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2011年5月19日 (木)

兆載永劫の御修行を、金集め・人集めにまで貶める高森会長

約30年前の本願寺との宿善論争の内容も、そして未だに話をしている”善の勧め”も、もちろん大沼師からの盗作です。

仏教徒の鑑の様な顔をして出した七仏通誡偈は、『方便より真実え 浄土真宗』に

 人間は自惚れが強いから、自分は腑抜けではない、独立独歩でやれると思っていますから、それではどれだけ実行ができるか試してみよ、と与えられたのが善根功徳であります。だいたい仏教とは仏になる教え、その本義は「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」諸の悪を作すこと莫れ、衆の善を奉行でよ、自ら其意を清くすることが是れ諸仏の教えだというので、善因善果、悪因悪果が仏教の入り口の教えであります。これが仏教の定義、規定であります。その人その人の実行の程度が違うから、果報がみな違うのであります。

とあります。高森会長が七仏通誡偈を自分で出せる程、仏教の勉強をしていませんので、元はやはり大沼師にあったのです。

また瀬戸物の譬えは『宗訓』に

 他力の言葉の真似は易いけれども、他力不思議に後生の夜明けのできるほど難しいものはありません。第十八願の一願だけでは、絶対の境地に生かすことができないから、二階の広い座敷に出すために階段を作ってくださったのが方便の願であります。
 老人が孫をつれてデパートに買い物に行き、お客用の茶器を買ったが、孫が「僕が持つ」と言ってきかない。「こんな重い大切な物が、お前に持てるものかい」持つ持てないと喧嘩をしておれば、祖母と孫との知能テストが同様ですが、賢い祖母なら「持っておくれるかい、僕もつよくなったからね」と言って、祖母は下に手を掛けて、孫が離しても落ちないようにしている。うんうん言いながら一メートルも歩いて、もう持たない、と言って手を離す、これが第十九願の境地

とあり、『昭和の歎異鈔』には

たとえば買物の荷物を子供が持つと言ったとき、持てないこと承知の上で親が荷物の下に手をすけ、子供は真っ赤な顔をして一間くらい歩いたのが第十九の願で

とあります。この譬えを親鸞聖人の教えと照らし合わせてみたらどうなるかについては、

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り9

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り10

で述べた通りです。

六度万行も高森会長の頭から出たものではありません。同じく『宗訓』には

 諸の功徳を修し、とは諸善万行、一切の功徳善根、一切の諸行、六度万行とも言います。諸とはもろもろ、いろいろの功徳といわれ、善と名のつくものは何でも修する、実行する善根を励む。六度とは、生死の苦海を度る善根が六本あるということで、どの道でも実行しなさい、人生が易やすと通れると教えてあります。
 一、布施、普く施す。何でも他人が困っている物を施してあげる、種蒔きをすれば収穫は自分が得るのであります。それは親切がなければでいません。(中略)
 二、持戒、戒律を保てといえば難行のように思いますが、言行一致の生活をせよということであります。(中略)
 三、忍辱、忍耐強くする。(中略)
 四、精進、魚を食べるなというのではありません、人並み以上に努力せよということです。(中略)
 五、禅定、心静かに反省させていただくことです。(中略)
 六、智恵、人間の智恵でも世の中が救われますが、仏智の不思議を頂けば、この世の中が神通自在の世界となるのです。(中略)
 この六本の道を開けば万行となるから六度万行というのでありますが、実行しなければ自分に果報は向かないのです。
 六度の行は難行で、できないと始めから匙を投げておれば、立派な果報は得られないから実行しましょう、実行しただけの結果は自分が獲るのです。

とあります。大沼師は難行の六度万行を日常生活の心構えレベルまで下げて教えていますが、本当の六度万行とは、菩薩行であり、法蔵菩薩がなされた兆載永劫の行のことです。

『大無量寿経』上巻

不可思議の兆載永劫において、菩薩の無量の徳行を積植して、欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味・触・法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無礙なり。虚偽・諂曲の心あることなし。和顔愛語にして、意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦むことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利す。三宝を恭敬し、師長に奉事す。大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。空・無相・無願の法に住して作なく起なく、法は化のごとしと観じて、粗言の自害と害彼と、彼此ともに害するを遠離し、善語の自利と利人と、人我兼ねて利するを修習す。国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。

(現代語訳)
 このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み菩薩の功徳を積んだのである。
 貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。
 空・無相・無願の道理をさとり、はからいを持たず、すべては幻のようだと見とおしていた。また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになリ、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いた。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などもすべて捨て去って、すすんで六波羅蜜を修行し、他の人にもこれを修行させた。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねたのである。

六度万行と六波羅蜜は同じものですが、六度万行が法蔵菩薩のなされた行と知れば、普通は自分ができる行などとは思わないでしょう。もし自分も法蔵菩薩と同じ六度万行をやってみようと思う人があれば、その人は聖道の機です。
布施についても

三輪清浄の布施?の結末

でも述べた通り、我々にできるような行ではありません。

高森会長は六度万行の本当の意味を何も知らないのです。高森会長は、大沼師の著書以外ではほとんど学んでいませんし、もちろん『大無量寿経』を読んだこともないので、法蔵菩薩の兆載永劫の行が六度万行ということすら知らないのでしょう。

今度の座談会か法話で六度万行の話が出た際には、当ブログを意識して、

六度万行とは法蔵菩薩の兆載永劫の行だから、阿弥陀仏に救われるには法蔵菩薩と同じ道を歩まねばならない

とでも言い始めるかもしれませんね、聖道門の論理で。私たちに成り替わって法蔵菩薩が御修行なされたことも知らずに、更に墓穴を掘ることを期待してます。

それにしても、日常生活の心構えとして六度万行の真似事でもしましょう、と説くのならまだしも、布施だけを強調して、大沼師も言っていない法施、財施の実践、はっきり言えば人集め、金集めの道具にまで六度万行を貶めて使ったのが高森会長です。

親鸞聖人の教えをここまで乱用悪用した人物は、過去にも例を見ないでしょう。

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コメント

大沼氏も個性がありますが、これを「使える」と思って読みあさったのが会長だったのですね。
いくらか前に本願寺の布教使が「20願を使って、念仏に一生懸命励むという新興宗教を作ったら結構人は集まるでしょうが…」と言っていましたが、まさか聖人も浄土真宗という名で19願を使ってここまで(偽の)善を振り回す人物が出てくるとは思われなかったでしょう。その意味では確かに高森会長は本願寺の”盲点”を突いたのかも知れませんね。あり得ないから誰も考えつかない。それは呆れられますよ。親鸞会は会長が仏教の概要や浄土真宗の基本も知らないからこそできたとも言えるトンデモ教義でしたね。その作り方、大沼氏の説を利用しての真宗の悪用が見えて興味深いです。

投稿: | 2011年5月19日 (木) 08時49分

現在の随分恵まれた幸せな暮らしには、脱会後も言行一致などを実践し続けてきたとも少なからず寄与しているものと思っています。
その点、親鸞会の異様な雰囲気は決して肌が合わないが教えには正しいところがあり感謝せねばと、心に矛盾を抱えておりました。
高森氏が希代の盗作王と知らされるまでは。
今ではその矛盾も晴れ渡り、スッキリ ハッキリの感謝の日々を送らせて頂いています。
飛雲様を始め、盗作の事実を精密に実証し公表されてこられた皆様方のご努力には頭が下がる思いです。
そもそも、親鸞会の教えからパクリを差し引いてなお残るものは何なのだろう、また、未だにだまされている会員を早く救わねばと思います。
この日本の恥ずべき会を次の世代に残しては決してなりません。

投稿: 世間人 | 2011年5月19日 (木) 13時34分

名無し 様

大沼師は、本願寺から煙たがられていましたし、聖教を勝手に解釈するなど、かなり独特の存在であったと思います。その大沼師を利用して、私欲を満たすために改悪したのが高森会長です。
退会者以外は、誰も相手にしたくないでしょう。


世間人 様

以前にも書きましたが、蓮如上人は、仁義を本としなさい、と仰っても、六度万行をしなさい、と仰らなかったのは、六度万行は雑行になると考えられたから、儒教の善で敢て教えられたのだと思います。
曇鸞大師も、『浄土論註』に

もし諸仏・菩薩の、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化するものなくは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。

と儒教の善を世間の善として教えられています。日常生活の心構えを六度万行で考える必要はないと思います。

高森会長は、意味も知らない仏語を並べて、会員を騙すことしか考えていません。私も会員を救いたいので、御協力をお願いいたします。

投稿: 飛雲 | 2011年5月19日 (木) 21時02分

図らずも邪義の感染拡大の媒体となってしまった者の責任を果たさなければ。
偶像が完全に地に落ちるまで皆と連帯し見守ってゆきます。
飛雲様には、引き続き理論的先導をよろしくお願い致します。

投稿: 世間人 | 2011年5月20日 (金) 10時08分

世間人 様

こちらこそ、宜しくお願いいたします。

投稿: 飛雲 | 2011年5月22日 (日) 20時31分

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