雑行の意味も知らない喜劇の主役
親鸞聖人が善を勧められている根拠として、親鸞会は『一念多念証文』の「浄土の方便の善」を言い続けていますが、その親鸞会の妄想が、会員を迷わせています。
前回、「浄土の方便の善」=「雑行」と述べましたが、これを認めては、善の勧めの最後の牙城を失いますので、
「浄土の方便の善」「要門」「定散二善」と「雑行」とは違う
と親鸞会は感情的に反発するかもしれません。もちろん根拠もなく。
論理的に考えることのできない親鸞会会員にとっては、前回のエントリーだけで法論は終了逃亡しますが、論理的思考のできる退会者のために、雑行について学術的な補足をしておきます。
おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
のこの部分は、他の御著書でも同じことを親鸞聖人は仰っています。
『愚禿鈔』には
上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。
とあります。
また『教行信証』化土巻・雑行釈にも
それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
(中略)
おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」といひ、導和尚(善導)は「雑行」と称す。感禅師(懐感)は「諸行」といへり。
とあります。
『一念多念証文』において、同じ意味で言い換えられた言葉を挙げておきます。
浄土の方便の善
要門
仮門
定散二善
浄土方便の要門
これに異義を唱える人はないでしょう。
次に『愚禿鈔』を見ると、
定散の諸善
雑行
発願の行
回心の行
浄土の雑行
浄土の方便仮門
浄土の要門
が同じ意味の言い換えです。
同様に『教行信証』化土巻・雑行釈では、
回心回向の善
浄土の雑行
浄土の一切諸行
万行
雑行
諸行
です。この3つの御著書を比べてみれば判りますが、すべて同じ意味の雑行です。
つまり、
浄土の方便の善
=要門
=定散二善
=雑行
にしかなりません。
雑行は捨てるものであって、立てるものでないことは、真宗のどの聖教にも書かれてある超常識です。
ならば、浄土の方便の善、19願、定散二善を勧めることは真宗ではあり得ないと小学生でも理解できるでしょう。
ただ、
ならば阿弥陀仏の19願と釈尊の説かれた善の勧めは無駄であったと言うのか
と歴代の善知識方をおろそかに思い、そして謗る謗法の輩がいますので、親鸞聖人はそれに対する答えも用意されているのです。それが先程の化土巻・雑行釈の次にあるお言葉です。
これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。
雑行(浄土の方便の善、19願、定散二善)に励んでも化土往生しかできないが、そんな雑行を説かれたのは、欣慕のためである、ということです。
同じことを『教行信証』化土巻・隠顕釈に、
しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。
と教えられています。
雑行(浄土の方便の善、19願、定散二善)は、欣慕浄土の善根なのです。つまり、浄土を願っていない聖道門の人に、浄土を願わせるためのものである、ということです。
また『三経往生文類』にも、
観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。
とやはり同じことを仰っています。
これと以前から紹介している「他の方便なし」というお言葉
『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。
は、完全に筋が通るのです。
善人である聖道門の人には、浄土の方便の善である19願、定散二善が欣慕浄土のために必要ですが、極重の悪人には19願、定散二善という方便は必要ないのです。
これらのことは1年前のmixi上の法論でsutybi氏、EMS氏によって説明され、高森会長が一撃でダウンしたものでした。
高森会長は、半世紀の間、無二の善知識を演じてきましたが、すでに幕は下りています。今後は、雑行の意味も知らない喜劇の主役として観客を大いに笑わせて下さい。
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コメント
> 浄土の方便の善
> =要門
> =定散二善
> =雑行
まだ少数の者しか受講できなかった頃の教学講義では、
高森会長もこのように教えていたと思うのです。
記憶違いかもしれませんが…。
法話ではこのように説くのを聞いたことがありませんね。
投稿: | 2013年7月 8日 (月) 16時13分
名無し 様
以前はあからさまに、雑行を勧めるような言い方は、避けてきたところがありますが、
善の勧めとは雑行の勧めそのものであることに気が付いて、最近は雑行の勧めなる言い方までしています。
どう誤魔化しても、親鸞聖人の教えとは無関係な主張です。
投稿: 飛雲 | 2013年7月10日 (水) 21時19分