「雑行を捨てよ」とは、親鸞会の主張する善の勧めを捨てよ
『観無量寿経』に説かれている定善・散善は、雑行です。それを捨てよ、と教えられるのが親鸞聖人の教えです。
しかし、それを親鸞会は訳の判らない言い訳で誤魔化しの説明をしています。このことは
で解説がありますので読まれるとよいと思います。これで説明としては十分なのですが、論理的に考えることのできない高森会長、講師部員、幹部会員には理解できないかもしれません。
そんな世話の焼ける人のために、私の方で親鸞会理論に沿って雑行の説明をします。
最近の親鸞会では
雑行=善い行為+自力の心
と説明しています。講師部員、幹部会員に聞くとこう答えます。
雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善をするなではない
と声高に主張します。
善い行為とは
「親孝行」「親切」「慈善事業」「忍辱」などの諸善万行
自力の心とは
「これだけやっているから助かるだろう」とか「これだけしているのだから地獄へは堕ちんだろう」と自分のやっている善をあて力にして助かろうとしている心
と説明しています。
また『教学聖典』(7)には
問(28)
「身口意の三業を善くして助かろとする心を、自力というのだ」と教えられた親鸞聖人のお言葉と、その根拠をあげよ。答(28)
○身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思う心を自力と申すなり。(末灯鈔)
とあるように、自力の心とは、自分のやった善を往生の役に立たせようとする心と教えています。
ならば、
・諸善は獲信の因縁になる
・宿善を厚くしなければ信心決定できない
・善をしなければ信仰は進まない
・”三願転入の教え”に基づいて19願を必ず通らなければならない
という心は、何でしょうか?
親鸞会では、”後生の一大事の解決”のために善に励む信前の心は、100%自力の心と言っているのですから、これらは間違いなく自力の心です。
では、自力の心を捨てると、
・諸善は獲信の因縁にならない
・宿善を厚くする必要はない
・善をしても信仰は進まない
・”三願転入の教え”は間違いだから、19願を通る必要はない
ということになります。つまり、当ブログを含めて、親鸞会の教義を非難している人の主張そのままです。どこか違っているところがあるでしょうか?
親鸞会は非難をねじ曲げて言いますが、
・諸善は獲信の因縁にならない
・宿善を厚くする必要はない
・善をしても信仰は進まない
・”三願転入の教え”は間違いだから、19願を通る必要はない
と自力の心を捨てて、獲信・往生とは無関係と思って
「親孝行」「親切」「慈善事業」「忍辱」などの諸善万行
という善い行為をしましょうということです。
これは当ブログでも、本願寺でも言っています。つまり親鸞会理論の、
自力の心を捨てよであって善をするなではない
という主張と合致します。
まとめると、親鸞会の主張する
雑行を捨てよ
とは、
・諸善は獲信の因縁にならない
・宿善を厚くする必要はない
・善をしても信仰は進まない
・”三願転入の教え”は間違いだから、19願を通る必要はない
という考えになることで、19願に心を懸けて善を修める定善・散善は、すべて雑行です。
その一方で
・諸善は獲信の因縁になる
・宿善を厚くしなければ信心決定できない
・善をしなければ信仰は進まない
・”三願転入の教え”に基づいて19願を必ず通らなければならない
と主張している親鸞会は、完璧に矛盾しているのです。
一年前のmixiでの法論で、親鸞会理論のこの矛盾をEMS氏に突かれて、こうへい氏は逃亡しました。
EMS氏は根拠を挙げて、雑行を捨てるとは、往生と関連づける19願、諸善を捨てることであると説明されています。
『教行信証』化土巻に
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。(現代語訳)
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦.観察.礼拝.称名.讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦.観察.礼拝.讃嘆.供養の五種である。雑行とは、正.助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善.散善や世福.戒福.行福の善を修め、三輩.九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。と親鸞聖人は雑行の説明をされています。
横超=18願
横出=19願・20願つまり
「雑行」=「横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門」致命的です。
親鸞会理論においても、親鸞聖人のお言葉においても、雑行を捨てるとは、親鸞会の主張する獲信・往生のための善の勧めが間違いという結論にしかなりませんね。当たり前です。
反論があれば、いつでもどうぞ。
| 固定リンク
コメント
飛雲さんの解説は相変わらずわかりやすいです。
会長は縦の線と横の線を書いて、縦の線に向かって(信仰が)進んでいくと言い、善をしなければ信仰は進みませんよと断言してしまいました。
もう逃げ場がありません。
これでも分からない会員は会長に脳味噌を食べられてしまったのでしょう。
投稿: | 2011年5月 3日 (火) 00時51分
名無し 様
これだけ言っても判ろうとしない会員は、身も心も会長に捧げてしまっているのでしょう。残念なことです。
投稿: 飛雲 | 2011年5月 3日 (火) 22時01分