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2011年5月 8日 (日)

18願の「十方衆生」の意味さえ知らない

高森会長の妄想は、”一切衆生必堕無間”つまり、全人類は逆謗の一機という大前提があって、そんな者に釈尊が善を勧められ、阿弥陀仏が19願を建てられたのは、無善で逆謗であることを知らせるためだ、というものです。
この妄想については、高森会長自身が絶対に間違いないと堅く信じ込んでいたと思います。
これに、高森会長の私利私欲を満たす”善の勧め”を後に加えて、現在の親鸞会邪義の基礎ができ上がったと考えられます。

しかし、この”善の勧め”を強く主張すればする程、矛盾が噴出します。

寝ていて転んだためしなし 裸で物を落とした者もなし

という”雑行の勧め”は、矛盾の象徴でしょう。

この譬えは、全人類が起き上がることができる、物を持つことができる、という大前提がなければ成り立ちません。しかし先程の、全人類は逆謗の一機、というのとは完全に矛盾するのです。矛盾が判らない人は、親鸞会の思考から脱していないと思われます。
解説すれば、逆謗の機とは、起き上がる力もなければ、落とす物も持つことが全くできない人のことをいうのです。起き上がるとか物とかは、善のことです。善ができる人は起き上がれますし、物を持てます。しかし、起き上がれない悪人、裸で物を持っていない悪人は、全人類に含まれていないことになります。

仏教では全人類を大きく3つに分けて教えられます。

  • 聖者
  • 善凡夫
  • 悪凡夫

聖者は、聖道門を求められる人です。
善凡夫は、19願諸行往生を願い求められる人です。
悪凡夫は、善ができず、悪ばかりを造っているので、18願念仏往生しか出離の手立てはないのです。
要するに、全人類は逆謗の一機ではなく、十悪軽罪の悪凡夫もいれば、定散二善のできる善凡夫もいますし、聖道の修行に堪える聖者もいるのです。
機がそれぞれ違うから、釈尊は機に応じて八万四千の法門を説かれたのです。

走りまわる聖者、歩いたり立っている善凡夫もいますが、起き上がれない悪凡夫もいますし、動くことすらできない悪凡夫もいるのです。たくさんの装飾品や衣類を身につけている聖者・善凡夫もいますが、裸で何も持っていない悪凡夫がたくさんいるのです。
18願の救いから洩れている人はいないと言いながら、親鸞会理論では、起き上がれない人、物を持てない人は、救いから完全に洩れているのです。

つまり、親鸞会は高森会長をはじめ、講師部員も幹部会員も、18願の「十方衆生」の意味が、全く判っていないということになります。
『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と仰った意味など無視です。18願の「十方衆生」は、起き上がれ、と言われても起き上がれない人、物を持てと言われても持てない人も当然ながら含まれているのに、親鸞会理論では除かれています。
一方で、起き上がれない人、物を持てない人が最初から除かれている19願の「十方衆生」を持ち出してきて、そこに全人類が含まれている、洩れている人はいない、と言っていますが、どんなギャグなのでしょうか?
理屈が元々おかしいのです。

何度も言いますが、

皆さんは善ができる善凡夫だから善をしなさい

あるいは

皆さんは善のできない逆謗の機だから善ではなく念仏でしか救われません

なら筋が通ります。しかし、

全人類は善のできない逆謗の機だから善をしなさい

では、首尾一貫していないのです。
雑毒の善ができるが真実の善はできない、ということだと屁理屈を捏ねるかも知れませんが、真実の善ができるのは仏だけです。悪凡夫とは、雑毒の善さえもできない人のことをいうのです。
例を出せば、親鸞会でも獲信者と認定している耳四郎は、強盗・放火・殺人という法律上での凶悪犯罪をし続けていた人ですが、獲信後でさえも、善をするどころか、泥棒という法律上の悪さえもやめることができなかったのです。耳四郎は、19願とは無関係の人物であり、19願の「十方衆生」から洩れた人物です。しかし、18願の「十方衆生」からは洩れていません。

こんな単純な話さえも、当ブログで指摘するまで気が付かないというお粗末な知能しか持ち合わせていないのが、”無二の善知識”です。

寝ていて転んだためしなし 裸で物を落とした者もなし

という詭弁で会員を騙しているつもりでしょうが、よくよく考えてみれば、自分の首を絞める譬えにしかなっていません。

実際に親鸞会の理不尽な活動についていける「十方衆生」は、全人類の中で極々一部の人間だけです。親鸞会は超選民思想です。18願の「十方衆生」の意味など関係なく、会員に献金という善をさせるための名目に、19願の「十方衆生」を利用しているだけのことです。

それにしても、高森会長の説いていることは、

「仏説」は創作、親鸞聖人の教えの根基は盗作、ライバルは大作

と訳の判らない滅茶苦茶な教義です。余りにも滅茶苦茶過ぎるが故に、側近でさえも高森会長の意図が理解できず、”無二の善知識の深い御心”が自然発生的に登場したのかもしれません。

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コメント

質問です。

「悪凡夫とは、雑毒の善さえもできない人のことをいうのです」
とのことですが、私達が普通に行っている善い事は
雑毒の善ではないということでしょうか?

雑毒の善とはどういう善なのか意味がよく分からないので
教えて頂きたいです。

宜しくお願いします。

投稿: ドドリア | 2011年5月 8日 (日) 23時42分

ドドリアさんへ

この雑毒の善は、最近の高森会長の説法内容を受けての話です。
高森会長は、真実の善はできないが雑毒の善はできるのだからしなさいと勧めています。それでいて、逆謗の一機だと言っていますので、その矛盾について書かれたものです。

詳しくは
雑毒の善ができる下品下生???
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-0568.html
一生造悪とは?
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-56f7.html

を読まれるとよいと思います。

投稿: カルト反対 | 2011年5月 9日 (月) 00時52分

ドドリア 様

カルト反対さんの仰ったことです。
雑毒の善ができるとかできないとかいうのは、親鸞会独特の言い方です。
親鸞聖人が雑毒の善と仰ったのは、善に励んで仏を目指している聖道門の人、あるいは報土に往生しようとしている定散の機に対してです。あなた方のやっている善は、真実の善ではない、毒の雑じった善だから成仏できないし、報土往生もできない、ということです。
つまり、成仏、浄土往生を目的としての善が、雑毒の善になっていると否定的な意味で仰ったのです。それを雑毒の善ができるのだからしなさいと肯定的に勧めること自体がおかしなことです。これが、「雑行を捨てよ」を「雑行をせよ」にすり替えるトリックです。成仏、往生と無関係と思っての世俗的な善とは切り離して考えないと判りにくくなります。
もちろん、耳四郎のように雑毒の善云々以前の人もたくさんいます。

投稿: 飛雲 | 2011年5月 9日 (月) 07時04分

親鸞会では雑毒の善を積極的にやらせてますが、具体的には布施を勧めてますので、布施は雑毒の善ということなんでしょうかね。
ひいては「六波羅蜜は雑毒の善」とでも言い出しかねませんね。その場その場で適当なこと言ってるから矛盾が多いですね。

投稿: | 2011年5月 9日 (月) 21時59分

名無し 様

雑毒の善とは何かについて、高森会長は全く知りません。もちろん、布施行の意味も知りません。
適当なことを言っても、それを信じてくれるMC会員がたくさんいますので、益々出鱈目を言い続けるのだと思います。

投稿: 飛雲 | 2011年5月10日 (火) 06時49分

T会長は善について真面目に考えたことはないと思います。
「善をせよ」「善ができるとうぬぼれている」
など曖昧で誤魔化しのきく表現を多用することからも見て取れます。

投稿: | 2011年5月11日 (水) 00時23分

名無し 様

仰る通りですが、善だけではないです。
仏法全般について真面目に考えたことはないでしょうね。

投稿: 飛雲 | 2011年5月11日 (水) 20時44分

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