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2011年4月21日 (木)

そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長

ある会員さんから先日のテレビ座談会での内容を聞きました。
早速、「安心問答」でも取り上げられていましたので、違う視点から述べておきます。

高森会長は『歎異抄』第2章

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

の「総じてもつて存知せざるなり」を、

知りすぎた知らん

と解釈して、他の解説書でこのように書いたものがないことを自画自賛していましたが、実におめでたいことをまだ言っているのですね。懲りない人です。
そんなトンデモ解釈を誰もしていないのは当たり前のことであって、それを

自分だけが知っている真実

と言いたいのでしょう。ハッピーアドバイスの著者と話し合われる方が宜しいかも知れません。

これまでにこのことについて2度述べてきました。

浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

『執持鈔』を読めば、簡単に判ることですし、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と同じ信心であるならば、そんな愚かな解釈はしないでしょう。

詳しくは、上記のエントリーを読んで頂ければ結構ですが、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、極楽が判った、地獄が見えた、とは全く仰っていませんし、判る筈もないのです。もし極楽、地獄が判る、見えるということならば、その人は、最低でも定善は容易くできことでしょう。しかし、そのような智慧は親鸞聖人でも体得されていませんでした。
ですから、

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

は、その言葉通りなのです。

知らんものは知らん

です。信心決定しても、智慧のない凡夫は変わりません。それが『執持鈔』

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

なのです。弥勒菩薩でも往生という後生の一大事は判らないのです。まして凡夫の浅智で判るなんて考えるのは、今生で仏のさとりを開ける、今生で極楽に往生できる、という一益法門の異安心です。

信心が親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と異なっていても、『執持鈔』を読めば判ることですが、『執持鈔』を読んだこともなければ、古文を理解する能力もないし、真宗の教義について書かれた解説書も読んだことがないことが、ここでも明らかです。

大沼法竜師の味わいとして大袈裟とも言える表現を、そのまま受け売りして誤解したのが、高森会長です。

ところで親鸞会は、大学生だけでなく、社会人相手にも、親鸞会という団体名を隠して勧誘しています。団体名が”親鸞聖人に学ぶ会”としてチラシを配っていますが、その表現が傑作です。

今年は、親鸞聖人750回忌なのに親鸞聖人をよく知らない…

□名前は知っているけど、どんな方かと言われると答えられない。
□家は浄土真宗だけど、何も知らない。
□きみょうむりょう…、と正信偈は読んでいるけど、意味はサッパリ。
□そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない。

これって、高森会長のことではないですか。適当なことを会員には話をしていますが、少し突っ込んでみると、全く答えられないし、何も知らない。法話で正信偈の話をしているが、意味はサッパリ判らない。
親鸞聖人と真宗の教義について少しでも学んだことのある同行ならば、高森会長の話など漫才でしょう。
当ブログを初め、多くのブログで高森会長の出鱈目を散々教えて差し上げているのですが、

□そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない。

で一生を終えるつもりでしょうか、高森会長。
誰も誉めてくれないから、自分で誉めるしかない『歎異抄をひらく』の解説などする暇があるのならば、他の『歎異抄』解説本を読まれた方がよいでしょう。
大沼師の真似ばかりでなく、他の人の真似もすれば、少しはましな話ができると思いますがね。そうすれば、教義の批判も減ると思いますが、無二の善知識にはできないでしょうね。

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コメント

あるブログには、以下のように『歎異抄をひらく』を引用されていますので、

「念仏のみぞまことにておわします」を出してきて

「知りすぎた知らん」を説明していたことが伺えます。

「念仏のみぞまことにておわします」と「総じてもつて存知せざるなり」は

言っている物柄が異なるということでしょうか?


> 『歎異抄をひらく』には、
>
> 「念仏は極楽ゆきの因やら、地獄に堕つる因やら、親鸞さまさえ?知らん?とおっしゃる。我々に分かるはずがない。分からんまんまでよいのだ」
>
> と嘯いているのとは、知らんは知らんでも、知らんの意味が、まるっきり反対なのだ。
>
> 「念仏のみぞまことにておわします」
>
>  有名な『歎異抄』の言葉もある。
>
> 「念仏は極楽の因か、地獄の業か」の詮索に、まったく用事のなくなった聖人の、鮮明不動の信念の最も簡明な表明だったと言えよう。
>
> と書かれてあります。


投稿: | 2011年4月22日 (金) 06時03分

名無し 様

以前に書いたエントリーのコメント欄も読んでいただければお判りになられるのではないかと思います。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-0b33.html

凡夫の智慧では、「念仏は極楽の因か、地獄の業か」は判りません。では何が判るのかといいますと、自力無功(自力では出離できない)と他力全託(すべて阿弥陀仏におまかせ)ということです。それが『執持鈔』の

 かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

であり、

 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

なのです。これが『歎異抄』では「念仏のみぞまことにておわします」になるのです。
簡潔にいえば、

行き先はすべて阿弥陀仏(念仏)におまかせしてあるが、その行き先がどんなところかは知る由もない。しかし、極楽浄土に連れて行ってくださると阿弥陀仏が仰り、釈尊も法然上人も教えられているので、それで間違いない。

ということです。

投稿: 飛雲 | 2011年4月22日 (金) 06時45分

真宗教学を学んでみると、ここは大事なところだという気がします。
S会は一見尤もらしいことを言ってスルーですから、彼らの言う「土蔵秘事の者達」が「あんな話いくら聞いても救われませんよ」と言うのは正しいですね。

投稿: | 2011年4月22日 (金) 23時35分

名無し 様

仰る通り大事なことです。
親鸞会の理解では、他力信心は判りませんし、獲信も極めて難しいでしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年4月23日 (土) 21時42分

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