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2011年5月22日 (日)

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

大沼師の三願転入論は、高森会長の三願転入論と同じかといえば、違います。大沼師の文章を読んでみると、高森会長と同じことを言っているように思われるかもしれませんが、高森会長は大沼師の主張をすり替えているのです。

高森会長の雑行の勧め

でも紹介しましたが、『方便より真実え 浄土真宗』に

これを雑行雑修と嫌な名前をつけて捨てさせているのですから、あまり残酷ではありませんか。これを生かして、真宗で使用する方法はないものかと尋ねているのです。これを味方にして利用したら、大いに活躍できますが、敵にまわしたら真宗の損失この上もないことと思います。悪くいえば、善根功徳は積む必要はない、真宗は念仏一つで沢山だといっていますが、それでよいですか、いま少し深く研究して、善根功徳を生かす方法を考えなければ真宗は自滅しますよ。
 私の考えは、往生の一段は仏力不思議で、名号を聞信する独り作用で決まりますが、生活の一段はそれは許されません。

とあるように、大沼師は往生の一段と生活の一段とを分けているのです。19願の雑行を往生の一段の雑行として勧めているのではなく、諸善を生活の一段にして利用しましょう、ということなのです。
これを高森会長は「独言」で次のように表現しています。

雑行

「もろもろの雑行をなげすてて………」
                     (御文章)

 阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。
 修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。
 原因は厳しく結果を開く。
 善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。

大沼師の表現は誤解しやすく、高森会長がそこに付け込んで更に誤解させる表現にしているのです。

大沼師の言いたいことは、18願の救いには信前信後があり、信前の求道が必要だ、ということであって、それは雑行を勧めているのではありません。
蓮如上人はそのことを弁えられて『御文章』3帖目第13通に、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

と仰っています。生活の一段として心掛けるべきことを、仏教で教えられるところの諸善ではなく、儒教の善で教えられたのは、往生の一段と生活の一段とを明確に区別されるためであったと思います。蓮如上人のように表現されれば誤解することはないのですが、大沼師の表現は誤解を招きやすく、実際に高森会長によって悪用されました。

参考までに、大沼師は『昭和の歎異抄』「結論」に19願を以下のように書いています。

 釈尊は八万四千の法門を説き、自力の出世本懐より他力出世の本懐に帰せしめ、聖人は聖道門より浄土門に帰せしめ、「如来所以興出世、唯説弥陀本願海」に誘導し、連師は「八万の法蔵を知るといふとも後世を知らざる人はいたずらごとなり」と喝破しておらるゝが、その慧眼に敬服せずにはおれません。
 最初に釈尊の自内証を華厳経に説き、高遠の理想を大衆は聞き得ず、程度を低めて阿含、方等、般若を説いて根機を調整し、四十余年未顕真実と自力の出世本懐の法華経を説き最後に涅槃経を説かれてあるが、この華厳、法華、涅槃の自力三大経は、序のごとく大経、観経、小経の他力の三部経と一致しているのであります。
 上根上智の聖道門の聖衆に対して、自力の出世本懐たる法華経を説く真最中に、浄土門の下根下劣の韋提希の請いを容れて浄土の観無量寿経を説くために、霊山法華の会座を没して王宮に降臨されたのは、宗教は為凡の救済にあることを示しておらるゝのであります。
(中略)
 この三部経を元に返せば法蔵菩薩の四十八願中、衆生摂生の願は三願あるのでありまして、第十九願に修諸功徳を誓うてありますが、これを開けば八万の法蔵となり、これを摂すれば定散二善となるから、聖道の人を誘導するために観経には定散二善が説いてあるのです。

大沼師も19願、観経定散二善の役割を「聖道の人を誘導するために観経には定散二善が説いてあるのです」とし、当ブログと同じ真宗の常識に沿った主張なのです。というよりも、聖教を読んでいたならば、これ以外に解釈のしようがないでしょう。真面目に真宗の聖教を読んで、これ以外の解釈をする人があれば、その人は知能に問題があります。

では真宗の道俗はどこにいるのかについて大沼師は20願を説明する中で、

 そこで他力の念仏に向いていながら、観経の定散二善の自力の機執が付着しているから、定心念仏、散心念仏となるのです。この定散の自心に迷うているから、金剛の真心に昏しで第十八願に転入することができないのです。
 浄土真宗の道俗の大部分は、この桁にいるのです。

と書いています。大沼師の主張は、信前の真宗の道俗は20願に留まっていることを言われたのであって、真宗の道俗に19願雑行の実践から始めよ、と主張しているのではありません。大沼師の三願転入論は、高森会長の三願転入論とは違っているのです。

高森会長も大沼師のこの主張を知っている筈ですが、大沼師の主張を断章取義して、都合のよい三願転入論を創作しただけなのです。三願転入論に関しては、無知ではなく、勘違い偽装確信犯なのです。

これまで述べてきましたように、高森会長と大沼師との関係から以下のことが言えます。

1.高森会長は善知識方の書かれた御著書を読んでいない。
2.高森会長は大沼師の著書で真宗教学を勉強したつもりになり、大沼師の間違いもそのままで、自信満々に盗作している。
3.大沼師は、生活の一段として雑行の活用法を主張した。高森会長も同じ表現をしている。
4.しかし大沼師は、雑行を勧めたのではなく、真宗の道俗に19願から始めることを主張したのでもない。往生の一段と切り離しての善を勧めた。
5.一方で高森会長は、雑行を勧め、真宗の道俗であっても必ず19願から始めなければならないと大沼師の主張をすり替えて教えている。
6.高森会長が雑行を勧める根拠は、大沼師の著書を断章取義したものしかない。

要するに、高森会長は真宗教義を正しく伝える気など毛頭ないのです。善知識方の書かれた聖教をたとえ読んでなくとも、大沼師の著書を読み込んでいたら、高森会長の説くような三願転入論になる筈がないのです。

従って、高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ないのです。

当ブログをしっかり読んでいるようですが、もし違っているところがあるなら、いつでも反論を受け付けますよ、高森会長。

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コメント

 大沼氏の著作を10冊ほど読んだ知人は、高森会長のえげつないパクリぶりにあきれ果てていました。
 その悪用ぶり(勘違い確信犯ぶり)をUPされることは意義のあることだと思います。何せ親鸞会教義の根幹とも言える内容ですから。
 このようなネット情報を会長がみて、またこちょこちょと自信なさそうに言い訳を繰り返す様を、いい加減会員は気付かないと恥ずかしいですね。

投稿: とんきち | 2011年5月22日 (日) 23時49分

とんきち 様

これだけ高森会長の実像が暴露されているのですから、会員も気がついてほしいものです。
高森会長はネットの批判をよく知っていますので、それに対して言い訳、誤魔化しの繰り返しですが、盗作に関しては言い訳のしようもないでしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年5月23日 (月) 06時50分

高森会長と同様に、19願は真宗の道俗でも通らなければならない、と教えている布教師がいます。19願が必要な理由として、浄土とか往生ということが分らなければ、往生はできないからと説明しています。浄土とか往生が分かるためには19願の善をしなければならない、つまりは浄土、往生が分かる智慧のある人以外の99.99%の人は、19願が必要だというのです。
それと、浄土往生は失肉体前のことで、それを教えるのが正しい布教だと言って憚りません。
このことを、安心問答のコメント欄(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110509/1304888965#c
に書いていました。議論は決着しておりますが、少し解説して頂けませんでしょうか。

サラ 2011/05/10 09:44
>信心が誤りならば、教えて頂ければ有り難いです。また、言動が問題ならば、指摘して頂いたほうがいいです。

どちらにしろ、そのように言って下さる方があれば有り難いことだと思います。

貴いことばですね。
大切なことなので、一つ往生について書き込みします。

「いつ死んでも浄土往生できるということです。」とありますが、「死んだら往生」「死んで往生」は誤り。

未来は永遠に未来で来ることがない。未来と当来は違うと教えられるその当来往生を信じていることを「本願を聞いて疑いない」というのでしたら、それは信ではなく疑いないではなく、邪見。死んで往生のこころは、疑いが問題になっていない状態。お釈迦さまが沙羅双樹のもとで亡くなられたのにあやかって、双樹林下往生と言われるのでしょう。双樹林下往生のこころです。


メンデル 2011/05/10 22:46
サラ様
 はじめまして。関係ないのによこからすいません。
 私は教学がなくてサラ様のコメントされている内容自体がよくわからないのですが、未来と当来は仏教学上でどのように違うのか教えていただけないでしょうか。
 また、御文章の1帖目第4通に正定と滅度のニ益があると蓮如上人は言われていますが、浄土にて得べき滅度については、この肉体のあるうちは浄土には行けないので死後の益ではないかと思うのですが、サラ様が何を問題にされているのかもっと詳しく教えていただけないでしょうか。

サラ メンデルさまへ 2011/05/12 15:18
メンデルさま

未来は、永遠に未だ来ず
当来は、まさに来たる(必ず)

>浄土にて得べき滅度については、この肉体のあるうちは浄土には行けないので死後の益ではないかと思うのですが、

「この肉体のあるうちは浄土には行けない」が邪見と佛教で教えられます。
三大煩悩はよく御存知と思いますが、六大煩悩はこれに疑・慢・悪見が加わりますね。
その悪見(不正見)は、開いて五つ。
その第一が有身見、肉体を私(我)と見ることです。

肉体は、内道ですか外道ですか?
内・外、いずれでしょうか?
佛教は内道です。
外を問題にする心を問題にするのが佛教です。

真宗も当然佛教で、通佛教や聖道を否定しているのではなく、
且閣・且抛と、これらをしばらくさしおけ、との教えです。
しばらくさしおくと、「得脱最速」(法然聖人)。

当益を失肉体後と邪見していることが邪見と知れるまで、
聴聞せよとが真宗です。この思いがしつこい。

邪見の根源は無明・疑網ですので、
破れなければ邪見は育つ一方、根本的な抜苦がなりません。
根があるうちは、流転が避けられない。

この心が知れるまではしんどいですが、
双樹林下往生の心が知れるまで、聴聞です。

「皆深著懈慢國土、不能前進生阿彌陀佛土」(化巻)
焦がした鍋の汚れがこびりついてとれないように、
懈慢の心を除こうにもとれず、弥陀の浄土へ進むことができず、
往生一定・不退転の身になれないと親鸞聖人おっしゃってます。

「失肉体後」に往生と思うこころと「疑」は根が同じのですが、
このこころを「疑」なのだとは、とても私たちには思えません。
「疑」が問題になるまで聴聞重ねると、必ず信心発起。

いかがでしょうか?
不明でしたら、おっしゃってください。

幹部会員歴数十年 2011/05/12 19:36
六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき
         (曇鸞讃)

本師源空命終時
  建暦第二壬申歳
 初春下旬第五日
 浄土に還帰せしめけり
         (源空讃)

明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。
                         (末灯鈔)

またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。
                         (末灯鈔)

その御こころざしにては順次の往生もかたくや候ふべからん。
                         (末灯鈔)


今度の順次の往生は、仏語に虚妄なければいよいよ必定とおもふべし。
                         (口伝鈔)

などなどありますが、親鸞聖人、覚如上人は、当益を失肉体後と邪見しているということでしょうか?

メンデル 2011/05/12 22:36
サラ様
質問にお答えいただきありがとうございました。
悪見の有身見で肉体を我とみていると、失肉体後に往生と思う心が出てくるが、これは疑網から起きる心であるとご説明いただいたと理解しました。
私は、邪見(すいません。悪見との違いもよくわかりませんが、同じでよろしかったですか?)は煩悩だと思っていたので、正信偈に「不断煩悩得涅槃」とあるから、阿弥陀仏の本願に対する疑いが晴れても邪見は変わらないのかと思っていたのですが、邪見は煩悩ではないということでしょうか。
それとも、邪見(悪見?)に、阿弥陀仏に救われても変わらない煩悩と、救われたら無くなるはずの阿弥陀仏の本願に対する疑情の2種類があるのでしょうか。
幹部会員歴数十年様のあげてくださったご文、知りませんでしたが、拝見すると確かに肉体を失ってから往生といわれているようです。
ということは、浄土真宗で教えられる阿弥陀仏の18願のお救いと、仏教学で言われる本来の難思議往生とは微妙に違うということでしょうか。
教学のない自分のコメントでかえってややこしくなっていたらごめんなさい。

ヘンデル 2011/05/13 00:18
サラ様にお尋ねします。
よろしくお願い申し上げます。

1、山も山さんは「いつ死んでも往生できる」と書かれたのであって、「未来(未だ永遠に来ない時)において往生できる」
と書かれたのではございません。むしろ、山も山さんは「死」を「当来(まさに来る)」として書いておられるように思いま
した。それを、山も山さんは「到来」ではなく「未来」について書いていると判断された根拠を、どうか、お聞かせください。

2、『観経』で釈尊は「われ…未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん」
と仰いました。サラ様の「未来」のご解釈によりますと、ここで釈尊は「永遠に未だ来ない世界のすべての凡夫」、つまりは
存在しない架空のものたちについて語られたということになりますが、それでよろしいのでしょうか。

yamamoya 2011/05/13 05:17
サラさんの意見は、浄土往生は、無生の生だという上での意見だと思います。往生は、肉体が消滅し、次に何かが生まれるような六道に生まれるようなことではありません。
さらに加えて、肉体という我はないということで書かれています。それ自体は仰るとおりですが、普通の会話にそれを入れるとややこしくなると思います。
この世の因縁が尽きるまでは、浄土往生も成仏もないのですから、話をするときは「肉体を失ってから往生」という表現をしてもよいと思います。

サラ 2011/05/13 08:08
幹部会員歴数十年さま

>などなどありますが、親鸞聖人、覚如上人は、当益を失肉体後と邪見しているというこ

とでしょうか?

「信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを・・・」(歎異抄)ということかもしれませんし、
私たちの迷いが深いため、真実届くよう、工夫されていることと思います。
自行化他の深まった境涯からの言葉ですから、とても私の計らいおよぶ所ではないです。

體失往生は非本願諸行往生の機に勧められているのでしょう歟。


メンデルさま

>邪見(すいません。悪見との違いもよくわかりませんが、同じでよろしかったですか?

悪見を開いて五つ、有身見、偏見、邪見、見取見、戒禁取見です。
邪見等を含めて悪見です。
で、邪見は煩悩です。

邪見や煩悩は無くならない・変わらないではなく、
「過去・今生・未来の一切の罪を善に転じかへなすといふなり。転ずといふは、つみをけし

うしなはずして善になすなり。よろづの水、大海にいれば、すなはちうしほとなるかこと

し。弥陀の願力を信ずるゆゑに、如来の功徳をえしむるがゆゑに」(唯信鈔文意)

18願の救いと難思議往生について(願因と願果)
「大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。」(浄土三経往生文類)

お経や御聖教に書かれていることを読んだり聴聞しているとき、
その事柄や文言で終始してしまうと、外道になってしまします。
メンデルさんが、「○○○と思っていたが、△△△なのでしょうか?」
とおっしゃる時、どうしてそういう疑問がでるのか、知りたいのか?
をさらに見ていくことで、内道へ進展する可能性がでてきます。

事柄や文言は、自分のこころ、自分の邪見を知らせてもらうためのものですから、知識欲

に流れやすい私を元へ戻すよう聴聞していくことを、内道求める方々はされています。

ご不明あれば、お尋ねください。


ヘンデルさま

1.書き込みで上手く表現できないです。すみません。

2.引用の経文は、韋提希や欲修浄業者のために説かれてますね。
今は存在しないかもしれませんが、未来存在するかもしれない欲修浄業者のためですから

、架空云云ではないのでしょう。


yamamoyaさま

>この世の因縁が尽きるまでは、浄土往生も成仏もないのですから、話をするときは「肉

体を失ってから往生」という表現をしてもよいと思います。

そうですね、引用歎異抄のように、そうした表現もあるでしょう。

幹部会員歴数十年 2011/05/13 11:11
サラさんへ

仰る意味がよくわかりませんが、曇鸞大師、法然上人、明法房、ひらつかの入道は、本当は亡くなられるよりも前に浄土往生を遂げられたのに、失肉体後に往生を遂げられたと敢えて親鸞聖人はそのように仰ったということですか?
つまり、この御和讃、お手紙を読んだ人は、失肉体後に往生を遂げると”邪見”したままでも問題がないということではないですか?
親鸞聖人の教えを聞きながら、その”邪見”を正されることなく相当数の人が亡くなっていきましたが、そんなリスクを冒してまで、親鸞聖人はなぜ敢えて”邪見”となることを仰ったのですか?

それと化巻と『歎異抄』の引用はどんな意図があるのかも理解できません。
化巻
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
首楞厳院(源信)の『要集』に、感禅師(懐感)の釈(群疑論)を引きていはく、「問ふ。『菩薩処胎経』の第二に説かく、〈西方この閻浮提を去ること、十二億那由他に懈慢界あり。{乃至}意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生ぜんと欲ふもの、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生ずることあたはず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず〉と、云々。この『経』をもつて准難するに、生ずることを得べしやと。

答ふ。『群疑論』に善導和尚の前の文を引きて、この難を釈して、またみづから助成していはく、〈この『経』の下の文にいはく、《なにをもつてのゆゑに、みな懈慢によりて執心牢固ならず》と。ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。ゆゑに『経』の別説、実に相違せざるなり〉」と。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『歎異抄』17条
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
信心かけたる行者は、本願を疑ふによりて、辺地に生じて疑の罪をつぐのひてのち、報土のさとりをひらくとこそ、うけたまはり候へ。信心の行者すくなきゆゑに、化土におほくすすめいれられ候ふを
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これは失肉体後に、化土往生する人のことを仰ったものですが、これも失肉体後のことではないと主張されたいのでしょうか?それとも親鸞聖人が化土往生を勧められたとでも主張されたいのでしょうか?
19願、観経の往生は、どんな読み方をしても失肉体後のことです。
親鸞聖人が化土往生を勧められる筈もないことは誡疑讃に明らかです。

『唯信鈔文意』には
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と同様のことを仰っています。
その後に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と結論を仰っています。

親鸞聖人が臨終と仰っているのは、19願、観経の往生と同じ意味で失肉体時のことを仰っています。

なお参考までに『一念他念証文』には
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。

「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に定まるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と仰っています。正定聚の位に定まるのは、現益の失肉体前のことで、往生を遂げる前です。

法然上人も往生とは失肉体後のこととして仰っています。阿弥陀仏の化身とまで親鸞聖人が尊敬されていた法然上人も多くの人に”邪見”させる教え方をされ続けたということでしょうか?

自分だけが正しい読み方ができる、親鸞聖人の正しい御心が理解できると自惚れていることを邪見というのではないでしょうか?
大衆が誤解する教え方を善知識方がされた、エリートだけが往生できるんだという選民思想はS会と同じです。

幹部会員歴数十年 2011/05/13 13:51
字が間違っていました。

×『一念他念証文』

○『一念多念証文』

なお、先ほどの『一念多念証文』のお言葉をもう少し丁寧に解説すれば、
「往生を得る」=「正定聚の位につき定まる」=不体失往生
これと先の御和讃にある「往生とげたまふ」とは意味が違うということです。

このことは『執持鈔』の
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
でも明らかです。往生を遂げた親鸞聖人がこのようなことを仰ることはあり得ません。
不体失往生について書かれた覚如上人が矛盾したことを仰ったと考える方がおかしいです。

メンデル 2011/05/13 22:32
サラ様
 いろいろご説明いただきありがとうございます。コメントを拝見しながら、難思議往生については確かに正信偈にも「必至滅土願成就」と教えられていたと思いました。
 さて、2点ほどお伺いしたいのですが、
 1)「煩悩は変わらないではなく」としてご文をあげておられますが、「罪を転じる」というのは、罪が往生のさわりにならないという意味では阿弥陀仏のお働きだと思うのですが、凡夫の自覚の上では、煩悩はかわらないという理解でよろしかったでしょうか。それとも信後、自覚の上で変わる煩悩と変わらない煩悩がありますか?
 2)「内道に進展する」「内道を求める」とはどのような意味でしょうか。何を得ようとして何をするということでしょうか。また、阿弥陀仏のお救いとどのように関係するのでしょうか。なかなか理解できないので、易しめにお願いします。

サラ メンデルさまへ 2011/05/14 09:14
メンデルさま

>なかなか理解できないので、易しめにお願いします。

易しく話したいのですが、これがほんとに難しく、微力で申し訳ないです。


1)「罪が往生のさわりにならない」とは、
また「凡夫の自覚の上では、煩悩はかわらないという理解で・・・」とは、
どういうことを思われているのか、少し詳しく説明してもらえますか?

さて、願力回向の信は、歓喜の身にせしむ。

・「歓喜」といふは、
「歓」は身をよろこばしむるなり、
「喜」はこゝろによろこばしむるなり。(唯信鈔文意)

・具縛はよろづの「煩悩」にしばられたるわれらなり。
 「煩」は身をわづらはす、
 「悩」はこゝろをなやますといふ。(一念多念文意)


2)佛教の導きは抜苦余楽、四聖諦では苦集滅道、抜苦せしむと。
親鸞聖人も略文類の最初に「無礙光は滅苦証楽す」と、
光明は苦を滅するはたらきとおっしゃってます。

佛教の大半は、私たちにとっては難解で、きわめて会得できにくい。
教えが間違っているのでなく、私たちにあわないといいますか・・・
それを衆生に届くよう説かれたのが浄土教なので、
阿弥陀仏の救いも、抜苦です。

私たちが阿弥陀仏の救いを聞いている時、たいてい教えを向こうに置いて、
お経や聖教なら文字を、説法なら台上の話者、声はスピカ―から、
何か書いたりプレゼンのように表示させながら話す場合は
スクリーンやホワイトボードなど、向こうに置いて聞いています。
聖教の文字・説法者・声・ホワイトボード等は、みな私からは外ごとです。
理解しようとしていると、外ごとで終始してしまうことが多い。
観経に「諸仏如来是法界身、入一切衆生心想中」と説かれるように
内ごととなるのは、なかなかありがたい(難有、有ること難し)。

今、あるいは将来苦しみそうなことが問題であれば、自然と
外ごと(話している人が正しいかどうか、私の解釈でいいかどうか)
では済ませられないでしょうし、あまり苦しくないのなら、
取り組む気は出てこないでしょう。
苦しい時に聞けば、真宗が私に成就するでしょうし・・・


法然聖人の三選の文を、尊号真像銘文で親鸞聖人が教えられてますが、

「夫速欲離生死というは、それ、すみやかにとく生死をはなれんとおもえとなり」
と、一番最初は『すみやかにとく生死をはなれんとおもえ』です。
おもえ、と。

「且閣聖道門は、且閣は、しばらくさしおけとなり」
さしおけ、と。
聖道門は、信じ易く、行し難い。
浄土門は、信じ難く、行し易い。

聖道門は、智恵を究める道なので、解釈を積み上げれば分かってくる。
この理解というか、分かったことで良しとする心をさしおけと
おっしゃっているように思います。

浄土門の信は、信じ難いこと、難中の難なので、聞き開けと。

ですが信の前に、佛教の入り口に立っているか?
苦が問題でなければ成就し得る時でないので、
阿弥陀仏の救いを外ごとにしたままです。

私たちは邪見ものなので、
すぐ解釈して分かった、と計らいのエサにするから、
親鸞聖人等明師高僧方は、私たちに仏法届くよう、
言葉を選んでくれているのだと思います。
解釈は、それなしでは到達しないのでしょうが、
解釈それ自体は外ごとです。


やはり易しめになりませんでした。ごめんなさい。

幹部会員歴数十年 2011/05/14 11:45
サラさんへ

私の質問には無視ですが、あなたの主張である

>「この肉体のあるうちは浄土には行けない」が邪見と佛教で教えられます。

>当益を失肉体後と邪見していることが邪見と知れるまで、
>聴聞せよとが真宗です。この思いがしつこい。

>「失肉体後」に往生と思うこころと「疑」は根が同じのですが、
>このこころを「疑」なのだとは、とても私たちには思えません。
>「疑」が問題になるまで聴聞重ねると、必ず信心発起。

これは根拠のないあなたの個人的な考えということで宜しいですね。

参考までに『愚禿鈔』の
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
本願を信受するは、前念命終なり。すなはち正定聚の数に入る。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
は、先の『一念多念証文』と同じで、

「前念命終」=「正定聚の数に入る」=「往生を得」=往生が定まる

≠「往生を遂げる」

です。ここでの「命」は確かに肉体のことではありませんが、
もともと善導大師が肉体の「命」で仰ったことを、失肉体前に「正定聚の数に入る」
ことができると説明をされるために敢えて、意味を替えられたのでありますが、
少なくとも失肉体前に「往生を遂げる」と教えられたのではないことは明らかです。

あなたの個人的な考えと教義は別ですが、それを真宗教義と重ねて考えることが邪見であり、
S会と同じ文底秘沈と言われても仕方がないですよ。

聞こえたい 2011/05/15 21:33
きこえるといいのになぁ。

衆生の言うことだから、おかしいところ、たくさんあるわ。
人の言うことに目をつけもしょうがなかろーもん。
目の付け所が違うやろ。

邪見煩悩の悪衆生が解釈して何になるんか。
自分の知った分かったじゃ、障りになっても足しにならんで。

人の言うことどうのこうの言うても仕方なし。
自分の無有出離之縁をきかんと百年聴聞しても聞こえんで。

佛の正覚なりたか?
めをさませー。

どうして機法一體とほとけ様に手引かれるような身で
肉体が関係あるんか。心一法やで。
死ぬまで何十年もかかったら、頓中の頓になっとらん、
即身成仏の方が早いやん。
どうまじないつけても、それが臨終を期す心やで。

悪人正機やから、まず最初に、邪見ものの自分を
教えてもらわんとあかんわ-。

幹部会員歴数十年 2011/05/15 21:40
結局真宗のお聖教に根拠はありません、ということですね。
親鸞聖人が失肉体後の往生のことを仰っていても、
それが失肉体前と解釈する理由があなたの邪見です。

お聖教を真面目に素直に読まれることをお勧めします。

サラ 2011/05/19 09:31
幹部会員歴数十年様

失肉体云々について、例えば以下引用があります。

○行巻・往生論註
 問曰。大乗経論の中に処処に「衆生、畢竟無生にして虚空のごとし」と説きたまえり。いかんぞ天親菩薩、願生と言うや。
 答曰。「衆生無生にして虚空のごとし」と説くに、二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂うところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて有らゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いわく、諸法は因縁生のゆえに、すなわちこれ不生にして有らゆることなきこと、虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆえに、仮に生と名づく。凡夫の、実の衆生・実の生死ありと謂(おも)うがごときにはあらざるなり。
-----

・願生の生は因縁義、つまり因縁生起。念々に因縁和合して生起してくる生のこと、と。
・衆生のおもう実の生死(母体よりの誕生、肉体の死滅)の生ではない、と。


関連して、論註よりもうひとつ。

○往生論註
 問曰。上に生は无生と知ると言ふは、當に是これ上品生の者なるべし。若し下下品の人の十念に乘じて往生するは、豈に實の生を取るに非ずや。但實の生を取るは即ち二執に墮しなむ。一には恐くは往生を得ざらむこと、二には恐くは更に生の惑ひを生ぜむをや。
 答。譬ば淨摩尼珠を之を濁水に置けば水即ち除l淨なるが如し。若し人无量生死の罪濁に有りと雖も、彼の阿彌陀如來の至極无生除l淨の寶珠の名号を聞きて之を濁心に投ぐれば、念念の中に罪滅し心淨して即ち往生を得。
 又淨摩尼珠を玄黄の幣を以て裹むで之を水に投ば、水即ち玄黄にして一ら物の色の如くなるが如し。彼の除l淨佛土に阿彌陀如來无上の寶珠有します、无量莊嚴功恕y成就の帛を以て裹で之を所往生の者の心水に投ぐれば、豈に生見を轉じて无生の智と爲すこと能はざらんや。
 又氷上に火を燃くに、火猛ければ則ち氷解く、氷解れば則ち火滅するが如し。彼の下品人、法性无生を知らずと雖も、但佛名を稱する力を以て往生の意を作して彼の土に生ぜんと願ずるに、彼の土是れ无生の界なれば、見生の火自然に滅するなり。
-----

・實の生を取るは、二執に堕すとのこと。
・名号が濁心入れば、念念に、罪滅心浄・即得往生す、と。
・名号が生見を轉ず、と。(生見は、衆生のおもう実の生死の生)

(たとえ)
・名号・・・淨摩尼珠、至極无生除l淨の寶珠
・衆生穢身・・・濁水、生死罪濁、生見、見生の火

私たちは、失肉体後に往生と、生の惑いをかかえていて、
それを破られたい願い起これば、轉ぜられると。
轉ぜられるのはいつか? 見生之火自然而滅。
聖人は、自然を必ずともおっしゃってます。

幹部会員歴数十年 2011/05/19 10:58
問うていはく、大乗経論のなかに、処々に〈衆生畢竟無生にして虚空のごとし〉と説きたまへり。いかんぞ天親菩薩〈願生〉とのたまふやと。

答へていはく、〈衆生無生にして虚空のごとし〉と説くに二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂ふところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて所有なけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いはく、諸法は因縁生のゆゑに、すなはちこれ不生にして、あらゆることなきこと虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆゑに仮に生と名づく。凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらざるなりと。

わかっているのかわかっていないのか定かではありませんので、現代語訳を付けておきます。
**************************************
問うていう。大乗の経典や論書の中には処々に<衆生は究極のところ無生であって虚空のようである>と説かれている。それなのにどうして、天親菩薩は<生れようと願う>といわれているのであろうか。

答えていう。<衆生は無生で虚空のようである>と説くのには、二つの意味がある。一つには、凡夫が思っている実体としての衆生や、凡夫が考えている実体としての生死のように、凡夫が実体と思い、考えているような衆生や生死というものは、本来存在しない。それは、亀についている藻を見誤って亀の毛というようなものであって、実体がなく、虚空のようだということである。二つには、あらゆるものは因縁によって生じるのであるから、もとより実体として生じるのではなく、そのように実体のないことが、あたかも虚空のようであるというのである。いま天親菩薩が<生れようと願う>といわれるのは、因縁によって生じるのであるから仮に<生れる>というのであって、凡夫の考えるように実体としての衆生がいて、実体として生れたり死んだりするということではない。
**************************************

問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。一には、 おそらくは往生を得ざらん。二には、おそらくはさらに生ずとも惑ひを生ぜん。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。もし人、無量生死の罪濁にありといへども、かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。またこれ摩尼珠を玄黄の幣をもつて裹みて、これを水に投ぐれば、水すなはち玄黄にしてもつぱら物の色のごとくなり。かの清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛をもつて裹みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じて無生の智となすことあたはざらんや。また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。

**************************************
問うていう。上にいうてあるような生即無生の道理をさとるということは上品の往生者にいうことである。下下品の人のごときは、ただ十念念仏によって往生するので、こういうのは実消実滅の執着を持っているのではないか。ただ実生を執ずるならば二つの疑いに堕ちる。一つに、恐らくはこういう実消実滅を執ずる凡夫は往生を得ないであろう。二つに、往生しても更に生死相対の惑いを生ずるであろう。

答えていう。たとえば清浄なる摩尼宝珠を濁った水の中に置けば、珠の力で水が浄らかになるようなものである。もし凡夫人が無量劫のあいだ迷わねばならぬ罪があっても、かの阿弥陀如来の法性真如にかなったこの上なき清浄の名号を聞いて、これを濁った心の中にいただくならば、念々の中に罪が滅し清浄の徳を得て、往生が得られる。

また、この清浄なる摩尼宝珠を玄くろや黄の幣きぬにつつんで水の中に入れると、水がすなわちつつんだ物である幣の色と同じ玄や黄になるようなものである。かの清浄仏土には、阿弥陀如来の無上功徳の宝がある。これをいろいろの荘厳功徳という幣でつつんで、往生した人の心の水の中に入れたならば、どうして実消実滅の心を転じて無生の智慧とすることができないはずがあろうか。

また、氷の上で火を燃やすと、火の勢いが強ければ氷は解け、氷が解けると火が消えるようなものである。かの下品の人は生即無生であると知らないけれども、ただ仏の名号を称えて作願してかの土に生まれようと願うならば、浄土に至ればかの国は無生の道理にかなった境界であるから、実消実滅と見る煩悩の火は自然に消えるのである。
**************************************


これは、実体があると思っていることが間違いであり、「空」ということを教えられたものですが、それが先の『執持鈔』にある通り、失肉体後、地獄という実体のある世界に生まれる、浄土という実体のある世界に生まれるのではないから、実体があるとしか思えない凡夫の智慧ではわからないということです。
親鸞聖人は曇鸞大師のこのお言葉を受けられて、曇鸞大師が失肉体後に浄土往生を遂げたと仰ったのです。

六十有七ときいたり
 浄土の往生とげたまふ
 そのとき霊瑞不思議にて
 一切道俗帰敬しき
        (曇鸞讃)

訳も付けておきます。
**************************************
(曇鸞大師は) 六十七歳の時となって、 浄土の往生を遂げられた。 その時考えの及ばないすばらしいことにであって、 すべての人々が (他力念仏の教えに) 帰依した。
**************************************


親鸞聖人御自身のことは『末灯鈔』に

この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。

と仰っています。

>当益を失肉体後と邪見していることが邪見と知れるまで、
>聴聞せよとが真宗です。

親鸞聖人は、邪見の教えを最後の最後まで同行に伝えられた、というのがサラさんの解釈ということですね。

Rudel 2011/05/19 17:51
サラさんへ

横から失礼します。
あなたが挙げた論註のお言葉は、

下々品の凡夫は法性の不生不滅の道理を知ることはできない、(ただ見生の惑をもつのみである)。しかし阿弥陀如来の名号を聞き、その名を称えて浄土に往生したいと願うならば、その願に応じてかの土に生ずることができる(名号の妙用によって往生を得る)。かの浄土に往生すれば、浄土は本来無生の境界であるから、そこに生まれたならば見生の惑は自ずと転ぜられて無生智となっている。

つまり「凡夫は生即無生を知らなくとも、名号のはたらきによって浄土に往生すれば、浄土はさとりの境界であるから無生智を得られる」ということで、大師が凡夫往生を証明されたお言葉であり、
あなたの「当益を失肉体後と邪見していることが邪見と知れるまで、聴聞せよとが真宗です。」という主張の根拠にはなり得ません。むしろそれを否定するものです。

投稿: 岡崎 | 2011年5月23日 (月) 07時50分

感想

ごちゃごちゃ書かれているが、自力聖道の方が入ってこられたのかな。
肉体が無くならなくても仏にはなれるが、釈迦の前に仏無し、釈迦の後に仏無し。

真宗の教えとはちょっと違うぞ。

みなさん、どうですか?

とくよしみね

投稿: とくよしみね | 2011年5月23日 (月) 20時32分

もう一つ感想
・・・・・・・・・・・・・・・
自分の無有出離之縁をきかんと百年聴聞しても聞こえんで。

佛の正覚なりたか?
めをさませー。

どうして機法一體とほとけ様に手引かれるような身で
肉体が関係あるんか。心一法やで。
死ぬまで何十年もかかったら、頓中の頓になっとらん、
即身成仏の方が早いやん。
・・・・・・・・・・・・・・・
不体失往生で正しい。

どうまじないつけても、それが臨終を期す心やで。

投稿: とくよしみね | 2011年5月23日 (月) 20時56分

失礼しました。
もう一つ感想の
最後の一行は関係ありません。

投稿: とくよしみね | 2011年5月23日 (月) 21時00分

参考です。

3.即得往生への誤解
 なお、『一多文意』や『唯信鈔文意』における「即得往生」の宗祖の釈から、宗祖は〈臨終往生に対して即得往生というもう一つの往生あり〉を唱えられたという理解があるが、果たしてそうであろうか。これらの『文意』での宗祖の書かれぶりから、そうは思えない。そうではなくて「成就文の〈即得往生〉とは不退転に住することをいう経文なのだ」というのが宗祖のいわんとされるところである。ところが即得往生の文を主眼に考え、いわば即得往生と住不退転との関係を逆に読んでしまい、「宗祖は、不退転に住するのを即得往生といい、臨終往生にたいして即得往生という往生があることを示された」と見るなら、それは宗祖の思し召しとは力点が異なり、誤解を生じかねない。
 この点について本願寺派の仏教学者である上田義文氏は
「専門の学者たちは、信心獲得のときに不退の位に定まると説かれても、そのことはあまり注意しないで、即得往生と説かれていることを非常に問題にしているが、親鸞の思想において、この場合重要なのは、むしろ往生よりも不退の位である。親鸞においては不退の位が信心獲得の時になったので、即得往生も信心獲得の時に説かれるようになったのである。親鸞において最も画期的なことは〈即得往生〉を主張したということよりも、むしろ不退の位を信心獲得の時だとしたことである」(『親鸞の思想構造』p97)
と指摘されている。また大谷派の仏教学者である桜部建氏は
「(宗祖が)〈信心を得れば、ーーーとき日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを往生をうとはのたまえるなり〉(『一念多念文意』)と述べていらっしゃることが、しばしば、正定聚に定まるのがそのまま往生であると聖人は考えていらっしゃる、と見る根拠として挙げられています。しかしそれはまったく誤解だと私は考えます。聖人はこのことばは、「正定聚にさだまるのがただちに往生だ」という意味ではなく、「すなわち往生を得るという経文に言われているのは、正定聚に定まることを直截にそう言い表してあるのだ」という意味であります」(『浄土と往生』p71)と述べておられる。

引用:真宗大谷派「念佛寺」

色々ありますね。

投稿: とくよしみね | 2011年5月23日 (月) 21時38分

岡崎 様
とくよしみね 様

エントリーで書いておきました。

投稿: 飛雲 | 2011年5月24日 (火) 20時51分

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