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2011年5月17日 (火)

盗作に始まり盗作に終わる

以前に、2月の法話で”諸久堕の三難”についての話があったと、コメント欄で情報を頂きまして、

諸久堕の三難とは弥陀を疑う心?????

で取り上げました。その際に、「高森会長が自分で考えたとはとても思えませんので、大沼法竜師が味わいとしてどこかに書いたものを拝借しただけと思います。」と書きましたが、予想通りでした。

大沼師の『方便より真実え 浄土真宗』には以下のようにあります。

 軟心の菩薩とは、気の弱い求道者ということでしょう。不退転地(一大事の後生の解決のついた境地)に至ろうと求道してはいるけれども、諸久堕の三難があって進むことができないが、なんとか近道はないでしょうかと竜樹菩薩にお願いしたのですが、その三難というのが真宗の道俗の求道の態度によく似ていますが、私たちのことをおっしゃってあるのではありませんか。それでなければ、七高僧として仰ぐ必要もなければ尊敬する資格もないが、如何ですかと尋ねているのです。
 三難とは、第一に諸とは諸の煩悩のことで、宗教を聞けばありがたい身になり、喜びもつづいて出るものと思っていたのに、聞けば聞くほど、煩悩がよく見えて始末がつかないが、どうしたらよいでしょうか。第二に久とは、一度聞いたら直ぐにわかると思っていたのに、こんなに、手間がかかっては困るではないか。第三に堕とは、解決のつかない間に死んだら、堕ちるではないかと不安が募るばかりではないか。
 みなさん、この三つの苦しみは、真宗のお説教を聞きながらみなさんの心の中にあるのですが、機を包む稽古ばかりしているから知って知らぬ振りをしており、見て見ぬ振りをしているだけですが、それが信前の第二十願の桁にいる人の悩みでありますよ。信後の第十八願の桁に入れば、さらりと消えるのです。
 彌陀の名号は光明無量の智恵ですから、聞けば聞くほど、接近すればするほど小皺や痣がよく見え、小さな煩悩までが照らし出さるるから、今まで気のつかなかった煩悩がよく見えるのです。これではいけない、これではいけない、と進むのが諸の煩悩が見えるから真剣になるのです。久の字は、聞即信の一念で往生の解決がつくと聞かされているのに、実機が照らし出さるると梃子にあわないから何年かかるかわからぬという不安が出たのが、久の字の説明です。彌陀の名号は寿命無量で死なぬ生命に比べて無常の生命ですから、今死んだらどうなるかと不安になるから、堕ちたらどうなるのかと真剣になるのです。
 この三つがあるからこそ真剣になり、実地の求道となるのです。これでは困るが竜樹さま、信仰の徹底する近道はありませんかとお願いすると、何をいっているかい、宗教を聞くのは大千世界を担うよりは難しいのに、易く証果の世界に行く道を求めるとは大夫志幹(求道者)の言葉にあらずと叱り飛ばされ、望みの綱の切れたところに易行を教えられて開発するのですよ。

大沼師は、『十住毘婆沙論』「易行品」の正しい意味を踏まえた上で、真宗の求道に無理やり当て填めているのです。
正しい意味は

諸久堕の三難とは弥陀を疑う心?????

で述べてありますので、参照してください。

これを高森会長は法話で大沼師の味わいをそのまま使い、

軟心の菩薩が諸久堕の三難に苦しんだという話が出てきて、これは横の線(弥陀の救い)を進んで行くと
必ず出てくるのだと説明がありました。

ちなみに
正確ではないですが「諸久堕の三難」についてはこのような説明がありました。
本当にこんな内容なのでしょうか?

諸―煩悩が邪魔になって進めない。こんな心が出てきては救われないのではなかろうかという心
  しかし煩悩具足と見抜いて救うを約束されているのが阿弥陀仏だから、それは阿弥陀仏を疑う心。
久―どれだけ聞けばハッキリするのか?安心・満足するのか?という心
堕―堕ちるのではなかろうかという心

最初は聖道門を求めている軟心の菩薩に龍樹菩薩が「仏道を求むるのは大宇宙を持ち上げるよりも重い」と
叱ったという話をしていたと思っていたのですが、その軟心の菩薩が苦しんでいたのは「諸久堕の三難」だ
と言い出し、それは阿弥陀仏を疑う心だと説明があったと思います。

聖道門を求めているなら、弥陀を疑う心は出てこないと思うのですが
いつの間にか軟心の菩薩が本願を疑う心で前に進めず苦しんでいることになっていて…。

“諸久堕の三難という弥陀を疑う心”で悩んでいた軟心の菩薩が龍樹菩薩に「仏道を求むるのは大宇宙を
持ち上げるよりも重い」と叱られたという話になると浄土門を求めている人にそのように叱るということ
になり、おかしい話になるとおもうのですが、みんな疑問も持たず聞いているようでした。

というような訳の判らない話になったそうです。
このヘンテコ”諸久堕の三難”は、私は一度も聞いたことがありませんでしたし、私よりも十年以上も前から会員であった方も聞かれたことがないそうですので、多分この時初めて高森会長は話をしたのだと思います。

これだけ盗作のことを激しく非難されていながら、今もなお大沼師の著書を頼って、無二の善知識を装うとは、大した根性の持ち主か、相当の厚顔無恥の人物です。

しかし、この期に及んでまで、自分の主張の正統性を証明するのに、自分の頭も使えないのかと思うと、本当に情けないものです。

盗作に始まり盗作に終わる、それが高森会長です。

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コメント

大沼師の「広大難思の大慶喜」という本を読んでいましたら、「本願寺に質問状を送るも、○○日間回答なし」と記された箇所がありました。ここまで真似ていたとは律儀ささえ感じます。高森会長は大沼師の御心一つを顕かにしてきたようですから、大沼師の弟子の資格ありです。「私の師匠は大沼師です」と告白したらいかがでしょうか。

投稿: 広島の名無し | 2011年5月18日 (水) 00時05分

広島の名無し 様

律儀というよりも、自分の頭で新しいことが考えられない人物なのでしょう。
しかし、自分には師匠はいないという無二の善知識を演じているのですから、師匠の存在は消さなければなりません。しかし、その割には抜け抜けです。

投稿: 飛雲 | 2011年5月18日 (水) 18時50分

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