「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます
雑行、諸善、自力の心について、前々回と前回で述べました。
このことを踏まえれば親鸞会の詭弁
雑行を捨てよとは自力の心を捨てよであって善をするなではない
は、簡単に論破できます。その言い方を、まとめておきましょう。
『教行信証』化土巻の
雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
から、
雑行=横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門
ということで、
雑行を捨てよ=19願、定散二善を捨てよ
になります。
また『末灯鈔』の
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。
から、
自力の心=余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふ
ということで、
自力の心を捨てよ=往生・獲信と善とが関係あると思う心を捨てよ
です。
つまり、往生・獲信と関連付けた善はするなということです。自力の心を捨てて、往生・獲信と無関係と思っての19願、定散二善はないのですから、19願、定散二善そのものを屁理屈捏ねずに捨てよになるのです。
ちなみに無知な講師部員が
往生を願ってない人の親孝行も散善
と実に恥ずかしいことをかつてブログに書いていましたが、中品下生とは、平生は往生を願っていない人が臨終に往生を願って、平生にしてきた親孝行を回向するから散善になるのです。回向しなければ儒教でも教える倫理道徳ですので、くどいようですが往生・獲信と無関係と思っての親孝行等の善は大いにすべきなのです。
親鸞会には難しい御文をいくつも出しても理解できないし、理解する気もないでしょうから、上記の雑行、自力の心についての親鸞聖人のお言葉だけを示せば、親鸞会の珍説”三願転入の教え”も宿善論も検証するまでもなく、親鸞会を簡単に論破できます。
ただ、
寝ていて転んだためしなし 裸で物を落とした者もなし
といつもの詭弁が次に出るでしょうから、
雑行をしていない人に雑行を勧められたお言葉を1つでも示せ
とでも言えばよいでしょう。
そこで出してくるのが、何かの1つ覚えで言い続けている『一念多念証文』の
おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。
でしょうが、これは、親鸞聖人が雑行について仰った先程のお言葉から、
浄土の方便の善
=要門
=仮門
=定善・散善
=雑行
ということです。つまり雑行をしている人に対して、
それは雑行ですよ、早く18願に帰してください
と仰っただけです。それでも負け惜しみの屁理屈を言い続ける人には、
どの単語、どの文が雑行をしていない人に雑行を勧められたお言葉になるのでしょうか?
と聞いてみれば、苦し紛れに
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ
だというでしょうが、「こしらへて」は古語辞典を調べてもらえれば判る通り「誘って」という意味ですので、ここは言い換えると
この雑行より、多くの人たちを勧め誘って、18願に勧め入れてくださる
ということですから、雑行をしている人に雑行を捨てさせて18願を願い求めさせる、という意味以外にはありません。どこにも
雑行(要門・仮門)をすすめ
とはありません。「もろもろの衆生をすすめこしらへて」です。
これを親鸞聖人の体験で『教行信証』化土巻・後序に
雑行を棄てて本願に帰す。
と仰ったのです。
蓮如上人の体験では『領解文』に
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
とある通りです。
親鸞会という雑行を捨てない限り、18願に帰すことはありませんから、早く親鸞会をやめましょう
と退会者は会員に退会を勧めてあげてください。
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コメント
親鸞聖人のお示しは「19願を通り進めば18願に到るぞ入るぞ」ではなく、「19願に居る人はそこから出よ、そこを離れよ。そして直ちに18願に来いよ入れよ」ということなのだと思います。
私は親鸞会で聞いていた時は、19願(と20願)が自力無功を知らせて自力を断ち切るお働きを担っているのだと思っていましたが、本当はそのお働きは18願の領分なのだと思います。
投稿: 広島の名無し | 2011年5月 6日 (金) 12時50分
今会に残っている人の過半数は、仏教はどころか、親鸞会の教えも理解できていません。阿弥陀仏も無視してただ会長に帰命するだけです。
会長は会長で、短い囃し文句で会員を踊らせる。
親鸞会には問題解決能力のある人もいますが、これは目の前の問題をクリアして目標を達成するという会の活動内容から説明できます。
仏教として間違っているだけでなく、自己矛盾していることが明らかにされても気づかないのは、論理的思考が全く出来ないのですね。月並みな言い方ではありますが。
それでも、人間らしい心を失っていない人ならいつか気付くかもしれません。すでに気付いた人もやはり時間は必要だったから。
投稿: | 2011年5月 6日 (金) 13時50分
私も他に多くのことは知りませんでしたが、お聖教で雑行の本当の意味を知ったときそれだけで親鸞会をやめようと心が定まりました。
結局親鸞会って言葉巧みに雑行を勧めて、皆雑行に励まされてるだけやん・・
唖然としながらもどうりで助かり難いはずだと納得して失意の中にも希望をもって親鸞会をやめた数年前、今では親鸞会の誤りもすっきりはっきり、やめることができて本当に良かったです。
投稿: | 2011年5月 6日 (金) 17時06分
広島の名無し 様
この当たり前のことを判らなくさせていたのが、高森会長です。尤も、本人もよく判っていないのでしょう。
(先の)名無し 様
これがマインドコントロールというものです。矛盾していると思っても、それは自分の理解に問題があるのだ、というように考える習慣がついてしまい、思考停止状態に陥ってしまうのです。
(後の)名無し 様
私も親鸞会を辞めようと思ってから、教義の誤りが次々と判ってきました。仕事の片手間に勉強した程度でも、親鸞会と法論するのは赤子の手を捻るように容易い状態になるでしょう。その程度のお粗末教義です。
投稿: 飛雲 | 2011年5月 6日 (金) 21時58分