三輪不浄の布施?の結末
なぜか最近の2chの親鸞会スレッドには、豊田商事のことが話題になっています。それを阻止するためにネット対策員が荒らしをするという醜い攻防が繰り広げられています。
豊田商事とは、悪徳商法で全国に数万人の被害者を出し、被害総額は2000億円という桁外れの金額を集め、豊田商事の永野会長がマスコミの面前で刺殺されるという衝撃的な事件で幕を閉じた四半世紀前の企業です。
この豊田商事と親鸞会とは深い繋がりのあったことは、当時の会員ならば誰でも知っている隠しようのない事実でした。概要は以下にあります。
豊田商事事件-Wikipedia
しかし、豊田商事の悪徳商法が社会問題化してからは、親鸞会は豊田商事とは関係がないと会員に言い続けて来ました。当時の会員はそれが嘘だと判っていましたが、私を含めてほとんどの会員は都合の悪いことには目を瞑りました。なぜなら、教えは正しい筈だから、無条件で高森会長に従わなければならない、と思い込んでいたからです。
さて、豊田商事の永野会長は、悪徳商法で巨額のお金を多くの人から騙しとりましたが、そのお金を”浄化”させたいと思って、親鸞会に多額の財施をしたと裁判で明らかになっています。
この考え方は、永野会長独自の考えではなく、親鸞会の古くからの”教え”が元となっていました。たとえば、昭和40年(1965年)12月15日号の顕正新聞の「大喝」には、
金はガメツク儲けてきれいに使え
昔、月遷という画僧がいた。彼は金さえ、呉れゝば誰れ彼れの差別なく、その絵を売ったので大変ガメツイ坊主だと評判が悪かった。これをさげすんだ遊女が、ある時金で求めた彼の名画を、腹に巻いて彼の面前で恥かしめ、その欲深を責めたが彼はニコニコ笑っていた。やがて彼女は、彼が絵によって儲けた金が、彼の私欲の為にではなく悪路を修理したり、橋をかけたり乏しき者に与えられていたことを知って深く懺悔したという話がある。
世間では仏法を信じている者が金儲けの話をすると丁度強盗の相談のように嫌う者がいるが、とんでもない仏法の誤解だ。金そのものは善でもなければ悪でもない。その使い方一つがそれを決定するのだ。その正しい使い方を教えるものが仏教といえるのだ。大いに金は儲けて、正法宣布の為に、きれいに使わねばならない。また、金の持っている者からは正法のために、どんどん布施させるがよい。金をとり切らぬ信心は真の信心ではないのだ。法もまた財なり。財もまた法である。自損々他のアブク銭を正法宣揚の為に召しあげる税吏の精神に徹するのが大慈大悲の御心にかなうのだ。税吏を恥しいと思う者は、仏法を軽く見ている証拠であり、信心が徹底していないのだ。
とあります。豊田商事の悪徳商法と親鸞会への財施は、親鸞会の”教え”に、忠実に従ったものといえます。この行為がお金を”浄化”し、善になったのかどうかは、永野会長の悲惨な最期を見れば容易に判断がつきます。
仏教で布施といわれるのは、「三輪清浄」もしくは「三輪空寂」という心構えの上で成り立つものです。
「三輪清浄」とは『大乗本生心地観経』の「三輪清浄偈」にある
能施と所施及び施物は、三世の中において無所得なり。
のことです。 能施(施す者)、所施(施しを受ける者)、施物の3つが無所得(とらわれのないもの)、言い換えれば清浄でなければ布施にはならないと教えられています。
参考までに、親鸞会でいう「三輪空」の「私が誰々に何々を、この3つを忘れるようにしよう」というのは、高森会長のいつもの幼稚な理解によるものでしょう。
「三輪清浄」という布施の基本的な心構えに照らし合わせれば、悪徳商法によって儲けた永野会長は不浄な能施であり、不正なお金は不浄な施物であることは、疑いようのない事実です。
更には、所施の高森会長は、施物に対する執着が異常に強い不浄な者であることは、「さよなら親鸞会」に書かれてある通りで、当ブログでも何度か紹介してきました。
従って、永野会長の行為は、能施・所施・施物のすべてにおいて汚れに汚れたものですから、布施とは真逆の悪業であり、最悪の結果が来たのも当然のことです。
永野会長ほど極端なことはないにしても、親鸞会の会員のしている”財施”も同様です。
恩徳報謝賞等の名誉欲を親鸞会から提供されて、多額のお金を差し出すことは、不浄な能施と施物を促すものでしかありません。高森会長の不浄な所施は繰り返し説明するまでもありません。これで善い結果が返ってくると会員に期待させて更にお金を巻き上げるのですから、酷いものです。
最近の顕正新聞も顕真も、
善のすすめ
善をしなければ善い結果はこない
の擦り込みに徹しています。同じことを何百回何千回と言い続け書き続けることで、会員を洗脳教育して、ミニ永野会長を大量生産しているのが親鸞会です。
親鸞会の”法施”の代表者T講師、”財施”の代表者永野会長の2人の最期が、親鸞会の”布施”の誤りを実証しています。
次の犠牲者に成る前に、親鸞会を離れることを強くお勧めします。
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コメント
S会は真宗学では聞き覚えのある言葉を出しますが、仏教学では無知丸出しですね。
S会では、善とは真実に近づくことで、悪は真実から遠ざかることと教えていました。
真実聞けるのはS会だけだというのですから、S会にとって都合のいいことが善、悪いことが悪ということです。
お経では善悪について詳しく具体的に説かれています。
お経をおろかに思って自分の都合のよいように善悪を決め直すのは謗法罪ですね。
S会の「善の勧め」は、謗法の勧めだったようです。
投稿: | 2011年4月25日 (月) 01時43分
名無し 様
いやいや、真宗学も無知丸出しですよ。
伊藤康善師、大沼法竜師の著書と、一般向けに書かれた書物を齧った程度ですからね。
一番よく読んでいるのは、創価学会の本だと思います。
投稿: 飛雲 | 2011年4月26日 (火) 06時47分