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2011年6月

2011年6月30日 (木)

地獄に堕ちるぞ、と脅す人物こそが地獄に堕ちるのです

何1つ反論できずに論点ずらしは、親鸞会の常套手段です。負け犬の遠吠えしかできない者が、誤魔化しの為に必死にブログを書いていますが、以下の質問に答えたら、相手にしますよ。

(再掲)

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

それと、

「地獄一定」が万人共通

とまで断言するのであれば、龍樹菩薩が御自身のことを地獄一定と仰ったお言葉を出してからにしなさい。曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

も出しましたが、それを「地獄一定」と誰でも解釈できる根拠を出してみなさい。

さて、法然上人が地獄について言及された箇所は少ないのが実情で、しかも一般大衆が地獄に堕ちるとは仰っていません。どこかの会長のように、大衆を脅すことももちろんされていません。そのことはすでに、

「清森問答」
親鸞会教義の相対化・75(投稿)

で、浄土宗の僧侶が説明していますので、紹介しておきます。

>「一。誹謗正法は、五逆のつみにおほくまさりと申候は、ま事にて候か。答。これはいと人のせぬ事にて候。」(真宗聖教全書四P657)

 これは「一百四十五箇条問答」の中の一つで、『義山上人の『和漢灯録日講私記』五によれば、宮廷貴族に仕えている女房と法然上人との問答と言われていますが、中には尼僧や男性からの問いと思われるものも含まれています。了恵道光上人の『和語登録』にも収録されていますので、比較的信憑性のあるテキストであると言えます。

 試みに訳してみると、

Q 誹謗正法は、五逆罪よりも遥かに重い罪であるというのは、本当でしょうか?
A これ(誹謗正法)は、人がそんなに犯さない罪である。

※「いと」は下に打ち消しの語を伴って「そんなに~ない」と訳す。

となります。

 これは既に相対化・10でも述べましたが、法然上人は「正如房へ遣わす御文」において、

五逆十悪の重き罪造りたる悪人なお十声一声の念仏によりて往生しそうらわんに、
まして罪造らせおわします御事は何事かそうろうべき。たといそうろうべきにても幾程の事かはそうろうべき。この『経』に説かれてそうろう罪人にはいい比ぶべくやはそうろう

と述べおられ、現実の不条理に苦しんでいる人に対して、

 あなた方は自分が罪深い、罪深いと考えているが、実際に何をしたというのか。
 親を殺したのか、仏を傷つけたのか、何もしていないではないか。
 経典に述べられるような罪人と比べると、大した罪など犯していないではないか。

というように過剰な罪業観に悩むことがないとお説きになっています。

 さらに「十二問答」においては、

かの三宝滅尽の時の念仏者と当時の御房達と比ぶれば、当時の御坊達は仏のごとし

というように、末法万年後の人間と比べたならば今のあなた方は仏のような存在である。と語って、不当な罪意識から民衆の心を解き放っておられます。

これらの言葉を踏まえても、

★「五逆以上に重い罪である誹謗正法は、人がそんなに犯さない罪である

と、法然上人が述べられていることは明かです。

 従って、親鸞会が「十方衆生は五逆謗法だ」と教えていることは、法然上人の教えに明かに抵触しています。

法然上人の慈悲深い人柄がよく判ります。

親鸞聖人も、異安心、邪義の者に対しては、地獄に堕ちるぞ、という言い方をされていますが、一般の人に対して、地獄行きだと脅されている箇所は全くありません。そのことは何度も述べてきた通りです。たとえば『御消息』

ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

とあると通りです。

蓮如上人についても同様です。『御文章』はお手紙ですから、異安心、邪義の者に対しては、地獄に堕ちるぞ、と厳しく誡められていますが、一般の人を地獄行きだぞと脅すために仰った箇所はありません。これについては

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(後生の一大事について)

を参照して下さい。

釈尊、歴代の善知識方も、地獄に堕ちるような者をも救うのが阿弥陀仏の18願であることを表現を変えて仰っただけです。

それを踏みにじっているのが、高森会長とその取り巻き連中です。経典にも聖教に書かれていないことをあたかも書いてあるかのように偽装し、その偽装が発覚すると、文底秘沈で理解できるのは自分だけだという厚顔無恥。表現を変えるのは自由だと言いながら、主旨までまるっきり変えて、結局は自分の私利私欲を満たすことしか考えていないという、仏法者以前に、人間として救いようがないのです。「象」と「虎」が変わっただけなら、聖教を読んだことのない無知な人物で済む話ですが、カルト教義の根拠としているから問題なのです。お判り?

高森会長を擁護する講師部員、偽装本願寺布教師は、

現在の生活を壊さないでくれ

と言っているのかも知れませんが、多くの人を騙してその人の人生を壊した罪は極めて重いのです。歴代の善知識方が仰るように、

お前たち異安心、邪義の者は、地獄に堕ちるぞ

というべきでしょう。

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2011年6月27日 (月)

龍樹菩薩も天親菩薩も曇鸞大師も「地獄一定」???

法然上人は『勅伝』第二十一に、弥陀の御本願に救いとって頂くには

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

と教えておられます。何度も解説しましたのでお判りとは思いますが、十方衆生といっても龍樹菩薩・天親菩薩のような善人から、十悪・五逆の罪人までいますので、善人に対して説かれた教えを、悪人が自分のことと思ってはならない、悪人に勧められた念仏の教えを聞いていくことで往生を遂げることができるのだ、と教えられたものです。
では、どういう時に阿弥陀仏に救いとって頂くのかについてこの後に

他力本願に乗ずるに二あり。乗ぜざるに二あり。乗ぜざるに二といふは、一には罪をつくるとき乗ぜず。其故は、かくのごとく罪をつくれば、念佛申とも往生不定なりとおもふ時に乗ぜず。二には道心のおこる時乗ぜず。其故は、おなじく念佛申とも、かくのごとく道心ありて申さんずる念佛にてこそ往生はせんずれ、無道心にては念佛す共かなふべからずと。道心をさきとして、本願をつぎにおもふ時乗ぜざるなり。次に本願に乗ずるに二の様といふは、一には罪つくる時乗ずるなり。其故は、かくのごとく罪をつくれば、決定して地獄に落べし。しかるに本願の名号を唱れば、決定往生せん事のうれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。二には道心おこる時乗ずるなり。其故は、此道心にて往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかたおこれども、いまだ生死をはなれず。故に道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはずたゞ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂べきとおもふ時に、他力本願に乗ずるなり。

と仰っているのです。
阿弥陀仏に救われるのに2つの場合があり、救われないのに2つの場合があるということです。
救われない2つの場合を

一には罪をつくるとき乗ぜず。其故は、かくのごとく罪をつくれば、念佛申とも往生不定なりとおもふ時に乗ぜず。

二には道心のおこる時乗ぜず。其故は、おなじく念佛申とも、かくのごとく道心ありて申さんずる念佛にてこそ往生はせんずれ、無道心にては念佛す共かなふべからずと。道心をさきとして、本願をつぎにおもふ時乗ぜざるなり。

とされています。
1つ目は、自分の造った罪悪を問題にして、こんな者では救われないと18願を疑っているときには救われない、ということで、
2つ目は、自力を加えなければ救われないと18願を疑っているときには救われない、ということです。
つまり悪人も善人も共に、18願を疑っているから救われないのだと教えられたのです。

一方、救われる場合について

一には罪つくる時乗ずるなり。其故は、かくのごとく罪をつくれば、決定して地獄に落べし。しかるに本願の名号を唱れば、決定往生せん事のうれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。

二には道心おこる時乗ずるなり。其故は、此道心にて往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかたおこれども、いまだ生死をはなれず。故に道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはずたゞ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂べきとおもふ時に、他力本願に乗ずるなり。

とされています。
1つ目は、地獄に堕ちるような罪悪を造った者であっても、必ず救って下さると、18願に対する疑いがなくなった時に救われる、ということで、
2つ目は、自力では迷いの世界から出ることのできないことを知り、18願によってのみ迷いの世界を出させて頂けると思った時に救われる、ということです。
つまり、地獄に堕ちるような悪人も、地獄に堕ちない善人も、18願に対する疑いが無くなった時に救われるのだと教えられたものです。

救われるか救われないかを、法然上人が18願に対する信疑で教えられたのですが、それは「道心の有無」「造罪の軽重」に関係がないということです。「造罪の軽重」ですから、「造罪の重」い人もあれば、「造罪の軽」い人も当然あります。「造罪の軽」い人も、「地獄一定」と例外なく知らされる、と解釈する愚かさを知るべきでしょう。

さて、自称本願寺の布教師が、何やらブログで書いているそうですが、聖教の御文を断章取義、捏造するのも平気な人物ですから、人の主張をも断章取義、捏造することなど何とも思っていないのでしょう。

構って欲しいのも判りますが、私の主張は

「親鸞会の邪義を正す」

に、まとめてあります。私の主張を故意にネジ曲げる卑怯な人物の相手をまともにするつもりはありません。大体、法律、倫理道徳を軽視する団体や人物と議論が成立すると思いますか?mixiでの三願転入の議論を見れば判るではないですか。

相手の質問には全く答えず、一方的に質問をし続け、それでも追い詰められると、強制退会、挙げ句の果てに、トッピックの削除。親鸞会のいつもの常套手段です。

親鸞会と無関係を装ってまで相手をして欲しいならば、前から尋ねていることに答えてからにしてもらいましょうか。

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

それと、

「地獄一定」が万人共通

とまで断言するのであれば、以前から言っているように龍樹菩薩が御自身のことを地獄一定と仰ったお言葉を出してからにしなさい。曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

も出しましたが、それを「地獄一定」と誰でも解釈できる根拠を出してみなさい。

負け犬の遠吠えが親鸞会にはよく似あいますよ。

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2011年6月26日 (日)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り26

自称本願寺の布教師が、悔し紛れにまたおもしろいことを言っているようですが、「地獄一定」は万人共通ではないことは理解できたようですので、それで充分でしょう。あとは、日本語を理解する能力の問題です。日本語は学校で習ってきて下さい。

さて、『顕真』6月号では、疑難と答えがもう1つありますが、2番目の「雑行」についての続きで、その根拠が、創作アニメといつもの親鸞会理論だけです。文証はありません。

愚かな理論ですが、一応紹介しておきます。

「雑行」や「自力の心」と言われるものは、後生が問題になり、弥陀の救いを求めて初めて現れるものだから、後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベルでは、チンプンカンプン分かるものではないのである。

 ちょうど、ヨチヨチ歩きの女の子に、産前はこうだ、産後はああだと言っても、チンプンカンプンと同じこと。
 後生が苦になり驚いて、弥陀の救いを求める心(自力の心)が起きるまで、信仰が進んでもいないのに、「雑行」を捨てよも、拾うもあったものではない。チンプンカンプン、そらごとたわごとでしかないのだ。

 だから「雑行」は、弥陀の救いに諸善を勧める、十九願よりしか現れようがないのである。
 その「雑行」が分からぬのは、十九の願の門戸にも立っていない証しであろう。
 この弥陀・釈迦の「方便の善」が分からねば、「雑行を捨てよ」を「諸善を捨てよ」「諸善は必要ない」と、誤解するのも無理からぬことといえよう。

 七高僧が捨てよと言われるのも、「諸善」や「万行」ではなく、何とかすれば、何とか助かると思って、諸善万行をやっている「自力の心」のことである。

と書いています。相変わらずですが、教学が無くても常識的に考えればおかしさに気が付かれると思います。

親鸞聖人、蓮如上人当時と比較してみました

でも書きましたが、親鸞聖人、蓮如上人がおられた当時の日本の人口は現代の15分の1から20分の1くらいでした。その中で親鸞聖人の教えを聞いていた人が関東だけで数万人、蓮如上人の時はそれ以上の人に話をされていたと思われます。親鸞会とは比べ物にならない多くの人に対して、親鸞聖人、蓮如上人は、往生・獲信のために善を勧められていません。親鸞会理論でいえば、当時の人は「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人はいなかった、あるいはいても、数えるほどしかいなかったということなのでしょう。もっといえば、親鸞聖人、蓮如上人は御著書、お手紙を後の人の為にたくさん残しておられますが、後の人は「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人はいない、あるいは無視された、ということになります。
一方で現代の人、特に親鸞会会員は、「後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」の人ばかりだから、善を勧めなければならないのだそうです。これに納得できる人は、自称本願寺の布教師と同じ知能レベルの人でしょう。

雑行が判らなければ雑行は捨てられない、など幼稚な騙しでですが、そのことはすでに

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

でも書きましたが、たとえていえば、

・タバコを吸わせて体に悪いことを知らせてからでなければ、タバコをやめさせることはできない。
・麻薬や覚醒剤をやらせて、心身ともにボロボロになってからでなければ、麻薬や覚醒剤をやめさせることはできない。
・自殺をさせてみてからでなければ、自殺を止めることはできない。

と言っているのと同じです。

これまで何回か紹介していますが、『一念多念証文』

「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

『御文章』2帖目第9通

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

が親鸞会ではチンプンカンプンなのでしょう。「余の善」と「余の仏」とは同格です。「一切の諸神・諸仏・菩薩」と「万善万行」とは同格です。
諸善に向うことも、諸神・諸仏・菩薩に向うことも共に「雑行」です。諸神・諸仏・菩薩は、親鸞会でも最初に捨てよと教えていますが、往生・獲信のために諸善をせよ、というのは、矛盾です。
なぜなら、五雑行が問題になっていない会員には、問題になるまで五雑行を勧めねば筋が通りません。筋を通すならば

寝ているものに転んだということがないように、五雑行をしていない者に、五雑行を捨てたということはありません。

となる筈ですが、これは絶対に言いません。仏教では、阿弥陀仏以外の諸仏に礼拝、称名、讃嘆、供養することも勧められていますので、諸善万行だけを往生・獲信のために勧める理由が見当たりません。

親鸞聖人は御自身の体験を『教行信証』後序

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。

と仰っています。「自力の心を捨てて」ではなく、「雑行を捨てて」と仰ったのは、「雑行」を勧めている聖道門の学僧に対する反論のお言葉です。ここで親鸞聖人は「」ではなく「」自体を捨てられて18願に救われたことを宣言なされ、法然上人の三選の文

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

の正しさを証明されたのです。
法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が捨てよと仰る「雑行」は、「諸善」「万行」そのものの「」です。それを踏まえた上で、往生・獲信と無関係なこととして世間の善である倫理道徳を本としていきなさいと教えられているのです。

従って、紅楳英顕師が30年も前に指摘されている

「破邪顕正や財施を獲信のための宿善として修せよ」とある文証は、未だに何等示されていない。

は、今でも有効なのです。出世間の善である「破邪顕正や財施」を「獲信のため」に勧められた文証を、30年後の今、示したら如何でしょうか、高森会長。自称本願寺の布教師が替わりに示してもらっても結構ですよ。

それと関連して、半年以上も答えてもらっていない以下の質問にも、簡単に答えられる筈ですけどね。

万引きという法律上の悪を犯した講師部員がいることは、誰も否定しませんのでこれを前提として話をします。(そんな講師部員はいない、というのであれば、はっきり否定してください)

会員の模範であり、宿善が一般の人よりも遥かに厚い筈の講師部員が、一般の人がしない法律上の悪をどういう気持ちで犯したのかを尋ねたいのです。それと高森会長は、宿善が厚く宿善開発したと聞いていますが、盗作や浄財の私的流用も、窃盗の一種であり、宿善の意味を知りたいのです。

聖覚法印、覚如上人が仰っていることをそのまま当て填めれば、会長とその講師部員は「宿善すくなきもの」「宿悪おもきもの」であったということです。もしそうならば、会長は宿善開発していると言えないのではないでしょうか。
あるいは、会員には廃悪修善を勧めながら、往生の障りにならないから本当は善をしなくてもいし、悪をどれだけしても関係ないのだ、と思っているのでしょうか。だとすれば、完全に謗法罪です。

『選択本願念仏集』には

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないですか。

後生も弥陀の本願も問題にならない信仰のレベル」で、しかも善もしていない「十九の願の門戸にも立っていない」人が18願で救われるのかどうかの極めて重要な質問です。誤魔化さずにお答え下さい。

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2011年6月24日 (金)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り25

『顕真』6月号では、前回に紹介したヘンテコ理論の後に、これまたヘンテコ譬え話を出して、詭弁に勤しんでいるようですが、余りにもレベルが低いので譬え話は省略します。どうしても知りたい方は、

「親鸞会のトリック」
暗示にかけようとする表現~『顕真』6月号から~

で譬え話が1つだけ取り上げられていますので、読んでみて下さい。

「雑行」についての結論として、『顕真』6月号では以下のことを書いています。

 微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀が、「われ一人助けん」と立ち上がり、「われを たのめ、必ず救う」と誓われて、幾億兆年の修行の末、十方世界の善根を南無阿弥陀仏の中に結実し、「どうか、そのまま受け取ってくれ、お前一人のために創ったのだ」と、今現在、叫び続けられているのである。

 その弥陀の本願を疑い、悪しかできぬ者とは微塵も思えず、何とかすれば、何とかなれると自惚れている心を「自力の心」というのである。
 古より、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」といわれる。
「弥陀の救いに、己の善を役立たせよう」とする「自力の心」こそが、阿弥陀仏を殺す凶刃なのである。
「雑行を捨てよ」とは、この「自力の心」を捨てよということであって、「もろもろの善をするな」「諸善を捨てよ」ということでは断じてないことを牢記しなければならない。

(原文)
 【
仏智うたがう罪ふかし
  この心おもいしるならば
  くゆる心をむねとして
  仏智の不思議をたのむべし

         (正像末和讃)
(意訳)
 「弥陀の本願を疑うほど
  恐ろしい大罪はなし
  その罪をふかく懺悔して
  本願の不思議を信ずべし」

ここの部分の字面だけを見れば、間違っていないように錯覚するかも知れませんが、「腐った頭で考えた」文章になっています。

まず、「微塵の善もできず、十方諸仏に見捨てられた極悪人と知り抜いた弥陀」とありますが、これは誰のことでしょうか?またこの善とは何でしょうか?
十方衆生が下品下生ということを親鸞会では強調していますので、これはすべての人のこととして言っている筈です。そうなると

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

は、嘘になります。龍樹菩薩が極悪人だなどというのは、外道の者の言葉でしょうし、智覚禅師が上品上生の往生を遂げられたと親鸞聖人が仰ったのも、嘘ということになります。大体、十方衆生が五逆謗法の者であると仰った善知識方は一人もありません。

これまでにこの間違いを何度も指摘しているのに、「必堕無間」と脅しをかけなければならないので、どうしても修正できないのでしょう。

また、「微塵の善もできない」の「善」とは、どんな善のことでしょうか?
これについては、いつも曖昧な説明ですが、「真実の善はできないが雑毒の善はできる」というのが高森会長の主張ですから、この高森会長の言葉を信用するなら、「真実の善は微塵もできない」という意味になって、「雑毒の善である定散二善はできる」ということになります。韋提希は定散二善ができなかったと説明していますが、結局私たちには「雑毒の善である定散二善はできる」ということで、韋提希と私たちとは違うことになり、矛盾が生じますが、どういうことでしょうか?まさか、定散二善が真実の善だとでも思っているのでしょうかね。
何度も教えてさしあげているように、下品上生以下は、雑毒の善もできない者のことですから、雑毒の善ができる人は、中品下生以上になります。

雑毒の善ができる下品下生???

ここで詳しく述べましたが、これについても一切反論できません。
高森会長の言っていることは、とにかく矛盾しかないのです。マインドコントロールされた会員以外には通用しない腐った理論です。

ついでに教えておきますと、『観無量寿経』の中で、頻婆娑羅王は目連尊者から八斎戒を授けられ、阿那含と成っています。詳しくは

釈尊はなぜ韋提希のもとへ行かれたのか?

で解説しましたが、つまり頻婆娑羅王は阿那含と成れる善人であったということです。韋提希とは明らかに機が違うのです。対機説法の意味が少しは理解できましたか、高森会長。

以上でもお判りのように、「弥陀を殺すに刃は要らぬ、腐った頭で考える」の珍教義が高森邪義なのです。

微塵の雑毒の善もできない極悪人には、「他の方便なし、ただ弥陀を称せよ」しかないのです。当たり前の理屈が判らないのが、腐った頭です。

最後に挙げている『正像末和讃』も、意味も判らず適当に出して会員を騙そうとしているのでしょうが、解釈が根本的に間違っています。
この御和讃は誡疑讃と呼ばれる二十三首の最後の御和讃です。
誡疑讃は、19願・20願を信じていることを「仏智うたがう罪ふかし」と厳しく誡められたもので、19願・20願を信じている人は報土往生はできない、化土往生しかできないことを、くどいほど教えられています。
つまり、これらの御和讃は、三願転入の教えとかいって、19願の実践に拘っている親鸞会の会員に対して、19願を捨てて、18願1つを早く信じなさい、と教えられた親鸞聖人のお言葉です。

腐った頭で考えた腐った教えを会員は聞かされ続けていますから、高森会長を捨てない限り、自力の心が廃ることはあり得えないことを牢記しなければならない。

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2011年6月23日 (木)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り24

『顕真』6月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」には、疑難と答えが3つありますが、1つ目については前々回と前回で述べました。後の2つは共に、「雑行」についてです。
いつものヘンテコ理論ですが、一応紹介しておきます。

(疑難)
「親鸞聖人は、雑行を捨てよと教えられているのだから、諸善をする必要はない。善を勧めるのは間違いだ」

(答え)
 真宗の人々に、こんな誤解が多い。もし、これが浄土真宗の教えならば、布施(親切)や精進(努力)、父母の孝養などは、必要ないからするなという、放逸無慚な怠け者を作るのが親鸞聖人の教えになるだろう。
 これらはみな、仏法で説く諸善であるからだ。

 これは全く、「雑行」というものを知らない人の発言であることは明らかだが、こんな聞き誤りが、結構多いのが現状である。
 その元は、どこにあるのか解明しよう。

「雑行」とは、「弥陀の往生浄土の救いを求めてする、もろもろの善」をいうのである。
 仏教で説かれる「諸善」が、悪いはずがないのだが、なぜその「諸善」を、「雑行」と嫌い、捨てよと言われるのか。

 それは「自力の心」で行うからである。「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。

当ブログをしっかり読んでいる割には、以前と全く同じことしかいえないのですから、やはり無能集団なのでしょう。

「雑行」と「自力の心」については当ブログで5月に集中的に解説しておきました。

「雑行を捨てよ」とは、親鸞会の主張する善の勧めを捨てよ

親鸞会の主張を徹底的に否定されたのが親鸞聖人

「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます

雑行の意味も知らない喜劇の主役

18願の「十方衆生」の意味さえ知らない

後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉

高森会長の雑行の勧め

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

これらを読みながら、同じことしか言えないのですから、これ以外には、ヘンテコナ譬え以外は思いつかないような知能なのです。「雑行」というものを知らない人のために、高森会長が過去にどんなことを書いているのか覚えていないでしょうから教えてさしあげます。
『会報』5集には

雑行とは第十九願では修諸功徳『観無量寿経』では定散二善、三福九品、その他では諸善万行、六度万行、万行諸善、一切諸行といわれているものである。

と書いています。今ではいろいろと訳の判らないことを言っていますが、『会報』に書いてある通りのものが「雑行」なのですから、高森会長も講師部員も「雑行」を勧めていることは名実共に間違いないことなのです。
もちろん、高森会長は自分で何を書いたのかよく判っていないと思います。なぜならこれも盗作だからです。

大沼師の『法界』には

雑行とは第十九願では修諸功徳、観経では定散二善、三福九品、その他では諸善万行、六度万行、万行諸善、一切諸行である。

とあります。見事に一致しています。理解もせずにまる写しているから突っ込まれるのですが、19願、定散二善、諸善万行は、「雑行」以外の何物でもありません。一応説明しておきますと、これらの「雑行」は、「自力の心」を必ず伴うものです。「自力の心」なしでは成り立ちません。

「自力の心」のない善を、世俗の善というのです。ですから、蓮如上人は『御文章』3帖目第13通に、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

という言い方で、倫理道徳である儒教の善を往生・獲信とは無関係に勧められているのです。『顕真』でいっているように、仏教で説かれる「諸善」を勧められていないのです。なぜなら、それが「雑行」であるからです。
従って、親鸞会がもし本気で善を勧めたいのであれば、蓮如上人と同様に、儒教の善(仁・義・礼・智・信)を勧めるでしょう。しかし、これらは言葉では勧めていても、実際には”後生の一大事のためには、世間事を犠牲にしてでも”と倫理道徳の善を反故にする”悪の勧め”となっているのです。

当ブログでは、根拠に基づいてしか説明をしていません。その根拠に明白に反する主張を高森会長と親鸞会が続けているのには、理由があります。
倫理道徳の善では、お金も人も集められないからです。実に判りやすい思考です。

親鸞聖人、蓮如上人の教えられた通りに話をするつもりが少しでもあるならば、

・三願転入の教え
・宿善論
・善をしなければ信仰が進まない
・微塵の善もできないものと知らされるまで善に励まなければならない

などの「自力の心」を捨てて、法律を守り、親兄弟子供を喜ばせ、職場や学校の関係者から好かれるような言動をしなさい、ボランティアに積極的に参加しましょう、と言えばいいのです。

まあ、盗作・浄財の私的流用・不倫・万引き・惨敗法論の捏造改竄等を平気で行っているような面々には、無理な話ですね。頭の中は、どうやって会員を騙し続けて、お金を捲き上げるか、しかないのです。

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2011年6月21日 (火)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り23

『顕真』では、釈尊と韋提希とのやりとりについて、創作アニメと表現を変えているところがあります。よく読んでみると、大沼師の『方便より真実え 浄土真宗』からのパクリでした。とことん節操のない団体です。
2つを並べてみましょう。

『顕真』の続き

『観無量寿経』には、王舎城の悲劇の主人公、心想るい劣の韋提希夫人に、「弥陀の浄土へゆきたくは定善をせよ」と、まず、釈迦は定善十三観を説かれている。
 頭から、”極悪人のそなたに何ができるか”と本当のことを言っては、どんな者でもハラを立てて聞かないから、初めは、善人扱いされている。そして”そなたに定善できるかな”と、相手の心を慎重に窺っていられるのである。

 韋提希は釈迦の説法中も、「あんな不孝者の阿闍世を育てるでなかった」「あの提婆さえいなかったら」と、心の中で彼らを切り刻み惨殺している。
”これでは、心を静めて、阿弥陀仏を念ずる定善どころではない”と、韋提希は深く反省せずにおれなくなる。
 そんな韋提希に”定善ができねば散善を”と、釈迦は、九品を並べてみせられる。
 上品上生は、とてもじゃないが、中品下生の父母の孝養さえおぼつかない。
 誰よりも、かわいいはずの吾子でさえも、心の中では殺している。親など殺すは朝飯前の自己を知らされ、韋提希夫人は恐れおののく。

 定善、散善ともに落第。箸にも棒にもかからぬ下品下生の極悪人と照らしだし、弥陀の十八願、真実の救いに値わすのが、『観経』一巻の教説である。

一方、『方便より真実え 浄土真宗』では、

『観経』でも、浄土が見たければ定善観をせよと十三観を説き、韋提希の腹を照らして見せておられるのです。お前は定善ができるかいと心を覗いて見らるると、釈尊の説法を聞きながらも、阿闍世を育てるのではなかった。提婆の奴が阿闍世をそそのかして、私をこんなめに逢わしていると、心のなかでは相手をむしり殺しているではないか。これでは到底、観念のできる柄でないことを自覚するのです。観念ができないとすれば、散善をせよと九品を並べてみせられるが、自分は上品上生は及びもつかない、中品下生の孝養父母さえもできない、大切な自分の子供さえも心のなかで殺しているのだから、親など平気で殺しているのだ。詮じつめてみれば、自分は下々品の人間ではないか。それなら定善散善ともにできない、箸にも棒にもかからぬ人間だと自覚さして、こんな悪性な人間は、念仏より他に救われる道がないと自覚さすのが、釈尊の調機誘引の説法ではありませんか。

誰が見ても言い訳のできない明らかなパクリでしょう。使えるものは何でも使うの理念は結構ですが、これだけパクリについて非難されていながらも、なおパクリ続ける。しかも『方便より真実え 浄土真宗』を直接読んだのではなく、当ブログの5月28日のエントリー

パクリでもない『観無量寿経』とは無関係のお伽話

を読んでのパクリでしょうから、余りと言えば余りの節操のなさです。
『観無量寿経』でも、また創作アニメでさえも韋提希は散善を実践していないのですから、『顕真』との整合性が取れないのです。
大沼師は善ができると自惚れている人が善のできないと知らされる過程を、便宜上韋提希に置き換えて敢て説明をしただけなのですが、それを韋提希個人の体験として話をしたら矛盾以外の何物でもありません。韋提希は、定善もしていませんし、散善を説かれる前に獲信しているのですから、散善もせず、散善のできないものと知らされて救われたのではありません。当たり前のことです。

会員は、この『顕真』の説明を読んで、アニメとの違いを疑問に思わないのでしょうか?

後の問答でも、韋提希が散善を実地にやらせで落第であることを知らせたとあります。
トップが狂っていますから、言うこともころころ変わりますし、この原稿を書いた講師部員も大沼師の著作をパクッて、本当に狂っています。

くどいようですが、一応説明しておきますと、龍樹菩薩のように聖道門の修行ができる方もあれば、善導大師のように定善ができる方もありますし、親鸞聖人が仰っている上品上生の往生を遂げられた智覚禅師のような方もあるのです。聖道の修行のできる人に聖道門を説かれ、定善のできる人に定善を説かれ、散善のできる人に散善を説かれた対機説法ということです。どこにも何の矛盾もありません。
実際、『観無量寿経』は韋提希だけに説かれたのではなく、『法華経』の説法を聞いていた聴衆にも説かれているのです。

王舎城の悲劇が善巧方便

でも書きましたが、『観無量寿経』は韋提希のいる牢で説かれた後、耆闍崛山で再度説かれています。

そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説く

(現代語訳)

こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。

定散二善が、聖道門の人のために説かれていることは、ここでも判ります。定散二善は聖道門の人、定散諸機のために説かれ、念仏は悪人のために説かれていることが『観無量寿経』を読んでも判ります。

猿でも判るように言えば、『観無量寿経』は聖道門の人や善凡夫に定散二善を説かれ、悪凡夫には念仏が説かれてあるということです。これを間違えて、悪凡夫の為に定散二善を説かれたと珍解釈をして信じているから、信心決定できないのです。
これを法然上人は『勅伝』で

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

と御教説くださっているのです。

『観無量寿経』も『観無量寿経疏』も読んだことがなく、また読めるだけの能力もなく、大沼師の著作を当ブログからパクルことしかできない無能集団では、今回のエントリーも理解不能でしょう。

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2011年6月20日 (月)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り22

書くのも馬鹿らしくなるほど、『顕真』6月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」は、幼稚な内容に終始していました。
問答形式になっているのですが、当ブログ及び「親鸞会の邪義を正す」の真似をしているようです。しかし、答えの根拠が文証ではなく、高森会長創作「王舎城の悲劇」で、笑えます。
『観無量寿経』に説かれていることについては、『観無量寿経』『観無量寿経疏』に基づいてこれまで当ブログで何度も何度も述べてきましたが、親鸞会の根拠は『観無量寿経』でもなく『観無量寿経疏』でもなく、親鸞会の創作珍説アニメです。

根拠はこれしかないのでしょう。マインドコントロールの会員にしか通用しない根拠です。

同じことの繰り返しですが、復習の為に『顕真』を少しずつ見てみましょう。

(疑難)
「弥陀の十九願は、聖道門の人を浄土門に導くためのものである。十八願の救いを求める人には必要ない」
「十九願は、聖道門に行き詰まって悩む未熟の機(人)を調育するためのものである」
「十九願の相手は、廃悪修善して浄土に往生しようとしている善機(善人)である」

(答え)
 十九願とか自力と聞くと、多分、家や欲を捨てて深山幽谷に入ってする、難行苦行を想像するのだろうが、大きな誤りである。
 弥陀が十九願を建てられた対象は、あくまでも「十方衆生」であって、決して特定の人たちではないのである。
 だから、親鸞聖人も、
「既に以て、真仮みな是れ大悲の願海に酬報せり」
と、『教行信証真仏土巻』に教授なされている。
 十九願の相手を聖道門自力の行者と思う間違いは、『観無量寿経』の韋提希夫人を知るだけでも分かるはずである。
『観経』は、弥陀の十九願を釈迦が解説されたものであるからだ。

とあります。
珍しく、親鸞会批判者の主張を正確に記していましたので、その点は感心なことです。もちろん、主張には根拠があるのですが、それには全く触れてはいません。触れることもできないでしょう。なぜならここに出してある親鸞会批判者の主張は、親鸞聖人が仰ったことそのままだからです。

この議論がmixiで、こうへい氏(H田講師)及び高森会長が退会者と法論をしてにボロ負けの末逃亡し、挙げ句の果てにmixiのトピックごと削除しなければならなかった程の、親鸞会にとっては極めて都合の悪い大惨敗法論でした。
そこまで恥を晒しながら、まだ同じ主張を繰り返しているのですから、厚顔無恥なのか、強欲のなせる業でしょう。

この”疑難”の根拠については、当ブログでも相当述べてきましたが、

「親鸞会の邪義を正す」

”三願転入の教え”の誤り1

会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善)

でまとめてありますので、確認されたい方は、そちらを御覧下さい。

『顕真』6月号では、この反論として唯一の文証『教行信証』真仏土巻のお言葉を出していますが、意味が全く違います。前後も紹介すると

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。

(現代語訳)

方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。

ここのどこを読んだら、19願を建てられた対象が特定の人たちではない、という意味になるのでしょうか?
阿弥陀仏のお慈悲によって、報土往生だけでなく、報土に往けない人をも化土に往生させて頂ける、という意味です。つまり、化土往生を否定する高森会長の説とは真逆のことを親鸞聖人が仰っている根拠になるのです。何を血迷っているのかと言いたいです。
同じ意味のことを『末灯鈔』

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。

(現代語訳)

仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。

と教えられています。化土往生できることを親鸞聖人が強調されている御文なのですが、そんな簡単なことさえも理解できない程の御粗末頭脳では、『観無量寿経』など読める筈もありません。
『顕真』では、この後、アニメ「王舎城の悲劇」の内容を書いているだけです。『顕真』4月号でも創作アニメを根拠としていましたので、本当にこれしかないのです。
詳しくは

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り16

を読んで下さい。『観無量寿経』『観無量寿経疏』と創作アニメとは、似て非なるものなのです。
大沼師のものとも異なります。そのことは

パクリでもない『観無量寿経』とは無関係のお伽話

で述べました。

それにしても文証を出せば全く理解できない無能振りをさらし、文証が出せないときはどこにも通用しない創作珍説だけの新興宗教教祖レベルの高森会長を公表しているだけ。

日に日に親鸞会のレベルが下がって行くようで、嬉しくもあり、情けなくもあります。

そのうちよくある新興宗教のように、オカルトや超能力要素が加わってくるかもしれません。

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2011年6月16日 (木)

”ただ”では救われない高森会長の教え

『歎異抄をひらく』の

”ただ”もいらぬ”ただ”じゃったと、無条件の救いに驚き呆れた”ただ”である。

は、大沼師の『親鸞聖人に聴く』の

唯という言葉もいらないたヾです。無限の慶びのある唯です。

からのパクリであることは明白ですが、『歎異抄をひらく』の”ただ”に大沼師の漢字を当て填めてみると

”唯”もいらぬ”ただ”じゃったと、無条件の救いに驚き呆れた”唯”である。

ということになります。大沼師は、18願の救いには善も悪も何も要らない念仏だけ、ということが言いたかったことが判ります。
これは『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

であり、『教行信証』化土巻・要門釈

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

そのものです。大沼師は、親鸞聖人の教えと外れた主張をしている訳ではありません。

ところが高森会長は””よりも、””に拘ったのです。救われる一念には、善は要らないが、その一念に至るまでは””ではないぞ、””より高いものはない、当然相当の善(お金)が必要だぞ、と会員に思わせたい訳です。

それが宿善とか方便の善とか19願とか、言葉を変えて言っていることです。

たとえていえば、信前と信後を隔てる関所を通るにはお金は要りませんが、遠い遠い遥か彼方の関所に至るまでは大金を積まないと到達できないというようなものです。
関所を通るのはだが、関所まではではないなら、結局はではないのです。
でも同じです。関所を通るのは念仏だが、関所までは念仏以外の行が必要なら、結局はではないのです。

『往生要集』のお言葉を、

極重の悪人は、救われるには念仏しかないが、救われる道中には善という方便が必要だ

などとどうしたら解釈できるのでしょうか?

少し考えてみれば簡単に判るトリックなのです。

これまで何度も述べてきましたが、高森会長も会員も漸教頓教の違いさえ全く判っていないのです。

関所が遥か彼方にあるのではなく、目の前にあるから、平生業成と言われるのです。関所が遥か彼方にあるのに、現在ただ今関所を通れますよ、と言うのは嘘です。
完全無料ですよと言っておきながら、実はその前にはお金を払ってもらわないといけません、というのは典型的な詐欺商法です。

親鸞聖人が、と言われたら最初から最後までなのです。と言われたら最初から最後までです。と言われたらです。親鸞聖人は、騙したり、誤解するような回りくどい言い方はされていません。

それにも関わらず、因果の道理が、善の勧めが、宿善がどうのこうのといっているのを仏智疑惑というのです。『正像末和讃』誡疑讃には

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる


(現代語訳)
善悪の因果を信じる行者は、
仏の智慧の言葉に尽くせないほど不思議の本願を疑って
疑城胎宮に止まるので、
真実報土の仏・法・僧から離れてしまうのです。

自力の心をむねとして
 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳
 三宝の慈悲にはなれたり


(現代語訳)
自力往生の心を最高のよりどころとして、
想いや言葉に尽くせない仏の智慧の本願のはたらきを信じないので、
方便化土の疑城胎宮に生まれて五百年もの間、
阿弥陀如来の三宝の慈悲から離れ、 閉ざされているのです。

とある通りです。何度もいいますが、この仏智とは18願のことであり、18願を信じないで因果の道理を信じて19願修善、20願自力念仏に拘っていることを「仏智不思議」を疑うと仰っているのです。
19願も20願も要らない、18願だけだ、とこれだけ繰り返し繰り返し親鸞聖人が教えられているのに、まだ文句を言うのは、「仏智不思議」を疑う罪よりも重い、「本願毀滅」の罪です。
『高僧和讃』善導讃

本願毀滅のともがらは
 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて
 ながく三塗にしづむなり

(現代語訳)
本願を討ち滅ぼそうとする人は、
ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、
長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と仰っています。
毀滅」の左訓には

そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり

とあります。

高森会長の教える法は勝り、また親鸞聖人の仰った通りの法は賤しというのを「毀滅」というのです。あるいは、もっと酷い「念仏誹謗」かもしれません。

毀滅」「念仏誹謗」に勤しむ親鸞会会員は、報いを受ける覚悟がありますか?

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2011年6月14日 (火)

高森会長の「知らん」

高森会長は、都合の悪いことはよく「知らん」といいます。その「知らん」の意味は、『歎異抄をひらく』で書いていることと同じです。
『歎異抄』第2章

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

の「総じてもつて存知せざるなり」を、『歎異抄をひらく』では、

知りすぎた知らん

と解釈して、他の解説書でこのように書いたものがないと今でも自慢しているようですが、

そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長

でも述べましたように、これは単に珍解釈なだけです。正しい解釈をするならば、『執持鈔』と比較すべきです。自力でもない無力でもない他力の信心を、「総じてもつて存知せざるなり」と表現なされているのですが、異安心の人には理解できないのでしょう。

ところで、実はこれと同様のことを大沼師がすでに言っています。『法界』には

 各々十餘箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして乃至親鸞におきては、ただ念仏して等と仰せられてある歎異鈔の第二節目を味はって見よう。
 文面を読んで調子を合わして喜んでいる者もおれば、書物の裏に溢れている真意を諦得して感泣している者もいる。各自各様に味はっているのだから皆本当だ、私はこう味はう。
 「親鸞におきては、ただ念仏してとあるのだから、訳も理屈もいらぬ、唯素直に念仏すればよいと言う人もあるが、それも結構。而し、次の方の文句、念仏はまことに浄土にむまるたねにてやはんべるらん。また地獄におつる業にてははんべるらん、総じてもって存知せざるなりと書いてあるのを読んだ程度の低い素人同行が、聖人様は念仏は浄土に生るる種やら地獄に堕ちる業やら知らんと仰有ったが私も知らんのだから丁度よいと言ったが、それでよいのか、知らないようが違いはせぬか、素人は何にも知らないのだ、聖人のは知って知って知りぬいて不思議の境地、无我の天地を諦得したときの我執を離れた世界だから、知らんように、天地の相違の有る事を知らなければならない。

とあります。高森会長は、大沼師がこのように書いていたことを知らなかったのでしょうか。
高森会長にそのことを尋ねれば、

知らん

と言うでしょう。でもその意味は、

知りすぎた知らん

ということです。
ただし大沼師も書いているように、これは大沼師の味わいです。大沼師はこのような味わい表現が多いのですが、それを教義解釈とすると問題があります。尤も高森会長にとっては、問題があろうがなかろうがお構いなしでしょう。

知らん」ついでに言えば、豊田商事の悪徳商法が社会問題になり、永野会長が刺殺された時、永野会長と高森会長との関係について高森会長は、

知らん

と言っていましたが、これもやはり

知りすぎた知らん

ということだったと裁判でも明らかになりました。

もうひとつ言えば、高森顕徹と名乗る人物の獲信体験記が昔昔の『華光誌』に載っていますし、高森会長の母親を含めた5人の獲信体験記を高森顕徹と名乗る人物が編集した『獲信の記録』があります。
現在の高森会長の主張と違っているこの2つの資料について、ある会員が支部長に尋ねたところ、

本当に高森先生が書いたものかどうか判らん

と言ったそうですが、「高森先生の書いたものではない」となぜか言えないところが、やはり

知りすぎた知らん

なのでしょう。

それにしても高森会長も講師部員も親鸞会でしか通用しない”高森語”を使って、人を騙すことにせっせと励んでいるのですから、恐れ入ります。いつまでも騙しきれると本気で信じているのでしょうかね。

ついでのついでに、「知らん」に関連して、これもまた高森会長が自画自賛している「ただ念仏して」の解釈についても、大沼師はすでに書いています。全部紹介すると長いので抜粋すると、『法界』には

 聖人の「ただ念仏して」のお言葉の前後をよく検討しなければならない。
(中略)
 同行よ!!文面を読むだけではいけないぞ、あなた方は「ただ念仏」するだけで満足が出来たか、信楽開発の一念を突破せずに「ただ念仏」するのは他人の信仰を眺めているだけの自力の称名だ。信楽開発の一念以後の「ただ念仏」するのは无我の境地からあふれる他力の称名だ。
 ただはただだがただになる迄聞かねばただではない。ただただと言っているのはほんのただ、ただの中にただがある。无限のただはただのただ。

とあります。

また『親鸞聖人に聴く』では親鸞聖人(○)と大沼師(△)との問答形式で

 △ 真宗ではたヾ念仏すればよいのですか。
 ○ 自分は宿善が厚い、素直な人間と自惚れている間は、只の只です。本当はそんな簡単な只ではなく、八万の法蔵を読み破ったときは唯という言葉もいらないたヾです。無限の慶びのある唯です。
 △ それでは私たちの只は、唯ではないたヾですか。
 ○ その通りです。只と思うている只と、唯となったときとは、桁が違います。
(中略)
私の機の0と仏様の法の10とが一体になったから機法一体、仏凡一体、仏智満入、真如一実の功徳宝海といえるので、この唯の中には無限の喜びのある唯であります。

と書いています。昔、高森会長からよく聞いた話と瓜二つです。
一方『歎異抄をひらく』には、

 では「ただ念仏して」とは、どんなことなのであろうか。
「ただ」とは、”ただ”もいらぬ”ただ”じゃったと、無条件の救いに驚き呆れた”ただ”である。

と書いています。高森会長の無二の解釈は、奇跡的にも大沼師と同じです。

もちろんここだけのことではありません。高森会長の著書と説法の内容のありとあらゆるところで、奇跡的に大沼師が同じことを先に言っていたのです。

高森会長にこのことを尋ねてみればその答えは、やはり

知らん

でしょう。

もし事実誤認があるなら、訂正しますので、いつでも仰ってください、高森会長。

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2011年6月12日 (日)

高森会長と1万年堂出版の実態

少し前に、高森会長の教義は大沼師からの盗作で成り立っていることを、数回にわたって述べて来ました。そのエントリーを読まれた方から、コメントとメールを頂きました。

盗作をし続ける高森会長も問題ですが、それを知りながら放置している1万年堂出版の対応の酷い実態が浮き彫りになっていますので、許可を頂きまして、そのメールを公開します。

”きれい事”を言ったり書いたりするのは、盗作すれば誰でもできます。その”きれい事”とその反対のことを積極的にしているという御粗末さ。地獄地獄と会員を脅しながら、悪に励む愚行。
教義が狂っていますから、やっていることも狂っています。
これが、真実の団体、善を勧めている団体の正体です。会員にも1万年堂出版の読者にも、一般の人にも、広く知らしめておきたい内容です。

飛雲さま

メールありがとうございます。
ブログにコメントした木下と申します。

この度は、高森顕徹さんについて伺いたく質問しようとしたのですが、ブログを拝見して驚きました。

最初は、『光に向かって』のような素晴らしい本を書いた人が、どうしてこんなに非難されているのか、悲しくなりましたが、納得しました。非常にデタラメな人だったんですね。

私の中ではもう答えが出てしまいましたが、せっかくだから確認のため、質問致します。

『光に向かって100の花束』は高森顕徹さんの著作ではないのですね?

実は、ホームページで調べて出版社にも以下のメールを送りましたが、返信がありませんでした。

このような本が書店に並んでも良いのだろうかと思います。

飛雲さんは、このことをご存知でしたでしょうか?

なんだか、騙された気分です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
差出人: 木下守 <
●●●@gmail.com>
日時: 2011年5月29日18:03:12 JST
宛先:
info@10000nen.com
件名: よろしくお願いします。

1万年堂出版さま

いつも素晴らしい本を出版してくださり、ありがとうございます。

私は、3年ほど前に『光に向かって100の花束』をきっかけに、貴社のことを知り、
『親のこころ』『まっすぐな生き方』なども読ませていただきました。

恩を知り、感謝し、人として誠実に生きる。
たとえ都合が悪くても嘘はつかない。
ほんの少しの間だからといって、他人のものを勝手に取ってはならない。

など、日ごろから思っていることを代弁してくれているようで、
知人などにも紹介、プレゼントしていました。

今後も、このような出版活動を続けていただきたく思います。

ところで、以前『光に向かって100の花束』を貸した知人から以下のサイトを紹介されました。
http://blog.goo.ne.jp/ohnumahouryu

どうやら、『光に向かって』シリーズの元となる言葉のようで、
こちらもなかなか素晴らしいページだと思っています。

ただ少し気になるのは、その知人に
「故・大沼法龍師とあるのは高森顕徹の間違いではないか?」と言われ調べたところ、
「盗作だ」といろいろなところで書かれているところです。

http://sayonara1929.txt-nifty.com/blog/2007/08/100_80e4.html

「高森顕微」さんというのは、大沼法龍さんのペンネームなのでしょうか?

あるいは、もし本当に盗作だとしたら、貴社の出版社としての信用に多大な影響を及ぼすものと思いますので、
著者名を改めるか、事情を説明するか、絶版になさるのが今後の為かと思い、メールさせていただいた次第です。

詳しい事情はわかりませんが、私が勧めた人の中にも、
「せっかく素晴らしい内容でも盗作じゃあ台無しだ」と
憤っている人がいますので、誠実な対応を切に望むところです。

お忙しいこととは思いますが、返信いただけたら幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

●●●@gmail.com
木下 守

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
差出人: 木下 守 <
●●●@gmail.com>
日時: 2011年6月1日9:13:56 JST
宛先: "
info@10000nen.com" <info@10000nen.com>
件名: すみません。

お忙しい中失礼します。

先日メールを差し上げましたが、何かの手違いで届いていないのかと思い、再度送らせて頂きました。

『光に向かって100の花束』を知人に勧めたところ、「あんな盗作本を勧めるのは良くないよ」と言われ困っています。実際に盗作なのか、それとも誤解なのか私には分からないので、擁護しようにも出来ません。

どのように対応したら良いか、相談も兼ねて、前回のメールを再送します。

よろしくお願いします。

(前回のメール。略)

●●●@gmail.com
木下 守

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
差出人: 木下 守 <
●●●@gmail.com>
日時: 2011年6月4日8:11:53 JST
宛先: "
info@10000nen.com" <info@10000nen.com>
件名: 『光に向かって』は素晴らしいです。

以前メールを差し上げた木下と申します。
返信が来ないのは、こちらの送信が届いていないからでしょうか。

同じ内容になりますが、改めて送らせて頂きます。

私は、現役時代にいつも上司に叱られていました。「どうして俺ばかりが」、と上司への愚痴がたまり、精神的に追い詰められ、体調を崩す日が続きました。

その時です。『光に向かって100の花束』を手にしたのは。

善因善果 悪因悪果 自因自果

「はじめに」を読んだときから衝撃的でした。当時の私の苦しみは、因果の理法を知らなかったところにあったのです。人の目が無ければ放縦邪悪な行為をし、結果ばかりを追い求める愚かさに、そのとき初めて気づきました。他人には「ウソをつくな」「誠実であれ」と厳しく言い、自分でもそうしていたつもりでしたが、我が身知らずは自分であったと恥ずかしく思ったのを今でも覚えています。『光に向かって』に救われた気がしました。

それからというもの、私は、常に「因果の道理」を行動基準とするよう心がけました(必ずしも"常に"、とはなかなかいきませんが)。するとどうでしょう。仕事や人間関係において、驚くほど恵まれるようになったのです。本に書かれている通りでした。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございます。

だから、このような素晴らしい本を一人でも多くの人に、と貸し出しやプレゼントを積極的にしていたのですが、先日質問致しましたように、今、戸惑っています。

この本は高森顕徹さんの本ではないのではないか、という疑問が生じたのです。

個人的には、著者が誰であれ、内容さえ良ければ余り気にしない方ですが、このような疑惑が1万年堂さんの社会的信頼の失墜につながりはしまいか、と危惧するのです。

極端な話、仮に盗作であったとしても、大沼さんの名前でこの本を再度出版して下さったら有難いと思っています。

間違いは誰にでもあることで、それを直ちに改めれば、長い目で見れば信用回復につながると思っています。

インターネット上では色々な人が色々な事を書いていますが、是非とも『光に向かって』の内容を後世に残すことを第一に、「盗作疑惑」の件を明らかにして頂きたくメールを送らせていただきました。

もちろん、これが杞憂であればありがたいのですが、最近は、書店で『光に向かって』や『歎異抄をひらく』を見るたびに「マスコミ沙汰になったらどうしよう」と、不安な気持ちになります。

一、1万年堂ファンの願いを、是非ともお聞き入れ下さいますようよろしくお願い致します。

前回までのメールが届いていないとはあまり考えられないのですが、念のため以下に貼り付けておきます。

(前回、前々回のメール。略)

木下 守
●●●@gmail.com

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
差出人: 木下 守 <
●●●@gmail.com>
日時: 2011年6月8日9:33:17 JST
宛先: "
info@10000nen.com" <info@10000nen.com>
件名: 『光に向かって』を是非読んでもらいたいです。

木下と申します。
『光に向かって』を1人でも多くの人に、是非とも読んでもらいたいと思っている者です。

何度か質問のメールを送らせていただきましたが、返信がないのはどういうことでしょう。ホームページや新聞広告に載せる「読者の声」が多すぎて、私のような読者の声は埋もれてしまったのでしょうか。

どんなに忙しくても、お礼状は3日以内に届かなければならない。

古い人間かと思われるかも知れませんが、私はこのような教育を受けてきました。『光に向かって』に通じることで、1万年堂さんならお分かりいただけると思います。

ところが、なかなか返信がないので催促のメールを差し上げましたが、3日どころか1週間以上が経ってしまいました。

もしかしたら編集者の方々は『光に向かって』を読まれたことがないのでは?とさえ思われます。

どの会社にも、「お客様相談室」に問い合わせれば、遅くても翌営業日には返答が帰ってきます。一週間以上も待たされる非常識な対応はこれが初めてです。

パソコンの使用が一般的になった現代、学生の論文でさえ「コピー&ペースト」は禁じられています。ところがもし、大胆にも高森顕徹さんが大沼法竜さんの著作をコピーしたのであれば、『光に向かって』を最も読んでもらいたいのは高森さん、そして、このような非常識な対応をされる一万年堂さんかもしれません。

複雑な事情があるとしても、一言「それは知りませんでした。調査してみます。ありがとうございます」「それはそれで良いのです。後日改めて説明させて下さい」など、対応の仕方があると思います。

返答の意思がない、あるいは疑惑を認めた、と受け止めるのは当然のことと思いますが、いかがでしょうか?

長年愛読してきただけに、大変失望させられました。寂しく思います。こうやって、一人、また一人と読者を失うようなことなことがあれば、千年も万年も読みつがれる出版はおぼつかないでしょう。5年後に貴社が存在するかどうかも危うく思いますが、もはや私の関心の及ぶところではなくなりました。これを最後のメールとさせていただき、質問は別のところにさせて頂きます。

失礼をお許し下さい。

木下守
●●●@gmail.com

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2011年6月10日 (金)

他力信心が何も理解できない異安心集団

過去の法論に惨敗して、それをなきものとして再び愚かな主張をして誤魔化すのが親鸞会の特徴です。
地獄という単語を聖教の中で見つけると、嬉々としてブログに書いているおめでたい自称本願寺の僧侶がいますが、機の深信と罪悪観との違いが未だに理解できないとは、相当の知能の持ち主のようです。過去に各所で論破されてきたのですが、同じ内容を何度も何度も繰り返すのも無駄ですので、当ブログで書いたものを

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)

でまとめてもらっています。よく理解できていない方はそちらを読んでみて下さい。

機の深信について関連して、一つだけ根拠を付け加えるなら、曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

と仰っています。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら地獄一定になるのでしょうか?
文底秘沈の者には、曇鸞大師も地獄一定と仰っていると読めるのでしょうね。お気の毒なことです。

それにしても、親鸞会は地獄が実に軽いのです。講師部合宿での指摘の嵐程度にしか地獄を思っていないから、一般の人よりも悪に励む造悪無碍になるのでしょう。
まあ、親鸞会でいう地獄を六道と言いかえれば、概ね筋が通りますので、高森会長や講師部員が地獄と言ったときは、そのように皆さんも理解されれば宜しいでしょう。

さて親鸞会でもよく使われる『教行信証』信巻

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

ですが、これが他力信心を表わしています。『一念多念証文』では、

きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

と仰っています。無力信心は、「仏願の生起本末を聞きて」「本願をききて」がないのです。思考停止は理解する気がないのですから、聞いていないのです。自力信心は、「仏願の生起本末を聞きて」「本願をききて」だけでは物足りないとして他の要素を加えて考えるものです。この「仏願」「本願」はもちろん18願のことです。聖道門の人を浄土門に導くために建てられた19願について聞いても関係ありません。

自力では成仏もできず報土にも往けない我々のために、阿弥陀仏が五劫の思惟と兆載永劫の修行をなされて造られた名号を聞いて、疑いがない状態が他力の信心なのです。
信前と信後の違いは、この疑いがあるかないかです。

善導大師は他力信心を二河白道の譬えで教えられています。
これまでにも言っていますように、白道は他力の信心を譬えています。

そのことは「親鸞会教義の誤り」に詳しく解説されています。

宿善とは7

宿善とは8

当ブログでも、

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

”二河白道の譬え”はどう?

に書きましたので、詳しくは上記を御覧下さい。

白道が信後の他力信心を譬えられていることは、伊藤康善師の『仏敵』に登場する人物の言葉を鵜呑みにして、白道が信前の求道などと愚かなことをいう高森会長や講師部員には理解したくない事実でしょうが。

この白道について『一念多念証文』

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。

と解説しておられます。
最初の文は親鸞会でも有名ですが、この「凡夫」とは信後の人のことを説明されているのです。信後も「凡夫」であることに変わりはなく、煩悩は「臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」です。白道はもちろん最初から最後まで信後の他力信心ですから、巾四五寸の白道が広い道になることもありません。
この白道を歩むことを「一分二分ゆく」と言われていますが、それは信後に一年二年と念仏の道を進んでいくということです。
煩悩に隠されるような細い細い信心ではありますが、途切れることのない阿弥陀仏から回向された信心なのです。

従って、白道に乗ったからといって、驚天動地の体験もしませんし、特別な能力が身につくこともありません。

このように他力信心とはどういうことか親鸞聖人が言葉を換えられて教えられているのに、何も理解できていないのが、高森会長であり、講師部員なのです。

自力信心と無力信心の間を彷徨っている親鸞会異安心集団は、望み通り必堕無間となるのでしょう。なお、私がいう地獄とは、六道のことではなく、地獄界のことです。講師部合宿での指摘の嵐などとは桁外れの苦界、無間地獄で苦しんでくださいな。

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2011年6月 9日 (木)

他力・自力・無力の分際の判らぬ者達

高森会長も、講師部員も、もちろん親鸞会の会員も、他力信心・自力信心・無力信心の違いが判っていないために、頓珍漢な信心に陥っているのです。

他力信心について、親鸞聖人は様々に教えておられますが、晩年に自然法爾ということを仰っています。

『末灯鈔』

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。

 「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。

 無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

(現代語訳)

 「自然」ということについて、「自」は「おのずから」ということであり、念仏の行者のはからいによるのではないということです。「然」は「そのようにあらしめる」という言葉です。「そのようにあらしめる」というのは、行者のはからいによるのではなく、阿弥陀仏の本願によるのですから、それを「法爾」というのです。「法爾」というのは、阿弥陀仏の本願によってそのようにあらしめることを「法爾」というのです。「法爾」は、このような阿弥陀仏の本願のはたらきですから、そこには行者のはからいはまったくないということです。これは「法の徳」すなわち本願のはたらきにより、そのようにあらしめるということなのです。人がことさらに思いはからうことはまったくないのです。ですから、「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」と知らなければならないというのです。

 「自然」というのは、もとよりそのようにあらしめるという言葉です。阿弥陀仏の本願は、もとより行者のはからいではなく、南無阿弥陀仏と信じさせ、浄土に迎えようとはたらいてくださっているのですから、行者が善いとか悪いとか思いはからわないのを、「自然」というのであると聞いています。阿弥陀仏の本願は、すべてのものを「無上仏にならせよう」とお誓いになっています。

 「無上仏」というのは、かたちを超えたこの上ないさとりそのものをいうのです。かたちを離れているから、「自然」というのです。かたちがあると示すときには、この上ないさとりとはいいません。かたちを離れたこの上ないさとりを知らせようとして示されたすがたを、阿弥陀仏というのであると聞いています。阿弥陀仏とは、「自然」ということを知らせようとするはたらきそのものなのです。この道理を心得た後には、「自然」についてあれこれと思いはからってはなりません。常に「自然」について思いはからうようなら、「自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」といったところで、それははからっていることになるのです。これは、思いはかることのできない仏の智慧のはたらきそのものなのです。

これは、『正像末和讃』の最後にも書かれていまして、親鸞聖人最晩年に他力信心をこのような言い方で教えられていたことが判ります。

善悪無関係の阿弥陀仏の18願をそのまま受け入れたのが他力信心なのです。

善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、そのまま阿弥陀仏の18願を受け入れるのですから、悪人が善人になる必要もありませんし、善人が悪人になるのでもありません。

親鸞会のいう、

善をしなくてもいいのなら、悪をすれば救われるのか

が如何に愚かな問いであるかこれでお判りいただけると思います。「悪をすれば」がはからい、自力の信心です。もちろん「善をしなければ」もはからい、自力の信心です。

阿弥陀仏が選択なされた18願だけでは不足だといっているのは、間違いなく仏智を疑っているのであり、自力の信心です。

また、他力の信心を賜わったならば、凡夫にはない智慧が備わる、神秘的な体験がある、というのも自力の信心です。前回もいいましたように、死後の世界が判ることもありません。阿弥陀仏の姿が見える訳でも、阿弥陀仏の声が聞こえるようになる訳でもありません。
無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。」と仰っているように、阿弥陀仏も無上のさとりも浄土も、凡夫の智慧では認識することができないのです。空だからです。
凡夫の認識できるような「かたち」のある信心を阿弥陀仏から賜わるとはからっているのが、自力の信心です。信心も空です。何か「かたち」のあるものと思っているのが、有の見と言うことができます。
地獄一定と必ず知らされると拘っていることも、そのような「かたち」があると思っているのです。判りやすい例が、龍樹菩薩に「地獄一定」という告白がある筈もなく、そのような「かたち」が万人共通でないことは明白です。
地獄へいくようなものと懺悔することと機の深信との区別さえつかないのです。

一方で、そのまま受け入れる、と言えば、思考停止ではないか、という人がいますが、思考停止は無力の信心です。思考停止は「信不具足」です。親鸞聖人は『教行信証』信巻に『涅槃経』を引かれて

信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。

(現代語訳)

信には二種がある。一つには、ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、二つには、よくその意味内容を知って信じるのである。ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。

と教えられています。思考停止している親鸞会の会員は、無力の信心ともいえます。無力の信心は無の見ともいえます。

まとめれば、18願以外に何かを加えようとはからったり、信心に「かたち」を求めることが自力の信心、有の見です。教えがどうであろうと言われたまま何も考えずに従っていればいい、は無力の信心、無の見です。
他力の信心は、自力の信心でも無力の信心でもなく、有の見でも無の見でもありません。

高森会長、講師部員には、他力・自力・無力の分際が全く判っていないのです。

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2011年6月 8日 (水)

死後のことが判らないのに判ったふりをする高森会長

先日の降誕会の演題は、恩徳讃だったそうです。ここ2年程は外部からの教義批判に対応するために、善の勧め一辺倒の話でしたが、最近少し変わってきたのかもしれません。どんなに頑張って詭弁を駆使しても、勝ち目がないと判断したのであれば、結構なことです。

さて、高森会長は信心決定したら死後どうなるかはっきりすると未だに教えていますが、よくもそんな嘘を50年以上も平気でつけるものだと呆れます。
高森会長がこれまで話をしてきたことは、すべての人は死んだら必ず無間地獄に堕ちる、阿弥陀仏に救われたならば、そんな者を浄土に連れて往って下される、ということだけです。具体的に、無間地獄、浄土がこういう世界である、と高森会長が見たり知らされた内容で話を聞いたことは1度もありません。なぜなら、高森会長自身、死後の世界について何も判らないからです。判る訳がないのです。
信心決定しても、死後のことは判りません。判ることは、阿弥陀仏に全てをおまかせしたことだけです。そのことは何度か述べてきました。以下でまとめておきました。

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について)

『執持鈔』

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。

のお言葉を読めば明らかです。高森会長は、信心決定したらすごい智慧が備わると思わせていて、そのすごい智慧の持ち主の筆頭が自分であることを印象付けたいようですが、実は異安心を公言しているだけです。親鸞聖人、覚如上人とは全く別の信心です。

罪悪観から、自分は地獄行きと思うことはあっても、地獄の世界が判ったということとは違います。そのような体験は、他の宗教でもよく聞かれる話ですから、それと信心決定あるいは機の深信とは別のことです。

高森会長は、他力と自力の違い、もう一つ言えば自力にもなっていない無力との違いも判っていないのでしょう。死後のことについて判りやすく教えられたのが、源信僧都の『往生要集』です。

まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』(大経・下)にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

大雑把にいえば、

他力―報土
自力―化土
無力―三悪道

ということです。無力のところが他の聖教では六道になったりはしますが、概ねこのように教えられています。死後のことがわかる人物がこのように教えられないのは、如何にもおかしなことです。高森会長が、釈尊、善知識方よりも死後のことをよく判っているとでもいうのならば、これ以上何を言っても無駄でしょうから、高森教と名乗るべきです。

このように教えられているから、他力の信心を賜わったならば、報土往生間違いなしとなるのです。報土がどのような世界であるか判る訳ではありません。報土は凡夫の目に見える世界でもなければ、凡夫が認識できる世界でもありませんから、判る筈がないのです。このことは以前に「安心問答」での往生のやりとりについてコメント欄で質問を頂きました中でも言われていましたが、往生ということは無生の生ですから、我々が考えているような生ではありません。
『御一代記聞書』の中でも

無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の生は無生の生といふなり。

と教えられている通りです。聖道門の修行をして自力で智慧を体得したつもりなのかもしれませんが、浄土のことや往生が判るなどとはとんでもない勘違いです。他力と自力の違いが全く判っていない証拠です。

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2011年6月 6日 (月)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り21

最近の親鸞会では、なぜ”善の勧め”の根拠になるのか判らない『末灯鈔』のお言葉をしつこく出しています。『顕真』5月号にもあります。

煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしと申しあうて候ふらんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。

どこをどう読んだら”善の勧め”になるのでしょうか。思考停止の会員は、何を出してどうせ読まないのだから、と高森会長は会員を馬鹿にしているのです。
この御文は、悪人正機の本願であるからどれだけ悪をしても構わない、という邪義に対して、その誤りを正されたものであり、止悪のことまでしか仰っていません。
もし、親鸞聖人が往生・獲信のために善を勧められていたとするならば、このような邪義が出てくること自体おかしなことです。
親鸞聖人の”善の勧め”に反していたとした場合の言い方は、

今まで善をせよとあれだけ言ってきたのに、どんな聞き誤りをしているんだ。悪をしてもよいどころか、命懸けで善に励むに決まっているだろう。

ということになるでしょう。少なくとも善に励むよう勧める文がある筈ですが、それがなく、悪を止めるようにしか仰っていません。
このことから、親鸞聖人は往生・獲信のために善を勧められていないことが判ります。
つまり、親鸞会が出した『末灯鈔』のお言葉は、”善の勧め”を否定する根拠でしかありません。

親鸞聖人の御心を想像しますと、表現に悩まれたのだと思います。
悪に誇っている人に対して、悪を止めて善に励むよう勧めることは、仏法者として当然なことですが、そのような言い方をしますと往生・獲信と善とが関係あるような誤解が生じます。雑行・雑善を捨てよ、と厳しく教えられたことと矛盾しているように受け止められかねませんので、親鸞聖人はこのような止悪の表現になされたのだと思います。

蓮如上人もそれに苦慮されて

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

でも述べたように、『御文章』3帖目第13通に、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

と表現されているのだと思います。信前信後を問わず「仁義をもつて本」とせよ、とは儒教の倫理道徳の善を勧められたものです。この善を往生・獲信と関連づければ世福になりますので、誤解を生じる可能性も否定はできませんが、蓮如上人は「後生のためには」と別にされていることで、その危険性を回避されているのです。

以前にも述べましたが、一応世福について再度説明しておきます。

『散善義』の最初

いま三福といふは、第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。ゆゑに世俗の善と名づく。

(現代語訳)

今三福というのは、第一福は、世間の善根であり、いまだかって仏法を聞かない人が、その性質が善であるので、自然に孝養・仁・義・礼・智・信を行ずるから世間の善と名づける。

とありますように、倫理道徳の善は世福になるのですが、『往生礼讃』

中輩は中行中根の人なり。一日の斎戒をもつて金蓮に処す。
父母に孝養せるを教へて回向せしめ、ために西方快楽の因と説く。
仏、声聞衆と来り取りて、ただちに弥陀の華座の辺に到る。
百宝の華に籠りて七日を経。三品の蓮開けて小真を証す。

(現代語訳)

中輩は中行を修める中根の人である 一日の斎戒をもって金蓮華に乗る
父母に孝養する善を教えて回向させ 西方に往生する因と説く
仏が声聞衆とともに来たり迎え ただちに弥陀の蓮華座のほとりにいたる
百宝の華に包まれて七日を経る 三品ともに華が開けて小乗のさとりをひらく

とありますように、倫理道徳の善を回向するから世福になるのです。回向しなければ単なる倫理道徳の善です。
つまり、倫理道徳の善を往生・獲信と関連付けなければ雑行にはならず問題はないのです。

親鸞聖人、蓮如上人は上記のようにぎりぎりの表現をされているのですが、万が一誤解したとしても、倫理道徳の善を往生・獲信と関連付けて世福を勧める程度になる筈ですが、高森会長はこともあろうに行福である六度万行(特に布施)を強要しているのですから、誤解とかの範疇を遥かに超えているのです。明らかに、故意に教えをねじ曲げているのです。

高森会長から話を何十年聞いても獲信できないのは、当たり前のことです。捨てるべき雑行を拾わせているのですから。

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2011年6月 4日 (土)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り20

昨年3月から8月までmixiの★親鸞聖人★フォーラムにある三願転入トピックで、高森会長が陰に隠れて法論が行われました。やりとりについては、その都度お知らせして解説してきましたし、逃亡してからすでに久しいのですが、いつのまにか削除されていました。
法論自体をなかったことにしたいのでしょうが、某巨大掲示板でも、他のブログでも取り上げられていましたので、高森会長が法論に惨敗した記録は消すことができません。

もし当時のやりとりを御存知ない方は、当ブログの昨年4月から8月までのエントリーを読んでいただければ、高森会長がどれほど御粗末な法論をしてきたのか御理解いただけると思います。この法論の中で、高森会長の主張する"善の勧め"のすべてが網羅され、全てが完膚なきまでに叩きのめされていました。あれから何の進歩もありません。

さて、『顕真』5月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」には、

 もし、”善の勧めが弥陀の救いの障害”ならば、十九願は要門どころか障門であり、仮門ではなく害門となる。
 定散二善を勧めた釈迦は法敵となり、「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」と教えた聖人も、弥陀の怨敵となるだろう。

と無知な暴言を書いていますが、善知識方が教えられたことは、18願に救われるには雑行を捨てよ、ということです。雑行とは、19願であり、定散二善のことであり往生浄土の方便の善のことです。18願の救いの障害になるから捨てよなのです。

このことは

「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます

雑行の意味も知らない喜劇の主役

後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉

で詳しく説明しましたので、そちらを読まれればお判りいただけると思います。
無知な会員を尤もらしい言葉で騙すことしか考えていないのです。mixiでも出た内容で、mixiでの惨敗を消し去りたい気持ちが、痛いほど伝わってきます。

この後、方便についての詭弁を展開しています。

 弥陀の救いで「方便」「仮門」と言われるのは、救われるまでの弥陀や釈迦の教導を言うのだから、方便が”要る”とか”要らぬ”とかの議論は馬鹿げている。「産前」のない「産後」など、あろうはずがないからである。

 方便が必要なければ、弥陀は十九に「修諸功徳の願」を建立し、釈迦は『観経』で定散二善を説き、聖人が「往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり」と『和讃』されるはずがなかろう。
 的々として示すお聖教の明証は、いずれも弥陀の勧める善だから、大いに努めるよう開導されたものばかりである。

こんなことを書いているのは、自力と他力の違いの判らぬ異安心の証拠です。子供を自分で産むとしか考えられないのが、決定的な間違いです。子供を産めない人が子供を賜わるのです。親鸞会は子供を産める人しか対象にしていませんが、阿弥陀仏の救いは子供を産めない大人の女性だけでなく、子供、年配者、そして男性にでも子供を授けるものです。子供とはもちろん信心のことです。
こんな愚かな譬えで自力の教えを説いても、親鸞聖人の教えとは無関係です。

しかしながら、子供を産める女性も当然いる訳ですから、そんな女性にも子供を授けさせるために、権仮方便を施されているのです。子供を産む可能性のない多くの人にはそんな権仮方便は最初から不要です。

思考停止の会員を騙す詭弁にはなっても、思考の回復している退会者を騙す詭弁とは程遠い御粗末さです。

 実行しなければ分からぬ結果だから、弥陀が五劫思惟の末に、「力一杯、もろもろの善(功徳)を修めてみよ」と、十九の願で善を勧められたのは、我々に実相を知らせる方法が他になかったからである。

これも大沼師からのパクリ損ないですが、男性や年配者の女性は、実行しなくても子供が産めないことは最初から判り切っています。
法蔵菩薩が御修行なされたのが六度万行と聞いて、自分も同じ行を修めようと思う人には、実行させてできぬことを知らせる方便が必要ですが、法蔵菩薩と同じ行などできる訳がないと思う圧倒的大多数の人は、実行しなくてもできないことは最初から判っています。

そして最後にまたまたお笑い勘違い根拠を出して説明しています。

 ここまで進んだ十方衆生を、親鸞聖人は、こう励まされている。

(原文)
【如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらもなおもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり】
            (正像末和讃)

(意訳)
「まだ十八の願の疑いは晴れないが、十九願の善の実践や二十願の念仏称えるまで進んだのは、とても素晴らしいことである」

 自力の善を勧める十九の願から、他力の名号(南無阿弥陀仏)の大功徳を説く二十の願へ進んだのは結構だが、二十願(果遂の誓)から十八願真実へ転入せよと、十方衆生を激励される聖人のお言葉である。
 同時に、弥陀が十八願・無碍の一道へ十方衆生を教導する、方向性の指授でもあろう。

これも昨年2月に、M野講師ではないと強く否定する一会員が、当ブログにコメントしてきてボコボコニされて逃亡した内容です。
まとめた内容は

誡疑讃を19願を勧められたお言葉と解釈して、真宗界から笑われていますよ

で書きました。昨年2月当時の詳しいやりとりを知りたい方は

典型的な断章取義教学のコメント欄

から読んでみて下さい。一言でいえば、この御和讃は20願成就文を言い換えられたもので、20願の行者を誉めたのでも、もちろん19願を勧められたお言葉でもありません。その逆で、20願の行者を厳しく誡められたお言葉です。本当に真宗界から笑われてますよ。

外部からボコボコニされて暴かれた詭弁でも、会員を騙すネタとして使えるならば、使えなくなるまで使ってやろう、という、まるで賞味期限が切れて腐った食品を会員に食べさせているようなものです。

親鸞会が仏法の団体でなく、高森会長が会員の後生を考えていないことだけは間違いありません。      

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2011年6月 2日 (木)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り19

『顕真』5月号では、前回の『浄土和讃』の後、”善の勧め”の根拠が並べられています。もちろん、断章取義、曲解、勘違いでしかありません。

これまで何度も述べてきた『唯信鈔』の宿善についての断章取義も相変わらずです。『顕真』5月号ではこのように書いています。

 『唯信鈔』には、弥陀に向っての善を懇ろに、こう勧められる。

(原文)
宿善の厚きものは、今生も善根を修し悪業をおそる。宿善少なきものは、今生に悪業をこのみ善根をつくらず
                   (唯信鈔)
(意訳)
「過去世、善に努めてきた者は、今生も悪を恐れ善に向かう。過去世に善に向かわなかった者は、今生も悪を好み善には背を向ける」

と教誡し、

ここだけ見れば騙されるかもしれません。宿善の意味については

「親鸞会の邪義を正す」
宿善の意味

でまとめてありますので、読んで頂ければ結構ですが、『唯信鈔』のこの部分に関して簡単に説明しておきます。

聖覚法印は、宿善を【過去世の善根】と理解すると矛盾があることを『唯信鈔』で指摘されたのです。それが上の部分です。
この理屈で言えば五逆の罪人は「宿善少なきもの」となりますが、その「宿善少なきもの」の五逆の罪人でさえも臨終の十回の念仏で往生できる宿善があったのですから、五逆罪を造っていない我々は、「宿善少なきもの」と思うのは間違いなのです。
つまり、平生に仏法を聞いていない宿善の少ない五逆罪を造った人でさえ、往生できるのだから、平生から念仏の教えを聞いていて、五逆罪を造っていない我々には宿善がもちろんあり、五逆罪の人よりもなお往生できるといえるのです。

阿弥陀仏の18願は、悪人を救うために建てられたもので、過去世に善人であったものを救うというものではありません。過去世も現在世も善のできない極悪人を救う、これが悪人正機です。

覚如上人は聖覚法印の『唯信鈔』から『口伝鈔』

宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。

と教えられています。
覚如上人も、宿善を【過去世の善根】という意味で使うことの矛盾を仰っています。
矛盾していますよ、と指摘したところを正しい解釈として紹介する親鸞会の汚さの典型例です。

親鸞会が”善の勧め”の根拠としているのは、ほとんどがこの断章取義です。たとえていえば、

「左へ行きなさい」という人があるがそれは間違いで、正しくは右へ行きなさいだ

という人があれば、右へ行けと勧められたとするのが正しいです。しかし、「」内の部分だけ断章取義すると、この人は左へ行くように言われた、と騙すことができるのです。人を陥れる時によく使う手段ですが、高森会長はまさにこれを多用しているのです。
『御文章』で唯一の”善の勧め”の根拠としている4帖目第3通

 蓮如証人も、

(原文)
これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり
               (御文章)
(意訳)
「いやしくも仏法を聞き、人間は老少不定の身と知れば、どんな小さな善根・功徳でも修めるようにしなければならないことである」

 些細な善でもおろそかにしてはならない、と訓戒されている。

も同じ手です。これについては

私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白

等で述べました。蓮如上人が聖道門の考え方を仰った箇所ですが、それと18願とは違うと教えられているのに、やはり断章取義して蓮如上人が聖道門の考え方をされたことにしているのです。

多分以前には、この様な勘違いを多々していたのだと思いますが、これまで何度も指摘されて勘違いであったと知りながら、なおも会員を騙すための根拠に利用しているのです。

この他にも『末灯鈔』から御文を2箇所挙げていますが、造悪無碍の邪義の誡めと邪義の者に近付いてはいけないというお言葉を、”善の勧め”に歪曲しています。

完全に確信犯ですから大変に悪質なのです。

更には、会員を欺こうとこれらの御文を挙げた後、例の瀬戸物のたとえをわざわざ出しています。

これは

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

で詳しく述べておきましたので、これらを読んでもなお書いてくる厚顔無恥にはほとほと呆れます。
もちろんこの瀬戸物のたとえは大沼師からのパクリで、それは以下でも述べたばかりです。

兆載永劫の御修行を、金集め・人集めにまで貶める高森会長

このたとえの騙しの手法は、相撲で一番になった子供は、一人だけということですが、他の子供も全員力自慢と自惚れていると想定しているところであり、発想が極めて愚かでしょう。

それにしても弘宣部も教学課の講師部員も、揃いも揃って無能なのですね。高森会長に騙しの新しいアイデア1つも提案できないのでしょうかね。これでは社会に放り出されたら、全く役に立ちません。

生活の為に嫌々原稿を書いているなら、多少は同情しますけど。

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2011年6月 1日 (水)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り18

前回、『浄土和讃』観経讃9首を紹介しましたが、方便の意味がこの9首でよく判ります。

以前に

王舎城の悲劇が善巧方便

でも述べましたが、8首は善巧方便についてです。最後の1首だけが権仮方便です。
善巧方便は、真実を私たちに認識できるように表わして下されたものですので、真実そのもので立てるべき方便です。一方の権仮方便は、真実を受け入れようとしない機のためのに一時的に用いられるもので、真実を受け入れ願い求める機にとっては不要であり、捨て去るべき方便です。
親鸞聖人が、「種々に善巧方便し」と仰っているいるのは、王舎城のドラマのことです。

「雑行を捨てよ」=「方便を捨てよ」

の方便はもちろん権仮方便のことです。

ここまで理解できれば、聖道門、19願、定散二善という権仮方便が、18願での救いを願求している人に要るのかどうか、説明は不要でしょう。

さて、親鸞会が”善の勧め”・”三願転入の教え”の根拠にしている「十九の願のこころ、諸行往生なり」という頭註のある『浄土和讃』を見てみましょう。

至心・発願・欲生と
 十方衆生を方便し
 衆善の仮門ひらきてぞ
 現其人前と願じける

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

最初の御和讃は19願を単に言い換えられただけです。
次の御和讃は前回説明した通りですが、阿弥陀仏の19願意から釈尊が定散の機に対して諸善を勧められたということです。
最後の御和讃は、聖道門での諸善でも、それをそのまま阿弥陀仏に回向したならば、それはすべて「往生浄土の方便の善」、つまり雑行になると教えられたものです。
もちろん

権仮方便、雑行だから捨てよ

であって、

方便だからせよ

となる訳がないです。

『顕真』5月号では、この最後の御和讃の意訳を

十九願の諸善万行のお勧めは、弥陀が我々を救う(十八願)ためのお計らい(方便)だから、信心獲得の方便(宿善)にならぬ善はないのである

としていますが、ずれているのです。
一年前のmixiでの法論で、こうへい氏が

浄土の方便の善=宿善

といってボコボコにされましたが、同じことを未だに言っているのです。

詳しくは

「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」

「浄土の方便の善」≠「善の実行」

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり

を読んで頂ければ、親鸞会には進歩向上というものがないことがお判り頂けると思います。会員さえ騙せれば、外部から何を言われても構わない、という姿勢ですが、これこそが無二の善知識の本性です。

最後の御和讃の正しい現代語訳は

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。 けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、 浄土往生のための方便の善とならないものはなかったのである。

です。ここは聖道門の人を浄土門に導き入れるための願であることを仰ったのですが、たとえ19願に留まったままであったとしても、方便化土の利益を阿弥陀仏が与えて下さるという、意味も込められています。それが『末灯鈔』

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。

(現代語訳)
仏のご恩の深いことは、懈慢辺地や疑城胎宮といわれる方便の浄土に往生することでさえ、阿弥陀仏の四十八願の中に第十九願・第二十願として誓われているのです。そのはたらきがあるからこそ、思いはかることもできない楽しみにあうことができるのです。仏のご恩の深いことは、限りがありません。

です。化土往生を否定する高森会長には、「仏恩のふかきこと、そのきはもなし」は到底理解し得ないでしょう。自分のいうことに無条件で従った者だけが、救われるという超選民思想ですから、自分の恩を押し売りしているだけです。

先日、JR石勝線で特急火災がありましたが、車掌の指示に従わなかったために乗客全員無事でした。車掌の指示に従っていたら、死んでいた、と乗客は語ったそうですが、親鸞会も同じです。強欲で無知の指導者に無条件で従っていては、必堕無間になるだけです。退会者は異口同音に語ります。「高森会長の指示に従っていたら、念仏誹謗で無間地獄に堕ちていた」と。

現会員の皆さんは、これでも高森会長に従いますか?

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