試みたと説く聖教は無いのです。

ないから、間違いばかりと見下している本願寺末寺の説を必死に探し出してきて誤魔化すしか能がないのです。「念仏無間」という本願寺の僧侶が万が一いたとしたなら、

自力念仏では必堕無間と本願寺の僧侶も言っているではないか

と言うレベルでしょう。あほらしくて相手にする気もおこりません。

この邪説を正す根拠はたくさんありますが、中学生レベルでも判る法然上人と親鸞聖人のお言葉を出しておきます。

『選択本願念仏集』三輩章

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

(現代語訳)

諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

『選択本願念仏集』念仏付属章には、また以下のことも仰っています。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と教えられています。『教行信証』行巻には「念仏諸善比校対論」として

勧無勧対

(現代語訳)

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

と教えられています。簡単にいえば、

Q.定散二善は何のために説かれてあるのですか?
A.「諸行を廃して念仏に帰せしめんがため
  「念仏の余善に超過したることを顕さんがため

Q.諸仏方は諸善を勧められているのですか?
A.「念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

ここまではっきり法然上人・親鸞聖人が仰っているのに、念仏1つと思えない人がいるのです。聖道門の人達は、善に拘る訳です。それで善という権仮方便が必要になるのです。善知識方の仰せの通り、念仏1つで往生しようと願っている人、あるいは悪人に善を勧めるという理屈は通りません。それで、19願を勧められることはないのです。19願の実践を勧める珍しき高森会長と取り巻き連中に対して、19願を捨てよとしか真宗では教えません。当たり前です。

私は善導大師・法然上人・親鸞聖人のお言葉をいくつも出して説明していますが、親鸞会やそれを擁護する偽装本願寺布教師は、断章取義した1文か2文を示して曲解し、これら善知識方の言葉を否定して平気な外道の者達です。
言っている意味は判りますか?

それとこちらから提示した多くの聖教上のお言葉は無視し、こちらからの質問には全く答えられないということで、

1.高森会長・講師部員は「宿善すくなきもの」である。
2.『観無量寿経』によって、親鸞会の宿善論、三願転入の教え、善の勧めは論理的に破綻している。
3.龍樹菩薩・曇鸞大師が、御自身のことを「地獄一定」という意味で仰ったお言葉はない。法然上人も「地獄一定」は万人共通ではないと仰っている。
4.浄土門の人に19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はない。
5.誰も化土往生できないと仰った親鸞聖人のお言葉はない。
6.韋提希が定善を試みたと説く聖教はない。
7.十方衆生が逆謗の一機であるという意味のお言葉はない。聖者も善凡夫もいないという聖教上のお言葉はない。
8.定善・散善は、誰一人できないと仰った聖教上のお言葉はない。

9.”無常の虎の譬え”は、『仏説譬喩経』にはないし、聖教上にもない。

と議論は決着しました。もし反論があれば、高森会長・講師部員・会員を問わず受け付けます。ただし、2と1の違い、難しいの意味、善人と悪人は違うことも判らない幼稚な思考の方と、真宗の聖教上のお言葉を出せない方はご遠慮ください。

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