親鸞会の主張を徹底的に否定されたのが親鸞聖人
親鸞会は仏語の意味も知らずに、親鸞会に都合のよいように勝手な解釈を考えだして、出鱈目教義を創作しています。仏語の正しい意味を知れば、親鸞会の教えていることが、仏教ではないことがお判り頂けると思います。
親鸞会がしつこく詭弁を使う自力について少し解説しておきます。
前回の『末灯鈔』にある自力については、前の部分も併せて紹介すると、
まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。
(現代語訳)
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。
です。「余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ」が意図的に削られていますが、ここが重要なのです。
「余の善根を修行してわが身をたのみ」が、親鸞会でいう善の勧めに当たります。信一念までは「余の善根を修行してわが身をたのみ」の自力は廃らないんだ、と愚かな反論をするでしょうが、もう一つの「余の仏号を称念し」をよく読むべきです。阿弥陀仏以外の仏の名号を称えることも、信一念まで廃らないというのでしょうか?
「余の仏号を称念し」も「余の善根を修行して」も同格に扱っておられます。「余の仏号を称念し」は早々に捨てるのであれば、「余の善根を修行して」も同じように早々に捨てるのではないですか?
「余の仏号を称念し」だけは先に捨てて、「余の善根を修行して」は最後までしなければならないと解釈する人は、義務教育をやり直してもらわないといけません。
親鸞会の理屈は、断章取義で貫かれていますから、親鸞会の出している根拠の前後を読むだけで簡単に論破できます。親鸞会と法論するのに教学は要りません。前後の文章を読む力があればいいのです。
さて、他に親鸞聖人が自力について仰ったことは、以前に
でもまとめておきましたが、再度紹介しておきます。
自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。
(現代語訳)
自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。
自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
(現代語訳)
自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。
定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。
(現代語訳)
定善の専心・散善の専心とは、罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。
親鸞聖人は自力についていろいろの言い方をされています。
・みづからが身をよしとおもふこころ
・わが身をたのむ
・わが心をたのむ
・あしきこころをかへりみる
・余の仏号を称念する
・余の善根を修行する
・身・口・意の三業の乱れをとりつくろう
・めでたうしなす
・罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す
これらは、親鸞会が獲信のためにはしなければならないと主張していることであり、それらすべてを勧められるどころか徹底して捨てるようにとだけ教えて下さっています。
なお、二河白道の譬えで、高森会長は白道を信前自力の求道心と愚かな解釈をして、信前に煩悩と戦って善をしていくのが求道といいますが、それについても『浄土文類聚鈔』で
〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。
(中略)
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。
と仰り、
白道=能生清浄願心=これ凡夫自力の心にあらず
と白道は自力でないことを明言しておられます。
結局、親鸞聖人の御著書のどこをどのように探してみても、獲信のために善を勧められたお言葉は皆無なのです。
ただ親鸞会の発想は、聖教の中に、「善」という文字があったら、
親鸞聖人は善を勧めておられるではないか
という程度の、実に幼稚なものです。
こんな団体をまともに相手にする方が、恥ずかしくなります。本願寺が相手にしないのは当たり前ですが、それでも本願寺が親鸞会を攻撃していると内輪で大々的に宣伝しているのは、高森会長の最後の見栄なのでしょう。本当に哀れなものです。
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コメント
私と同じ頃に親鸞会に入会して今なお会員として熱心に活動している連中は、阿弥陀仏を遠くにおいて、高森会長を信仰しているのかな。
阿弥陀仏を尊く思う心よりも、会長が第一なのかな。それとも恐怖心なのかな。親鸞会を辞めたら、信心決定できないとでも思っているのかな。
投稿: 雑草 | 2011年5月 4日 (水) 10時49分
雑草 様
はっきり申しまして、惰性だと思います。
親鸞会の教義で非難されている内容を、少なからず知っています。
しかし、それ以上考えようとはしません。考えるのが面倒なのでしょう。
・高森先生が仰るのだから、信じていればそれでよい
・信前の自分に教義が理解できるはずがない
・高森先生が間違っているとして、それでは誰から聞けばいいのか
というようなものです。
何の答にもなっていません。専門的なことを考える能力には長けているのでしょうが、自分の人生について考える能力は子供並みです。
しかし、どこかに疑問が生じれば、そこから考え始めると思うのです。
駄目でもともとですから、もし御縁のある人に連絡が付くのであれば、
自分は親鸞会をやめて、親鸞聖人の教えを学びなおして、教義を正しく理解できた。具体的には何々
というような感じで手紙でもメールでも送られてもよいかもしれません。
何もしなくても変わらないのですから、何かして変わってくれるかもしれないと期待した方がましのような気がします。
あくまで私の個人的な意見です。
投稿: 飛雲 | 2011年5月 4日 (水) 22時08分