曲がった教えだな、曲がった人物だな、と見るのが真っ直ぐな見方です。
私がまだ会員であった頃は、三願転入の話をしながらも、高森会長の話の中心は18願でした。ところが最近の話は、19願が中心で、18願のことにさえ触れていない状態だと聞きます。
先日の座談会でも本願とは18願・19願・20願のことだと言ったそうですが、親鸞聖人の教えをとことんねじ曲げています。
19願について、ここまで強調しなければならなくなったのは、「21世紀の浄土真宗を考える会」「安心問答」「苦笑の独り言」「親鸞会教義の誤り」等で、三願転入の教えを徹底的に否定され、その上一年前のmixi上での法論に惨敗したからです。
高森会長の言動は名利に対して実に素直です。非難されたら、非難している相手には言い返さず、どんな嘘をついてでも自分の正統性を会員に対して必死にアピールします。
非難が的を射ていれば、くどい言い訳と誤魔化しに徹します。
従って、言い訳誤魔化しの回数が多ければ多いいほど、高森会長が自分の間違いを深刻に感じていることになります。
それにしても、会員を騙す方法をいくら考えても、今まで以上の新しい詭弁は思いつかず、完璧に論破されたことを、”嘘も百回言えば真実になる”を実践するだけしかできないとは情けないものです。
とはいいながら、19願と善の勧めについては、ここ2年間それだけ言い続けてきたがために、熱心な会員さえも疑問を生じるのですから、よい傾向ではあります。
さて、「本願」とは18願のことを指していると、以前に
でも述べました。親鸞聖人が19願・20願のことを「本願」と仰った箇所はありません。
「安心問答」
「本願=三願」と4月3日親鸞会二千畳座談会で聞きましたが、そうなんでしょうか?
でも取り上げられていました。
「本願」の意味について最も判りやすいのが『正像末和讃』誡疑讃
自力称名のひとはみな
如来の本願信ぜねば
うたがふつみのふかきゆゑ
七宝の獄にぞいましむる本願疑惑の行者には
含花未出のひともあり
或生辺地ときらひつつ
或堕宮胎とすてらるる弥陀の本願信ぜねば
疑惑を帯してうまれつつ
はなはすなはちひらけねば
胎に処するにたとへたり
です。「本願」を信じていない行者は化土往生すると仰った御和讃ですが、この「本願」を19願・20願と解釈することは決してできません。
18願・19願・20願について仰った御著書は、『教行信証』以外に『三経往生文類』があります。「三経往生」とは、大経往生、観経往生、弥陀経往生のことで、
大経往生=難思議往生=18願
観経往生=双樹林下往生=19願
弥陀経往生=難思往生=20願
となります。それぞれの願について親鸞聖人の解説部分のみを挙げておきます。
18願
大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。
(現代語訳)
「大経往生」というのは、如来が選び取られた海のように広大で不可思議な本願のはたらきによるものであり、これを他力というのである。これはつまり念仏往生の願(第十八願)に誓われた因により、必至滅土の願(第十一願)に誓われた果を得るのである。この世において正定聚の位に定まって、必ず真実の浄土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向という真実の因によるものであるから、この上ない涅槃のさとりを開くのである。この教えを『無量寿経』のかなめとする。このようなわけで、「大経往生」といい、また「難思議往生」というのである。
19願
観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。
(現代語訳)
「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。そこで『観無量寿経』には、定善・散善、三福の行や九品のさまざまな善、あるいは自力の念仏を説いて、九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。これは、他力の中で自力をかなめとして説かれた教えである。このようなわけで「観経往生」というのは、どれもみな方便の浄土への往生である。これを「双樹林下往生」というのである。
20願
弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。
(現代語訳)
「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願(第二十願)によって「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。ところが、自力で修める行にとらわれている人は、阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、如来の名号を自分の善根とし、その功徳を自ら回向して、必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、たたえ尽くすことも、説き尽くすことも、思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。それは深く重い罪であり、浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じ込められて、五百年の間、自由に振舞うことができず、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、お仕えすることもできないと如来は説いておられる。それでも、如来の名号を称えるから、胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。あらゆる功徳をそなえた名号によるから、「難思往生」というのである。不可思議の本願を疑う罪によって、「難思議往生」とはいわないとしらなければならない。
ここから、先程の『正像末和讃』誡疑讃で仰る「本願」とは18願のことであり、19願・20願が親鸞聖人の仰る「本願」ではないことが判ります。
更には、18願・19願・20願は関連した願として親鸞聖人は仰っていないことも判ります。それぞれが全く別個の願として親鸞聖人は仰っているのです。三願転入という概念は、『三経往生文類』には見られません。これだけ三願について詳しく教えられながら、”親鸞聖人の教えの根基”とまで断言する三願転入について全く仰っていません。要するに『教行信証』以外には、三願転入という概念すら書かれていないのです。
レベルの低い高森会長の嘘も詭弁も、聖教を読めば簡単に見破ることができます。
2年前までは、「若不生者」の解釈を無二の善知識たる高森会長が間違えた、と大騒ぎでしたが、今やそんな小さな間違いはかわいいもので、親鸞聖人の教えの根本から間違っており、親鸞聖人の仰ったことと合致しているところが皆無に等しくなりました。
高森会長の教えていることは、どこからどう見ても、曲がった教えですから、会員も真っ直ぐに見ようといつまでも頑張らずに、曲がった教えだな、曲がった人物だな、と真っ直ぐに見てもらいたいと思います。
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コメント
はっきり言って高森顕徹の法話は実がありません。初心者にはわかりやすいかもしれませんが、何もわかっていないです。講師も高森先生以外にわかりやすい法話はないと。
井の中の蛙とはこれですね。
ほんまにほんまでっせ。おこるでしかし。
投稿: nonkie | 2011年4月30日 (土) 18時40分
nonkie 様
落語や漫才というレベルで、判りやすい話です。
それ以上のものはありません。
投稿: 飛雲 | 2011年5月 1日 (日) 10時48分