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2011年6月14日 (火)

高森会長の「知らん」

高森会長は、都合の悪いことはよく「知らん」といいます。その「知らん」の意味は、『歎異抄をひらく』で書いていることと同じです。
『歎異抄』第2章

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

の「総じてもつて存知せざるなり」を、『歎異抄をひらく』では、

知りすぎた知らん

と解釈して、他の解説書でこのように書いたものがないと今でも自慢しているようですが、

そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長

でも述べましたように、これは単に珍解釈なだけです。正しい解釈をするならば、『執持鈔』と比較すべきです。自力でもない無力でもない他力の信心を、「総じてもつて存知せざるなり」と表現なされているのですが、異安心の人には理解できないのでしょう。

ところで、実はこれと同様のことを大沼師がすでに言っています。『法界』には

 各々十餘箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして乃至親鸞におきては、ただ念仏して等と仰せられてある歎異鈔の第二節目を味はって見よう。
 文面を読んで調子を合わして喜んでいる者もおれば、書物の裏に溢れている真意を諦得して感泣している者もいる。各自各様に味はっているのだから皆本当だ、私はこう味はう。
 「親鸞におきては、ただ念仏してとあるのだから、訳も理屈もいらぬ、唯素直に念仏すればよいと言う人もあるが、それも結構。而し、次の方の文句、念仏はまことに浄土にむまるたねにてやはんべるらん。また地獄におつる業にてははんべるらん、総じてもって存知せざるなりと書いてあるのを読んだ程度の低い素人同行が、聖人様は念仏は浄土に生るる種やら地獄に堕ちる業やら知らんと仰有ったが私も知らんのだから丁度よいと言ったが、それでよいのか、知らないようが違いはせぬか、素人は何にも知らないのだ、聖人のは知って知って知りぬいて不思議の境地、无我の天地を諦得したときの我執を離れた世界だから、知らんように、天地の相違の有る事を知らなければならない。

とあります。高森会長は、大沼師がこのように書いていたことを知らなかったのでしょうか。
高森会長にそのことを尋ねれば、

知らん

と言うでしょう。でもその意味は、

知りすぎた知らん

ということです。
ただし大沼師も書いているように、これは大沼師の味わいです。大沼師はこのような味わい表現が多いのですが、それを教義解釈とすると問題があります。尤も高森会長にとっては、問題があろうがなかろうがお構いなしでしょう。

知らん」ついでに言えば、豊田商事の悪徳商法が社会問題になり、永野会長が刺殺された時、永野会長と高森会長との関係について高森会長は、

知らん

と言っていましたが、これもやはり

知りすぎた知らん

ということだったと裁判でも明らかになりました。

もうひとつ言えば、高森顕徹と名乗る人物の獲信体験記が昔昔の『華光誌』に載っていますし、高森会長の母親を含めた5人の獲信体験記を高森顕徹と名乗る人物が編集した『獲信の記録』があります。
現在の高森会長の主張と違っているこの2つの資料について、ある会員が支部長に尋ねたところ、

本当に高森先生が書いたものかどうか判らん

と言ったそうですが、「高森先生の書いたものではない」となぜか言えないところが、やはり

知りすぎた知らん

なのでしょう。

それにしても高森会長も講師部員も親鸞会でしか通用しない”高森語”を使って、人を騙すことにせっせと励んでいるのですから、恐れ入ります。いつまでも騙しきれると本気で信じているのでしょうかね。

ついでのついでに、「知らん」に関連して、これもまた高森会長が自画自賛している「ただ念仏して」の解釈についても、大沼師はすでに書いています。全部紹介すると長いので抜粋すると、『法界』には

 聖人の「ただ念仏して」のお言葉の前後をよく検討しなければならない。
(中略)
 同行よ!!文面を読むだけではいけないぞ、あなた方は「ただ念仏」するだけで満足が出来たか、信楽開発の一念を突破せずに「ただ念仏」するのは他人の信仰を眺めているだけの自力の称名だ。信楽開発の一念以後の「ただ念仏」するのは无我の境地からあふれる他力の称名だ。
 ただはただだがただになる迄聞かねばただではない。ただただと言っているのはほんのただ、ただの中にただがある。无限のただはただのただ。

とあります。

また『親鸞聖人に聴く』では親鸞聖人(○)と大沼師(△)との問答形式で

 △ 真宗ではたヾ念仏すればよいのですか。
 ○ 自分は宿善が厚い、素直な人間と自惚れている間は、只の只です。本当はそんな簡単な只ではなく、八万の法蔵を読み破ったときは唯という言葉もいらないたヾです。無限の慶びのある唯です。
 △ それでは私たちの只は、唯ではないたヾですか。
 ○ その通りです。只と思うている只と、唯となったときとは、桁が違います。
(中略)
私の機の0と仏様の法の10とが一体になったから機法一体、仏凡一体、仏智満入、真如一実の功徳宝海といえるので、この唯の中には無限の喜びのある唯であります。

と書いています。昔、高森会長からよく聞いた話と瓜二つです。
一方『歎異抄をひらく』には、

 では「ただ念仏して」とは、どんなことなのであろうか。
「ただ」とは、”ただ”もいらぬ”ただ”じゃったと、無条件の救いに驚き呆れた”ただ”である。

と書いています。高森会長の無二の解釈は、奇跡的にも大沼師と同じです。

もちろんここだけのことではありません。高森会長の著書と説法の内容のありとあらゆるところで、奇跡的に大沼師が同じことを先に言っていたのです。

高森会長にこのことを尋ねてみればその答えは、やはり

知らん

でしょう。

もし事実誤認があるなら、訂正しますので、いつでも仰ってください、高森会長。

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