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2011年6月10日 (金)

他力信心が何も理解できない異安心集団

過去の法論に惨敗して、それをなきものとして再び愚かな主張をして誤魔化すのが親鸞会の特徴です。
地獄という単語を聖教の中で見つけると、嬉々としてブログに書いているおめでたい自称本願寺の僧侶がいますが、機の深信と罪悪観との違いが未だに理解できないとは、相当の知能の持ち主のようです。過去に各所で論破されてきたのですが、同じ内容を何度も何度も繰り返すのも無駄ですので、当ブログで書いたものを

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)

でまとめてもらっています。よく理解できていない方はそちらを読んでみて下さい。

機の深信について関連して、一つだけ根拠を付け加えるなら、曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

と仰っています。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら地獄一定になるのでしょうか?
文底秘沈の者には、曇鸞大師も地獄一定と仰っていると読めるのでしょうね。お気の毒なことです。

それにしても、親鸞会は地獄が実に軽いのです。講師部合宿での指摘の嵐程度にしか地獄を思っていないから、一般の人よりも悪に励む造悪無碍になるのでしょう。
まあ、親鸞会でいう地獄を六道と言いかえれば、概ね筋が通りますので、高森会長や講師部員が地獄と言ったときは、そのように皆さんも理解されれば宜しいでしょう。

さて親鸞会でもよく使われる『教行信証』信巻

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

ですが、これが他力信心を表わしています。『一念多念証文』では、

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

と仰っています。無力信心は、「仏願の生起本末を聞きて」「本願をききて」がないのです。思考停止は理解する気がないのですから、聞いていないのです。自力信心は、「仏願の生起本末を聞きて」「本願をききて」だけでは物足りないとして他の要素を加えて考えるものです。この「仏願」「本願」はもちろん18願のことです。聖道門の人を浄土門に導くために建てられた19願について聞いても関係ありません。

自力では成仏もできず報土にも往けない我々のために、阿弥陀仏が五劫の思惟と兆載永劫の修行をなされて造られた名号を聞いて、疑いがない状態が他力の信心なのです。
信前と信後の違いは、この疑いがあるかないかです。

善導大師は他力信心を二河白道の譬えで教えられています。
これまでにも言っていますように、白道は他力の信心を譬えています。

そのことは「親鸞会教義の誤り」に詳しく解説されています。

宿善とは7

宿善とは8

当ブログでも、

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

”二河白道の譬え”はどう?

に書きましたので、詳しくは上記を御覧下さい。

白道が信後の他力信心を譬えられていることは、伊藤康善師の『仏敵』に登場する人物の言葉を鵜呑みにして、白道が信前の求道などと愚かなことをいう高森会長や講師部員には理解したくない事実でしょうが。

この白道について『一念多念証文』

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。

と解説しておられます。
最初の文は親鸞会でも有名ですが、この「凡夫」とは信後の人のことを説明されているのです。信後も「凡夫」であることに変わりはなく、煩悩は「臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」です。白道はもちろん最初から最後まで信後の他力信心ですから、巾四五寸の白道が広い道になることもありません。
この白道を歩むことを「一分二分ゆく」と言われていますが、それは信後に一年二年と念仏の道を進んでいくということです。
煩悩に隠されるような細い細い信心ではありますが、途切れることのない阿弥陀仏から回向された信心なのです。

従って、白道に乗ったからといって、驚天動地の体験もしませんし、特別な能力が身につくこともありません。

このように他力信心とはどういうことか親鸞聖人が言葉を換えられて教えられているのに、何も理解できていないのが、高森会長であり、講師部員なのです。

自力信心と無力信心の間を彷徨っている親鸞会異安心集団は、望み通り必堕無間となるのでしょう。なお、私がいう地獄とは、六道のことではなく、地獄界のことです。講師部合宿での指摘の嵐などとは桁外れの苦界、無間地獄で苦しんでくださいな。

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コメント

夢幻界裡の覚醒様

あなたにコメント出来ないので、飛雲さんのブログをお借りしてコメントさせていただきます。

一度、昭和30年代に高森会長の書かれた本を読まれたらどうですか。
その当時の言葉と今の言葉をよく比較されてみたらどうでしょうか。
ご自分の心を見ずに人の言葉を真受けするのでなく、冷静に両方の言葉をよく比較されてみてはどうでしょう。
特に当時の新聞には、本願寺の攻撃以外に信心を味わっている人たちのコメントが入っています。
教えと味わいの違いはありますが、今の親鸞会とは大きく違いますよ。

親鸞会が救うのでもない、本願寺が救うのでもない、阿弥陀様に救われるのです。
よくよく阿弥陀様に向かれることをお勧めします。

とくよしみね

(こう書いても読んでくれないだろうな~。高森会長の言葉をそのまま返します。

  叫べども叫べども なぜに届かぬこの六字 力乏しき我を悲しむ)

投稿: とくよしみね | 2011年6月11日 (土) 10時42分

ホント、「地獄という単語を聖教の中で見つけると、嬉々としてブログに書いている」だけの「おめでたい」思考回路してますよね…
勅伝の言葉にせよ、どこをどう読んだら地獄一定は万人共通なんて結論が出てくるのか…
言えば言うほど恥を晒してるだけということも気がつけないのが悲しいですね。

お聖教になにが書かれてあるかよりもまず先に高森教学ありき、お聖教よりも高森教学が大事って姿勢だから、
「地獄に堕ちる」という記述を必死になって探しまわるという、虚しい作業を続けなきゃいけなくなる。
救われたいはずなのに、地獄行きの根拠探ししてるワケですからこれほどひっくり返ってるような状況はありません。
まあ、それすらも「光に向かって進ませていただきます」の一言で見なかったフリしようとしてるんでしょうね。

投稿: | 2011年6月12日 (日) 08時35分

>自力信心と無力信心の間を彷徨っている

親鸞会の安心をよく表していると思います。
本願寺を無安心としか読めなかった高森会長は、一部しか見なかったのであれば知らなすぎですし、どこを見てもそうとしか思えなかったのであれば読解力理解力がなさすぎ、やはり他力安心(真宗)の教学理解がなさ過ぎるのです。

親鸞会は、無力じゃないぞと言う時には自力に陥ってしまっていますが、他力が説けず抜けてしまっているから仕方がないのですね。しかも、親鸞会こそ現在救われると説いていると言っても、親鸞会で説かれる他力とは高森会長の信心(体験談)なので、その地獄秘事的驚天動地の神秘体験の境地を他力として目指しているが為に、信心が獲られることがないのですね。

投稿: | 2011年6月12日 (日) 09時19分

先の名無し 様

結局のところ、地獄も浄土もどうでもいいのでしょう。はっきり言えば、信じていないのです。生活のために、悪徳企業に勤めて騙し続ける社員と同じ心境でしょう。


後の名無し 様

高森会長は、教学が無さ過ぎだけでなく、読解力、理解力、それと誠実さが無さ過ぎるのです。高森会長の説法を間違って聞かない限りは、信心が獲られることはありません。尤も、支離滅裂な高森会長の説法を正しく聞くことも無理でしょうが。

という訳で、とくよしみね様の訴えが、偽装本願寺布教師に届くことも極めて難しいでしょう。残念なことです。

投稿: 飛雲 | 2011年6月12日 (日) 19時46分

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