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2011年4月 3日 (日)

雑毒の善ができてもできなくても、親鸞聖人の教えは「弥陀を称せよ」だけ

世俗の中で生きている我々にとりましては、善導大師が『定善義』で「たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。」と仰っているように定善はできませんし、また道綽禅師が『安楽集』で「しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり」と仰っているように、行福も戒福もできません。

では高森会長が我々に雑毒の善ができると断言している善とは、何でしょうか?
参考までに高森会長が会員に勧めている六度万行とは、菩薩行である大乗善の行福です。従って、六度万行ができるとするならば、親鸞会の会員は行福のできる上品の三生ということになります。六度万行はできないというならば、できるという雑毒の善は何ですか?

常識的に考えても、定善、行福、戒福ができる人は極稀でしょうが、世間善である世福ならば、できる人はもう少し増えるでしょう。雑毒の善ができると断言するからには、最低の善である世福は、必ずできる筈です。つまり中品下生の人が少なからず存在しなければなりません。これと比較するために、下品上生、下品中生と併せて、『玄義分』を引用します。

中が下といふは、
(中略)

ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

次に下輩の三人
(中略)

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

なにをもつてか知ることを得る。下が上の文に説くがごとし。「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

下が中とは、「この人先に仏の戒を受く。受けをはりて持たずしてすなはち毀破す。また常住僧物・現前僧物を偸み、不浄説法して、乃至、一念慚愧の心あることなし。命終らんと欲する時、地獄の猛火一時にともに至りて、現じてその前にあり。火を見る時に当りて、すなはち善知識の、ためにかの仏国土の功徳を説きて、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人聞きをはりてすなはち仏を見たてまつり、化に随ひて往生す」(観経・意)と。初め善に遇はざれば獄火来迎し、後に善に逢ふがゆゑに化仏来迎す。これすなはちみなこれ弥陀願力のゆゑなり。

(現代語訳)

 中品下生については、
(中略)
これはまだ仏法に遇わない人であって、父母に孝養をつくすといっても、心に出離をねがい求めたことはない。ただこれは臨終に、はじめて善知識が往生を勧めてくださるのに遇い、この人はその勧めによって浄土に心を向けて、そこで往生を得るのである。またこの人は平生のとき自然に孝養を行ったのであって、出離のために孝養をつくしたのではない。

 つぎに下輩の三種の人
(中略)
この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

どうしてそれが知られるかというと、下品上生の文に説かれている通りである。
ただ五逆と謗法を作らないだけで、そのほかの悪は皆ことごとく造り、わずか一念も慚愧する心がない。そういう者が命終わろうとする時、善知識がその人のために大乗を説き、教えて念仏させるのに遇う。一声すると、そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、この人を来迎し、そこで往生を得る。

 このような悪人は、すべて人の常に見るところである。もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

 下品中生とは、

この人は、さきに戒律を受けたけれども、受けおわってこれをたもたずにすぐ破り、また寺にいつも備え付けてある常住僧物や、時々に供養される現前僧物をぬすみ、名聞利養のための不浄説法などをして、わずか一念の慚愧心もない。命が終わろうとするとき地獄の猛火が一時に共に来てその人の前に現われ、その火を見る時にあたって、善知識がその人のために、かの仏国土の功徳を説いて往生を勧めてくださるのに遇う。この人はそれを聞きおわって、すぐに仏を見たてまつり、その化仏にしたがって往生する。

とある。初めには善知識に遇わないで地獄の火が迎え、後には善知識に遇ったから化仏の来迎にあずかる。これはすなわち弥陀の願力によるのである。

さて、以上から判ることは、

中品下生とは、出離のために善をしたのではない一般の善人のこと。

下品上生とは、仏法の善はもちろん、世俗の善もしていないで、五逆罪と謗法罪以外の悪ばかりを造っている悪人で、そのまま死ねば、三悪道に沈む。

下品中生とは、戒を授かりながらそれを破った人で、そのまま死ねば地獄に堕ちる。

ということです。
つまり、世俗の善である世福をしている人が、必堕無間になるということはないのです。中品下生の人は、もともと仏法を聞いていないのですから、仏法を聞いていない人が謗法罪を造っているという親鸞会の説明も嘘になります。

またたとえ雑毒の善さえもできない人であっても、五逆罪と謗法罪を造っていなければ、下品上生ということで、必堕無間ではありません。

しかし、僧侶や布教師の立場で破戒の罪を造り、不浄説法をしているならば、地獄に堕ちると教えられています。ただし、無間地獄ではありません。親鸞聖人はこの下品中生を御自分のことであると懺悔されたものと思われます。それが『歎異抄』

地獄は一定すみかぞかし

であり、『唯信鈔文意』

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。

です。下品下生のところに敢て下品中生の「不浄説法」を加えられていることからも、親鸞聖人は御自身を下品中生と見做されていたことも判ります。もし親鸞聖人が御自分のことを五逆の者と思われていたならば、下品下生の説明に「不浄説法」を加えられる必要はないのです。
もう少し丁寧に説明すれば、親鸞聖人は「不浄説法」の者という自覚を持っておられたからこそ、「不浄説法」を加えられることによって、下品中生の救いは、下品下生同様であり、更には下品上生、そして善人の救いも、同じく「ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり」と明らかにされたのです。

それが『教行信証』化度巻・要門釈の結論である

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

なのです。

雑毒の善ができる人も、できない人も、五逆の者も、18願他力念仏だけを勧められているのであって、雑毒の善を勧められた箇所は皆無です。当たり前のことです。

くどいようですが、全人類が下品下生というなら、「ただ弥陀を称せよ」以外の教えはありませんし、雑毒の善ができる中品下生以上の人ならば、必堕無間ではありません。

無茶苦茶な理屈をいつまでも言い続ければ、恥を長く晒すだけですよ、高森会長。

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