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2011年6月 8日 (水)

死後のことが判らないのに判ったふりをする高森会長

先日の降誕会の演題は、恩徳讃だったそうです。ここ2年程は外部からの教義批判に対応するために、善の勧め一辺倒の話でしたが、最近少し変わってきたのかもしれません。どんなに頑張って詭弁を駆使しても、勝ち目がないと判断したのであれば、結構なことです。

さて、高森会長は信心決定したら死後どうなるかはっきりすると未だに教えていますが、よくもそんな嘘を50年以上も平気でつけるものだと呆れます。
高森会長がこれまで話をしてきたことは、すべての人は死んだら必ず無間地獄に堕ちる、阿弥陀仏に救われたならば、そんな者を浄土に連れて往って下される、ということだけです。具体的に、無間地獄、浄土がこういう世界である、と高森会長が見たり知らされた内容で話を聞いたことは1度もありません。なぜなら、高森会長自身、死後の世界について何も判らないからです。判る訳がないのです。
信心決定しても、死後のことは判りません。判ることは、阿弥陀仏に全てをおまかせしたことだけです。そのことは何度か述べてきました。以下でまとめておきました。

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について)

『執持鈔』

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。

のお言葉を読めば明らかです。高森会長は、信心決定したらすごい智慧が備わると思わせていて、そのすごい智慧の持ち主の筆頭が自分であることを印象付けたいようですが、実は異安心を公言しているだけです。親鸞聖人、覚如上人とは全く別の信心です。

罪悪観から、自分は地獄行きと思うことはあっても、地獄の世界が判ったということとは違います。そのような体験は、他の宗教でもよく聞かれる話ですから、それと信心決定あるいは機の深信とは別のことです。

高森会長は、他力と自力の違い、もう一つ言えば自力にもなっていない無力との違いも判っていないのでしょう。死後のことについて判りやすく教えられたのが、源信僧都の『往生要集』です。

まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

大雑把にいえば、

他力―報土
自力―化土
無力―三悪道

ということです。無力のところが他の聖教では六道になったりはしますが、概ねこのように教えられています。死後のことがわかる人物がこのように教えられないのは、如何にもおかしなことです。高森会長が、釈尊、善知識方よりも死後のことをよく判っているとでもいうのならば、これ以上何を言っても無駄でしょうから、高森教と名乗るべきです。

このように教えられているから、他力の信心を賜わったならば、報土往生間違いなしとなるのです。報土がどのような世界であるか判る訳ではありません。報土は凡夫の目に見える世界でもなければ、凡夫が認識できる世界でもありませんから、判る筈がないのです。このことは以前に「安心問答」での往生のやりとりについてコメント欄で質問を頂きました中でも言われていましたが、往生ということは無生の生ですから、我々が考えているような生ではありません。
『御一代記聞書』の中でも

無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の生は無生の生といふなり。

と教えられている通りです。聖道門の修行をして自力で智慧を体得したつもりなのかもしれませんが、浄土のことや往生が判るなどとはとんでもない勘違いです。他力と自力の違いが全く判っていない証拠です。

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コメント

初めてコメントします。

高森顕徹氏について調べていたところ、ここにたどり着きました。

質問があるのですが、この本文の内容とは関係ないのでメールでさせて頂きたく思います。
お手数ですが
●●●@gmail.com
まで連絡いただけないでしょうか。

よろしくお願いします。

投稿: 木下守 | 2011年6月 8日 (水) 13時15分

木下守 様

メールを送っておきました。ご確認ください。

投稿: 飛雲 | 2011年6月 8日 (水) 15時15分

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