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2011年5月28日 (土)

パクリでもない『観無量寿経』とは無関係のお伽話

高森会長お得意の”王舎城の悲劇”は、大沼師のパクリではないようです。
『宗訓』には

 第十九願の修諸功徳の絶対自力を開説されたのが、観経であります。この経の役割は、聖道門から浄土門に通ずる要門であります。自力の最高峰の法華経を中止して、霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人に浄土の教を説かれたのでありまして、これが凡夫の真実の機を暴露して、王宮の家庭でさえもこの悲劇がある、況んや、われわれ下々の家庭は直接刃は向けなくても、毎日毎時修羅道を演じ、毒焔を吐いて自業苦の苦しみに悩まされ、愁歎の悲鳴を挙げていることを顕わし、宗教によるより他に遁れる道のないことが説かれてあります。
 夫人は釈尊の出現に驚き、仏足頂礼、み足を頂くというインドの最敬礼をされると同時に「み仏に従兄弟でありながら殺害しようとする提婆があり、私に阿闍世という反逆の子がいて入牢されているとは、人世は苦悩の世界でございます」と泣き言を並べたが、釈尊は無言の説法、後の世の善導大師は「韋提希よ、何を不足を並べているのかい、原因がなければ結果はない。子供欲しさに、罪もない仙人を殺害しているではないか、怨み言を言ったのを恐れて、殺すつもりで劔を植えて産み落としているではないか。この恨みと呪いは、どこで償うつもりだ。入牢ぐらいなら、法を求める余裕があると、なぜ感謝しないのだ」といわれているが、人間は自分の蒔いた種を忘れて、結果に対して不足ばかり言っていますが、怨みと呪いの業報の顕われですから、宗教によって心の転換をさしていただくより他に道はありませんよ。
 釈尊から二百一十億のお浄土を見せていただき、西方の阿彌陀さまのお浄土に往生さしていただきたいと思います。私は仏力不思議でお浄土を見せていただきましたが、末代の人々はどうして見せていただきますか、と自分がすんだら直ぐに他人のことが気にかかるのが、自信教人信ですよ。
 西方に向いて端座し、日想観から雑想観まで十三の観念をすればお浄土が見えると定善観を教え、口では言わねど、韋提希よ観念ができるかい、と釈尊に心を覗かれてみれば、観念するどころかい、説教を聞きつつも阿闍世を産まねばよかったと掻きむしって殺しているではありませんか。人々も、素直な人間ではありませんよ。その立場になれば、どんな恐ろしい心が出るかわかりませんから、観念のできる柄でないことがしらされるのです。
 つぎに韋提希よ、観念、定善(心を専注すること)ができないとすれば、乱れたままでよいから善根を励みなさい。励んだ程度で、結果は開くのです。これに九品と言って、九通りの往生があるのです。上品上生、中生、下生、下生とは、三種の心を発して、経典を読み、戒行を修する程度によって往生が決まり、中品上生、中生、下生も五逆を造らず、五戒、八戒、具足戒を修し、父母に孝養する者がこの浄土に生まれ、下品上生とは、衆悪を造り慚愧のない人間が命終らんとするとき、善知識の教えによって南無阿彌陀仏と一声称えて浄土に往生し、下品中生は戒律を侵し、僧侶の物を偸み、不浄説法をしながら慚愧の心がなく、臨終に火車来現、悶死するとき善知識より阿彌陀仏の威徳を聞かされ、聞き終ると一口も称名しないで死んでも、地獄の猛火が清涼風となって浄土に往生する。下品下生は五逆十悪あらゆる不善業を造り、今臨終に苦に逼られて正気を失うているけれども、善知識の彌陀を念ぜよの教も、虚空を掴んで悶えている人間にはできるはずがない。そこで「汝もし念ずること能わずば応に無量寿仏を称すべし」と観念ができなければ称名念仏せよと、ここが観経の重点、要ポイントであります。廃観立称と言って観念せよ観念せよと指導しておきながら、できなければ称名念仏せよと観念を廃して称名を立て、易行の至極を顕わしてくださったのです。韋提希よ、どのお浄土に参る資格があるか。自分の心は、善人かい、素直な人間かい、上品の往生どころかい中品の往生も難しい、聞けば聞くほど、見れば見るほど、自分は宗教を聞く資格のない、下品下生の人間であると自覚せずにはいられないのであります。
 そのとき阿難尊者が「お釈迦さま、始めに定善を説き、次に散善を説き、最後に念仏をお説きくださいましたが、この経の要は何でありますか」と問うたのに対し「極楽国土や無量寿仏、観世音菩薩、大勢至菩薩を観ずる経ではあるけれども、もし念仏する人は人中の芬陀利華であるぞ」と観念を捨てさせて念仏に帰入せしむる巧説であります。

とあります。高森会長の”王舎城の悲劇”とは随分異なっていますが、大沼師の説明は『観無量寿経』に概ね沿ったもので、真宗界でも通用します。高森会長の”王舎城の悲劇”はどの世界でも通用しません。

これまでにも『観無量寿経』について当ブログで度々述べてきましたが、概略として

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り16

に書きましたので、見比べて頂くとよいでしょう。

釈尊が定善を説かれて、韋提希がもし定善を実践して定善のできない自分であると知らされたなら、次は定善よりも易しい散善を実践しようとするのが筋というものです。
高森会長の言うように、極めて難しい定善のできないことが知らされたとして、それで善の1つもできない地獄一定のものと知らされる筈がありません。大沼師の説明のように、定善ができなければ行福、行福ができなければ戒福、戒福ができなければ世福、世福もできなければ念仏となるのですが、高森会長の”王舎城の悲劇”では、定善だけで終っています。肝心要の念仏について全く触れられてもいません。論理の飛躍が激し過ぎるというよりも、『観無量寿経』とは全く無関係のお伽話が高森会長の”王舎城の悲劇”なのです。

大沼師は、『観無量寿経』についていくつかの著書に書いていますが、『方便より真実え 浄土真宗』には

『観経』でも、浄土が見たければ定善観をせよと十三観を説き、韋提希の腹を照らして見せておられるのです。お前は定善ができるかいと心を覗いて見らるると、釈尊の説法を聞きながらも、阿闍世を育てるのではなかった。提婆の奴が阿闍世をそそのかして、私をこんなめに逢わしていると、心のなかでは相手をむしり殺しているではないか。これでは到底、観念のできる柄でないことを自覚するのです。観念ができないとすれば、散善をせよと九品を並べてみせられるが、自分は上品上生は及びもつかない、中品下生の孝養父母さえもできない、大切な自分の子供さえも心のなかで殺しているのだから、親など平気で殺しているのだ。詮じつめてみれば、自分は下々品の人間ではないか。それなら定善散善ともにできない、箸にも棒にもかからぬ人間だと自覚さして、こんな悪性な人間は、念仏より他に救われる道がないと自覚さすのが、釈尊の調機誘引の説法ではありませんか。

と簡潔にまとめられて、当ブログでよく引用する『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

そして、『教行信証』化土巻・要門釈

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

の心を解説されているのです。
大沼師の著書には、同じ説明がいくつもありますから、高森会長が知らない筈が無いのです。知っていてあのお伽話を作るには、大変な悪意が籠っているとしか言えません。

親鸞聖人の教えは、誰が学んでも「ただ弥陀を称せよ」これしかない教えられていないのです。

親鸞聖人の教えに”善のすすめ”はある

とかの文底秘沈は、土蔵の中だけで語ってください、高森会長。

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コメント

梯勧学の「聖典セミナー観無量寿経」をよみますと、韋提希が信心決定したのは華座観の住立空中尊の見仏のときであると書かれていますが、大沼さんの説では、韋提の獲信をは下々品説法をうけての得益分中の「廓然大悟、得無生忍」とあるときであることになる、とみて、いいということでしょうか?

また、大沼説の支持は、どのくらい、ありますか?
親鸞会の「王舎城」ビデオはすくなくとも上の点では梯説と一致してると思いますが。

投稿: | 2011年5月28日 (土) 12時03分

名無し 様

『観無量寿経』を読めば、梯師の説明通りで、これが浄土門の常識になっています。
大沼師もそれを知らない筈はありませんので、そのことを踏まえて書かれていると思います。
大沼師が言われたいことは、『方便より真実え 浄土真宗』にある「それなら定善散善ともにできない、箸にも棒にもかからぬ人間だと自覚さして、こんな悪性な人間は、念仏より他に救われる道がないと自覚さすのが、釈尊の調機誘引の説法ではありませんか。」ということで、この説明のために便宜上表現をかえられただけだと思います。

投稿: 飛雲 | 2011年5月28日 (土) 12時49分

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