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2011年7月

2011年7月31日 (日)

当たり前の当たり前の当たり前ですが、「定散諸機」≠「極重の悪人」

定散諸機」と「極重の悪人」が同じだなどと、いつまでもこだわる者がいますが、どれだけ説明すれば判るのか、現代語も判らないようで、断章取義(談笑主義?)も相変わらずです。
というよりも判ろうとする気がないのです。認めたら終わりですから。

かたし」についてですが、たとえて言えば、進学校ではない高校で成績も良くない学生が東大に入れるかどうか、普通に考えれば「東大に入るのは無理だ、難しい」と言います。では可能性は0%かといえば、そうではありません。その生徒は勉強が嫌いで全くしてこなかっただけで、記憶力・思考力は、人一倍優れていて真面目に勉強をすれば東大に入ることができることもあり得ます。あるいは特別な才能がなくても、奮起して一日20時間勉強して東大に合格することも絶対にない話ではありません。ただし、極めて稀ということです。それを日本語では「難しい」「できない」と表現します。これくらいのことは、誰でも判ると思いますが。
これが理解できないとは困ったものです。

私は最初から、定散二善が誰一人できないといったことは、一度もありません。真宗の解説書でも同じです。『教行信証講義』については再三紹介しましたが、聖者と凡夫を区別されていますように、全人類が「極重の悪人」とは言っていません。機の深信と罪悪観がいつまで経っても理解できない知恵しか無い人には、私の書いていることを理解することは無理でしょう。

対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」

「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」

当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」

でも繰り返し述べたことが何も理解できず、いつまでも無視し続けています。

何度も説明していますが、仏教では

聖者
善凡夫
悪凡夫

と区別されます。超常識です。

親鸞会の教学は、仏教界・真宗界では通用しないことをよく知っておきましょう

で、

薄地の凡夫」とは、本願寺出版の注釈では、

聖者の域に達しない下劣な者。凡夫を三種に分け、三賢(十住・十行・十回向)を内凡、十信を外凡、それ以下を薄地とする。

とあります。「WikiDharma」でも

サンスクリット語の「prithag-jana」は「必栗託仡仡那」と音写され、「異生」と訳される。これは衆生の項に説明がある。玄応音義 には「凡夫というは義訳なり」といって、「婆羅必粟託仡那」(bala-prithag-jana)と解釈している。

一般的に凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。「凡夫は身見をもって性となす」といわれて、我見にとらわれている人をいう。
自己に実の我があると考え、自と他とを区別し自分に執着して、その差別観の中に苦悩している者のことである。見道(けんどう)以前のものを凡夫という。

この凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。
内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。

とあります。意味は少し違いますが、善のできる凡夫もいれば、善のできない凡夫もいるのです。

十方衆生=凡夫=下品下生=逆謗の機

という迷信が親鸞会で蔓延っています。その誤りは、何度も何度も述べてきました。

と書いたところ、「真宗界のどこで通用するのか」、と愚かなことを書いてきた親鸞会擁護の偽装退会者がいましたが、本願寺がこのように説明しているのに、「真宗界で通用しない」とかどこまで無知を晒したいのかと本当に驚きます。

善凡夫に対して定散二善を勧められた、悪凡夫に対して念仏を勧められた

この簡単なことが、どうしても認めたくないから、駄々をこねているだけのことです。

善導大師の『玄義分』で以下のように説明されていると以前に書きました。

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

となっています。

上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。
以上が善凡夫です。

一方で下品上生・下品中生・下品下生については

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

となっていまして、

下品上生・下品中生・下品下生が、無善造悪の凡夫です。これが悪凡夫です。

これより

常没の衆生
=「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫
=「いまの時の善悪の凡夫

となりますが、どこに矛盾があるのでしょうか?
これが「いまの時の悪凡夫」なら話は判らないこともありませんが、「いまの時の悪の凡夫」です。

これを法然上人は『勅伝』に

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

と仰っているのです。筋の通らないところはどこにもありません。

実例としては、龍樹菩薩のような聖者もあれば、『高僧和讃』曇鸞讃

鸞師こたへてのたまはく
 わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば
 念力ひとしくおよばれず

とあるように、いまだ「地位」(初地以上の聖者)にまで至っていないが、ある程度のくらいまでは至られた曇鸞大師のような方もありますし、定善について『定善義』

万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。

と仰った善導大師のように、定善の容易な方もあります。
『教行信証』信巻

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

と、上品上生の往生を遂げたと親鸞聖人も認められている智覚禅師もいます。
これ以外にも聖者・善凡夫の方々がおられる根拠はたくさんあります。当たり前です。そんなことを今頃説明する必要があるのでしょうか?

ところが極々一部の御文の言葉尻だけを捉えて、

「定散諸機」=「極重の悪人」

と無理やり結論付けるのが、カルト思考の典型です。
高森教でしか通用しない珍解釈を何度書いてきたところで、誰も支持しません。なぜなら、聖教上の根拠がないからです。ただ『教行信証』化土巻

『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」と勧励したまへるなり。

の一文をもって、曲解することしかできません。
いつも言っていますように、極々僅かな御文を解釈したものが、それを完全に否定する膨大な御文があるのであれば、その極々僅かな御文の解釈が間違っているということです。少しでも論理的に考える知能があるなら、誰でも判る話です。
善知識方で聖道門を否定された方は誰一人おられないことも、根拠を挙げて説明してきましたが、聖道門の機があるのに、定散の機が誰もいないという理屈が通るとでも思っているのでしょうか。

当ブログを隅から隅まで一万回以上読んでから、ブログを書かないと恥を何重にも上塗りするだけです。

とにかく批判のための批判をして、上層部へのごますりをしたいだけなのでしょうが、私も暇ではありませんので、これ以上幼稚な思考に付き合うことはしません。

幼稚園児以下の思考と罵られながら、負け犬の遠吠えをいつまでも続けて下さいな。

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2011年7月30日 (土)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り31

前回、雑毒の善ができれば善人であり、下品下生ではない、と述べましたが、先日の座談会で、

十方衆生=逆謗の屍

をやたら強調したそうです。このことは

「安心問答」
会長「十方衆生は逆謗だから、逆謗でない者は本願に漏れている」→参詣者「??」(7月28日テレビ座散会より)

にありましたが、聖教上の根拠も無いのに、「意地でも自説を曲げてなるものか、ワシの言うことに間違いはない、疑わずに信じよ」、という高森会長の心の叫びです。高森会長の根拠は、大沼師の味わいだけです。

聖教を読んだことの無い高森会長は、基本的な善の意味さえも理解できないようです。
その1つの証拠が『顕真』7月号の3番目の疑難と答えです。

疑難と答え 6
宿善とは過去を喜ぶもの

(疑難)
「宿善とは、宿世(過去世)の善根という意味であり、振り返って喜ぶ過去の善だから、”宿善を求める”などと未来に向って言うべきことではない。今からやる善とは無関係だ」

(答え)
 要するに「過去をあらわす言葉を未来に使うのが間違い。過去の善根と未来の善根とは無関係」というのである。

 果たして、そう言えるだろうか。
「想い出をつくろう」というのは間違いだろうか。「想い出」は過去をあらわす言葉であり、「つくろう」は未来のことだからである。
「悔いを残さぬように」というもの間違いだろうか。「悔い」は過去をあらわす言葉であり、「残さぬように」は未来のことであるからだ。

「宿善」は過去をあらわす言葉であり、「求める」は未来のことである。
「宿善を求める」だけが、なぜ間違いと言えるのだろうか。悪いはずがなかろう。

ここで自己矛盾に陥っています。

善のできない逆謗の屍が、過去世に善根を修してきたということですか?
親鸞会の主張である『唯信鈔』の「宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。」によれば、今生に逆謗の悪業をこのみ善根を造っていない十方衆生が、過去世に善を修してきたというのですか?
また過去世でも、善のできない逆謗の屍であったのですから、過去世においても善を修していない筈ですが、違いますか?
要するに、過去も現在も未来も無善で五逆罪・謗法罪ばかりを造っている者が、いつどこでどのようにして善を修するというのでしょうか?
自分の言っていることが判っていますか、高森会長。

無善というのは、真実の善ができないということで、雑毒の善は善に入らない

とでも寝恍けたことをいいますか、高森会長。
散善について高森会長は、「心が散り乱れたままでもよいから善をしなさい」と説明していますが、心が散り乱れたまま行う善が真実の善とでも考えているのでしょうか?
心が散り乱れたままで行う雑毒の善さえもできないものが、下品三生と何度も何度も説明してきましたが、まだ判らないのですか?

どこを突いても矛盾しかありません。

宿善を宿世の善根と通仏教では説明しますが、真宗では宿善を阿弥陀仏のお育てと説明します。そのことは

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは3

にも書かれていますし、『往生要集』『口伝鈔』を挙げて最近も述べたのもこのことです。

高森会長は言葉を曖昧に使って誤魔化しているだけで、少し問い詰めればすぐにボロが出ます。

真実の善は仏しかできません、真実の善でなければ報土には往けません。それで阿弥陀仏が十方衆生に成り代わられて、真実の善をなされてその功徳を十方衆生に回向して下されたのです。報土往生の因は、阿弥陀仏が真実の善によって用意なされていますので、衆生の側で雑毒の善をする必要が全くないのです。阿弥陀仏の真実の善だけでは不足だと思って雑毒の善をしようとするのを、「仏智疑惑」と言われるのです。
蓮如上人は『御文章』2帖目第9通に、

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と教えられている通りです。
阿弥陀仏が真実の善の功徳を十方衆生に回向して下されていますので、十方衆生は報土往生のために善をする必要がなぜあるのでしょうか?
「宿善を求める」だの「19願を必ず通らなければならない」だのと言っているのを、親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智疑惑のつみにより
 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ
 年歳劫数をふるととく

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

と、厳しく誡めておられるのです。

因果の道理を有の見で理解し説明している高森会長以下講師部員には、回向という概念は全く理解できないでしょう。

ましてや十方衆生の定相が、逆謗の屍と未だに言っている有の見の外道には、今回のエントリーもチンプンカンプンで、また的外れな内輪向けの反論をこそこそとするしかないでしょうね。
でも、それが外部に漏れてしまうから、また大恥をかくことになるのですよ、高森会長。恥をこれ以上かきたくなければ、教団名を高森教と改名することをお勧めします。

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2011年7月29日 (金)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り30

18願と19願の「十方衆生」の違いについては、昨年のmixiでの法論等で、高森会長も講師部員も全く反論ができずに、

十方衆生とあるから十方衆生だ

ということしかできない無能振りです。どれだけ無い知恵を絞ったところで、聖教上の根拠が出せる筈も無く、創作アニメやヘンテコな譬え、真宗学者の論文を断章取義して誤魔化せたと喜んでいる始末です。

さて、前回紹介した『顕真』7月号の

では、そんな煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われているのになぜ、十九願で同じ十方衆生に諸善を勧められているのだろうか。

は、親鸞会会員と出身者には、疑問もなく読み流されてしまうかも知れませんが、ここに落とし穴があります。18願と19願の「十方衆生」の違いをよく理解できれば、「煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われている」の部分も間違いであることに気が付かれるでしょう。
この「煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ」は善人のことであり、これが19願の「十方衆生」に当るのです。18願の正機である悪人のことを言いたいのであれば、「煩悩具足で虚仮・雑毒の善さえもできぬ」としなければなりません。
『顕真』でも挙げている『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

が十方衆生の真相ですが、これは善ができる善人でも「虚仮雑毒の善」にしかならないから、「無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり」なのです。
では阿弥陀仏に向って「虚仮雑毒の善」をしたならどうなるかについて、『教行信証』真仏土巻の最後

それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
(中略)
仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

(現代語訳)

さて、報ということを考えると、如来が因位においておこされた願の果報として浄土は成就されたのである。だから報というのである。ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
(中略)
方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。

とあるように、「虚仮雑毒の善」では化土往生にしかならないことを教えておられるのです。まとめると

仏―真実の善―報土往生
善人―虚仮雑毒の善―化土往生
悪人―無善造悪―六道輪廻

ということです。
高森会長はしきりに、「虚仮雑毒の善」ができるからせよ、と教えていますが、「虚仮雑毒の善」ができるなら悪人ではありません。何度も何度も述べてきた通りです。最近では会員に、布施という行福ができるからせよ、と言っているそうですが、行福ができるなら、上品です。それでいて、全人類は下品下生で必堕無間だと脅しているのですから、論理が無茶苦茶です。

雑毒の善ができる下品下生???

でも書いた通りです。高森会長の頭では、真実の善のできない者は、下品下生という思考ですが、世の中のことも仏法も100点でなければ0点としか考えられないのでしょう。これは、有か無以外は有り得ないという外道の教えです。何でも型に填めているから、法然上人が2通りあると仰っているのに、それは1通りということだ、という幼稚園児以下の考え方になっていても平気なのです。

宿善も三願転入もそうです。半年以上も前から質問している

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

これだけでも理解できれば、”三願転入の教え”も”宿善論”も恥ずかしくて、主張できない筈です。
これでも理解できない人のためにもう少し説明すると、獲信者が一様に過去世に19願を通ってきたとするならば、親鸞会が断章取義している『唯信鈔』の

宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

は、間違いになります。なぜなら、未だに盗作や浄財の私的流用を続けている獲信している筈の高森会長は、「宿善少なきもの」としか言い様がありません。耳四郎でもそうです。『観無量寿経』に説かれた下品下生の五逆の罪人もそうです。だから源信僧都は「生死の因縁は不可思議」「この義、知りがたし」と仰り、『唯信鈔』には

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

と表現され、覚如上人は「善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。」と仰っているのです。

まして謂わんや、今18願を聞いて18願での救いを求めている人に、19願から始めよ、などという”三願転入の教え”が真宗に存在する訳がありません。実際に、高森会長も講師部員も、誰も”三願転入の教え”の聖教上の根拠を示せずに、mixiでの法論を抹殺することしかできないのです。あるいは、夢幻の戯言をブログで書いて憂さ晴らしをするだけ。

なんとも恥ずかしくも情けない団体です。

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2011年7月27日 (水)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り29

昨年10月に、親鸞会を必死に擁護する偽装退会者がブログで書いていた内容をそのまま偽装本願寺布教師がブログで書いています。別人格を演じるなら、もう少し違う話にすればいいものを、知恵が足りなさ過ぎます。当時の内容については、即座に論破したのですが、最近論破したものも含めて、過去のことは簡単に忘れてしまうようです。

思考力アップのトレーニングにはいい教材

当たり前のことも理解できないなら、質問にだけ答えてください

当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」

この辺りを読まれれば、何の進歩向上もせずに、同じことを言い続けるしか能のないことがお判りいただけると思います。

ところで、親鸞会でしか学んだことのない人には、親鸞会用語が真宗の常識とは異なっていることを知らないと、親鸞会以外の書物を読むと頭が混乱すると思います。
宿善や方便がその典型ですが、機の深信、罪悪観もそうです。
機の深信が自力無功で、聖者も善凡夫も悪凡夫も、定散諸機も極重の悪人も共通ということと、罪悪が全人類同じということとは全く別のことです。しかし、それがカルト思考ではどうしても理解できないのです。理解したくないが正しいでしょう。

判りやすい例として龍樹菩薩のことをいつも出しますが、龍樹菩薩は自力で出離された方ですから、当然善のできた方であり、もちろん地獄に堕ちることはありません。龍樹菩薩を下品下生という仏教徒はありません。親鸞会が外道の証拠です。

前置きが長くなりましたが、『顕真』7月号の続きです。

 では、そんな煩悩具足で虚仮・雑毒の善しかできぬ十方衆生と見抜かれた弥陀が十八願で、”そんな者を救う”と誓われているのになぜ、十九願で同じ十方衆生に諸善を勧められているのだろうか。
 この阿弥陀仏の本願を矛盾とみるか。弥陀の大慈悲と知るか。
 親鸞聖人は、こう喝破されている。
(原文)
【真・仮を知らざるによりて、
 如来広大の恩徳を迷失す】
              (教行信証)
(意訳)
「十八願(真)と十九・二十願(仮)を建てられた弥陀の御心が分からず、矛盾としか思えないから広大無辺の弥陀の恩徳が知られないのである」

(中略)

 自力からみれば矛盾に見えるだろうが、他力からは何の矛盾もなく、親鸞聖人はこう感泣されている。
(原文)
【既に以て、真仮みな是れ
 大悲の願海に酬報せり】
           (教行信証真仏土巻)
(意訳)
「十八願(真)十九願・二十願(仮)ともに、『すべての人を絶対の幸福に救い摂る』弥陀の大慈悲心から建てられたものである」

 善知識方が、「諸善はみな弥陀の方便なり」「諸善は往生浄土の方便なり」「諸善は信心獲得の因縁なり」(宿善)と言われているのは、「我々の虚仮・雑毒の善が弥陀の救いの資助になる(=役に立つ・間に合う)」ということでは断じてない。
「弥陀の方便」(信心獲得の因縁)と「弥陀の真実」(信心獲得)の区別が立たないのは、聖人仰せの通り弥陀の本願の真・仮を知らないからに外ならない

無茶苦茶な内容です。18願の「十方衆生」と19願の「十方衆生」の意味の違いについては、mixiでの法論で高森会長が惨敗したにも関わらず、正そうという気配もありません。修正したら、”三願転入の教え””善の勧め”の最大の根拠を失いますので、高森会長が死んでも認めないでしょう。
18願と19願とが矛盾するとしきりに言っていますが、何も矛盾しません。私が矛盾すると言っているのは、悪人に19願の善を勧める高森理論が矛盾だと言っているのです。何度も何度も何度も言っていますように、18願と19願とは対機が違うのですから、これを矛盾と考える方がどうかしています。

18願は悪人を正機として、善人を傍機とされています。
『口伝鈔』には

しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。

とあり、当然ながら善凡夫と悪凡夫が区別されています。「傍機たる善凡夫」がいるのです。
一方で、19願には悪人は含まれていません。善人正機です。散々述べた通りです。
そこで聖道門では、19願を最重要視したのですが、法然上人は18願が選択本願であり、王本願と断言されたので、猛反発してきたのです。そのことについては、

「親鸞会の邪義を正す」
”三願転入の教え”の誤り2

でも説明してあります。法然上人の正しさと聖道門の考えの間違いを正されるために仰ったのが、「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」です。
時代背景を知っていれば、親鸞聖人がこのように仰った意味が、容易に判る筈です。

真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」についても、よくもまあ、ここまで意味をねじ曲げられるものだと驚嘆していますが、意味は、

「安心問答」
「真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」の真仮とは何ですか?(頂いた質問)

にもありますので、ご参照ください。

最後の

 善知識方が、「諸善はみな弥陀の方便なり」「諸善は往生浄土の方便なり」「諸善は信心獲得の因縁なり」(宿善)と言われているのは、「我々の虚仮・雑毒の善が弥陀の救いの資助になる(=役に立つ・間に合う)」ということでは断じてない。
「弥陀の方便」(信心獲得の因縁)と「弥陀の真実」(信心獲得)の区別が立たないのは、聖人仰せの通り弥陀の本願の真・仮を知らないからに外ならない。

は、前回述べた通りですが、補足すれば、高森理論はこうです。

過去世・現在世の善根は救いの資助にはならないが、宿善になる。

「宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない」(本願寺なぜ答えぬ)ということは、宿善を厚くすれば救われる。

これは、

諸善は救いの資助にならないが、諸善をして宿善にすれば資助になる

という理屈です。何のことはありません、諸善を宿善に言い換えることで、誤魔化しただけのことです。これはmixiでの法論でも使われた手口です。
前回のエントリーをよく読まれれば、ご理解頂けると思います。

先にもいいましたように、親鸞会は同じ言葉を使いながら、意味が異なりますので、外部の人が親鸞会を見てもよく判りませんし、内部の人が本願寺等の外部の書籍を読んでも正しく理解できないのです。退会しても、この状態が長く続きます。これがマインドコントロールの恐ろしさです。

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2011年7月26日 (火)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り28

「さよなら親鸞会」同様、当ブログも親鸞会で宣伝してくれているお陰で、アクセス数が増えました。それに伴い、退会者も増えてます。大変よい傾向です。

さて、『顕真』7月号の続きです。

疑難と答え5
弥陀の本願は矛盾か

(疑難)
「弥陀が十方衆生を煩悩具足・造悪不善の者と見抜いて十八願を建てられているのに、十九願で諸善を勧めていられるのは矛盾ではないか」

(答え)
「諸善は、往生浄土の方便なり」
「諸善は、みな弥陀の方便なり」
「諸善は、信心獲得の因縁なり」
 これら善知識のご教導を、「諸善を励めば弥陀に救われる(他力信心)ことだ」と聞き誤る人が少なくない。
 とんでもない誤解である。
 0をいくら加えても0であるように、人間の行う善はいくら励んでも自力である。
 自力はいくら努めても他力にはならぬから、弥陀の浄土に往生はできないのだ。

ここで、「諸善は、信心獲得の因縁なり」が善知識のご教導という前提で勝手に書いていますが、この根拠が無いのです。

これは『口伝鈔』を読めば簡単に論破できるのですが、2通りとは1通りということだ、と断言して、それが幼稚な思考だと指摘されると黙ってしまい、「難しい」は可能性0ではないよ、と指摘するとやはり黙ってしまうような知恵しかない人には理解できないと思います。

親鸞会は、宿善、方便、因縁という言葉ですべて曖昧にして誤魔化そうとしていますが、高森会長の宿善に対する主張を確認しておきましょう。

『本願寺なぜ答えぬ』には、

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と書いています。更に『教学聖典(5)』には

(問)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。

(答)
 宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。

とあります。
これと『口伝鈔』の親鸞聖人のお言葉として紹介されている

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

と、覚如上人の解説

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と、『唯信鈔』と高森理論を合わせますと

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、親鸞聖人のお言葉を言い換えてみると、

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

です。

どこか違いますか?

されば、覚如上人は親鸞会の宿善論を前提とされた場合に、往生との関係を、「かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず」と結論付けておられます。つまり「宿善あつきひと」「宿悪おもきもの」かどうかで往生できるかどうかを決めることはできない、ということです。親鸞会用語でいえば、宿善の厚薄で往生できるかどうか決まらないということです。
これが高森会長の教えている

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

諸善は、信心獲得の因縁なり

と同じだという人は、幼稚園児以下の思考でしょう。通常の思考がある人なら、覚如上人は、高森理論を完全に否定されていることが判られるでしょう。

更に、もう一度、『往生要集』のお言葉を見てみましょう。

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。
(中略)
問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。

ここで源信僧都は、遇法の因縁について過去世の善根との関係で仰っています。
過去世に聖道門の修行を八万年も続けられた「宿善あつきひと」であっても、18願を聞いて信じ求めることはできないのに、五逆の罪人のような「薄徳」の「宿悪おもきもの」であっても、容易く18願を信じ求めることがあるのです。まさに「生死の因縁は不可思議」なのです。
源信僧都も覚如上人も同じことを仰っているのです。

ですから覚如上人は

ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて

と、親鸞会でいうところの宿善の厚薄は過去のこととして、それにこだわるのが自力であるから捨て去って、すべて他力におまかせしなさい、と仰っているのです。

これが自力無功・他力全託の二種深信です。
つまり、親鸞会の宿善論を捨てることが自力を捨てることなのです。何度も言っている通りです。自力とは何かが判れば、簡単な話です。

mixi等での法論で、高森会長が敗戦を誤魔化すために、

自分は正しい信心を体得している幸せ者で聖教を正しく理解できるが、未信や異安心の者には正しい聖教の意味が判らず可哀相だ

という内容のことをワンパターンで言ってきます。これは負けを事実上認めたも同然です。もし本当に判っているなら、相手のどこがどう間違っているか、そして正しくはこうだと、論理的に説明できる筈ですが、それはいつもありません。単なる負け犬の遠吠えです。

善知識の条件は体験と教学とが揃った人、と親鸞会では説明してきましたが、悪知識も同じですね。
悪知識とは間違った体験おかしな教学とが揃った人物、まさに高森会長以下講師部員のことです。

聖教上の根拠を挙げての反論はいつでも受け付けます。ただし、2と1の違い、難しいの意味も判らない人は、遠吠えを続けてください。

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2011年7月25日 (月)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り27

『顕真』7月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」が余りにも余りにも酷過ぎます。読むに堪えない内容ですが、シリーズものでこれまで述べてきましたし、既に「安心問答」でも取り上げられていましたので、無視する訳にもいかず、一応一通り論破しておきます。

疑難と答え4
蓮如上人と三願の教示

(疑難)
「蓮如上人には、三願転入の教えがないのではないか」

(答え)
 蓮如上人も、弥陀の十八・十九・二十の三願を、こう説かれている。

 弥陀に救われる(信心獲得)までの道程で、弥陀の救いを求めて行っている諸善(十九願)を「雑行」とし、名号を称える功徳(二十願)などで助かろうとしている五正行を「雑修」と説かれている。
 それらの雑行(十九願)や雑修(二十願)に共通するのが、自力の心(十八願を疑っている心)であるから、『御文章』には、
【もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて】
無碍の一道(十八願)まで進みなさいと、常に教導されているのが、蓮如上人である。

 文証は多数に上るが、一、二だけを挙げておこう。

【諸の雑行・雑修・自力なんどいう悪き心をふりすてて、一心に深く弥陀に帰する心の疑なきを真実信心とは申すなり】(御文章)
【もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として―乃至―往生は治低せしめたまう】(御文章)
【もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候】
                   (領解文)

 これみな蓮如上人の、三願転入のご教導でないものはないのである。

 これらのご文からも分かるように、雑行・雑修・自力の心とは何かを心得ている者に、蓮如上人は仰っているのである。
 ナイフという物を知らない者に、ナイフを捨てよと言ってもナンセンスになろう。
 雑行の意味を知らない者に、雑行を捨てよと言われるはずがなかろう。

 また、煙草をのまない人に、煙草の害毒を説く人がいないように、雑行をやってもいない者に”雑行を振り捨てよ”と言われるはずがない。
 当然ながら「雑行を捨てよ」と言われるのは、現に「雑行」を行っている人にである。

如何でしょうか。これを読んで、どこがおかしいか判らないという人は、マインドコントロールの中にいる人か、思考が著しく後退した人のどちらかでしょう。

詭弁を見破る訓練と思って、よく考えて下さい。
この理論を簡単に言えば、

蓮如上人が「雑行を捨てよ」と仰っている対象は「雑行をやっている人」だけで、「雑行をやっていない人」に対しては、文底に「雑行をやれ」と仰っているのだ

ということです。この文底の根拠が、ナイフと煙草の譬えだけです。聖教上の御文は挙げていません。というよりも、挙げることはできません。全く無いからです。それで譬えで誤魔化そうというものです。

つまり詭弁は、この譬えにあります。

ナイフという物を知らない者に、ナイフを捨てよと言ってもナンセンスになろう。

書いてあるとおりです。ナイフを持っていなくてもいいのです。ナイフがどんな物か知っていればいいのです。
通り魔の犯人と警察官に疑われた時に、その警察官は言うでしょう、「ナイフを捨てよ」と。その時ナイフを持っていなければ、「ナイフは持っていません」と答えるだけです。まさか、ナイフをどこかから調達してきて、「このナイフを捨てればいいのですか」と聞く人はいません。

煙草をのまない人に、煙草の害毒を説く人がいないように

煙草については、皆さん、中学・高校の時に、よく言われませんでしたか、「煙草は体に悪いし、法律で禁止されているから煙草をのんではいけません」と。煙草をのんでいる中学生・高校生にだけ、煙草の害毒を説かれ、禁止されたのですか、違いますよね、煙草をのんでいない多くの中学生・高校生に対して、「煙草をのんではいけません」と先生から諭された記憶がないのでしょうか。

以前に、覚せい剤や自殺を止める場合についても述べましたが、世の中で禁止されていることは、それをしていない大多数の人に対してのものです。

今話題の著作権侵害については、著作権を侵害してはいけない、と法律で禁止されていますが、これは著作権を侵害している人に対してだけではなく、著作権を侵害していない人にも、著作権を侵害してはいけない、と禁じているのです。まさか著作権を侵害していない人に、著作権を侵害させてから、著作権侵害の罪を説くとでも考えているのでしょうか?それで、高森会長は、著作権侵害を率先垂範でしたのですかね。

万引きはどこの店でも禁止されていますが、まさか万引きしていない人には万引きさせてから万引きの罪について説こうというのでしょうか?それでまた、率先垂範した奇特な方があるというのですかね。

親鸞会講師部員の禁止事項の1つに、不倫がありますが、不倫をするな、といっているのは、講師部員が全員不倫をしているからという理屈なのでしょうか?どうりで…。

法律や倫理道徳と仏法のこととは別だ

という親鸞会擁護の自称退会者がいましたが、そんな負け惜しみの好きな人のために、更に言っておきますと、仏教では多くの戒律があります。基本的な戒律として親鸞会でも知っているのが五戒ですが、その中に、不邪淫戒があります。これはいわゆる不倫を禁止したものですが、上記の通りですね。不倫をしていない人に対しても、不邪淫戒があるのですが、一度不倫をさせてみてから禁止するという馬鹿な話がある訳ないです。また五戒に不飲酒戒もありますが、これも酒を飲んでいない人に対しても、酒を飲むと理性を失うから飲んではいけないと禁止されているのであって、酒をまず飲ませてから、という理屈が通用する筈がありません。

聖道門の話をしているのではない、18願についてだ

と最後の悪足掻きをする愚か者のために、トドメを刺しておきます。
御存知の通り18願には、「唯除五逆誹謗正法」とあります。
これを善導大師は抑止門摂取門で教えておられることは、真宗の常識で、無教学の高森会長でさえ知っていることですが、抑止門とは未だ五逆・謗法罪を造っていない者に対して、五逆・謗法罪を”抑止”されているという意味です。
しかし親鸞会の”雑行理論”だと、

五逆・謗法を造ってもいない者に”五逆・謗法罪を造ってはいけない”と言われるはずがない

となり、善導大師の仰せを完全に否定することになります。
五逆・謗法罪を造っていない者には、五逆・謗法罪を造らせてみて、と五逆・謗法罪を”抑止”どころか”奨励”するのが親鸞会理論です。尤も、全人類は五逆・謗法罪を生れながらに造っている、と全く根拠の無いことを言い張るくらいですから、抑止門は

五逆・謗法を造っている全人類に対して、恐ろしい罪を知らせるためだ

と無知を晒すかも知れませんが、親鸞聖人は『散善義』を『教行信証』信巻に引かれて

しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。

(現代語訳)

しかし、謗法の罪はまだ犯していないから、<もし謗法の罪を犯すなら往生することはできない>と止められるのである。これはまだ犯していない罪のことと理解される。

と教えておられます。「いまだ為らざれば」「未造業」です。

親鸞会の御粗末な詭弁ですが、それが詭弁と見破れない人のために、最小限の御文で解説しておきました。

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2011年7月23日 (土)

宿善と三願転入

宿善と獲信とは、大いなる関係があります。宿善の解説をする中で何度も何度も述べている通り、宿善とは

善知識に遇う因縁
18願の教えを信じて求めようとする因縁

です。そのことは、五重の義でも明らかです。五重の義については

「親鸞会の邪義を正す」
宿善の意味

で解説しました。また、覚如上人と唯善との法論を通して、以下の所で解説してあります。

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り4

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り5

さて、前回紹介した『往生要集』のお言葉には続きがあります。

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

源信僧都のような方でさえも、過去世の因縁について知ることは難しい、と繰り返し仰っています。「これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。」と明言をさけておられます。それにも関わらず、過去世のことが判ったような振りをするのが、どういうことか、少し考えれば判る筈です。

この源信僧都のお言葉を承けられまして、覚如上人が『口伝鈔』で宿善のあついうすいの定義を前回述べたようになされています。

過去世においてどのような因縁があったのか判らないけれども、今、善知識方の教えられる18願を聞いて、願い求めている、それが”宿善がある”とか”宿善あつい”と言うことです。従って、すでに18願を願い求めている人が、”宿善うすい”ということはありませんし、ましてや”宿善を厚くする”などということはないのです。

宿善の議論の発端となっている『観無量寿経』の下品下生の往生とは、平生に善をしていないし、仏法さえ聞いていない五逆の罪人が、過去世からの不思議な”宿善があって”あるいは”宿縁があって”、”宿善があつい”ので、臨終に善知識に遇うことができて、念仏により往生を遂げるのです。

以上の宿善の意味を踏まえれば、親鸞聖人の教えを聞き求めている人に対して、往生・獲信のために善の勧めがないのは当然なことです。

ところが、信前の者は圧倒的に”宿善うすい”者という、高森会長のデマに惑わされて、宿善うすき者は、宿善を厚くするために、法施・財施をせよ、と高森会長に利用されているだけなのです。

ついでに言っておきますと、この宿善と親鸞聖人の体験である三願転入との関係について、学問的に論じられることが真宗の学者の間ではあります。親鸞聖人が法然上人に遇われるまでに、過去世から聖道門の修行をされてきましたので、それを19願に置き換えられて、それが遇法の因縁、宿善となったのだから、他の人も18願の教えを願い求めるまでには、19願を通らねばらない、という考え方があるのです。これはつまり、18願を信じていない者が、19願を通って18願を願い求めるまでになる、そして信前の念仏者を20願の行者と考えれば、親鸞聖人の三願転入が他の人にも共通するという、という理論です。
これはもちろん、現在18願を願い求めている信前の人が、今から19願を通るという話ではなく、現在18願を願い求めている信前の人及び信後の人が、過去世において19願を通ってきたかどうか、ということです。

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

のところでも紹介しましたが、大沼師の三願転入論も、これと同じです。19願、定散二善は、「聖道の人を誘導するため」とした上で、信前の真宗の同行は皆20願にいるとしています。

明らかに高森理論とは異なっています。正統派の本願寺の学説と高森邪説が同じだと説明する愚か者がいますが、上記のことを理解する知能がないだけです。どんなに頑張っても議論に勝てないものですから、他人の意見を捏造するしかないのですが、その悪知恵だけは、人一倍のようです。

過去世のことをどの様に考えるかは、学問上では興味のあるテーマであるかもしれませんが、18願での救いを求める上では関係のないことですし、源信僧都でさえも判らないと仰っているのですから、余り詮索するのもどうかと思います。

我々が知るべきことは、覚如上人の『口伝鈔』にもあるように、

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

ということです。

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2011年7月22日 (金)

自力にこだわる異安心の者には、「生死の因縁は不可思議なり」「遠く宿縁を慶べ」が理解不能

親鸞会で教えている「宿善論」の根拠として時々引用する『唯信鈔』

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。

ですが、この理論には矛盾があることを聖覚法印が教えられるために言われた文です。「これは違うぞ」、というのを「これが正しい」という意味で親鸞会は引用しているのですから、断章取義だといっているのです。そのことを半年以上も前に偽装本願寺布教師に

哀れなM講師へ質問

で質問しているのに、結局答えることができませんでした。矛盾に気が付いたからでしょう。このヘンテコ「宿善論」については何度も何度も述べてきましたが、最近では

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り19

で簡単にまとめました。

親鸞会のこの理屈で言えば五逆の罪人は「宿善少なきもの」となりますが、その「宿善少なきもの」の五逆の罪人でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、五逆罪を造っていない我々は、「宿善少なきもの」と思うのは間違いなのです。
つまり、平生に仏法を聞いていない宿善の少ない五逆罪を造った人でさえ、往生できるのだから、平生から念仏の教えを聞いていて、五逆罪を造っていない我々には宿善がもちろんあり、五逆罪の人よりもなお往生できるといえるのです。

下品下生の五逆の者が、十回の念仏で往生を遂げる、という聖道門の道理からは信じ難いものであったために、宿善ということが論じられたのです。

宿善の意味については

「親鸞会の邪義を正す」
宿善の意味

で詳しく解説しています。
今まで出していない根拠でいうならば、『安楽集』でもこのことは問題になっています。

いまこの『経』(観経)のなかには、ただ一生罪を造りて、命終の時に臨みて十念成就してすなはち往生を得と説きて、過去の有因無因を論ぜざるは、ただこれ世尊当来の造悪の徒を引接して、その臨終に悪を捨て善に帰し、念に乗じて往生せしめんとなり。ここをもつてその宿因を隠す。

これはこれ世尊始めを隠して終りを顕し、因を没して果を談ずるを名づけて別時意の語となす。なにをもつてかただ十念成就するは、みな過去の因ありと知ることを得る。『涅槃経』にのたまふがごとし。「もし人過去にすでにかつて半恒河沙の諸仏を供養し、またすでに発心し、しかうしてよく悪世のなかにおいて大乗の経教を説くを聞けば、ただよく謗らざるのみ、いまだ余の功あらず。もしすでに一恒河沙の諸仏を供養し、およびすでに発心して、しかる後に大乗の経教を聞けば、ただ謗らざるのみにあらず、また愛楽を加ふ」と。

この諸経をもつて来験するに、あきらかに知りぬ、十念成就するものはみな過因ありて虚しからず。もしかの過去に因なきものは、善知識にすらなほ逢遇ふべからず、いかにいはんや十念して成就すべけんや。『論』(摂大乗論釈)に、「一の金銭をもつて千の金銭を貿ひ得るは一日にすなはち得るにはあらず」といふは、もし仏意によれば、衆生をして多く善因を積みてすなはち念に乗じて往生せしめんと欲す。

(現代語訳)

今この《観経》の中では、ただ一生のあいだ罪を造って、命が終わろうとするとき、十念を成就して往生をうるという果だけを説いて、過去の因のあるやなしやを説かれていない。ただこれは、世尊が後の世の罪を造るともがらを誘引し、その臨終の時に悪をすてて念仏に帰依し、十念することによって往生させようとされる。それゆえ過去世の因を隠して説かれないのである。これは、世尊が始めを隠して終りだけを顕わし、因を語らずに果だけをいわれるので、これを別時意の語というのである。どうして臨終の十念が成就するのは、みな過去の因があるのだということを知ることができるかといえば、《涅槃経》に説かれているとおりである。

もし、人が過去に、かって半恒河沙の諸仏を供養し、また菩提心をおこしたならば、悪世の中において大乘経を説くのを聞いて、これを誹謗しないが、なおそのほかの功徳はない。もし一恒河沙の諸仏を供養し、また菩提心をおこしたならば、後に大乗経を聞いて、ただ仏法をそしらぬばかりでなく、またよくこれを喜ぶ。

 こういう経を持って来て証明すると、明らかに、十念が成就するのは過去の因があってそれがむなしくないことが知られる。もし、過去の因がなかったならば、善知識にさえ、なお逢うことができない。ましていわんや十念が成就するはずがあろうか。《摂大乗論》に、

一金銭の因をもって、千金銭の果をうることは、一日ですぐに得るのではない。

というてあるのは、もし仏の思召しによれば、衆生に多く善因を積ませ、すなわち念仏させて、それによって往生させようとされるのである。

過去の因なくしては、五逆の者が善知識に逢うこともできないし、往生できるものではないことを仰ったものです。
では、その過去の因とは何かについて、源信僧都は『往生要集』

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 『無量清浄覚経』にのたまはく、「善男子・善女人ありて、無量清浄仏の名を聞きて、歓喜し踊躍して、身の毛起つことをなし、抜け出づるがごとくなるものは、みなことごとく宿世宿命に、すでに仏事をなせるなり。それ人民ありて、疑ひて信ぜざるものは、みな悪道のなかより来りて、殃悪いまだ尽きざるなり。これいまだ解脱を得ざるなり」と。{略抄}

また『大集経』の第七にのたまはく、「もし衆生ありて、すでに無量無辺の仏の所にしてもろもろの徳本を殖ゑたるものは、すなはちこの如来の十力・四無所畏・不共の法・三十二相を聞くことを得ん。{乃至}下劣の人は、かくのごとき正法を聞くことを得ることあたはじ。たとひ聞くことを得とも、いまだかならずしもよく信ぜず」と。{以上}

まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。《平等覚経》に説かれている。

善男・善女があって、無量清浄仏のみ名を聞いて、喜び踊り、身の毛がよだって抜けるように思う人は、みな悉く過去世にすでに仏道を修めているものである。もしまた人があって、仏を疑って信じないものは、みな悪道から来て、その罪がまだ尽きないもので、なおまだ解脱を得ることができないのである。

また《大集経》の第七巻に説かれている。

もし衆生があって、すでに無量無辺の仏の所において、もろもろの徳本を植えたものは、この如来の十力・四無所畏・十八不共法・三十二相を聞くことができるのである。中略 下劣の人はこのような正法を聞くことができない。たとい聞くことができたとしても、まだ必ずしも信ずることはできないのである。

これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

と教えられています。「生死の因縁は不可思議なり。」です。五逆の者のように、「薄徳のもの」でも「聞くことを得るも、その縁知りがたし。」で、過去世の功徳が少ない者であっても、18願念仏往生を聞いて信じることができるので、その理由を知ることは難しいと源信僧都でさえ仰っています。

それを覚如上人が『口伝鈔』で、

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

と教えられているのです。結局のところ、18願を信じるか信じないかと、過去世の善根との関係は判らないので、18願を聞いて信じる機が「宿善あつきもの」であり、聖道門の人のように18願を聞いても信じない機が「宿福なきもの」なんだと、覚如上人は仰った訳です。

ですから親鸞聖人は「遠く宿縁を慶べ」と表現なされているのです。獲信したならば、過去世からの阿弥陀仏との御縁を慶びなさい、です。自分がこれだけのことをしてきたから、獲信できた、と思うのは、親鸞聖人の領解とは違いますが、異安心の者には判らない境地です。

現代文も読めないし、古語の基礎的な言葉である「かたし」の意味も理解できないような人物には、今回のエントリーを理解することは「かたし」というよりも”不可能”に近いでしょう。

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『観無量寿経』に何が説かれてあるのか、本当に何も知らないの?

『観無量寿経』に説かれてあることを、親鸞聖人は隠顕で教えられています。隠顕という言葉は、高森会長も使っていますが、いつものように意味が違っています。
正しい意味は、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註が判りやすいでしょう。

 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが『観経』であり、第二十願に応じて説かれた教えが『小経』である。『観経』に説かれた教えは、定善・散善といういろいろな善根によって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、『小経』に説かれた教えは、一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。第十九願・第二十願の教えが、第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、『観経』、『小経』を説かれた釈尊の本意は、他力念仏の教えを説くことにある。したがって表面に説かれた教えは、前に述べたようなものであるが、その底を流れる釈尊の真意が、部分的に表面にあらわれている。『観経』に、「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」とあり、『小経』に「難信の法」とあるのがその例である。このように表面に説かれた自力の教えを「顕説」といい、底に流れる他力の教えを「隠彰」という。これによって『観経』、『小経』には、隠顕の両意があるといわれる。こうして浄土三部経は、顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。

これを踏まえて『教行信証』化土巻・隠顕釈を読んでみて下さい。

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多・闍世の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

この訳については、親鸞会で教学的にはほぼ完璧と絶賛し、偽装本願寺布教師も好きな山邊習學・赤沼智善共著『教行信証講義』から紹介しておきましょう。

 『無量寿仏観経』を解釈せられた善導大師の御意見に依りて本経を考えて見るに、本経には顕の義と彰隠密の義の二面の意義がある。即ち一文に表裏の二義があるのである。彰は陰から顕わすこと、隠は顕に対して文の幽意を示し、密は如来の密義のこと。三字熟して顕義に対す。即ち経文の裏面を流るること、大地を流るる水の如くに、不尽の法水を迸〈ほとばし〉らせているというのである。

 その中、経の顕の義というは、行の方面から云えば定善散善の諸善万行を顕わしてあり、信の方面から云えば、上中下の三輩の機類に通じる自力の三心を開説してあるのがそれである。『観経』一部を表面から見れば、この自力の信行の外はない。然るに定善散善の二善、そしてその中の散善の内容たる三福九品の善根は、真実報土に往生する真因ではない。これら定散諸善を修める機類は、それぞれ根機が様々に分かれておるから、その起こす所の三心も各自の能力に応じて異なっている自力の三心であって、如来回向の絶対他力の一心でない。相対有限の信である。則ち如来が特に方便を垂れ給いて、自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。されば本経一部の顕説は、他力の三心に引入せしめんが為の方便たる定散二善であることが知られるのである。
 経の隠彰というは、本経は『大経』と同じく阿弥陀如来の第十八願の正意を彰わし、人々をして他力回向の一心に通入せしむることを演暢〈のべあか〉されたもので、諸機各別の三心ではなくして、如来回向の一心を開説せられた経典であるというのである。
 即ち提婆達多の教団に対する反逆、阿闍世太子の父王に対する悪逆が興法の縁となりて、釈尊は始めて出世の本懐を説くべき時期至れりと満足の微笑を彰わし給い、また我が子の悪逆によりて囹圄〈ひとや〉に幽閉せられた韋提希夫人は、これが求道の動機となりて釈尊の説法を冀〈こいねが〉い奉り、遂に如来の威神力によりて、広大なる諸仏の国々の中より、特に安楽世界を選ぶに至ったことが正因となりて、弥陀如来のやるせなき大悲の本願が、本経に於いて開説せらるるに至ったのである。これが本経の隠彰の実義である。

自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。」と、定散二善は聖道門の人を浄土門に誘引するための方便の善根と解説しています。高森会長の珍説とは大違いです。
この顕説と隠彰のところを見比べてみますと、韋提希は隠彰には出てきますが、顕説には出てきません。これはつまり、顕説の定散二善が韋提希のために説かれたのではないことを顕されているのです。

それは省略されただけだ

と強がりをいう愚か者がいるでしょうから、参考に『浄土和讃』観経讃9首を見てみましょう。

恩徳広大釈迦如来
 韋提夫人に勅してぞ
 光台現国のそのなかに
 安楽世界をえらばしむ

頻婆娑羅王勅せしめ
 宿因その期をまたずして
 仙人殺害のむくひには
 七重のむろにとぢられき

阿闍世王は瞋怒して
 我母是賊としめしてぞ
 無道に母を害せんと
 つるぎをぬきてむかひける

耆婆・月光ねんごろに
 是旃陀羅とはぢしめて
 不宜住此と奏してぞ
 闍王の逆心いさめける

耆婆大臣おさへてぞ
 却行而退せしめつつ
 闍王つるぎをすてしめて
 韋提をみやに禁じける

弥陀・釈迦方便して
 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅
 耆婆・月光・行雨等

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

釈迦韋提方便して
 浄土の機縁熟すれば
 雨行大臣証として
 闍王逆悪興ぜしむ

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし

   以上『観経』意

9首中8首が隠彰についてで、韋提希の名が何度も出てきています。それに対して最後の1首が顕説で、ここにはやはり韋提希は出てきていません。最後の一首は「定散諸機」が主語です。隠彰の「凡愚底下のつみひと」「逆悪」と対比されています。

韋提希にさせるために釈尊が定散二善を説かれた、とは親鸞聖人は全く考えられていないことがここでも判ります。
悪人である「凡愚底下のつみひと」「逆悪」には、念仏だけしか勧められていません。だから「他の方便なし」で、諸仏方が王舎城でドラマを演じられたことを「方便引入せしめけり」と仰っているのです。この「方便」は善巧方便です。

一方で、善人たる「定散諸機」に対しては、定散二善は「欣慕浄土の善根」「自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根」だから、「自力の三心ひるがへし 如来利他の信心に 通入せんとねがふべし」と、自力修善に拘らずに、早く18願を信じてくれよ、と親鸞聖人は仰っているのです。ですから、「定散諸機」に対して説かれた定散二善が、権仮方便ということなのです。

今回のエントリーは、カルト思考の人には、かなり難しいでしょうね。もちろん、”難しい”の意味は”不可能”ということではありませんので、お間違えのないように。

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2011年7月21日 (木)

『大無量寿経』『観無量寿経』も読んだこともなくて、善知識を演じられますか

極重の悪人である下品下生の往生について、前回、『観無量寿経』と善知識方の御文を挙げました。親鸞聖人は『唯信鈔文意』で更に詳細な解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

親鸞聖人も、下品下生の者が往生するのに、「善をしなければならない」ということは、全く仰っていません。念仏だけなのです。当たり前のことです。善をしようとも思わないのが、下品下生ですから、善を勧めて何を期待するのでしょうか?

真実の経典である『大無量寿経』三輩段の下輩は、

それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。

(現代語訳)

次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができる。

です。『大無量寿経』の下輩は、『観無量寿経』の下品上生・下品中生・下品下生に当ります。つまり悪凡夫のことですが、悪凡夫は「たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども」なのです。さまざまな功徳を積むことができない、善をすることができない者ということです。
高森会長が、我々には雑毒の善ができる、と断言していますが、雑毒の善ができれば功徳を積むことができますので、下輩ではありません。雑毒の善さえもできない者が下輩なのです。
高森会長も講師部員も、こんな基本的なことが全く判っていないのです。

雑毒の善のできない悪人が、浄土に往生したいと願って、善をせずに念仏1つで往生を遂げるのです。
浄土に往生したいと願うことも、善とは関係ないのです。

『顕真』6月号には、

後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。

と書いていますが、一体何のつもりでしょうか?
善をしなければ後生が苦にならず驚きもしない、と言いたいのでしょうが、『大無量寿経』『観無量寿経』を読んだことがない異安心・無教学の暴露でしょう。
平生から善をしていない悪人、善のできない悪人が、浄土往生を願うのです。大無量寿経』『観無量寿経』を読んでみなさい。
ですから、後生が苦になり驚く必要もありません。

全人類が極重の悪人と断言している割には、悪人の往生について何も知らないのです。

韋提希の場合はどうでしょうか?

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

と釈尊が定善・散善の話をされる前に、浄土往生を願っているのです。

また耳四郎は、強盗・放火・殺人を平気で犯してきた者であり、獲信後でさえも善に励むどころか泥棒さえ止められなかった根っからの悪人でしたが、法然上人の御説法を1度聞いただけで獲信した、と親鸞会でも認定しているではないですか。

善をしなければ、後生が苦にならず驚きが立たないなどと、馬鹿げた理屈を捻り出しただけのことです。
とにかく会員に善(金集め・人集め)をさせることができれば、理由など何でもいいのです。マインドコントロールの効いている会員を騙すことなど容易いこと、と高森会長も講師部員も、会員を弄んでいるだけです。

高森会長の言うことに、根拠も理論も何もありません。あるのは私利私欲のみです。無教学で善知識をいつまでも演じられると思ったら、大間違いですよ、高森会長。

黙っていては血圧が上がってお体に悪いと思いますので、いつでも反論してください。

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2011年7月20日 (水)

「親鸞聖人のみ教えに善のすすめは 本願寺 ない」は、当たり前でしょ

30年程前に、親鸞会は本願寺へ法論を仕掛けたものの反撃にあい、詭弁で誤魔化して本願寺に呆れられたのですが、その後に親鸞会が自信満々に主張していたことが、

これが論争点
 親鸞聖人のみ教えに善のすすめは
  本願寺 ない
  親鸞会 ある

でした。無教学丸出しです。
前回紹介しました『教行信証』行巻・念仏諸善比校対論

勧無勧対

(現代語訳)

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

これさえ親鸞会は知らないのです。親鸞聖人が諸仏は善の勧めはないとまで仰っているのに、親鸞聖人御自身が善の勧めがある、と教えられたと考える愚か者がいるかということです。
こういうと、

では悪をすれば救われるというのか

という愚問を親鸞会はしてきますが、それが自力だと以前にも言ったとおりです。”善をすれば救われる”と思うことと、”悪をすれば救われる”と思うことは、同じことです。親鸞会は自力が何か全く判っていないのです。

ところで、親鸞会が「親鸞聖人のみ教えに善のすすめがない、と本願寺は言っている」と断言して攻撃しているのに、「本願寺が善を勧めている、19願を勧めている」根拠を一生懸命捏造して喜んでいる愚か者がいますが、大丈夫かと心配になります。
高森会長以外にも高森会長と同じことを教える布教師が何人も本願寺にはいると言いたいのなら、唯一無二の善知識というのが嘘であったことを証明するだけです。ストレス発散のために便所の落書きブログを書いているのでしょうが、もう少し考えて書かないと、親鸞会の足を引っ張るだけですよ、と誰か諭してあげてください。

この親鸞会の敵なのか味方なのか自分でも判っていない人物が、何ヵ月も答えることのできない質問

『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

が、未だに理解できないのでしょう。
『観無量寿経』には、下品上生・下品中生・下品下生の往生が説かれてあり、平生も臨終にも善を全くせずに念仏1つで往生を遂げるのです。往生するのに、善が要らないのです。

全人類が下品下生と断言するなら、下品下生がどのようにして往生を遂げるのかくらいは知っておくべきです。

『観無量寿経』では

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
 そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

これを『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

(現代語訳)

『観無量寿経』の中に、<きわめて重い罪をかかえた悪人に、この他の手だてはない。ただ弥陀の名号を称えて、極楽世界に往生させていただくばかりである>と説かれている。

と教えられています。親鸞聖人は『正信偈』

極重悪人唯称仏

とあり、蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解説なされているのです。
極重の悪人がどうすれば往生できるかという質問に対して、簡潔明瞭に

極重悪人唯称仏

なのです。
これは極悪最下の人間の、しかも最悪の状況であってでも、念仏によって往生できることを釈尊はじめ、歴代の善知識方が教えてくだされているのです。

ですから、極重の悪人ではない人が平生から念仏の教えを聞いていたならば、なお往生できるのです。法然上人は『選択本願念仏集』

念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。

と教えられています。これは「黒田の聖人へ遣わす御文」の法然上人のお言葉、

罪は十悪・五逆のものむまると信じて、少罪おもおかさじとおもふべし。罪人なほむまる、いはむや善人おや。

と同じです。
往生するには念仏1つだから、諸善に心を留めるなよ、これが真宗の常識中の超常識です。

親鸞聖人のみ教えに善のすすめは
  親鸞会 ある

これでどれだけ笑われているか、高森会長も講師部員も会員も、考えてみたこともないのでしょう。
親鸞会の会員は『観無量寿経』を自分で読んでみてください。その時点で、”無二の善知識”よりも教学は上になります。

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2011年7月19日 (火)

韋提希が定善を試みたと説く聖教はない

300を超える当ブログのエントリーの中で、『観無量寿経』について相当の割合で述べていると思います。それは『観無量寿経』の内容は、創作アニメ王舎城の悲劇だと勘違いしている人が未だにいるからです。
2と1の違い、難しいの意味、善人と悪人は違う、こんな幼稚園で教えるような説明からしないといけないのですが、一応『観無量寿経』についてまとめておきます。

まず、『観無量寿経』には善人が登場します。それは頻婆娑羅王です。頻婆娑羅王は目連尊者から戒律を授けられ、阿那含と成っていますので、間違いなく善のできる善人でした。悪しかできない悪人ではありません。これくらいは判りますか?
詳しくは

釈尊はなぜ韋提希のもとへ行かれたのか?

に書きました。
この時点で、親鸞会の主張する

十方衆生=下品下生=逆謗の一機

の破綻していることが判ります。法然上人と親鸞聖人のお言葉でいえば、『勅伝』の

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

『教行信証』信巻

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

によって、智覚禅師は、上品上生の善人であったことも判ります。詳しくは

高玉・智覚は、みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

でも述べました。
このように善人が間違いなくいるのですから、『勅伝』にある法然上人のお言葉、

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

ももちろん正しいのです。『持名鈔』

如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

も正しいのです。当たり前です。私が勝手に

善のできる善人に定散二善を説かれた

と言っているのではありません。善知識方のお言葉に沿って言っているのです。

では、

釈尊は悪人の韋提希に定善をさせたのではないか

という間の抜けた反論を親鸞会はよくしてきますが、その聖教上の根拠を出せるかと言えば出せません。
昨年8月にO講師と法論した際にも出せませんでした。当ブログでは以下のところです。

「諸善には諸仏の勧めはない」との親鸞聖人のお言葉も知らないとは

「一切衆生必堕無間」を正当化するために、善知識方のお言葉を否定するO講師

また昨年10月のM講師(偽装本願寺布教師とは別人)との法論でも、根拠は出てきませんでした。それは、

M講師からの反論-三願転入の教え

M講師からの2回目の質問書(回答が一切無いもの)

にあります。
そして今回偽装本願寺布教師が反論として提示した根拠が、本願寺派末寺の説だけです。聖教上の根拠ではありません。
つまり、

どんなに頑張ってみたところで、韋提希が定善を試みたと説く聖教は無いのです。

ないから、間違いばかりと見下している本願寺末寺の説を必死に探し出してきて誤魔化すしか能がないのです。「念仏無間」という本願寺の僧侶が万が一いたとしたなら、

自力念仏では必堕無間と本願寺の僧侶も言っているではないか

と言うレベルでしょう。あほらしくて相手にする気もおこりません。

この邪説を正す根拠はたくさんありますが、中学生レベルでも判る法然上人と親鸞聖人のお言葉を出しておきます。

『選択本願念仏集』三輩章

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

(現代語訳)

諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

『選択本願念仏集』念仏付属章には、また以下のことも仰っています。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と教えられています。『教行信証』行巻には「念仏諸善比校対論」として

勧無勧対

(現代語訳)

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

と教えられています。簡単にいえば、

Q.定散二善は何のために説かれてあるのですか?
A.「諸行を廃して念仏に帰せしめんがため
  「念仏の余善に超過したることを顕さんがため

Q.諸仏方は諸善を勧められているのですか?
A.「念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

ここまではっきり法然上人・親鸞聖人が仰っているのに、念仏1つと思えない人がいるのです。聖道門の人達は、善に拘る訳です。それで善という権仮方便が必要になるのです。善知識方の仰せの通り、念仏1つで往生しようと願っている人、あるいは悪人に善を勧めるという理屈は通りません。それで、19願を勧められることはないのです。19願の実践を勧める珍しき高森会長と取り巻き連中に対して、19願を捨てよとしか真宗では教えません。当たり前です。

私は善導大師・法然上人・親鸞聖人のお言葉をいくつも出して説明していますが、親鸞会やそれを擁護する偽装本願寺布教師は、断章取義した1文か2文を示して曲解し、これら善知識方の言葉を否定して平気な外道の者達です。
言っている意味は判りますか?

それとこちらから提示した多くの聖教上のお言葉は無視し、こちらからの質問には全く答えられないということで、

1.高森会長・講師部員は「宿善すくなきもの」である。
2.『観無量寿経』によって、親鸞会の宿善論、三願転入の教え、善の勧めは論理的に破綻している。
3.龍樹菩薩・曇鸞大師が、御自身のことを「地獄一定」という意味で仰ったお言葉はない。法然上人も「地獄一定」は万人共通ではないと仰っている。
4.浄土門の人に19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はない。
5.誰も化土往生できないと仰った親鸞聖人のお言葉はない。
6.韋提希が定善を試みたと説く聖教はない。
7.十方衆生が逆謗の一機であるという意味のお言葉はない。聖者も善凡夫もいないという聖教上のお言葉はない。
8.定善・散善は、誰一人できないと仰った聖教上のお言葉はない。

9.”無常の虎の譬え”は、『仏説譬喩経』にはないし、聖教上にもない。

と議論は決着しました。もし反論があれば、高森会長・講師部員・会員を問わず受け付けます。ただし、2と1の違い、難しいの意味、善人と悪人は違うことも判らない幼稚な思考の方と、真宗の聖教上のお言葉を出せない方はご遠慮ください。

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2011年7月18日 (月)

当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」

偽装本願寺布教師は、何年経っても何の進歩もありません。すでに論破されて逃亡した内容を延々と繰り返すのみです。
”嘘も百回言えば真実になる”が、真実と思っているのでしょうが、相手にするのもあほらしくなります。

常没の衆生」=「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫

これくらいのことも理解できないのですから。

定散諸機」については一年以上前に

「定散諸機」とは

で述べていますし、昨年10月にも

愚かで哀れな講師部員

で述べています。『正信偈』

善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して

及び、『正信偈大意』

「善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪」といふは、浄土門の祖師その数これおほしといへども、善導にかぎり独り仏証をこうて、あやまりなく仏の正意を明かしたまへり。されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

は、「定散の機」と「五逆の機」とは別であることを示しています。これが同じだというのであれば、小学校で国語を習ってきてください。

昨年8・9月には

井の中の懲りない面々

でも解説した後、質問しました

・浄土門の人に19願を勧められた親鸞聖人のお言葉
・誰も化土往生できないと仰った親鸞聖人のお言葉

にも、未だに答えることができていません。なぜなら、そんなお言葉はないからです。そういえば誡疑讃を19願を勧められた根拠と言って、真宗会で笑われた人物もいましたね。
これらのお言葉は無いから三願転入の教えは根本から崩壊し、一切衆生必堕無間もカルトの教えで決着しています。その後言い訳をぐだぐだ言い続けて、幼稚園児のように駄々を捏ねられても面倒をみるつもりはありません。

善凡夫」と「悪凡夫」についても、何度も何度も述べた通りです。

「定散の諸機」「極重悪人」と「機の深信」

悪人正機も理解できない親鸞会

「汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎」との明恵高弁の言葉を知っていますか?

でも取り上げています。
なお、山辺習學・赤沼智善著の『教行信證講義』の意味も取り違えて喜んでいるようですが、

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)

でも紹介した

 弥陀を信ずると云ふことが、単に、一心帰命と発表せられた場合には、起らなかった問題が、この機の深信の発表によって起った。夫は此の機の深信が、凡夫のみならず聖者にも通ずるのであるかと云ふ問題である。これを凡聖通局論と称す。
 この問題は、見方によりては、甚だ有益にして、興味のあるものである。即ち言葉を換へて云へば、他力宗教の於ける聖者の意義とでも云ふべきである。所が一方他力教それ自身に於ても、龍樹、天親の二祖を菩薩と称して聖者の部類に入れてあり、そして二祖の著書の上にも、この機の深信が明示されていないために、この問題は、内外の聖者に対する興味あるものとなったのである。
 従って問題の起因は、甚だ簡単である。即ち聖者の意義である。自力の修道によりて得たる證りは、果して真正なる證りであるかと云ふことである。所詮聖者と称せらるる人々は、卓越した能力を以つて、凡人以上の高尚なる精神生活をしてゐても、其中心に迷ひの根の断ち切れてをらぬかどうかと云ふのである。聖道の教へにありては、盛んに衆生も佛も同一であると談じて、道を修めてをるけれども、或は天に向ひて、バベルの塔を築いてゐるやうな愚を演じてをるのではなかろうか。素より漸次に努力すれば、凡人以上の高い立場の上に立つことが出来るけれども、上れば上るほど、哀心は益々絶対に対して取りつくことの出来ぬ悩みがあるのではないか。若しその悩みを感ぜずして、自己の現在の立場を楽しみ、夫を自負し、夫を固執するならば、知らず知らず驕慢の煩悩に捕へられてゐると云はねばならぬ。強く云へば、人間として生れた以上は、純善無漏の聖者と云はるる人は一人もなく、皆、中心には迷ひの根切れのしない所がありはせぬかと云ふのである。龍樹、天親二祖の如きも、善導大師の如く、明瞭に機相を打ち出されてはないけれども、一心に如来に乗託せられたことに依りて見れば、或は罪悪の根低たる自我の真相に触れて、自力無功を自覚して、他力に帰せられたことかも知れぬ。聖者と凡夫の間には、境遇や思想の相違から、等しく自力無功を自覚するにも、其感味は種々に異ることであらうが、其自己の真相に触れる點に至っては、同一であるかも知れぬ。或は聖者の方が、自力の高い山上から叩き落ちる點に於て、一層明瞭に此機相を自覚するかも知れぬ。我聖人の胸中には、御自身の實験上から、此凡聖是一の思想をもつてをられたことは明らかであるように思はれる。

を国語の能力のある人が読めば、龍樹菩薩、天親菩薩は「聖者」であって、「凡夫」ではなく、ましてや「極重の悪人」でもないことを言っているのが判る筈です。
聖者と凡夫の間には、境遇や思想の相違から、等しく自力無功を自覚するにも、其感味は種々に異ることであらうが、其自己の真相に触れる點に至っては、同一である」を

「聖者」=「凡夫」
「定散諸機」=「極重悪人」
「善凡夫」=「悪凡夫」
「上根の機」=「下根の機」

などと理解するのは、日本語が判らないか、思考が異常な者の言うことです。
自我の真相」「自力無功」という機の深信においては「同一」であることと、「罪悪」が同じであることの違いが理解できぬのでしょう。
罪悪」について「聖者」が「悪凡夫」と同じなら、「自力の修道によりて得たる證り」はもともとないということで、聖道門の教えの否定です。『勅伝』の法然上人の救われる2つの場合について仰った

一には罪つくる時乗ずるなり。其故は、かくのごとく罪をつくれば、決定して地獄に落べし。しかるに本願の名号を唱れば、決定往生せん事のうれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。

二には道心おこる時乗ずるなり。其故は、此道心にて往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかたおこれども、いまだ生死をはなれず。故に道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはずたゞ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂べきとおもふ時に、他力本願に乗ずるなり。

を、地獄一定が万人共通の1通りと断言して、2chで

正常な脳

AとBの2つの場合がある。ということは、AかBの2通りに分かれる。
(当たり前過ぎて説明がいらない)

カルト脳の典型例

AとBの2つの場合がある。だからAしかないのだ。
(意味不明)

と笑われているのに、まだ判らないのですね。正常な思考の人から馬鹿にされて当然でしょう。
くどいようですが、悪人とは別に善人がいることを、釈尊も歴代の善知識方も仰っているのです。幼稚園ではあるまいに、善人と悪人とは違うことを一々説明する必要がありますか?

何度もいいますが、善知識方で聖道門の教えを否定された方はありません。聖道門は「悪凡夫」の機に合わないから、聖道門を捨てて18願に帰依せよ、と教えられているのです。
聖道門の教えを否定する外道の者は、外道同士で罵り合えばよいでしょう。

また『観無量寿経』の隠顕については

『観無量寿経』の隠顕

でも述べた通りです。過去に論破されて答えられなかったものを、わざわざ蒸し返して恥の上塗りをしたいのでしょうか?

追及されて困った時には、創作アニメの韋提希が根拠になります。都合のいい論文と都合のいい末寺の説も持ち出して、聖教上の根拠を出せない情けなさ。

断章取義、改竄にはうんざりしています。聖教上の御文で話をしなさい。

とはいうものの、記憶力も読解力も思考力も著しく低く、道徳心に至っては0の人物とは議論は成立しません。

親鸞会内でも軽んじられ、誰かに構ってもらいたく仕方がないのはよく判りますが、記憶力も読解力も思考力も、せめて世間並にまで引き上げて、世間並みの道徳心を持って、過去のエントリーをそれぞれ1万回以上読んだ上で、的を射た内容をブログに書くならば、当ブログで構ってあげてもいいですがね、偽装本願寺布教師さん。

それと”無常の虎”の根拠もまだ回答してもらっていませんが。

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2011年7月17日 (日)

「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」

前回のエントリーに偽装本願寺布教師は反論できませんでした。「かたし」の意味さえ知らないのですから仕方ないと思います。この件でコメント欄に2chで書かれてあったことを教えて頂きました。抜粋すると

正常な脳

AとBの2つの場合がある。ということは、AかBの2通りに分かれる。
(当たり前過ぎて説明がいらない)

カルト脳の典型例

AとBの2つの場合がある。だからAしかないのだ。
(意味不明)

正常な脳

「かたい」=難しい=できることもある

カルト脳

「かたい」=不可能=絶対にできない

偽装本願寺布教師もここまで馬鹿にされては可哀相な気もしますが、自業自得でしょう。

さて、九品については善導大師のお言葉に沿って、昨年11月に偽装退会者と議論になり、偽装退会者が逃亡したのですが、そのことを偽装本願寺布教師は忘れてしまっているようです。同一人格でさえ過去のことは忘れるのですから、”別人格”を装っているなら尚更覚えていないのでしょう。

当時のことを御存知ない方は、前回挙げたエントリーを読まれれば宜しいかと思いますが、長文ですので簡単に整理しておきます。

『玄義分』では、九品について

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

となっています。

上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。
以上が善凡夫です。

一方で下品上生・下品中生・下品下生については

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

となっていまして、

下品上生・下品中生・下品下生が、無善造悪の凡夫です。これが悪凡夫です。

これら九品をまとめて

またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、九品をして差別せしむることを致す。
(中略)
いまの時の善悪の凡夫をして同じく九品に沾はしめんと欲す。

と善導大師は仰っています。

つまり、
仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」=善のできる凡夫と悪しかできない凡夫

ということです。実に簡単な国語の問題です。
どこをどう読んだら、

仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=下品下生

となるのでしょうか。
かたし」の意味も、現代語さえ理解できない高森会長や講師部員に、古文が理解できると期待する方が間違っています。

この基本的なことが全く判らないのに、19願意など到底判る筈もありません。

高森会長が消し去りたいmixiでの三願転入の法論ですが、そこで根本的に間違っているのが、19願の対機についてでした。
上記の『観無量寿経』の九品の違いが判れば、善は善のできる人に勧められたのであって、善のできない悪人には善が勧められていないことが判ります。では、19願は何の為に建てられたのかということについて、親鸞聖人が仰ったのが『教行信証』化土巻・要門釈の最初のお言葉です。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。

ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

これが正しく理解できれば、19願の対機が判ります。mixiでは初期の段階でこのお言葉が出されて、以後高森会長も弘宣部もこうへい氏も、まともに反論できませんでした。その内容を紹介しておきます。

>この「群生海」が、聖道門の人に限る、という根拠は見当たりません。
>あれば聖人のお言葉でお示しください。

などと書かれていますが、なぜ要門釈をわざわざ断章取義して解釈なされるのでしょうか。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、
虚なるものははなはだもつて滋し。

あなたが引用した要門釈のお言葉の前半部分がこれです(僕も引用したとおりです)。ここが抜けているから、そのようなおかしな疑問が出てくるのです。
このお言葉の意味は、

外道の人が半字教(小乗仏教)、満字教(大乗仏教)、権教(四車家の立場から聖道門内の三乗)、
実教(四車家の立場から聖道門内の一乗)、つまり堅出堅超に入るといえども、真実のものは
はなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。

そして次の

ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく
諸有海を化したまふ。

に続くのです。
ですから、要門釈のお言葉で「聖道門の人が対象」と親鸞聖人はハッキリ仰っているのです。

こうへいさんが引用された真門釈の「それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。
のお言葉についてですが、宗祖はこの一文では20願を勧められながらも、この真門釈の最後(真門決釈)には、
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。
みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、
仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

と、真門自力念仏の行者を深く悲嘆されているのですが、
これは要門の機を調育して弘願真実に入れしめるために暫く誘発されたと
先師方は解釈しておられます。つまり、これもあくまで暫用還廃(暫く用いて還って廃す)の法門です。

大経和讃に言われる、
定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ をしえざれども自然に 真如の門に転入する」の意味で仰ったものと思われます。
20願を勧められた箇所はここだけです。御本典以外の他の御著書にも見当たりません。
ですから、真門釈で20願を勧められた部分はそれだけ慎重に解釈しなければなりません。
一方で、19願を勧められたところは御本典やその他の御著書に一ヶ所もありません。

元来、宗祖が19願を勧められなかったならば、こうへいさんが主張されるが如きの
「三願転入の教え」
なるものは、根本から成り立ちません。

また、こうへいさんはさかんに「19願の対機は十方衆生なのだから…」と強調して言われますが、
まず『真宗大辞典』(永田文昌堂)で「十方衆生」の項の説明をひくと、こうあります。

四十八願中の第十八・第十九・第二十の三願には十方衆生とある。十方世界に棲息する無数の生類を
総称して十方衆生という。即ち人類・天衆・禽獣・虫・魚等を総括してかく呼んだのである。
第十九・第二十の両願には共に十方衆生とあって、広く一切衆生を救わんと譬える如くなれども、
立願の精神を究れば、第十九願は修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り、
第二十願は植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る故に、漏らす所多々あれども、
第十八願は十方衆生智愚善悪を問わず修行の堪不を論ぜず、皆ひとしく全く仏力にて救わんとする
誓願なるが故に、一の衆生として漏るることがない。そこで第十八願の十方衆生の言は一衆生をも
漏らすことなくその意が至極広いが、第十九・第二十の十方衆生の語は漏らす所多きが故に、
その意は狭いとする

逆から申しますと、18願文の最後に「唯除五逆誹謗正法」とあるのは、抑止門の意といわれていますが、
これは抑止する必要があるから言われている事です。18願における十方衆生とは逆謗の機をもひろく含むのです。
もし、18・19・20の三願の「十方衆生」が同じ意味ならば、三願ともに「唯除五逆誹謗正法」となければならないのです。ところが、19願・20願にはありません。必要が無いからです。
19願の対機は十方衆生のうち「修諸功徳に堪えて至心に発願し往生せんと願う者に限り
20願の対機は十方衆生のうち「植諸徳本に堪えて至心に回向し願生する者に限る」のです。

断章取義の親鸞会では、総合的に文章を読むことができないのです。親鸞会の理論は、断章取義で成り立っていますので、親鸞会が示した御文の前後を読めば、そのトリックを簡単に見破ることができます。聖教でさえ断章取義するのですから、論文の断章取義など朝飯前のことです。このことは、

「親鸞会のトリック」
絶対に議論に勝つ人

を読まれれば、親鸞会の手口がお判りいただけるでしょう。
19願の対機については「親鸞会の邪義を正す」にまとめてあります。

”三願転入の教えの誤り1”

会員との問答(19願・諸善・方便)

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2011年7月16日 (土)

対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」

親鸞会では、対機説法・応病与薬という言葉は知っていますが、意味を知りません。

存覚上人の書かれた『持名鈔』には、

薬をもつて病を治するに、かろき病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。されば『選択集』のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。

と教えられています。病に応じて薬を与えるのが良医です。良医と同じように、仏は機に応じて法を説かれたのです。上根の機、つまり善人には諸行を授け、下根の機、つまり悪人には念仏を勧められているのです。悪業の深い末世の凡夫は、念仏以外には救われる手立てがないのです。それを法然上人が『選択本願念仏集』の中で「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。」と教えて下されているのです。

上根の機下根の機と説かれている法が違う、それが対機説法であり、応病与薬というのです。それが『勅伝』の

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

ということです。

またいつも紹介していますように、これは『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と同じことです。

この明快な論理が理解できないのが、親鸞会や偽装本願寺布教師です。

十方衆生は逆謗の一機

という妄想から抜け出すことができないから、自分の妄想に近い論文をさがしだして喜んでいる御粗末な思考しかできないのです。

法然上人は「黒田の聖人へ遣わす御文」の中で、

罪は十悪・五逆のものむまると信じて、少罪おもおかさじとおもふべし。罪人なほむまる、いはむや善人おや。

と書いておられます。このように悪人と善人を法然上人は常に分けて教えておられます。これは『歎異抄』

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

と矛盾している訳ではありません。先ほどの『持名鈔』及び『選択本願念仏集』のお言葉を読んでいただければお判りになると思いますが、重い病を治す薬ならば、軽い病はなお治すことができるのです。しかし、病の軽い人は重い病を治す薬を飲もうとはしませんから、「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」になるのです。

ここまで説明しても、カルト思考に凝り固まっていると、上根の機、善人、病の軽い人が存在しないとしか理解できないのでしょう。同じことを何度も何度も説明するのも、読者の皆さんに失礼ですから、善人、悪人については

M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です

『玄義分』の「いまの時の善悪の凡夫」の意味は判りましたか?

八万四千の法門と機との関係が判りますか?

M野氏ではないと否定される方へ。質問に答えて下さい。それと世福を知っていますか?

こちらの質問は無視し、せっかく善導大師のお言葉で説明したのにそれも無視ですか?

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

に詳しく書いてありますので、そちらを御覧下さい。

補足すれば、定善について善導大師は『定善義』の中で

万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

と教えられています。簡単に言えば、定善をできる人もあるが、現実的には殆どの人はできないということです。誰も定善ができないなどとは仰っていません。
親鸞聖人はこれを承けられまして『教行信証』化土巻

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。

と教えられました。善導大師が定善のところで仰った「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」を親鸞聖人は散善にまで適用されているのですが、日本語の判らない人には、「かたし」が”可能性0”としか読めないのです。「かたき」は文字通り難しいのであって、”可能性0”ではありません。

親鸞会の好きな『浄土和讃』

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

を善知識にあうこと、教えること、よく聞くこと、信じることの”可能性が0”とは流石に理解していないと思いますが。

実際に善導大師は条件付きで定善について「この定かならずすなはち得やすし」と仰っているのですから、散善ならなおさらできる凡夫もあるのです。しかしながら、定善も散善も”難しい”ので、定善・散善に心をかけることなく、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」だぞ、と歴代の善知識方は教えておられるのです。

これを、極重の悪人に善を勧められている、と理解するのは、どれだけ知能が低いのでしょうか?驚嘆に値します。

それにしても日本語のレクチャーまでしなければならないとは、情けないことです。私の言っていないことまで言ったことにして、そんな卑怯な手を使わなければブログも書けないのですから、哀れなものです。更には偽装本願寺布教師のブログは、偽装退会者の書いているブログと全く同じ論理、根拠ですから、偽装も下手なのです。

なおこちらの質問には答えられないということで、

(再掲)

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

それと、

「地獄一定」が万人共通

とまで断言するのであれば、龍樹菩薩が御自身のことを地獄一定と仰ったお言葉を出してからにしなさい。曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

も出しましたが、それを「地獄一定」と誰でも解釈できる根拠を出してみなさい。

こんな簡単な質問にも答えられないと言うことは、

1.高森会長・講師部員は「宿善すくなきもの」である。
2.『観無量寿経』によって、親鸞会の宿善論、三願転入の教え、善の勧めは論理的に破綻している。
3.龍樹菩薩・曇鸞大師が、御自身のことを「地獄一定」という意味で仰ったお言葉はない。

ということで決着です。これ以上議論の余地はありません。

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2011年7月13日 (水)

18願の「十方衆生」の御心

これまで述べてきたように、親鸞聖人は18願の救いには、洩れるものがないことを『涅槃経』を多用して証明されたのです。高森会長のように、

「十方衆生」とあるから、すべての人のことだ

という単純な理屈で説明された箇所はありません。前にも言いましたように、「十方衆生」というお言葉は、他の経典にもありますし、同義の「一切衆生」も多くの経典にあります。従って、高森会長のような理屈をいくら並べてみたところで、聖道門の学僧は聞く耳を持たないでしょう。
それで親鸞聖人が注目されたのが、「唯除五逆誹謗正法」だったのです。それが『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

なのです。つまり、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。

この内容が、一年前のmixiでの法論の中心でした。高森会長がこうへい氏(H田講師)の代わりに原稿を作ってまで臨んだ法論でしたが惨敗し、その衝撃は、トピックまで消去せざるをえないほどでした。尤も消去したところで、多くの人がその内容を保存していますので、今更誤魔化すことはできません。そのあたりが、浅知恵なのでしょう。

さて、『大無量寿経』の18願は、異訳の経典を参照することで、親鸞聖人の仰った意味がよりはっきりします。

親鸞聖人が『教行信証』行巻に『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介されています。

 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。

ここに紹介されている『大阿弥陀経』と『平等覚経』の御文は、共に、前半が『大無量寿経』の17願で、後半が『大無量寿経』の18願にあたります。
『大無量寿経』18願の「十方衆生」について『大阿弥陀経』では

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類

であり、『平等覚経』では

諸天・人民・蠕動の類

と表現されています。人間だけではなく、虫までが含まれています。親鸞聖人が『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介された理由の1つが、『大無量寿経』18願の「十方衆生」の御心を明らかにすることであったのです。生命のあるもので、洩れているものは皆無なのです。

一方で、聖道門の学僧が18願をどのような願と見做していたのかを知らないと、親鸞聖人の御心が理解できないと思います。法然門下を弾圧する直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあります。「下機を誘ふるの方便なり」とは、悪人を仏法に誘う方便ということです。念仏往生の願である18願が真実などとは全く思っていないのです。
また法然上人がお亡くなりになられた後、明恵高弁が書いた『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあります。法然上人の教えられた念仏往生の願とは、「下劣根機の為」であって、「天下の諸人」のためのものではない、という考えです。
つまり、18願は悪人を仏法に導くための方便の願であり、善人には関係ない願であるということです。
悪人は、

18願 ⇒ 19願 ⇒ 聖道門

という道程を通ると聖道門では考えられていたのです。もちろん善人である自分達が18願から始めるなどという発想は、聖道門の人にはありませんでした。

これを逆手に取られたのが、親鸞聖人の三願転入なのです。
善人は、

聖道門 ⇒ 19願 ⇒ 18願

という道程があり、善人のために聖道門、19願という方便の教えが説かれているということです。悪人や18願をすでに信じている人が、聖道門や19願から始めるという理屈も、根本的におかしな話です。

親鸞聖人は、18願はどんな悪人でも洩れることなく救われることを『教行信証』信巻で明らかにされ、化土巻で聖道門の考えの誤りを説明されます。

その結論が、『教行信証』化土巻・要門釈

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

です。「極重悪人」には18願しか救われる手立てのないことは既に、親鸞聖人は説明済みですが、善人である「定散の諸機」も結局は「極重悪人」同様、18願しかないのだ、と仰ったお言葉です。
その証明として、親鸞聖人御自身の体験を三願転入として述べられたのです。

要するに、『教行信証』を通して親鸞聖人は、18願の「十方衆生」はどんな悪人も洩れなく救われるだけでなく、どんな善人も18願によらなけば救われない、という善人悪人関係なく救われる18願の説明に終始されたのです。
それは『教行信証』を書かれた目的が、法然上人の『選択本願念仏集』の正しさを立証するというためでありましたので、至極当然なことです。

それを、当時の時代背景も知らず、『選択本願念仏集』に書かれてあることも知らず、もちろん『教行信証』を読んだこともない高森会長と講師部員に、親鸞聖人の教えが理解できる筈がありません。
大沼師の著書を断章取義して、無二の善知識を気取っているお山の大将に、いつまでも尽き合って人生を無駄にしたい会員はどうしようもありません。しかし、そんな会員も他人を騙すことだけは止めてもらいたいものです。

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2011年7月11日 (月)

「悉有仏性」と「必堕無間」の違いが、真宗とカルトとの違い

一切衆生悉有仏性」は大乗仏教における重要な教えであり、親鸞聖人の教えの基本でもあります。

では、仏になれないという闡提と「一切衆生悉有仏性」との関係はどうなっているのか、という問題について、『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて以下のように教えられています。

またのたまはく、「迦葉菩薩まうさく、〈世尊、仏性は常なり、なほ虚空のごとし。なんがゆゑぞ如来説きて未来とのたまふやと。如来、もし一闡提の輩、善法なしとのたまはば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あにまさに愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずや〉と。仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなほ虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いはゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性を見ることを得ん。このゆゑにわれ仏性未来といへり。善男子、あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす、色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆゑに仏性と説く〉と。〈世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときのもの、なんがゆゑぞ説きて一切衆生悉有仏性とのたまへるや〉と。〈善男子、衆生の仏性は現在に無なりといへども、無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、《衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし》と説く。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたまたかくのごとし。なんぢいふところの一闡提の輩のごとし、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業、かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。なにをもつてのゆゑに、因果を求めざるがゆゑなり。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたまたかくのごとし〉」と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。
 「迦葉菩薩が、<世尊、仏性が常住であって、虚空のようであるのなら、どうして仏性を未来のこととして説かれるのですか。また、一闡提のものには善がないと仰せになるなら、一闡提のものは、友達や師匠や父母や親族や妻子に対して、愛する心がおこらないのでしょうか。もし愛する心がおこるのなら、それは善ではないでしょうか>と申しあげた。
 仏が、<よろしい、善良なものよ、それはよい問いである。仏性は虚空のように常住であって、過去でもなく未来でもなく現在でもない。しかし、すべての衆生には三種の身がある。いわゆる過去・未来・現在の身である。衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができるであろう。だから、わたしは仏性を未来のことといったのである。善良なものよ、仏は衆生のために、あるときは因のことを果で説き、あるときは果のことを因で説く。だから、経には、命は食をとった結果であるが、命という結果を食において説き、また物質は感覚によって認知された結果であるが、物質という結果を感覚において説く。そのように衆生も未来にはその身が清浄であるから、仏性と説くのである>と仰せになった。
 そこで迦葉菩薩は、<世尊、お説きになられた通りであります。そうであるなら、すべての衆生にはことごとく仏性があると、どうして説かれるのですか>と申しあげた。
 釈尊が次のように仰せになった。<善良なものよ、衆生の仏性は、現在には見ることはできないけれども、ないということはできない。虚空のようである。その本性はとらえることができないけれども、現在にないとはいえない。すべての衆生は、また無常であるけれども、仏性は常住であって変らない。だから、わたしはこの経に、≪衆生の仏性は、内にあるのでも外にあるのでもなく、それは虚空のようである≫と説くのである。内にあるのでも外にあるのでもなく、虚空のように存在するのである。内とか外とかいうのなら、虚空のようだといっても、一であるとも常住であるともいうことができず、すべてのところに存在するということもできない。虚空は、また内にあるのでも外にあるのでもないけれども、すべての衆生にことごとくある。衆生の仏性もまた同じである。
 そなたのいう一闡提のものなどは、その身心におこすすべてのはたらきも行いも、それらはことごとくよこしまなものである。なぜなら、因果の道理を信じようとしないからである。善良なものよ、訶梨勒は、根も幹も枝も葉も花も実もすべて苦いようなものである。一闡提のものの行いもまたその通りである>」

やはり空で説明されています。罪悪も信心も仏性も、仏も浄土さえも、空なのです。固定の形にこだわる有の見でしか考えられない親鸞会には、到底理解できないことでしょう。
なお「訶梨勒」とは、インド・インドシナ地方に産する果樹のことです。

更には、この少し後に

あるいは説きて犯四重禁、作五逆罪、一闡提等、みな仏性ありといふことあり

(現代語訳)

あるときは、四重禁戒を破ったもの、五逆罪を犯したもの、一闡提などにも、みな仏性がある、とお説きになるのです

と、五逆の者も、それどころか仏になれないという闡提でさえも、「仏性」があると教えられているのです。もちろんこの「仏性」とは、仏になれる性質が衆生の中にあるということではありません。それが「衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし」です。具体的には、『教行信証』信巻・信楽釈に『涅槃経』を引かれて

一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。

(現代語訳)

すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。

とありますように、「一切衆生」が他力の信心を阿弥陀仏から賜わるから、「一切衆生悉有仏性」なのです。二種深信がここに集約されています。「自力無功・他力全託」ですが、異安心のカルト思考では理解できないでしょう。

このように親鸞聖人が『教行信証』に『涅槃経』を多く引かれているのには、阿弥陀仏の18願に誓われた「十方衆生」には、洩れる者がいないことを証明されるためであったのです。阿闍世という具体的例を挙げて、五逆の者が救われることを示され、仏教を求める気持ちのない闡提の者でさえも18願の「十方衆生」に入っていることを親鸞聖人は、示されているのです。
それが「唯除五逆誹謗正法」という18願文中のお言葉であると、『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と教えられているのです。
更には『唯信鈔文意』でまとめて

仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり

と仰っているのです。仏性も如来も「微塵世界にみちみちたまへり」なのです。遠くに信心があるのでもなく、遠くに阿弥陀仏がおられるのでもありません。親鸞会では、阿弥陀仏と我々との間に善知識がいると教えますが、とんでもないことです。阿弥陀仏、他力の信心と、我々との間には何物も介在しないのです。会員と高森会長との間には大きな隔たりがあり、高森会長の更に向うに阿弥陀仏がましまして、会員から遠く離れた場所から阿弥陀仏がある時に他力の信心という物柄を我々に届けてくださる、と考えているから、信心が頂けないのです。阿弥陀仏の中に我々がいる、仏性、他力の信心の中に我々が包み込まれている、それが判ったことを他力の信心を獲たというのです。ですからいつでも他力の信心を獲られるのです。これと無帰命との違いが、有の見に凝り固まった親鸞会には判らないのです。

以上のように、親鸞聖人が強調されていることは、「一切衆生悉有仏性」ということです。その対局にある「一切衆生必堕無間」を親鸞聖人が教えられたことなどありません。異安心・邪義以外の者に対して、蓮如上人が「地獄」と仰る場合でも、

地獄に堕ちる者までも洩れなく救いたもう18願

ということです。本音も建前も、文上も文底もこれ以外にはありません。

お前たちは必ず地獄に堕ちるぞ

などという教えもお気持ちも、善知識方には全くないのです。そこを履き違えて、「地獄」という言葉を探し出して

これこそが「一切衆生必堕無間」の根拠だ

というカルト思考しかできないのが、親鸞会なのです。教えの方角が違うから、親鸞会の会員にとっては、真実信心は夢幻でしかないのです。

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2011年7月 8日 (金)

高森会長の随邪意説

罪悪もその報いも固定不変という有の見にとらわれた高森会長には、『涅槃経』も『教行信証』も全く理解できないことです。もちろん共に読んでいないから、それ以前の問題ですが。

さて前回の続きです。

 大王、たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。
果報を受くるもの、これを名づけて有とす。空見の人はすなはち有にあらずとす。有見の人はすなはち無にあらずとす。有有見のものはまた名づけて有とす。なにをもつてのゆゑに、有有見のものは果報を得るがゆゑに。無有見のものはすなはち果報なし。常見の人はすなはち非有とす。無常見のものはすなはち非無とす。常常見のものは無とすることを得ず。なにをもつてのゆゑに、常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることを得ず。この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息に名づく。出入の息を断つ、ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす〉。{乃至}

(現代語訳)

 王よ、またたとえば、涅槃が有でもなく無でもなくて、しかも有であるようなものである。殺害もまた同じであり、有でもなく無でもなくて、しかも有なのである。慚愧の心がある人には有ではなく、慚愧の心がない人には無ではないのであって、その報いを受ける人からいえば有なのである。また、すべては空であると知った人には有ではなく、すべては有であると考える人には無ではないのであって、この有の考えにとらわれた人からいえば有なのである。なぜかというと、有の考えにとらわれた人は報いを受けるからである。有の考えにとらわれない人は報いを受けない。また、涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人には有ではなく、それをさとらない人には無ではないのであって、涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることはできない。なぜかというと、変ることなく存在していることにとらわれている人には悪い行いの報いがあるからである。だから、涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることができないのである。このようなわけで、有でもなく無でもなくて、しかも有なのである。王よ、衆生とは呼吸するもののことである。呼吸を断つから殺害というのである。衆生の本来は空であるから殺害も空であるが、仏がたも世間の考え方に合せて、殺害と説くのである>(中略)

有の見の間違いを徹底的に正されて、空で説かれています。仏教とは、空の判らない凡智の遠く及ばない教えです。それが自覚できると『歎異鈔』後序

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。

の親鸞聖人のお言葉になるのです。前回も言いましたが、これは親鸞聖人の謙遜ではありません。自己の浅智が知らされれば、

真実を説き切っている

などという言葉など、正しい信心からは出てきようがありません。この不遜な言葉は、高森会長の邪心によって出てきた言葉であることは間違いありません。「無慚愧のもの」とは、高森会長のことでしょう。

最後の「諸仏、俗に随ひて」が随他意ということです。仏は、自らの本意に随って説かれる随自意説と、相手の意向や素質能力などに応じて説かれる随他意説、更には、仏がみずからの意に半ば随い、相手の意向や素質能力に半ば随う随自他意説とがあります。
それについては『涅槃経』に説かれていますが、『教行信証』真仏土巻にも引かれています。

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「わが所説の十二部経のごとし。あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。{乃至}善男子、わが所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。なにをもつてのゆゑに少見と名づくるや。十住の菩薩は首楞厳等の三昧、三千の法門を得たり。このゆゑに了々としてみづから阿耨多羅三藐三菩提を得べきことを知るも、一切衆生さだめて阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず。

このゆゑにわれ十住の菩薩、少分仏性を見ると説くなり。善男子、つねに一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆へるがゆゑに見ることを得ることあたはずと。わが説かくのごとし、なんぢが説またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来あるときは一法のためのゆゑに無量の法を説く」と。{抄出}

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「わたしが説いた十二部経には、あるいは仏自らの意にしたがって説いた教えがあり、相手の意にしたがって説いた教えがあり、あるいは自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えがある。(中略)

 善良なものよ、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くが、このように説くのを相手の意にしたがって説いた教えというのである。なぜ少ししか見ないと説くのか。第十地の菩薩は首楞厳三昧などの三昧を得、すべての教えに通じている。そのため、明らかに自分がこの上ないさとりを得るということは知っているが、すべての衆生がこの上ないさとりを得るということは知らない。このようなわけで、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くのである。善良なものよ、わたしは常にすべての衆生には仏性があると説く。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生は、仏性が途切れることもなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生にはことごとく仏性があるが、煩悩におおわれているから見ることができないのである。このように説くのは、わたし自らの意にも、そなたたちの意にもかなっている。これを自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えというのである。善良なものよ、如来は一つのことを明らかにするために数限りない教えを説くことがある」

『涅槃経』に説かれていることは、空に基づいていますので、かなり難しい内容ですが、要するに、罪悪やその報いについて固定的に捉えることは有の見で間違いであり、空が真実であるということです。ただし、随自意説の空で説いても有の見にとらわれている人には判らないので、随他意説で罪悪やその報いを単純な道理で説かれることもあるのです。たとえて言えば、日本の法律で殺人罪は死刑ですが、その動機、背景、精神状態、反省の度合いなどによって、無罪になることも執行猶予がつくことも無期懲役になったりすることもありますが、それと似ています。

以上のことが判れば、仏教で説かれる因果の道理も、親鸞会で説明しているような単純なものでないことが御理解いただけると思います。
高森会長がよく説法で言っていた

1人殺して1回殺されるなら、10人殺しても1回しか殺されないのでは理屈に合わない。これが信じられる人は、1日働いて1万円もらえるのに、10日働いて1万円しかもらえなくても納得できる人だ

も、有の見です。働いたことのない高森会長には理解不能でしょうが、世の中のことでも、1日働いて1万円でも、10日働いて1万円しかもらえないことが現実にはあるのです。その逆もあります。身近な例で言えば、親友部では残業手当は強制的に放棄させられているのですから、1日8時間働いても、1日24時間働いても同じ金額しかもらっていないではないですか。

高森会長のやっていることは、自分の言っている”因果の道理”からも外れているのですから、お笑いです。

さて『涅槃経』に従って随自意説随他意説随自他意説をまとめると

随自意説……一切衆生悉有仏性
随自他意説……一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆へるがゆゑに見ることを得ることあたはず
随他意説……仏になれない闡提の者がいる

ということです。
なお闡提については

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(五逆・謗法・闡提と必堕無間)

でまとめてますので、そちらを御覧下さい。
ところが高森会長の教えていることは、随他意説を拡大解釈して

一切衆生=逆謗闡提=必堕無間

とカルト教義にまでネジ曲げていますが、聖教のどこをどう読んでも、こんな解釈などできる筈がありません。釈尊、親鸞聖人の仰せを否定して、こんなことを断言できる高森会長は、釈尊や仏方よりも遥かに優れた

古今東西の唯一無二の善知識

なのでしょう。ただ、仏教でも真宗でもないのですから、高森教と名乗りましょう。

会員は、高森会長の邪心に随った随邪意説をこれでもまだ信じますか?

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2011年7月 6日 (水)

善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり

『教行信証』信巻には、『涅槃経』に説かれた阿闍世の回心について、長々と引文されています。もちろん『涅槃経』で省略されているところもありますので、省略されずに引文されている部分は親鸞聖人が重要視された部分ということです。
前回の続きです。

 大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。

多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯せりと記せず。この人の所作三悪に至らず。もし還つて心を得ば、また犯といはず。王もと国を貪してこの父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟しをはりて、心に悔恨を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

 王よ、衆生の錯乱に総じて四通りがある。一つには貪欲によるもの、二つには薬によるもの、三つには呪われたことによるもの、四つには過去の行いによるものである。王よ、わたしの弟子たちの中にも、この四つの錯乱がある。

錯乱したものが多くの悪をつくったとしても、わたしはこの人が戒律を犯したとはしない。錯乱したものが作った悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。もし正気に戻ったなら、そのものが戒律を犯したとはいわないのである。王は、かつて国王の位につきたいという心から父王を殺害した。それは貪欲による錯乱からしたのであるから、どうして罪になろうか。王よ、人が酒によって母を殺し、酔いが醒めてから後悔するようなものである。この行いもまた報いを受けないものと知るがよい。王は今貪欲による錯乱から王を殺害したのであって、正気でしたことではない。正気でしたことでないのなら、そうして罪になろうか。

現在の日本の裁判とも共通するものがあります。異常な精神的状態であった場合には、罪として問われないということです。したがって、正常な判断などできる筈のない赤子までも、五逆罪・謗法罪を生まれながらに造っていると脅す高森会長の教えは、仏教とは相容れません。外道以外の何物でもありません。

更に釈尊は続けられます。

 大王、たとへば幻師の四衢道の頭にして、種々の男女・象・馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、たとへば山谷の響きの声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂へり、有智のひとはそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨あるが、詐り来りて親付するがごとし。愚痴の人は謂うてまことに親しむとす、智者は了達してすなはちそれ虚しく詐れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂はん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂はん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。大王、人の夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、われみなこれを了れり、すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとへば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざれば、すなはちまた酔はざるがごとし。また火と知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出づるときにおいて種々の罪を作る、月の出づるときにおいてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。{乃至}

(現代語訳)

 王よ、たとえば幻術師が、街の四つ角でさまざまな男女、象や馬、飾り物や衣服などの幻を見せるようなものである。愚かな人はそれを真実と思うが、賢い人は真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また山びこのようである。愚かな人は真実の声と思うが、賢い人はそれが真実の声ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また怨みをいだいているものがいつわって親しげに近づいてくるようなものである。愚かな人は本当に親しくなったように思うが、賢い人はそれが嘘いつわりであると知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また人が鏡を持って自分の顔を見るようなものである。愚かな人はそれが真実の顔と思うが、賢い人はそれが真実の顔ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また逃げ水のようである。愚かな人はこれを水であると思うが、賢い人はそれが水ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また蜃気楼のようである。愚かな人は真実と思うが、賢い人はそれが真実のものではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王世、また夢の中で五欲の楽しみを受けるようなものである。愚かな人はこれを真実と思うが、賢い人はそれが真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。

 王よ、殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方もわたしはすべて知っているが、わたしに罪があるのではない。王が殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、たとえば人が酒についてよく知っていても、のまなければ酔わないようなものである。王もまた同じである。殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、ある人が太陽の出ているときにはさまざまな罪を犯し、また月の出ているときには盗みを働き、そして、太陽や月が出ていないときには罪を犯さないとしよう。この場合、太陽や月によって罪を犯すけれども、しかしこの太陽や月には罪があるのではない。殺害もまた同じである。(中略)

凡夫が真実と思うことと仏が真実と知っておられることとは別の事であるということです。それは、殺生を含む罪悪についてもそうです。人の行為について、それが罪になるのかならないのか、凡夫の考えていることが間違っていると釈尊は丁寧に教えてくださっています。
何をしても、

それは五逆罪だ、謗法罪だ、無間地獄に堕ちる罪だ

と何かの1つ覚えのように言いふらしている高森会長や講師部員は、この間違った考えの典型です。何も判らないのに判ったように振舞って、会員を脅していることの方が余程恐ろしい罪です。

罪の本質について仰ったのが『正像末和讃』悲歎述懐讃

罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

(現代語訳)

罪業はもともと形がないものであって、
誤った想いや常に変化して持続しない想いによるものです。
人間の本性は本来清らかであるけれども、
今のこの世に真実の心を持った人はいないのです。

です。仏教は、有の見も無の見も間違い教えています。罪悪が固定の形のあるものと思い込んでいるのを有の見といい、その有の見が真実と信じ込んでいる自分に無条件服従せよ、といっている人物こそが、迷いの凡夫です。
『正像末和讃』の一番最後にまとめの2首があります。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
 まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは
 おほそらごとのかたちなり

(現代語訳)

よしあしという文字を知らない人はみんな、
真実の心を持った人です。
善悪の文字を知ったかぶりをして使う人は、
かえって大嘘の姿をしているのです。

善悪の字しりがほ」「おほそらごとのかたち」とは、誰の事でしょうか。すべての人は五逆罪・謗法罪を造っていると断言して会員を脅している高森会長と講師部員です。

是非しらず邪正もわかぬ
 このみなり
 小慈小悲もなけれども
 名利に人師をこのむなり

(現代語訳)

物事の是非も知らず、 邪・正の判断もできない
この私です。
人間としての小さな慈悲さえも持っていないこのような身ですのに、
世間から名誉や利益のために人の先生と呼ばれることを好んでいるこの私なのです。

親鸞聖人がこのように仰ったのは、謙遜ではありません。この『涅槃経』を真面目に読んだ人ならば、同じ様な気持ちになると思います。仏と余りにも違う御粗末な智慧しか持ち合わせていないことが判るからです。
ところが、「自分は阿弥陀仏の本願を説き切っている」「阿弥陀仏の御心が判るのは自分だけだから従え」、更には「自分は会員の後生のことばかりを念じている」と言っている人物は、親鸞聖人とは心が違うのです。天地雲泥の差があるのです。

『涅槃経』も『教行信証』も読んだことがないのに、傲慢極まりなく、「おほそらごとのかたち」をした人物が、

唯一無二の善知識!!

正気ですか、会員の皆さん。
高森会長の教えていることで、聖教と合っているところはどこですか?探さないといけないほど違っています。なぜなら、仏教と真宗の勉強をしたことがないのですから。

高森会長と取り巻き連中の「善悪の字しりがほ」「おほそらごとのかたち」には、退会者一同、飽き飽きしています。会員の皆さんも、事実から目をそらさず凝視してください。

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2011年7月 5日 (火)

苦しみを除くのが仏教であり善知識、苦しみ・恐怖を与えるのが外道であり悪知識

親鸞会の好きな”王舎城の悲劇”には続きがあります。

阿闍世は父親を殺したことで、自分は間違いなく無間地獄に堕ちると怯えていたのですが、その時に釈尊が阿闍世に仰った内容が『涅槃経』に詳しく説かれています。親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれています。

〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて、身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せと勅せず、ただ足を削れといへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。坐のときにすなはち斬るとも、なほ罪を得じ。いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日、王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

釈尊が仰せになる。<どうして、きっと地獄に堕ちてしまうというのか。王よ、すべての衆生がつくる罪には、総じて二つある。一つには軽いもの、二つには重いものである。心と口につくる罪は軽く、身と口と心とにつくる罪は重いのである。王よ、心に思い、口にいうだけで、身に行わないなら、その報いは軽い。王は昔、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよといったのである。王がもし家来に、父王の首を切れと命じたなら、家来はただちにそのようにしたであろう。そのとき父王の首を切ったとしても、命じただけでは王の罪にはならない。まして王はそのように命じてはいないのだから、どうして罪になろうか。王にもし罪があるなら、仏がたにもまた罪があるであろう。なぜなら、そなたの父である頻婆娑羅王は、いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであって、仏がたがその供養をお受けにならなかったなら、王位につくことはなかったのである。王位につかなかったなら、そなたが国を奪うために父王を殺害するということもなかったであろう。そなたが父を殺し、それが津に身成るのなら、わたしを含めて仏がたにもまた罪があるはずである。仏がたに罪がないのなら、そなただけにどうして罪があろうか。

高森会長とは、全く違うことを釈尊は仰っています。阿闍世が父親の頻婆娑羅を殺したといっても、阿闍世が手にかけて殺したのではないから、罪は軽いというのです。「心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」と釈尊が仰ったことは、心に思っただけで重罪と説明する高森会長とは真逆です。これは、『教行信証』信巻の最後に親鸞聖人が五逆罪の解説をされた

一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。

(現代語訳)

一つには、故意に父を殺すこと、
二つには、故意に母を殺すこと、
三つには、故意に阿羅漢を殺すこと、
四つには、間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、
五つには、悪い心をいだいて仏の体を傷つけて血を流すことである。
これらは父母や仏や僧などから受けた恩や徳に背くから、逆罪というのである。この逆罪を犯したものは命が終れば間違いなく無間地獄に堕ち、果てしなく長い間、間断なく苦しみを受けるから、無間業ともいう。

と対応しています。殺すという強い意志を持って、実際に親を殺したのが五逆罪です。心で思っただけなら、五逆罪にはなりませんし、無間業でもありません。

釈尊は説明を続けられています。頻婆娑羅が王位に就いたことにより、頻婆娑羅は殺されたのだから、頻婆娑羅が王位に就く原因にまで言及されて、阿闍世に頻婆娑羅殺害のすべての罪がある訳ではないとまで仰っています。
これまでのことは、親鸞会の会員にとっては衝撃的な内容でしょう。

阿闍世は、五逆罪を犯したことで必ず無間に堕ちていかねばならないという恐怖に怯えて、その恐怖で熱を出し、全身にできものが噴出して、心身共に無間地獄の入口にいたのです。このまま死ねば、「従苦入苦」で死後は本当に無間地獄です。それを

阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。

と釈尊は仰ったのですが、その阿闍世の苦しみを除くために釈尊が罪悪について説明されています。
苦しみを除くのが仏であり、善知識の役割です。苦しみ、恐怖を与えるのは、悪知識です。

地獄に堕ちるぞ、と脅す人物こそが地獄に堕ちるのです

でも紹介しましたが、法然上人も過剰な罪悪観に苦しむ人に対して、釈尊が阿闍世に説かれたように、苦しみを取り除かれる話をされています。

では、
過剰な罪悪観を押し付け、会員に恐怖を植え付ける高森会長や偽装本願寺布教師は、善知識でしょうか、悪知識でしょうか?
その前に内道でしょうか、外道でしょうか?

答えを述べるまでもありません。

『涅槃経』ではこの後まだまだ、阿闍世の過剰な罪悪観による苦しみを取り除く説法を続けておられます。

 大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の五通具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑんは、まさしくこの人の駆逐して去らしむるに坐る》と。すなはち左右に勅してこれを殺さしむ。その人終りに臨んで瞋を生ず。悪心あつて神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還つて心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。ときに王、聞きをはりて、すなはち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還つてみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅現世のなかにおいて、また善果および悪果を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

(現代語訳)

 王よ、頻婆娑羅王は昔、悪い心をおこしたことがある。すなわち毘富羅山に猟にでかけ、鹿を射ようとして広野を歩きまわったことがあり、そのとき、一頭の鹿も得ることができなかった。そこにはただ五つの神通力をそなえた仙人が一人いるだけだった。頻婆娑羅王はこの仙人を見て大いに怒り、悪い心をおこしたのである。≪わたしが今猟に来ているのに獲物が得られないのは、このものが追い払って逃したからだ≫と思い、そこで家来に命じてこの仙人を殺させてしまった。仙人は命が終るときに怒りの心をおこして神通力を失い、≪わたしには何の罪もない。それなのにお前は心と口とで非道にもわたしを殺す。わたしも来世では、またお前がしたように、心と口とできっとお前を殺す≫と誓いをたてた。父王はこれを聞いて後悔の念にかられ、その亡骸を供養したのである。父王はこのようなわけで、罪が軽くなって地獄には堕ちなかった。まして王は殺せと命じたわけでもないのに、地獄に堕ちるはずがあろうか。父王は自分で罪をつくって、自分でその報いを受けたのである。王には父を殺したという罪はない。王は、父王に罪がないというけれども、どうして罪がないといえようか。罪があれば罪の報いがあり、罪がなければ罪の報いもないであろう。そなたの父に罪がないなら、どうして殺されるという報いがあろうか。頻婆娑羅王はこの世で、王になるという善の果報と、殺されるという悪の報いとを得た。だから、父王は、善とも悪ともいえない。善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である。殺したことが善悪不定なら、どうして間違いなく地獄に堕ちるといえようか。

一切衆生必堕無間、地獄一定、と脅すことしか頭にない外道の教えとの違いが明白です。因果の道理をねじ曲げて、脅迫の道具に利用する親鸞会には、この『涅槃経』のお言葉は全く理解できないでしょうし、このお言葉を引かれた親鸞聖人の御心も判らないでしょう。

会員との問答(一切衆生必堕無間について)

でも述べましたが、親鸞会の一切衆生必堕無間、地獄一定説は、キリスト教の原罪と同じなのです。

異安心・邪義の者に対して、地獄に堕ちる罪だぞ、と誡められることはあっても、すべての人に対して必堕無間、地獄一定などと教えるものが、仏教である筈がありません。

何も知らないのに、知ったかぶりをしている人物は、『涅槃経』はもちろん読んだことがないでしょうし、『教行信証』も読んだことがないから、平気で脅迫教義が真宗の教えだなどと言えるのです。
尤も『仏説譬喩経』にない”無常の虎の譬え”を『仏説譬喩経』に説かれていると言って憚らない厚顔無恥の輩には、聖教に何が書かれてあるかは興味ないことなのでしょうが。

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2011年7月 3日 (日)

人の主張をネジ曲げてまでエントリーを書き、その上機の深信について未だに理解できないとは…

構って欲しくて仕方のない自称本願寺布教師は、結局、こちらからの質問には全く答えることができませんでした。

(再掲)

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

それと、

「地獄一定」が万人共通

とまで断言するのであれば、龍樹菩薩が御自身のことを地獄一定と仰ったお言葉を出してからにしなさい。曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

も出しましたが、それを「地獄一定」と誰でも解釈できる根拠を出してみなさい。

こんな簡単な質問にも答えられないと言うことは、

1.高森会長・講師部員は「宿善すくなきもの」である。
2.『観無量寿経』によって、親鸞会の宿善論、三願転入の教え、善の勧めは論理的に破綻している。
3.龍樹菩薩・曇鸞大師が、御自身のことを「地獄一定」という意味で仰ったお言葉はない。

ということで決着です。これ以上議論の余地はありません。私の書いたものを断章取義しネジ曲げてしか、反論に偽装したエントリーを書けないのですから、卑怯とか姑息を通り越して、同じ人間としてこちらが恥ずかしくなります。

さて、前々回

『御文章』の正しい読み方

で、2chのスレッド上で行われた法論を紹介したのには、「一切衆生必堕無間」の誤りを知って頂くこと以外にもう1つの意図がありました。それは、親鸞会の主張は、自分に都合よく解釈できそうな1つの根拠を最初から最後まで言い続け、それに明らかに反する根拠を完全に無視するものです。2chの親鸞会側の人物は、論調も、論理展開も、言い訳も、自称本願寺布教師と全く同じです。当ブログ上でも、昨年2月に、論調も、論理展開も、言い訳も内容まで殆ど同じ法論がありました。

カルト思考の愚かさ

がその結論ですが、何の進歩も向上もしていないことがよく判ります。
当ブログでは、親鸞会と違い、根拠を豊富に出しています。その根拠に対して何等触れられないのが、親鸞会と偽装本願寺布教師です。その一方で、偽装本願寺布教師が出した根拠の1つに直接触れていないだけで大騒ぎです。小学生の口喧嘩レベルです。

『勅伝』の法然上人のお言葉については、敢て解説を省略して試してみたのですが、思った通りの能力でした。出血大サービスで補足しておきましょう。

龍樹菩薩も天親菩薩も曇鸞大師も「地獄一定」???

で偽装本願寺布教師の出した『勅伝』第二十一のお言葉の前にある以下のお言葉をわざわざ出したのに、関連が理解できないのでしょう。

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

法然上人は十方衆生を善人と悪人とに分けて仰っています。

一には罪つくる時乗ずるなり。其故は、かくのごとく罪をつくれば、決定して地獄に落べし。しかるに本願の名号を唱れば、決定往生せん事のうれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。

が「末世の凡夫十悪五逆の罪人」悪人について仰ったことで、たとえば強盗・放火・殺人を平気でしてきた耳四郎が、このように知らされるのは、よく判る話です。「上は天親竜樹」の善人のことではありません。善人については

二には道心おこる時乗ずるなり。其故は、此道心にて往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかたおこれども、いまだ生死をはなれず。故に道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはずたゞ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂べきとおもふ時に、他力本願に乗ずるなり。

と教えられています。無始より自分でおこした仏道を求める心(自力の菩提心)で「生死をはなれ」ようとした善人が18願で救われる時にどう知らされるのか、それが自力無功ということである、と法然上人が仰ったお言葉です。

『高僧和讃』

願力成就の報土には
 自力の心行いたらねば
 大小聖人みなながら
 如来の弘誓に乗ずなり

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

と同じことです。
これについて

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)

で説明した通りです。少しは理解できたでしょうか?

尤も

十方衆生=逆謗の屍

という妄想に取り憑かれていると全く理解できないでしょうが。

『御文章』2帖目第9通も同じことです。これを善人にまで適応しようとするから無理があるのです。『御文章』では、地獄に堕ちる人を限定して仰っていることは何度も述べた通りです。地獄に堕ちない善人が、「地獄ならではおもむくべきかたもなき身」と知らされるとでも本気で思っているのなら、可哀相です。
また『歎異抄』の「地獄一定」のお言葉の意味については、『執持鈔』と比較して見なければならないと何度も説明してきました。『執持鈔』では、「地獄」を「悪道」と言い換えて仰っています。同じ内容が『恵信尼消息』にもあります。親鸞聖人のお言葉として

上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば

と書かれています。常日頃から親鸞聖人がこのように仰っていたことが想像できます。しかし、「悪道」「世々生々にも迷ひければ」であって「地獄」とは仰っていません。

善人、悪人についての分類で判りやすいのが九品でしょうが、善導大師が『玄義分』で教えられていることを

M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です

でも紹介しました。悪人とは、下品上生、下品中生、下品下生のことですが、下品上生についてのみ示せば

「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

(現代語訳)

ただ五逆と謗法を作らないだけで、そのほかの悪は皆ことごとく造り、わずか一念も慚愧する心がない。そういう者が命終わろうとする時、善知識がその人のために大乗を説き、教えて念仏させるのに遇う。一声すると、そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、この人を来迎し、そこで往生を得る。
このような悪人は、すべて人の常に見るところである。もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

です。五逆と謗法を作っていない悪人は、「さだめて三塗に入りていまだ出づべからず」であって、「地獄一定」でもましてや「必堕無間」でもありません。悪人でも罪の軽重によって、地獄に堕ちる者もいれば、地獄に堕ちない者もいるのです。地獄に堕ちない善人が、「地獄一定」と必ず知らされる訳がないでしょう。小学生でも判る理屈です。

十方衆生=地獄一定=下品下生

という妄想から脱することができなければ、今回のエントリーも永久に理解できず、これまでの御粗末法論と同様に、人の主張をネジ曲げて、同じ根拠をひたすら言い続けるしかないでしょう。

ここにこう書いてあるのだから、これがすべてだ、他のお言葉は関係ない

という調子で。

それとついでに、高森会長が”無常の虎の譬え話”をすべて創作できるとは最初から思っていませんし、どこかからのパクリでしょうと書いた通りですが、そのパクリ元を知っているなら是非とも教えてもらいたいものです。

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2011年7月 2日 (土)

「十方衆生=逆謗の屍」という妄想に取り憑かれた親鸞会

十方衆生が逆謗の屍というのは、大沼師からのパクリです。『法界』には、

十方の有情一人として逆謗の屍でない者は居ないのだ。若しないとすれば法蔵菩薩は願行を成就し替えなければならないのだ。五劫思惟の古に有漏の凡夫の腹底を見抜かれた時、世出世の最低の悪は逆謗の屍であることを見抜いて願行を成就されてあるのに素直な者と自惚れて居ては凾蓋相応しないのだ。
 調熟の光明のお育てにより調機誘引されて素地のまんまが照し出された時、唯除逆謗と除かれた屍が自分であった事に気がつくのだ。

とあります。高森会長の著書、説法の内容と同じです。ここでは省略した五逆罪、謗法罪の説明を大沼師はこの前に詳しくしていますが、やはり高森会長と全く同じです。

何から何まで高森会長は大沼師からパクリまくっていますが、これは親鸞聖人の教えとは異なっています。前回紹介した法論でも明らかですが、善知識方は、そのようなことを誰も仰っていません。

詳しくは「親鸞会教義の誤り」の

一切衆生は必堕無間なのか5

一切衆生は必堕無間なのか6

一切衆生は必堕無間なのか8

一切衆生は必堕無間なのか9

で教えられています。また

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(五逆・謗法・闡提と必堕無間)

でもまとめてあります。

さて、

十方衆生=逆謗の屍

という概念を自分のこととして捉えるなら構いませんが、それを他人に対して脅しの文句として使うとカルトになるし、仏法を誹謗する事になるのです。なぜなら、聖道門の教えは無駄になってしまうからです。親鸞会では、

19願が無駄であるというのか

と、教義批判者に暴言を浴びせますが、聖道門を無視する親鸞会を

聖道門が無駄であるというのか

と、聖道諸宗から同じ理屈で非難されるでしょう。親鸞会は仏教のイロハが全く判っていない謗法の輩なのです。

「親鸞会の邪義を正す」
十方衆生≠極重の悪人

でも述べてある通り、
超エリートには聖道門、聖道門についていけないエリートには19願、19願も無理な人には20願、どうしようもない落ちこぼれである十悪五逆の極重の悪人には最初から18願が説かれたのです。
ということです。善知識方で聖道門の教えを否定された方は、誰1人おられません。釈尊が機に応じて説かれた教えですから、当たり前です。
このことを『教行信証』化土巻に『法事讃』を引かれて

またいはく、「如来五濁に出現して、宜しきに随ひて方便して群萌を化したまふ。あるいは多聞にして得度すと説き、あるいは少しき解りて三明を証すと説く。あるいは福慧ならべて障を除くと教へ、あるいは禅念して座して思量せよと教ふ。種々の法門みな解脱す」と。

(現代語訳)

また『法事讃』にいわれている。
「釈尊は五濁の世にお出ましになり、それぞれに応じた手だてによって衆生を導かれる。あるいは仏の教えを多く聞いてさとると説き、あるいは少し教えを理解して三明を得ると説く。あるいは六波羅蜜の行を修めて煩悩を除くと説き、あるいは座禅によって深く思いをめぐらせよと説く。さまざまな教えにより、みな迷いを離れることができるのである」

と教えておられます。聖道門ももちろん正しい教えなのです。

善知識方が問題にされたことは、時機不相応ということです。我々は、時と機において相応しないから、聖道門を捨てて浄土門に帰せよ、と皆同じことを教えられているのです。19願諸行往生についても同様で、19願諸行往生を否定されたのではなく、悪凡夫には不相応だから、18願念仏往生しかないぞ、と異口同音に18願1つを教え勧めて下されているのです。

それを『教行信証』化土巻に門余釈として

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。
 しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
 『観経疏』に「その教えは八万四千を超えている」(玄義分)といわれているのは、「教え」とは八万四千の方便の教えであり、自力聖道門のことである。「超えている」のは本願一乗海の教えであり、他力浄土門のことである。

と教えられているのです。
悪凡夫に19願、定散二善を勧められたどころか、悪凡夫にはできないから「本願一乗海」である18願1つを信じなさい、と仰っていることがお判り頂ける筈です。

それを更に進めて仰ったのが親鸞会の好きな『一念多念証文』の「おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。…」の御文です。聖道門の機である聖者も、定散の機である善凡夫も、最後は18願に帰入しない限り救われないのだ、という権仮方便論を親鸞聖人が展開されたのであって、悪凡夫に善を勧めた根拠などという愚かな解釈がどうしてできるのでしょうか?
低い知能を恥じなさい、と言いたいです。

龍樹菩薩も含めた

十方衆生=逆謗の屍

という妄想に取り憑かれている限り、今回のエントリーは全く理解できないでしょう。仮に理解できたとしても、保身の為に謗法し続けるのでしょうね。哀れなものです。

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2011年7月 1日 (金)

『御文章』の正しい読み方

地獄という言葉がなくても、文底秘沈で作り出すくらいですので、地獄という言葉を見つけると大騒ぎして、「一切衆生必堕無間」の根拠と喚き散らすのが、親鸞会です。
今年3月26日早朝に、2chの親鸞会関係スレッド

【新入生】カルト親鸞会【気をつけて!】

において法論がなされ、当然ながら親鸞会側があっけなく惨敗して逃亡しています。
『御文章』に書かれてある地獄に関する法論であり、参考になる内容と思いますので、紹介しておきます。ちなみに親鸞会側は皆さん御想像通りの人物です。学術的に論理を展開する退会者に対して、根拠も無く同じことを言い続けるだけの幼稚な論理の親鸞会とでは、最初から勝負が決まっています。
(なお、関係部分だけを抽出していますので、改竄と騒ぐ方は上記のリンク先でご確認ください)

363 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 04:18:26.77 ID:VDe4cWJ6
>>それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、
まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、
そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる
弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、
すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。

それ、浄土真宗の安心の正体は
まずは、私の身は、十悪五逆、五障三従の者なりと深く思い、
その上で、おもうことには、こんな私でも、本としてたすけてくれる
弥陀如来の不思議の本願力だ、と深く信じて、
すこしも疑う心なければ、必ず弥陀は摂取するよ。

これでもまだ「一切衆生必堕無間」ではないという
浅はかすぎる教学の持ち主が多すぎる。

そもそも、阿弥陀仏の本願力、弥陀五劫思唯の誓願を疑うのは法謗罪ではないのかよ。
本当に僕らが法謗罪を犯していないなら
疑う時期がまったくないのだから、生まれた時から救われていることになる。
仏教なんて存在する必要もない。

365 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 04:37:41.81 ID:VDe4cWJ6
「一切衆生必堕無間」

これを脅しの言葉としてしか受け止められない
馬鹿が多すぎる。

阿弥陀仏の誓願不思議(真実)を疑い
煩悩を満たすことだけにいっぱいで
罪の山積に知ってか知らずかそのまま地獄へ堕ちる。
知らないだけなので、そんなに悪くないではない。
無自覚のままやる悪の方がはるかに罪が重い。
知れば、多少なりとも慎むようになる。
仏法を知らない、煩悩を満たす、それだけで法謗罪だ。

366 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 05:18:11.47 ID:zvS/IhXF
しつこい奴だ。

>それ、浄土真宗の安心の正体は
>まずは、私の身は、十悪五逆、五障三従の者なりと深く思い、
>その上で、おもうことには、こんな私でも、本としてたすけてくれる
>弥陀如来の不思議の本願力だ、と深く信じて、
>すこしも疑う心なければ、必ず弥陀は摂取するよ。

我が身は、十悪or五逆or五障or三従の者なりと深く思い

だ。男が五障三従の者なりと深く思うことは無いといっているだろうが、お馬鹿さん。
同じように五逆の者と深く思わなくても、十悪の者と深く思えば良いだろうが。
どこに、すべての人が五逆の者と思わなければならないと書いてあるんだよ。
それと謗法の者とは思わなくても構わないんだな。
ならば、すべての人が逆謗と断言する高森の間違いは少なくとも認めた訳だ。

高森を謗っていいのかよ、M野くん。

367 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 05:24:18.92 ID:zvS/IhXF
仏智を疑うことと謗法罪の違いさえも知らない無教学。

御和讃を読んでみろ、仏智を疑う罪によりて、化土往生になるとしか教えられていないだろ。
しかし、念仏誹謗は無間地獄だともな。
この違いさえも解らんで、いちいち書込むなよ。

368 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 05:28:11.42 ID:VDe4cWJ6
>>我が身は、十悪or五逆or五障or三従の者なりと深く思い

「or」なんて文字はどこにも入ってないよ。
or というのは、もしくは、または、という意味だ。

どこに、「五逆、もしくは十悪、もしくは五障、もしくは三従の者なり」と書いてある?
「五逆・十悪、五障・三従」と書いてある。
これのどこに「or」と理解できる要素があるんだ?

>>同じように五逆の者と深く思わなくても、十悪の者と深く思えば良いだろうが。

こんな、浅はかな自己内省力で仏教を理解したつもりでいるんだから
ちゃんちゃらおかしい。
俺から見たら、この文言だけでも法謗罪だ。
謗法の者じゃない奴なんているかよ。

369 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 05:31:35.75 ID:zvS/IhXF
だからお馬鹿だというんだよ、男が五障三従の者と思うことが必要なのか?
同じことだよ。

それと、仏智疑惑と謗法罪の違いは

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

       (浄土和讃)

念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなくうくとぞときたまふ

       (高僧和讃)

よく勉強しておけ。

370 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 05:35:44.53 ID:VDe4cWJ6
>>367
ばかかおまえ。何を指してそう思ったんだ?
それこそ、断章主義だろ。

>>もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。
仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。
このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、
経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

仏智を疑うだけでは、化土往生なんてしねぇーよ。
諸々の功徳を修してはじめて化土往生できるんだ。
実際はできないがな。
仏智を疑うだけで、化土往生ができるなら
仏教を信じませんと言ってるやつらはみんな化土往生するのかよ。

371 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 05:36:48.34 ID:VDe4cWJ6
では
>>369に問う

念仏誹謗の有情でなくなるのは
いつか?

372 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 05:39:16.36 ID:zvS/IhXF
念仏を誹謗していなければ、念仏誹謗の有情ではないよ。
日本語解りますか?

法然上人のお言葉、

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。(往生大要鈔)

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。(浄土宗大意)

法然上人は異安心で、謗法罪の輩だというんだな。
お前が念仏誹謗の謗法罪だ。

373 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 05:51:42.66 ID:zvS/IhXF
仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそひて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり

       (正像末和讃)

諸々の功徳が自力の念仏ということも知らんのか。

すべての人が念仏誹謗なら、五濁の時機にいたらなくても、念仏疑謗破滅は悠久の過去から
さかんになるだろうが。五濁の時機いたりてというのが嘘だというんだな。
日本語も解らんのなら、恥をかきに出てくるな、どアフォ。

374 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 05:55:36.01 ID:VDe4cWJ6
>>372
では、特に念仏を誹謗していない
キリスト教信者は
ヒンズー教信者は
どうなるのか?
これは、法謗罪ではないのか?
まさか、化土往生するのか?

最後に、十悪を犯す人は、法謗罪ではないのか?
なぜならば、仏の教えをこれっぽっちも疑わない人が
十悪を犯すわけがないだろう。

また、>>373よ。行行相対門とは何か?

諸々の功徳は念仏の事だけを指すわけじゃない。
自力の称念をこのむだけだ。

375 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 06:00:14.41 ID:zvS/IhXF
だから、お馬鹿だというんだよ。

諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。

キリスト教の者が、浄土往生を願っているかよ。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

       (正像末和讃)

浄土往生を願っての自力修善と自力念仏に決まっているだろ。
ただし、自力修善は悪凡夫には難しいな。だから親鸞聖人は自力念仏のことばかりを
化土往生と仰っているんだよ。
屁理屈ばかり捏ねるな。

376 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 06:07:44.09 ID:VDe4cWJ6
>>375
では、生まれたばかりの赤ちゃんが
浄土往生を願っているか?

もしくは、仏とも法とも知らず
煩悩ばかりを満たして暮らしている人々は
浄土往生を願っているか?
自力の念仏をしようと思うか?
これは念仏誹謗の有情とどこが違うのか?

知らないで犯すのと、知って犯すのと何が違うのか?

その境目はどこにあるのか?

最後に、十悪を犯す人は、法謗罪ではないのか?

377 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 06:13:25.52 ID:zvS/IhXF
浄土往生を願っている自力念仏の者が、必堕無間でないことは理解できたんだな。

それなら、一切衆生必堕無間が間違いと認めたんだよ。
謗法罪の定義を知らんのか。

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、
もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

                         (浄土論註)

くだらん戯論を仕掛けて誤魔化そうとしても無駄だよ。

高森の誤りを指摘してやれ。

378 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 06:20:17.74 ID:zvS/IhXF
先程の蓮如上人のお言葉によるなら、謗法の者と思わなくてもいいんだろ。
お前は自分がいったことの矛盾も理解できないだろうけど。

高森教では、神を拝んだら、蛇に生れると教えているんだろ。
なら、必堕無間じゃないぞ。

矛盾だらけなんだよ、高森もお前もさ。

379 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 06:23:18.72 ID:VDe4cWJ6
>>浄土往生を願っている自力念仏の者が、必堕無間でないことは理解できたんだな。

理解できぬ。
18願を疑っているからだ。
18願は阿弥陀仏の本心。
19.20願はできないからだ。
もし、私に19願ができるのなら化土往生でもできるだろう。
しかしながら、心にふざけた煩悩ばかり渦巻いて仏教を馬鹿にしている心で
いくら体だけ念仏しても必堕無間である。

>>もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。

生まれたばかりの赤ちゃんが
有仏だと思うだろうか?
無仏だと思ってない人が、十方諸仏のいう悪である
十悪を犯すであろうか?

380 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 06:30:08.08 ID:zvS/IhXF
しつこい奴だな。どこに、自力念仏の者が必堕無間とあるんだ。
根拠をだせ。お前の屁理屈など不要だから、

必堕無間を簡単に逃れるためには、神を拝むこと、これが高森教だろ。
19願の入り口にも立てずに、必堕無間になるより、親鸞会を離れて神社に参れよ。

381 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 06:35:04.50 ID:y7AokKQk
不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

仏智疑惑のつみにより
 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ
 年歳劫数をふるととく

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

       (正像末和讃)

これらを否定する念仏誹謗のお前は、必堕無間だから、安心しておけ。

382 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 06:36:00.38 ID:VDe4cWJ6
>>378
堂々と、「私は十悪を犯しています」という人間は
法謗罪ではないのか?

お前は、体の行いと心の行いの区別がついていないから
法然上人の言葉の真意がわからないんだ。行行相対門なんて知るわけもない。
確かに体では法謗していないかもしれんし、五逆もしていないだろう。
では心ではどうか?

>>それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、
まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、
そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる
弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、
すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。

これが根拠だ。
蓮如上人の時代にもお前みたいな奴がいたんだろ・。
「俺は、そんなに悪い奴じゃないから、まさか五逆も十悪もしてないだろう」
という自己内省力の乏しい輩が。

383 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 06:43:39.72 ID:zvS/IhXF
お前の屁理屈は要らないんだよ。

信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、
信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、
疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、
他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
 (末灯鈔)

自力念仏の者が必堕無間という根拠だけをだせ。
そんな根拠はないんだよ。
だから、十悪と謗法の違いも解らんし、仏智疑惑と謗法の違いも解らんのだよ。

お前の答えるべきは、自力念仏の者が必堕無間という根拠。

法然上人を異安心と謗る輩は、早く神社に参ってこいよ。

384 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 06:45:22.18 ID:zvS/IhXF
(再掲)

だからお馬鹿だというんだよ、男が五障三従の者と思うことが必要なのか?
同じことだよ。

それと、仏智疑惑と謗法罪の違いは

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

       (浄土和讃)

念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなくうくとぞときたまふ

       (高僧和讃)

よく勉強しておけ。

385 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 06:50:17.21 ID:VDe4cWJ6
>>この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり

蓮如上人の時代にもいたんだろうな。
俺はそんなに悪いことしていないから
地獄へ堕ちたとしても、そんな悪い所へはいかんだろうという輩が。

これは邪義異安心の者だけか?

何で蓮如上人の時代だけ、五逆・十悪という言葉が
こんなに使われたかわかるか?
お前みたいなのが増えたからだよ。
お前が、十悪・五逆の者だよ。お前の事だよ。
勘違いすんな。と言いたかったんだよ。

386 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 06:57:00.62 ID:zvS/IhXF
すでに論破済みのこと。

>>この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり

この主語が略されているんだろ。

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。
そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。
これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、
わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。
かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。
まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。
                              (1帖目第11通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。
あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、
いたずらごとなり。
               (2帖目第14通)

と地獄に堕ちる人の条件を限定されて仰っているぞ。地獄に堕ちる主語は異安心。邪義の者。
つまりお手紙を出された相手、この御言葉の主語は、異安心。邪義の者。

学校で、国語の勉強をしてきなさいよ、お馬鹿さん。

387 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 06:59:37.68 ID:VDe4cWJ6
>>384
蓮如上人の時代が、男女平等の時代だったと思ってるのか?
女が仏法を聞くことすら難しい時代だぞ。

女は女ということによる、罪があるから
わざわざ足して言われてるだけだ。
これは当然女性差別の言葉ではない。
女性に機の自覚を持ってほしいからだ。

男の自分には関係はない。

「五逆・十悪、オタク・マニアの罪人なり」と言われてるのと同じことだ。
オタクマニアではないにしろ、五逆十悪のものでないとはならんだろ。
そもそも、「五逆・十悪」と書かれることはあっても
「五逆、十悪」と書かれることがなぜ少ないかわからんだろ。
そんなところまで気を使って御文章は書いてあるんだ。

388 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:01:26.19 ID:y7AokKQk
自力念仏のものが、地獄に堕ちる根拠を出せよ。

お前は、地獄行きだけど、他人も同じと考えるな、アフォ。

荒らしが目的だから、仕方ないね。

389 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 07:03:23.17 ID:zvS/IhXF
お前の理論によると、

女は女ということによる、罪があるから
わざわざ足して言われてるだけだ。

親殺しには親殺しの罪があるから
わざわざ足して言われているだけだ。

こういうこと。お解り?

390 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:07:31.70 ID:VDe4cWJ6
>>386
そう来ると思った。
分かりやすいね。

その自分が異安心だって言ってるんだよ。

異安心・邪義、煩悩具足は無間地獄なんだろ?

だったら俺たちの事じゃないか。

お前、自分の心底をまじめにのぞいたことがあるのか?

体は念仏を唱えていても、心で思っちゃいけないこと思ってないか?
異安心の者と何が違うんだ?
俺たちがまさに異安心じゃないか。
煩悩を満たすことしか考えていないだろ。
煩悩教信者とどこが違うの?

>>この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり

391 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:10:05.59 ID:VDe4cWJ6
>>389
別にこう書いても同じだよ。

「十悪・五逆・親殺し・阿羅漢殺し、五障・三従の者」
意味は変わらんだろ。

392 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 07:13:18.81 ID:zvS/IhXF
お前の屁理屈はいいんだよ。

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

       (浄土和讃)

どこに、信前の者が必堕無間と仰っているんだ。
蓮如上人が、わざわざ異安心・邪義の者と限定して仰る理由がないし。

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。
また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。
これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。
『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」
といへるはこのこころなりとしるべし。
   (正信偈大意)

蓮如上人もハッキリ仰っているぞ。
お前の断章取義は明白なんだよ。

自力念仏の者が必堕無間と仰った根拠を出せよ。

393 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:15:57.80 ID:VDe4cWJ6
>>392
>>安楽浄土をねがひつつ

疑問なのだが
安楽浄土をねがひつつってすごく難しくないか?

俺たちはそんなにすごい人物だったか?

俺には安楽浄土を願う心なんか
これっぽっちもないんだが。

394 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 07:16:07.28 ID:zvS/IhXF
私は十悪の者と深く思いとりて救われるんだよ。

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。(往生大要鈔)

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。(浄土宗大意)

法然上人の御言葉通り、五逆の者と思う必要はない。
日本語が解らんのなら、カキコするなよ。

395 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 07:17:24.63 ID:zvS/IhXF
外道のお前に安楽浄土をねがうこころがある訳ないだろ。
だからといって他人も同じだと思うな。

396 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:21:25.98 ID:VDe4cWJ6
>>395
なるほど、お前は

自力の心で
唯除五逆 誹謗正法 するんだな?

そんなにすごい奴が
なんで十悪犯すの?
あれほど十悪はダメだって言われてるのに
仏の教えを軽んじているの?

あと、俺は万行諸善を勧めてるから
内道になるけど違うの?

397 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 07:24:21.83 ID:zvS/IhXF
誤魔化しに必死だな。

1.自力念仏の者が必堕無間になる、そのものずばりの根拠。
2.法然上人が五逆を造っていないと仰ったが異安心か。

この2点だけ答えろ。

398 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:28:11.27 ID:y7AokKQk
万行諸善は、外道でも教えてるよ。

親鸞会は、嘘つき勧誘を薦めて、万引きも容認、盗作はよいこととして、
どこに善があるんだ?

399 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:30:00.16 ID:VDe4cWJ6
>>395
そんなにすごい君がなんでそんな恥ずかしげもなく
「私は十悪の者です」と堂々と言えるの?

仏の教えをなんだと思ってるの?
因果の道理をなんだと思ってるの?
法謗罪ですよ、それ。

1.>>一切の群生海、無始よりこの方乃至今日今時に至るまで 穢悪汚善にして清浄の心なし、
虚仮諂偽にして真実の心なし.

2.体ではおこなってないかもしれませんね。

400 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 07:34:31.22 ID:zvS/IhXF
>1.>>一切の群生海、無始よりこの方乃至今日今時に至るまで 穢悪汚善にして清浄の心なし、
虚仮諂偽にして真実の心なし.

どこが自力念仏の者が必堕無間になる御言葉?
相変わらずのアフォだね。

>2.体ではおこなってないかもしれませんね。

一つには三乗の五逆なり。いはく、一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。

どこに心で思ったら五逆罪となるとあるんだ。
言われる前に言っておくと、大乗の五逆罪は、無間業とは仰っていないけどね。

401 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:37:07.01 ID:VDe4cWJ6
>>400
>>「この信心を獲得せずば、
 極楽には往生せずして、
 無間地獄に堕在すべきものなり」

  (御文章2帖目2通)

この主語はだれかもういちど教えてくれるかな?

>>では体で念仏を唱えたら化土往生するのか?
では、お金をあげて、強制的に念仏を唱えさせたらみんな化土往生だな。

402 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 07:39:32.77 ID:zvS/IhXF
誤魔化しに必死になっているのが笑えるぞ。

同じことを聞くな。もう一度読み返せ。

安楽浄土をねがひつつ念仏を称えるに決まっているだろ。どんだけ馬鹿なんだ。

403 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:43:15.15 ID:VDe4cWJ6
>>安楽浄土をねがひつつ念仏を称えるに決まっているだろ。どんだけ馬鹿なんだ。

ほら君も分かってるじゃないか。
体じゃなくて、その心が大事なんだ。
じゃあ、なぜ五逆だけ、体のこととしてしか捉えられないんだ?

>>402
あと、君は何で十悪を犯したのかな?
仏法をなめてるの?
法謗罪ですよ、それ。

404 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 07:46:35.70 ID:zvS/IhXF
しつこいね。誤魔化しに必死だな。

1.自力念仏の者が必堕無間になる、そのものずばりの根拠。
2.法然上人が五逆を造っていないと仰ったが異安心か。
(参照)
一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。

この2点だけ答えろ。

405 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:49:42.56 ID:y7AokKQk
心を問題にしなかったと法然上人を謗るやつは、
地獄だよ。

407 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 07:58:23.64 ID:VDe4cWJ6
>>404
>>「この信心を獲得せずば、
 極楽には往生せずして、
 無間地獄に堕在すべきものなり」

  (御文章2帖目2通)

自力念仏の者は信心を獲得してません。

>>君にはまだ法然上人の書物は危ない。
行行相対門をよく勉強してからにしてください。

>>そもそも、開山聖人(親鸞)の御一流には、
それ信心といふことをもつて先とせられたり。
その信心といふはなにの用ぞといふに、
無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、
たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。
この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

(御文章二帖目二通)

根拠はこれだけで充分。

408 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 08:02:00.10 ID:zvS/IhXF
これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。
そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。
これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、
わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。
かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。
まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。

                              (1帖目第11通)

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。
あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、
いたずらごとなり。
               (2帖目第14通)

と地獄に堕ちる人の条件を限定されて仰っているぞ。地獄に堕ちる主語は異安心・邪義の者。
つまり

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

この御言葉の主語は、異安心・邪義の者。国語の問題。

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、
かならず化土懈慢国に生ずるなり。
また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。
これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。
『和讃』にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば 
すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。
   (正信偈大意)

これだけで、お前の間違いを論破するには充分。

409 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 08:07:39.73 ID:VDe4cWJ6
>>408
あの~・・・・
私は(御文章二帖目二通) を上げているのですが・・・・。

 (1帖目第11通) (2帖目第14通) を上げてどうするんですか?????

あなたの主語や国語は、帖目や通を飛び越えるんですか?????

信心を獲得せずば無間地獄へ堕在すると言われてるのに、
 (1帖目第11通)
門徒のかたより、物をとるをよき弟子、信心の人など
明らかに法謗罪、無間業に決まってるでしょう。
(2帖目第14通)
秘事法門なんか、当然無間業です。

410 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 08:12:27.16 ID:zvS/IhXF
国語を知らんのか?
主語が略されている時に、どうやって補うんだ?
お馬鹿におしえてやると、文献学とは、様々な書物を比較検討してその意味を見ていくんだよ。

「すべての人」という主語がないんだよ。
ラブレターに、好きです、と書いてあったら、すべての人のことを好きです、と理解する馬鹿はいない。
手紙を出された相手を考えろ。

411 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 08:17:44.14 ID:VDe4cWJ6
>>そもそも、開山聖人(親鸞)の御一流には、
それ信心といふことをもつて先とせられたり。
その信心といふはなにの用ぞといふに、
無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、
たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。
この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

(御文章二帖目二通)

>>そもそも、親鸞聖人の教えてきたことのすべては
信心ということが先に来る。
その信心とは何かというと、無善造悪のわれらのような
あさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまいるための出で立ちなんだ。
この信心というものを獲得せずは、極楽には往生しないで
無間地獄に堕ちることでしょう。

これは誰のことですか?
私には、「すべての人に」対していってるように思えますが???

412 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 08:21:39.97 ID:zvS/IhXF
それはお前が馬鹿なだけだ。小学校の先生に教えてもらえ。

されば、死出の山路のすえ、三途の大河をば、ただひとりこそゆきなんずれ。(1帖目第11通)

はやめにみえてあだなる人間界の老少不定のさかいとしりながら、ただいま三途八難にしずまん事をば、
つゆちりほども心にかけずして、
(2帖目第1通)

されば、五道六道といえる悪趣に、すでにおもむくべきみちを、弥陀如来の願力の不思議として、
これをふさぎたまうなり。
(2帖目第4通)

これは誰のことですか?
私には、「すべての人に」対していってるように思えますが???

413 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 08:25:51.56 ID:VDe4cWJ6
>>そもそも、親鸞聖人の教えてきたことのすべては
信心ということが先に来る。
その信心とは何かというと、無善造悪のわれらのような
あさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまいるための出で立ちなんだ。
この信心というものを獲得せずは、極楽には往生しないで
無間地獄に堕ちることでしょう。

「親鸞聖人の教えてきたことのすべては」
「無善造悪のわれらのような、あさましき凡夫が、」
「獲得せずは」

私には、「私たちに」対して言っているようにしか聞こえませんので。、
私たちの事です。

414 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 08:33:02.62 ID:zvS/IhXF
だから、お前の妄想だ。
親鸞聖人のお言葉の中はもちろん、蓮如上人も主語をすべての人にして地獄と仰った個所は
1つもない。

これを正常な論理で判断すれば、異安心・邪義に対してのお言葉としか理解できない。

しかし、カルトの信者は、これを否定する膨大なお言葉を否定して、ここのみを勝手に解釈して、
すべての人は地獄行きだぞ、と脅すんだな。

カルト信者には、小学生の国語の理解できないだろうから、どうしようもないね。
地獄に堕ちてから後悔するんだな。

416 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 08:34:56.91 ID:zvS/IhXF
一切衆生必堕無間の根拠は、これしかないんだから、誰が何を言おうが同じことを
死ぬまで言い続けるだろうな。

カルトは、恐ろしいわ。

417 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 08:39:17.55 ID:VDe4cWJ6
>>414
「無善造悪の"われら"のような」
「あさましき凡夫が」

この”われら””あさましき凡夫”が
自分たちの事ではないと思うのなら
もう勝手にしなさい。

信心獲得できるのは、誰がどう考えても十方衆生だけだろ。
その信心を獲得しないと、無間地獄へ堕ちると言われてるんだよ。

もういい加減にしてくれ・・・・。

自分たちは、何?化土往生するんだっけ?御苦労さん。

418 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 08:41:31.60 ID:zvS/IhXF
お前たちは、無間地獄に堕ちるんだろ、御苦労さん。

されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。
詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。
 (末灯鈔)

419 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 08:49:48.19 ID:VDe4cWJ6
>>418
>>一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず

そうだね、罪悪生死の凡夫、無間地獄行き間違いないね。

421 名前:彦根の平和堂で万引きしました:2011/03/26(土) 08:59:09.49 ID:zvS/IhXF
一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず

どこに、必堕無間ってあるのさ。
六道輪廻から出離できないとしかないよ。
往生礼讃の機の深信

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

429 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 12:39:43.06 ID:IBiDDo+Z
めっちゃ盛り上がってたね。

だけど軍配は「彦根の平和堂で万引きしました」氏に上がるね。コテハンすら
つけられず逃げに逃げまくった○野氏はまたしても大敗。

みっともないね~

431 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 13:19:48.27 ID:Yn12O+FT
s会法論敗北史に新たな一ページが加わったね。

万引き野郎は顔真っ赤だろうな。

でも、法論で盛り上がると、大学生とかにs会の問題点を示せなく
なるから、ほどほどにしよーぜ。

432 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 16:54:18.00 ID:1/URUepb
zvS/IhXF さんに質問です。
私も脅迫集団親鸞会大嫌いのアンチですから、警戒しないで下さいね(笑)
単純に疑問に思っただけですので。

>>408
> 地獄に堕ちる人の条件を限定されて仰っているぞ。
> 地獄に堕ちる主語は異安心・邪義の者。
> つまり
> 「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、
> 無間地獄に堕在すべきものなり。
> この御言葉の主語は、異安心・邪義の者。

つまり、zvS/IhXFさんは、この御文章は、

信心といふはなにの用ぞといふに、
無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、
たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。

【なお、われらは無善造悪ではあれど、異安心・邪義にあらず。
異安心・邪義の者は】この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり。

というように、【     】のような省略が実はある、
と主張しておられるのでしょうか。

イエスならそれで結構です(私には違和感がある解釈ですが)
ノーなら、私には zvS/IhXF さんの主張(>>408)がわかりません。

すべての人間が必堕無間と書いてある文章はない、という主張には
同意したいと思います。

433 名前:神も仏も名無しさん:2011/03/26(土) 17:37:09.36 ID:zvS/IhXF
>>432
>なお、われらは無善造悪ではあれど、異安心・邪義にあらず。

この表現が私には解らないので、もし私ならば、以下のようにします。

【あなた達は、異安心・邪義であるぞ。
正しい】
信心といふはなにの用ぞといふに、
無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、
たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。

【であるから、この信心と異なる安心・邪義のあなた達は、正しい】
この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり。

とします。
異安心・邪義の者に対してのお手紙ですから、【 】の中は省略しても相手に
充分に通じると思います。

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