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2011年7月22日 (金)

『観無量寿経』に何が説かれてあるのか、本当に何も知らないの?

『観無量寿経』に説かれてあることを、親鸞聖人は隠顕で教えられています。隠顕という言葉は、高森会長も使っていますが、いつものように意味が違っています。
正しい意味は、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註が判りやすいでしょう。

 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが『観経』であり、第二十願に応じて説かれた教えが『小経』である。『観経』に説かれた教えは、定善・散善といういろいろな善根によって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、『小経』に説かれた教えは、一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。第十九願・第二十願の教えが、第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、『観経』、『小経』を説かれた釈尊の本意は、他力念仏の教えを説くことにある。したがって表面に説かれた教えは、前に述べたようなものであるが、その底を流れる釈尊の真意が、部分的に表面にあらわれている。『観経』に、「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とあり、『小経』に「難信の法」とあるのがその例である。このように表面に説かれた自力の教えを「顕説」といい、底に流れる他力の教えを「隠彰」という。これによって『観経』、『小経』には、隠顕の両意があるといわれる。こうして浄土三部経は、顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。

これを踏まえて『教行信証』化土巻・隠顕釈を読んでみて下さい。

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多・闍世の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

この訳については、親鸞会で教学的にはほぼ完璧と絶賛し、偽装本願寺布教師も好きな山邊習學・赤沼智善共著『教行信証講義』から紹介しておきましょう。

 『無量寿仏観経』を解釈せられた善導大師の御意見に依りて本経を考えて見るに、本経には顕の義と彰隠密の義の二面の意義がある。即ち一文に表裏の二義があるのである。彰は陰から顕わすこと、隠は顕に対して文の幽意を示し、密は如来の密義のこと。三字熟して顕義に対す。即ち経文の裏面を流るること、大地を流るる水の如くに、不尽の法水を迸〈ほとばし〉らせているというのである。

 その中、経の顕の義というは、行の方面から云えば定善散善の諸善万行を顕わしてあり、信の方面から云えば、上中下の三輩の機類に通じる自力の三心を開説してあるのがそれである。『観経』一部を表面から見れば、この自力の信行の外はない。然るに定善散善の二善、そしてその中の散善の内容たる三福九品の善根は、真実報土に往生する真因ではない。これら定散諸善を修める機類は、それぞれ根機が様々に分かれておるから、その起こす所の三心も各自の能力に応じて異なっている自力の三心であって、如来回向の絶対他力の一心でない。相対有限の信である。則ち如来が特に方便を垂れ給いて、自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。されば本経一部の顕説は、他力の三心に引入せしめんが為の方便たる定散二善であることが知られるのである。
 経の隠彰というは、本経は『大経』と同じく阿弥陀如来の第十八願の正意を彰わし、人々をして他力回向の一心に通入せしむることを演暢〈のべあか〉されたもので、諸機各別の三心ではなくして、如来回向の一心を開説せられた経典であるというのである。
 即ち提婆達多の教団に対する反逆、阿闍世太子の父王に対する悪逆が興法の縁となりて、釈尊は始めて出世の本懐を説くべき時期至れりと満足の微笑を彰わし給い、また我が子の悪逆によりて囹圄〈ひとや〉に幽閉せられた韋提希夫人は、これが求道の動機となりて釈尊の説法を冀〈こいねが〉い奉り、遂に如来の威神力によりて、広大なる諸仏の国々の中より、特に安楽世界を選ぶに至ったことが正因となりて、弥陀如来のやるせなき大悲の本願が、本経に於いて開説せらるるに至ったのである。これが本経の隠彰の実義である。

自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。」と、定散二善は聖道門の人を浄土門に誘引するための方便の善根と解説しています。高森会長の珍説とは大違いです。
この顕説と隠彰のところを見比べてみますと、韋提希は隠彰には出てきますが、顕説には出てきません。これはつまり、顕説の定散二善が韋提希のために説かれたのではないことを顕されているのです。

それは省略されただけだ

と強がりをいう愚か者がいるでしょうから、参考に『浄土和讃』観経讃9首を見てみましょう。

恩徳広大釈迦如来
 韋提夫人に勅してぞ
 光台現国のそのなかに
 安楽世界をえらばしむ

頻婆娑羅王勅せしめ
 宿因その期をまたずして
 仙人殺害のむくひには
 七重のむろにとぢられき

阿闍世王は瞋怒して
 我母是賊としめしてぞ
 無道に母を害せんと
 つるぎをぬきてむかひける

耆婆・月光ねんごろに
 是旃陀羅とはぢしめて
 不宜住此と奏してぞ
 闍王の逆心いさめける

耆婆大臣おさへてぞ
 却行而退せしめつつ
 闍王つるぎをすてしめて
 韋提をみやに禁じける

弥陀・釈迦方便して
 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅
 耆婆・月光・行雨等

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

釈迦韋提方便して
 浄土の機縁熟すれば
 雨行大臣証として
 闍王逆悪興ぜしむ

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし

   以上『観経』意

9首中8首が隠彰についてで、韋提希の名が何度も出てきています。それに対して最後の1首が顕説で、ここにはやはり韋提希は出てきていません。最後の一首は「定散諸機」が主語です。隠彰の「凡愚底下のつみひと」「逆悪」と対比されています。

韋提希にさせるために釈尊が定散二善を説かれた、とは親鸞聖人は全く考えられていないことがここでも判ります。
悪人である「凡愚底下のつみひと」「逆悪」には、念仏だけしか勧められていません。だから「他の方便なし」で、諸仏方が王舎城でドラマを演じられたことを「方便引入せしめけり」と仰っているのです。この「方便」は善巧方便です。

一方で、善人たる「定散諸機」に対しては、定散二善は「欣慕浄土の善根」「自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根」だから、「自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし」と、自力修善に拘らずに、早く18願を信じてくれよ、と親鸞聖人は仰っているのです。ですから、「定散諸機」に対して説かれた定散二善が、権仮方便ということなのです。

今回のエントリーは、カルト思考の人には、かなり難しいでしょうね。もちろん、”難しい”の意味は”不可能”ということではありませんので、お間違えのないように。

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コメント

難しいと思います。私も親鸞会をやめてからしばらく経ちますが、親鸞会が間違っていることはすぐにはっきりとわかったのですが、ではどのように読むのが浄土真宗なのかということが、ここへきてようやくわかってきました。

それで、少しレベルの下がった話で申し訳ないのですが、観経の善導大師の釈を受けられて、「顕彰隠密」とされたのは、聖人独自の顕し方とみてよろしいのですね?(もちろん勝手な解釈をされたということではなく、より顕かにされたということです。)
そして、浄土真宗というからには、浄土門の流れを汲んで何を聖人が独自に顕かにされたのか、そこがわからなければ浄土真宗にならないと思うのです。それが親鸞会には全く欠けているのではないかと。難しい話は要らないのだというなら、難しい話はしないでおくべきです。経典を用いるなら、浄土真宗の経典解釈を学んでから説くのが当たり前なのに、読んですらいなかったとは。。。

それで、親鸞会の誤解といいますか、やり方としてはこの観経の定散の説法を「“悪人に善を勧めた”という見方をする(させる)」ということに極まるのではないかと思うのです。この間違いは隠顕(方便)ということを知れば解決するはずなのですが、それを言っても耳に入っていかないのは、悪人・善人ということを間違って捉えているからではないかと思います。

親鸞会では、「我々は、善ができると自惚れている」という言い方をします。これを「十九願の悪人である韋提希」にあてはめています。
つまり、親鸞会の理解では、悪人の中に善人を含めるのです。そうすると、善人も悪人だから、全人類悪人という理屈も成り立ちます。だから誰も彼も、聖者も自惚れているだけの悪人と捉えているように思います。

本当は善のできない悪人なんだけれども、頭ではできないとわかっても、心の底にできると思っている心があって、それがあるから救われないのだと。「本当は悪人なんだが、善人の状態だから助かっていない。だから地獄行きの悪人と知らされたら救われる。」のような理解ではないでしょうか。

かつての私の間違った理解からも合わせて考えると、そういう言い方はしていないかも知れませんが、自分達も悪人の中の善人(できると自惚れている人)と見ているのです。そして、十九願が善人の為に説かれたと言っても、善人(と自惚れている悪人)に説かれた十九願が必要だと考えているのでかないかと思うのです。

それで、自分の心の中の状態が、善人→悪人→救われる、という過程をたどると思って、これを三願転入にあてはめているのです。私の会員時代の漠然とした理解はそうでした。

・救われる前の悪人とは、善ができると自惚れている人のことである。(まだ心は善人で、悪人になっていない)
・本当の悪人とは、善ができないと「知らされた」人のことである。

と思っているのでしょう。それで、会員の手紙には、「~~と知らされました、~~と知らされました」とよく書かれていますが、「知らされよう、知らされよう」とするのです。因果の道理を深く知らされたい、善のできない地獄行きの自分と知らされたい、…。あるはずもない知らされた世界を目指すのです。

今、観経を読むにつけ、「できない者と知れよ」「念仏のみと知れ」ということで、これを読めば確かに知ることができると思うのですが、一体親鸞会の人は、観経を読んでも、定善・散善ができると思う人、諸善で助かると思っている人、なのでしょうか。だとしたら、自ら聖道門の人に立場を置くことになりますし、もしそれを自覚するのであれば、浄土門に入られたらどうかと思うのですが、 

悪人であるぞよというのが聖人のおさとしであるのに、お前らは善ができると自惚れている善人だから諸善からやれよ、というのが親鸞会の実態だったと思うのです。

善人→諸善→悪人→念仏
↑     ↑
S会    浄土真宗

親鸞会時代の複雑怪奇な理解を整理してみました。ありがとうございます。
お聖教を読んでお聖教のお言葉で何が書かれてあるかわかれば親鸞会の間違いはわかるのですが、親鸞会の言葉で親鸞会教義を理解してしまっている人には、難しいのです。親鸞会の間違いに気付くにはその独特の教理に基づいた独自の用語・言い方・使い方の歪み具合に気付かなければわからないようにも思うこの頃です。また今後もよろしくお願いします。

それでひとつ教えていただきたいのですが、
親鸞会では悪人とはどのように教えられてきたのでしょうか。
上に書いたのは私の理解であって、正確にはどのように定義されているのかと少し調べてみましたが親鸞会の資料で公式のものは今すぐに見つからないのですが、ここ
浄土真宗親鸞会三河HSJを見ても

「本当の仏教とは、カンダッタの心をもった全人類(悪人)を救うという弥陀の本願です。
 自分がカンダッタのような我利我利の心をもった悪人、と気づいていない人(善人)も真実の仏教(弥陀の本願)を聞く縁があれば、必ず自力がすたり、悪人と知らされ、本願通り往生を遂ぐ身に救われます。
「将来に対するぼんやりした不安」も全くなくなり、将来往生間違いなしとツユチリほどの疑いもなくハッキリするのです。
  歎異抄第3章の「善人なほもって往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」
の悪人とは他力をたのみたてまつる悪人(弥陀に救い摂られた人)のことであり、法律や倫理道徳の悪人、難行苦行のできない悪人のことではないのです。
 高校の日本史の教科書に歎異抄第3章全文が掲載されるようになったのは尊いことですが、善人、悪人の意味を間違えて注釈しているのは改めてもらわねばなりません。」
http://blog.goo.ne.jp/emikashin/e/164c8c26b6f1c30a454d44af9bfcb1e8

とあり、やはり私が上で書いたような理解であることがわかりました。親鸞会では、

>全人類(悪人)
>我利我利の心をもった悪人、と気づいていない人(善人)
>悪人と知らされ、本願通り往生を遂ぐ身に救われます。

と、「悪人である全人類は、悪人であると気付いていない善人であり、悪人と知らされたとき、救われる」とあります。

>善人、悪人の意味を間違えて注釈しているのは改めてもらわねばなりません。

ともありますが、浄土真宗で言われる悪人とそのようなものなのでしょうか。

投稿: | 2011年7月22日 (金) 08時38分

上の図、矢印の位置がずれてしまいました。

善人→諸善→悪人→念仏
↑       ↑
S会      浄土真宗

(悪人の下に浄土真宗と書きたかったのです。)

投稿: | 2011年7月22日 (金) 08時42分

名無し 様

親鸞聖人の隠顕釈は、善導大師の隠顕によっていますので、親鸞聖人独自のものではありません。しかし、ここまで隠顕釈を徹底されたのは親鸞聖人がはじめてです。

さて親鸞会では

全人類は極重の悪人である。
  ↓
仏教では善を勧められている。
  ↓
だから極重の悪人に善を勧められている。
  ↓
極重の悪人には善はできない。
  ↓
極重の悪人は善ができると自惚れている。
  ↓
善をさせてみて、善のできないことを知らせる。
  ↓
善のかけらもできない地獄一定の者と知らされて、自力が廃る。

という理論です。
最初から間違っているから、その後は完全に間違いです。

真宗でいう悪人とは、九品で言えば下品上生・下品中生・下品下生のことです。
中品下生以上が善人です。
善人・悪人については

『玄義分』の「いまの時の善悪の凡夫」の意味は判りましたか?
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-75a3.html

で解説した通りです。
善をしている人が善人、悪をしている人が悪人。そのままです。

親鸞会では、善人が存在しないことになっていますので、仏教の理解が無茶苦茶になっています。
善人がいなければ、聖道門は完全に無意味です。さとりなど、絵に描いた餅でしかありません。
仏教である以上、そんな暴論が通用する筈がありません。


大沼師の説を誤解して、そこに私利私欲を満たすための善の勧めを無理やりくっつけた結果が、今の親鸞会教義です。

投稿: 飛雲 | 2011年7月22日 (金) 18時16分

飛雲様

早速ありがとうございました。大変参考になりました。そのエントリーの

>昭和52年1月20日号の『顕正新聞』に、高森会長の法話内容が載っていますが、そこには
「その煩悩で限りなく悪を造るからすべての人間は悪人ばかりです。ところが、その凡夫の中に善悪があると教えられておられるのですが、親鸞聖人が善人だと仰有ったのは自己の罪悪が分からず、自分を善人と自惚れている人、悪人とは自己の罪悪に気づいている人ですから一切善悪凡夫人で、すべての人々という意味になります。」

知りたかったのはこれです。やはり会長のこの間違いが基本になっていました。
「一切善悪凡夫人」とは、「善悪の凡夫人も一切」ということで、「善・悪の凡夫であっても」を、「一切は善・悪の凡夫人であり」だと読んだのですね。これでは悪人正機がわからなくなります。

>真宗でいう悪人とは、九品で言えば下品上生・下品中生・下品下生のことです。
中品下生以上が善人です。

悪人とは悪凡夫のことで下輩に当たり、善人は善凡夫も含めた中輩以上の人ということですね。

親鸞会の善の勧めの理由にはいくつかありますが、飛雲さんが書かれた「仏教で勧められているから」という理論も一つ大きくありますが、あまり表面には出てきませんが、悪人正機だからということがかつての私の中では一番の理由になっていました。
私の上で、悪人たる自覚がない自分を善人と観て、本願から漏れているとみるのです。(間違いの出発点)。悪人と思えないのは善ができると自惚れているからだということで、悪人の自覚が起きるまで、善人になろうとしてみろ、そして善ができない自分、善人にはなれない自分と知らされたときが悪人になったときで救われるときという理論です。会長が「自惚れているから善人なのだ」と言うので、「自惚れていることを知れ」という教えになっているということです。

悪人正機だから悪人が救われる→善ができると自惚れている者は善人だから助からない→どうやっても善人にはなれない悪人と知れ→善人になろうとしてみてできないと知れば悪人だとわかるだろう→善ができるかどうかやってみろ→善のかけらもできない地獄一定の者と知らされて、自力が廃る(予定のまま何十年)

また一つ親鸞会の高森会長の誤りによる助からない教えの構造と理由がわかりました。

投稿: | 2011年7月23日 (土) 07時55分

名無し 様

>悪人正機だからということがかつての私の中では一番の理由になっていました

以前はそのような説明もあったと思います。
しかし今は、
「仏教で教えられていることの99%は善の勧めである」
ということが強調されていますので、先のような理論になっています。

いずれにしましても、デタラメには違いありません。

投稿: 飛雲 | 2011年7月23日 (土) 21時15分

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