後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉
親鸞会は、善の勧めの誤りを徹底的に論破され、苦し紛れの詭弁を繰り返すしか能がありません。
「親鸞会HP」
後生の一大事が問題にならねば、「雑行」は絶対に分からない
にこんな愚かなことを書いています。
「蓮如上人も『雑行を捨てよ』とは書かれているが、『信仰が進むから善をしなさい』とどこに勧められているか」と言ってきたら、
「では、『信仰が進むから悪をしなさい』と書かれていますか。『善をするな、やめよ』とどこにおっしゃっていますか」
と、ズバッと言えばいいでしょう。
お笑いです。もしこれで納得してしまうようならば、心配です。
「善をするな、やめよ」と仰ったお言葉は、前回までの雑行の説明で十分でしょうが、もっと直接的な御文を挙げておきます。
法然上人は『選択本願念仏集』 で
諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(現代語訳)
諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。
法然上人はここまではっきり仰ったがために、聖道門からの猛反発があったことは何度も述べた通りです。もし、諸善をして信仰を進めて、最後に諸善を捨てて念仏に帰すと仰ったならば、念仏弾圧はありませんでした。しかし、そんな高森理論を主張されることが全くなかったが故に、承元の法難となったのです。
親鸞聖人は「一向」について『一念多念証文』で
「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。
と教えられています。「余の善」「余の仏」を捨てよです。
蓮如上人も『御文章』2帖目第9通で
そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。
「自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる」と、諸善を捨てよと教えられています。
法然上人、親鸞聖人、蓮如上人は救われるためには、「善をするな、やめよ」と仰っています。親鸞会の恥ずかしい詭弁です。いや無知なだけでしょうね。
さて参考までに、倫理道徳と雑行・諸善との関係について混乱している高森会長と講師部員、会員のために、蓮如上人がそのことを判りやすく教えておられます。
『御文章』3帖目第13通に、
それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。
獲信した人も未信の人も「王法」と「仁義」を守りなさい、そして往生・獲信のためには「雑行・雑善」は捨てなさいということです。
「仁義」とは儒教に説く五常(仁・義・礼・智・信)を代表させていわれたもので、いわゆる倫理道徳です。五常については、以前に
世間・出世間の悪道を説いているのが親鸞会
で説明しておきました。信前信後に関わらず倫理道徳は守って、往生・獲信のためには布施等の善は捨てなさいです。
ところが親鸞会はまるで反対です。布施はしなさい、法律や倫理道徳は仏法(親鸞会の教え)が優先だから、そのためには嘘をついても勧誘しても構わない、親を泣かせてもよい、親を騙してお金をもらって活動費に使っても布施をしてもよい、お金を持っている人からお金を巻き上げて親鸞会へ財施することもよいこと、と説きます。オウム真理教等のカルト教団と全く同じです。
再度言っておきますと、「仁義」を往生と関連付けると散善になりますので、蓮如上人もそこは分けて教えておられます。「後生のためには…自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして」です。「仁義」は、「後生のためには」ではありません。
しかし、これも断章取義して
「後生のためには仁義をもつて本とし」と蓮如上人も仰っているから、善を勧められているんだ
と親鸞会は言うかもしれません。「王法」も「仁義」も踏みにじりながら、曲解した善の勧めという大義を翳して、親鸞会への献金と人集めを会員に強要する、それが親鸞会ですから、大いに有り得ます。
もしそのように言いだしたら、当ブログのパクリですから、著作権侵害で訴えるかもしれませんよ、高森会長。
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