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2011年4月15日 (金)

高森会長が勧めているのは、念仏往生でも諸行往生でもなく、必堕無間

東南アジアでは、諸善に励んで臨終来迎を願っている人が多い

と退会希望者を説得する係の講師部員は話をしているそうですが、自分の言っていることが判って言っているのでしょうか?
東南アジアの人たちは、諸善のできる前提で真面目に諸善に励んでいるのですから、理屈に合うのです。九品でいえば、自分は中品下生以上の者であるから、仏法の善、世俗の善をして往生を目指そうとしていますので、諸行往生の教えにあっているのです。
しかし、親鸞会の場合は、全人類は善ができない下品下生の者であると断言しておきながら善をさせて念仏往生するという、実に頓珍漢で支離滅裂な理屈です。
諸行往生を目指す東南アジアの人を例に出してきて、同じように善をしなければならないと主張するお目出度い思考を正してから話をせよ、と言いたいです。

これまでにも何度も述べてきましたが、親鸞聖人は全人類が下品下生の者だとは仰っていませんし、誰も善ができないとも仰っていません。
親鸞聖人が教えられていることは、中品下生以上の者が諸善に励んで往生しても、その諸行往生は化土往生であるから、報土往生の念仏往生を願いなさい、ということです。

また蓮如上人の『御文章』には善の勧めがないことを認めた上で、

当時の人は善に励んでいたから善を勧める必要がなかったのだ

と親鸞会では珍説を唱えていますが、蓮如上人時代と現代と人間が違うのでしょうか?
蓮如上人は『御文章』を書かれて、何万何十万の人を勧化せられました。その全員がものすごく善に励んでいたという理屈です。現代では、真宗門徒は2000万とも言われていますが、それらの人はすべて善に励んでいない人だから、善を勧めなければならないのだ、ということです。
親鸞会の会員は、親鸞会でいう”善”に相当励んでいるように思えますが、それでも19願の入り口にも立っていないと言っています。

これが矛盾していないと思うのであれば、余程思考がおかしいのでしょう。

先ほどのように、東南アジアの人は善に励んでいるということを言っている講師がいますが、それなら、東南アジアの人には善の勧めは必要ないということでしょうか?
日本でも諸行往生を目指している人は結構いますので、それらの人には善の勧めは不要ということでしょうか、あるいはそれらの人にでも、もっと激しく善を勧める必要があるというのでしょうか?
蓮如上人時代は、現代の人とは桁違いに善に励んでいて、家も田畑もすべて売り払って、仕事もそっちのけで、財施と法施に命がけで励んでいたとんでもなくすごい人達が何万何十万といて、そんな人たちに雑行を捨てよと蓮如上人は教えられたというのでしょうか?

何でも適当なことを言って、会員を騙すことに必死になっているようですが、話をすればするほど、泥沼に嵌って身動きがとれなくなることでしょう。

念仏往生するために、諸善に励めと主張するのは、浄土門が基礎の基礎から理解できていないのです。

さて、諸行往生について聖覚法印は『唯信鈔』で次のように教えられました。

諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。

諸行往生というのは、仏法と世俗の善をして往生を目指すものですが、これは阿弥陀仏の本願ではないというのです。19願をも本願と言う高森会長とは違います。

これに対して念仏往生については

二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。
(中略)
これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。
(中略)
さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。

念仏往生は、善のできない人でも、どんな悪人でも漏れずに往生できるというのです。最初に諸行往生を目指して、その後で念仏往生を願うというものではありません。諸行往生と念仏往生は並列の関係です。

これと同じことを蓮如上人は『御文章』2帖目第7通

これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。
その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。

と仰っています。智慧も才学も貴賎も関係なく、たとえ善のできない人、諸行往生さえも目指せない悪人に対しての教えが念仏往生です。真宗の聖教のどこを読んでも、そのことしか書かれていません。

親鸞会は完璧な選民思想です。しかし、高森会長が説いているのは諸行往生でもありません。高森会長が会員に勧めているものこそが、必堕無間です。無間地獄に堕ちることのない会員に念仏を誹謗させて、無間地獄に堕とさせる教えです。

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コメント

「蓮如上人時代の門徒は進んで善をする人ばかりだったから、蓮如上人が敢えて御文章で善を勧められる必要がなかった」とは大胆な仮説ですね。そういう手があったか!と一瞬思いましたが、真宗の道俗の大多数を納得させるものとはとても思えません。
御文章2帖目12通(人間五十年・四王天)には、「ただ朝夕は暇をねらひて、枕を友として眠り臥せらんこと、まことにもって浅ましき次第にあらずや」とありますから、このような人もあったということでしょう。このような人は、放っておいても自主的に積極的に善に励むとは考えにくいです。さればと言って、蓮如上人はこの人に善を勧められてはいません。(当然ながら)信心を決定せよ、と言われています。
自説を認めさせるために根拠を探し出してくるならまだしも、苦しい仮説を根拠のようにいうのはやめてもらいたいです。

投稿: 広島の名無し | 2011年4月15日 (金) 23時13分

広島の名無し 様

御文章をまともに読んでいないから、こんな嘘が付けるのでしょうね。
そのうち、
善を励んでいない人のことを、無宿善の機と蓮如上人が仰っている
といい出すでしょう。
ここまできたら、他宗や外道で言われていることも都合良く使いまくると思います。
どんどん真宗から遠ざかります。

投稿: 飛雲 | 2011年4月16日 (土) 22時22分

「東南アジアでは、諸善に励んで臨終来迎を願っている人が多い」というのもたぶん親鸞会一流のでっち上げです。
南方上座仏教に臨終来迎はありませんから。
親鸞会の普通の会員は仏教のイロハも学んだことがありません。
だから講師が目新しいことを言えば感心してすぐ信じるでしょう。
恐ろしいことです。

投稿: | 2011年4月18日 (月) 00時45分

ちなみに、「東南アジア云々」と言ってきたら「東南アジアのどの国ですか?」と突っ込むと興味深い反応が見られると思います。

投稿: | 2011年4月18日 (月) 01時46分

名無し 様

私も最初は同じことを思いましたが、これはK講師が言っていることですから、台湾・香港がメインで、シンガポール・マレーシアを含んでいるものと思われます。華僑は大乗仏教ですから、華僑の多いところは臨終来迎の教えがありますので、それを指しているものと思われます。
念仏往生を諸行往生で説明するという愚かさは変わりませんが。

投稿: 飛雲 | 2011年4月18日 (月) 22時10分

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