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2011年4月10日 (日)

仏法をねじ曲げることは、髭を撫でるよりも易い

先日の座談会で高森会長は、

18願・19願・20願を親鸞聖人だけでなく、七高僧はじめ皆大切に教えられている。

といつものように大嘘をついていました。
もちろんそんな根拠はありません。

最も判りやすい例は、法然上人が19願について仰らなかったことで、聖道門からの非難が起き、承元の法難のきっかけになったことは、何度も述べてきました。

高森会長にとっては、私利私欲で仏法をねじ曲げることなど、髭を撫でるよりも易いことなのです。

参考までに曇鸞大師は、三願について仰っています。しかし、その三願は、18願・11願・22願です。19願と20願のことではありません。『浄土論註』に、

 およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。なにをもつてこれをいはば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。いま的しく三願を取りて、もつて義の意を証せん。

 願(第十八願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く〉と。仏願力によるがゆゑに十念念仏してすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る一つの証なり。

 願(第十一願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ〉と。仏願力によるがゆゑに正定聚に住せん。正定聚に住せるがゆゑにかならず滅度に至らん。もろもろの回伏の難なし、このゆゑにすみやかなることを得る二つの証なり。

 願(第二十二願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らしめん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱して諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ〉と。仏願力によるがゆゑに、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し、諸地の行現前するをもつてのゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る三つの証なり。

(現代語訳)

 そもそも、衆生が浄土に生れることも、浄土に生れてからさまざまなはたらきをあらわすことも、みな阿弥陀仏の本願のはたらきによるのである。なぜなら、もし仏力によらないのであれば、四十八願が設けられたのは無意味なことになるからである。今これを示す三つの願を引いてそのわけを証明しよう。

 まず第十八願に、<わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で信じ喜び、わたしの国に生れると思って、たとえば十声念仏する。もし、わたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、たとえば十声念仏して往生することができる。往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。浄土に往生することができ、もはやさまようことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第一の証である。

 また第十一願に、<わたしが仏になったとき、国の中の人々が正定聚に住して必ずさとりに至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、正定聚に住する。正定聚に住するから必ずさとりに至ることができ、迷いの世界をさまよい苦しむことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第二の証である。

 また第二十二願に、<わたしが仏になったとき、他の仏がたの国の菩薩たちが、わたしの国に生れてくれば、かならず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。各自の希望によって、それぞれの菩薩が人々を自在に導くため、かたい決意に身を包んで、多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、すべての仏がたを供養し、数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることも自由にできる。すなわち、通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、大いなる慈悲の行を実践できる。そうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、通常に超えすぐれて、菩薩の徳をすべてそなえ、人々を救うはたらきをすることができる。通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、菩薩の徳をすべてそなえるというのが、速やかに仏となることができるということの第三の証である。

と仰っています。これは『教行信証』行巻にも引かれています。

四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。いま的しく三願を取りて、もつて義の意を証せん。

とありますように、48の願は無意味に建てられたものではない、として三願を出されたのが18願・11願・22願です。一方で、曇鸞大師は19願・20願については言及さえもありません。曇鸞大師にとりましては、三願といったら、18願・11願・22願なのです。これも浄土真宗においては常識です。

前回の『三経往生文類』の「大経往生」の解説で、この18願・11願・22願に17願を加えて親鸞聖人は説明されています。
つまり、曇鸞大師も18願の往生だけを教えられたのです。
高森会長が言う、19願・20願にある「十方衆生」は、誰も問題とされていません。

では、19願・20願は無駄な願であったと言うのか

と親鸞会では目くじらをたてて反論するでしょうが、それは歴代の善知識方を誹謗しているのと同じです。

親鸞聖人が19願・20願について言及されたのは、親鸞会のようなことを聖道門から言われたから、その反論としてです。19願・20願は、自力にこだわって18願を受け入れられない人にとっての権仮方便の願とされ、その方便の願に留まっていては化土往生にしかならないと親鸞聖人は繰り返し仰っています。
特に19願について勧められたお言葉は皆無です。
その証拠に親鸞聖人が19願を勧められたお言葉を出すように、何十回求めても、無関係なお言葉を示すのみです。19願・20願を誡められた誡疑讃を、19願・20願を勧められたとお笑い解釈をしたり、要門釈・『一念多念証文』のお言葉を驚くような歪曲をしたりすることしかできません。

はっきり言いまして、余りにもレベルが低すぎるのです。

教義論争以前の問題として国語の能力が中学生並であり、時代背景も、七高僧方の仰ったことも何も知らず、嘘が大好き、それが会員が崇め奉る人物です。

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コメント

この記事を読んでもなお19願がどうのこうのいう人がいたら、残念ながらもうその人はダメでしょうね。
永久に18願が聞けない。。

投稿: YGM | 2011年4月11日 (月) 08時27分

YGM 様

七高僧、親鸞聖人、蓮如上人よりも、高森会長の言うことを信じるというのが、現在残っている会員の信心でしょう。
「表面上は言われていないが、本心では言われているんだ、それを高森先生が明らかにされているんだ」
みたいな、理屈も通用しない世界にいるのでしょうが、そんな人には何を言っても無駄です。

投稿: 飛雲 | 2011年4月12日 (火) 06時06分

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