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2011年6月26日 (日)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り26

自称本願寺の布教師が、悔し紛れにまたおもしろいことを言っているようですが、「地獄一定」は万人共通ではないことは理解できたようですので、それで充分でしょう。あとは、日本語を理解する能力の問題です。日本語は学校で習ってきて下さい。

さて、『顕真』6月号では、疑難と答えがもう1つありますが、2番目の「雑行」についての続きで、その根拠が、創作アニメといつもの親鸞会理論だけです。文証はありません。

愚かな理論ですが、一応紹介しておきます。

「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだから、後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベルでは、チンプンカンプン分かるものではないのである。

 ちょうど、ヨチヨチ歩きの女の子に、産前はこうだ、産後はああだと言っても、チンプンカンプンと同じこと。
 後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでもいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。チンプンカンプン、そらごとたわごとでしかないのだ。

 だから「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。
 その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
 この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。

 七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。

と書いています。相変わらずですが、教学が無くても常識的に考えればおかしさに気が付かれると思います。

親鸞聖人、蓮如上人当時と比較してみました

でも書きましたが、親鸞聖人、蓮如上人がおられた当時の日本の人口は現代の15分の1から20分の1くらいでした。その中で親鸞聖人の教えを聞いていた人が関東だけで数万人、蓮如上人の時はそれ以上の人に話をされていたと思われます。親鸞会とは比べ物にならない多くの人に対して、親鸞聖人、蓮如上人は、往生・獲信のために善を勧められていません。親鸞会理論でいえば、当時の人は「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人はいなかった、あるいはいても、数えるほどしかいなかったということなのでしょう。もっといえば、親鸞聖人、蓮如上人は御著書、お手紙を後の人の為にたくさん残しておられますが、後の人は「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人はいない、あるいは無視された、ということになります。
一方で現代の人、特に親鸞会会員は、「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人ばかりだから、善を勧めなければならないのだそうです。これに納得できる人は、自称本願寺の布教師と同じ知能レベルの人でしょう。

雑行が判らなければ雑行は捨てられない、など幼稚な騙しでですが、そのことはすでに

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

でも書きましたが、たとえていえば、

・タバコを吸わせて体に悪いことを知らせてからでなければ、タバコをやめさせることはできない。
・麻薬や覚醒剤をやらせて、心身ともにボロボロになってからでなければ、麻薬や覚醒剤をやめさせることはできない。
・自殺をさせてみてからでなければ、自殺を止めることはできない。

と言っているのと同じです。

これまで何回か紹介していますが、『一念多念証文』

「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

が親鸞会ではチンプンカンプンなのでしょう。「余の善」と「余の仏」とは同格です。「一切の諸神・諸仏・菩薩」と「万善万行」とは同格です。
諸善に向うことも、諸神・諸仏・菩薩に向うことも共に「雑行」です。諸神・諸仏・菩薩は、親鸞会でも最初に捨てよと教えていますが、往生・獲信のために諸善をせよ、というのは、矛盾です。
なぜなら、五雑行が問題になっていない会員には、問題になるまで五雑行を勧めねば筋が通りません。筋を通すならば

寝ているものに転んだということがないように、五雑行をしていない者に、五雑行を捨てたということはありません。

となる筈ですが、これは絶対に言いません。仏教では、阿弥陀仏以外の諸仏に礼拝、称名、讃嘆、供養することも勧められていますので、諸善万行だけを往生・獲信のために勧める理由が見当たりません。

親鸞聖人は御自身の体験を『教行信証』後序

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。

と仰っています。「自力の心を捨てて」ではなく、「雑行を捨てて」と仰ったのは、「雑行」を勧めている聖道門の学僧に対する反論のお言葉です。ここで親鸞聖人は「」ではなく「」自体を捨てられて18願に救われたことを宣言なされ、法然上人の三選の文

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

の正しさを証明されたのです。
法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が捨てよと仰る「雑行」は、「諸善」「万行」そのものの「」です。それを踏まえた上で、往生・獲信と無関係なこととして世間の善である倫理道徳を本としていきなさいと教えられているのです。

従って、紅楳英顕師が30年も前に指摘されている

「破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ」とある文証は、未だに何等示されていない。

は、今でも有効なのです。出世間の善である「破邪顕正や財施」を「獲信のため」に勧められた文証を、30年後の今、示したら如何でしょうか、高森会長。自称本願寺の布教師が替わりに示してもらっても結構ですよ。

それと関連して、半年以上も答えてもらっていない以下の質問にも、簡単に答えられる筈ですけどね。

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」で、しかも善もしていない「十九の願の門戸にも立っていない」人が18願で救われるのかどうかの極めて重要な質問です。誤魔化さずにお答え下さい。

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コメント

M野さんの○の悪さは、本当に酷いですな。
自力無功が機の深信ということを、皆、書いてあるのですが、「地獄一定」のところだけを抽出してこれが機の深信だと皆言っているとほざいているんですから。

機の深信は万人共通
「地獄一定」は万人共通ではない

これだけで、M野さんの愚かさが証明できました。

投稿: M野さんへ | 2011年6月26日 (日) 06時49分

自称本願寺の僧侶もすごい断章ですね。「わかりやすい 宗義問答」にて、それまで罪悪観と機の深信の違いを詳しく述べられて、

また〈法然上人にだまされて地獄におちても後悔はない〉といわれるのも、地獄におちるかも知れぬという心配があるということではなくて、わたくしの本来もっている性質が地獄ゆきであって、わが力では絶対に助かる見込みがない身であることをいわれるのであります。ですから、つぎに「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」と仰せられるのです。これは二種深信の機の深信にあたります。

と続きます。ここの文章だけなら彼の主張はなるほどと思われるかもしれません。しかしこの言葉の後、

つまり、自力はまにあわないと知らせていただくことであります。

ということで「機の深信」=「自力無功」と書いてあります。都合の悪い文章は省くのですね。自分は地獄一定の者と内観するのは結構ですが、飛雲さんの仰るように地獄一定というのは万人共通ではありません。

また、罪業、罪悪、地獄ということが分かっていないから万引きをしたり、その師匠は盗作や浄財の私的流用などの罪業、罪悪を造って平気でいられるのですね。このような団体が「善をせよ」と言っても、「お前がまず悪を止めて善をせよ」と言いたくなります。地獄一定とはどれほど深刻なことか全く分かっていない、それほどにも信仰とやらが進んでいない証拠です。

投稿: 淳心房 | 2011年6月26日 (日) 07時05分

まず自分の師匠が盗作ばっかりしてあまり真宗の勉強をしてこなかったというところから己の意見をいうなら結構なことだと思うが、結局生活の為、不勉強な盗作師匠の説を絶対に否定できないというところからスタートしているから自称真宗布教使は気持ち悪い奴だなーとなってしまう。しかしこの布教使とやらは自分の間違い、あるいは自分の人生が間違っていたともう気づいているんじゃあないでしょうか。これだけいろんな本をよんで師匠の主張を相対化してみたとき師匠の意見が如何に異端で根拠がないか当然そこに思い至るはずですよね、まあ非難してやめた講師に対して兵糧攻めにしろとかいうそうですから、家族がいればまあこの布教使の訳わからん意見もわからんではないですが。腹もたつけど、どういう経緯でこの悪徳師匠がここまでやるようになったのか、被害者の一人としては赤裸々な告白を聞いてみたい気がする。(まあ死んでからその息子か妻が亡命先でインタビュアーに答えるといった形でもいいが)

投稿: 専任講師はかわいそう | 2011年6月26日 (日) 10時55分

M野さんへ 様
淳心房 様

私の替わりに説明していただきまして、有難うございました。高森会長と親鸞会への攻撃を少しでも逸らせるためのものと思いますので、まともに相手にするつもりはありません。
それでも構ってほしいと何かと難癖をつけてくるでしょうから、その際は適当にあしらってもらえれば結構です。
断章取義、捏造は親鸞会の得意技ですから、まともに読めば、親鸞会の汚さ、滑稽さが浮き彫りになるだけでしょうけど。

投稿: 飛雲 | 2011年6月26日 (日) 20時41分

専任講師はかわいそう 様

皆判っていると思いますよ。それでも生活の為には、平気で仏法をネジ曲げ続け、嘘も平気で付く。窃盗など朝飯前のことでしょうし、そんな輩共が「善の勧め」とは噴飯物です。

嘘で固めた人生に変わった理由などありません。私利私欲のみです。聞くまでもないことでしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年6月26日 (日) 20時45分

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