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2011年4月 5日 (火)

18願成就文の「聞」とは何か?

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

この「」を三願転入の教えを聞くことだと親鸞会では教えているようですが、とんでもない邪義です。

これは18願成就文の「」を説明されたものです。その証拠にこの御文のある『教行信証』信巻の前後をみると

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

とあります。親鸞会の幹部会員ならば誰でも知っていると思いますが、18願成就文は、

諸有衆生 聞其名号
信心歓喜 乃至一念
至心回向 願生彼国
即得往生 住不退転
唯除五逆 誹謗正法

です。18願成就文に19願、20願のことは全くでてきません。
かつて高森会長は「聞其名号」について、

その名号とは、「其」のですから、その前の17願に誓われた名号のこと

と強調して説明していましたが、よもや忘れたとはいわせません。18願に誓われた念仏を解説されたものが17願、とも高森会長は説明してきた筈です。その名号を「」くのですから、19願とは無関係な話です。

18願成就文については『一念多念証文』にも解説があります。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

以前にも述べましたが、親鸞聖人が本願と仰るのは、18願のことです。「本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり」とあるように、信心と「」とは同じことです。名号のいわれを如実に聞く、そのまま受け入れることが信心なのです。従って、「本願の嘉号をもって己が善根とする」20願の「聞我名号」とも異なります。

仏願の生起を聞く」とは、機の深信のことです。「仏願の本末を聞く」とは、法の深信のことです。

真実信心を説明する上では、基本中の基本です。19願、20願を聞くことが「仏願の生起本末を聞きて」だというのは、根拠が無いどころか、親鸞聖人の教えを根底から覆すほどの邪義です。

しかし、釈尊は善の勧めばかりを説かれ、阿弥陀仏が19願を建てておられるので、それも聞かなければ片落ちではないか、という気が利いて間の抜けた反論を高森会長は内輪だけにするでしょうから、真実信心について教えて差し上げましょう。

真実信心は深信です。『愚禿鈔』

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

とある通りです。その内容を

文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

と教えておられます。七深信は、善導大師の『散善義』にありますが、その第三深信が、

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

です。これについては、一年前のmixiの中でのこうへい氏との法論の際に、詳しく何度も何度も説明してきました。
定散二善、そして19願は浄土を欣慕せしめるためのもの、つまりは、浄土を欣慕していない聖道門の人を浄土門に入らしめるための権仮方便と深く知らされるのが真実信心なのです。

従ってすでに浄土を欣慕している人、浄土門を信じている人にとっては、不要なものということです。

結論をいえば、19願を18願に入るためには絶対に必要なもの聞く」ことは、聴聞になりませんし、19願を18願に入るためには絶対に必要なもの疑心あることなし」と「聞く」ことは間違った信心ということです。

高森会長もこのことは知っているのです。しかし、金集めのためにはどうしても19願の善の勧めが必要なのです。会員を18願に入れさせるためではありません。

前回不浄説法について少し触れましたが、不浄説法とは名利のために説法をすることです。高森会長の場合は、名利のために教えを完全にねじ曲げて説法していますので、不浄説法にも当たりません。念仏誹謗の謗法罪です。この事実を知りながら高森会長を擁護する講師部員や幹部会員も念仏誹謗です。

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