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2011年4月18日 (月)

親鸞会は竪出ですか、 いいえ外道です

親鸞会は諸行往生を教えていないのに諸行往生を教えていると的外れな非難をしてくるものがある

と必死に否定していますが、確かに親鸞会の主張は諸行往生とは言えないでしょう。

『末灯鈔』

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。

とあり、『浄土真要鈔』には

親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。

されば得生は十八の願の益、来迎は十九の願の益なり。この両願のこころを得なば、経文にも解釈にも来迎をあかせるは、みな十九の願の益なりとこころうべきなり。

とあります。

諸行往生に対するのが念仏往生ですが、その関係をまとめると以下です。

諸行往生―19願―化土往生―臨終来迎―横出
念仏往生―18願―報土往生―平生業成―横超

親鸞会の主張は、化土往生を否定していますので、諸行往生ではありません。『会報』第5集には、化土往生を説く大沼法竜師に対抗して以下のように書いています。

 ここで特に注意しておかねばならぬことは真宗の道俗の中に、未だ大信海に入らずとも求めている者が死ねば、みんな間違いなく化土往生出来ると主張し同行の求道心をさまたげている人がいるということである。これは許すことの出来ない正法の怨敵である。三機のところでも述べたように十九願の邪定聚の機ならば化土へも行けるであろうが、真宗の道俗の中に、そのような者は見当らないから化土往生どころか必堕無間こそ間違いのない後生である。
 若し、信前の者も、求めてさえいれば化土往生が出来、やがて報土往生、弥陀同体成仏出来るのなら後生の一大事は立たない。後生の一大事生死の一大事の立たないところに仏法、また成立しないのである。
 若し、信前の者が、みんな化土往生出来るのなら、親鸞聖人は、なぜに「たとえ、大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきけ」と仰言ったか。又『教行信証』総序に「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、更りてまた昿劫を経歴せん」と悲嘆なされたか。化土往生してやがて必然的に報土往生が出来れば昿劫を経歴する心配がある筈がないではないか。
 蓮如上人も『御文章』の各処に「この信、決定されずんば極楽には往生せずして化土にまいるべきなり」とはいわれずに「無間地獄に堕在すべし」と教えられ、故に「一日も片時も急いで信心決定せよ」「命のうちに不審もとくとくはれられ候わでは、さだめて後悔のみにて候わんずれ、おん心得あるべく候」と手に汗握って御勧化になっていられる。本当は化土往生出来るのに故意に無間地獄に堕ちるぞと我々をおどろかされたのであろうか。そんなことがあり得る筈がない。
 これらの善知識の仰せの通り信前の者には必堕無間の後生の一大事があればこそではないか。信心決定という難関を突破させて貰わない限り誰人と雖も、化土どころか無間地獄に堕在するという後生の一大事は、まぬがれないことを深く牢記すべきである。

ところが、

高森会長は本心では化土往生を認めている?

でも述べたように、高森会長は臨終来迎は認めています。
行方不明のT講師についても、観音菩薩の説法があったと講師部員には発表されているようです。
臨終来迎を認めて、化土往生を否定するという、どこまでも思いつきの教義なのでしょう。

では念仏往生を勧めているのかといえば、平生業成ではありませんので、念仏往生でもありません。
浄土門内においては、平生業成に対するものが臨終来迎です。高森会長は、極一部の人は臨終に観音菩薩の説法という臨終来迎があると説きながら、臨終来迎のない圧倒的大多数の人は必堕無間で、昿劫多生を経ている間での業成と教えています。多生においてその時点での平生業成というのは、矛盾も甚だしいことです。

二双四重の教判

でも述べましたが、多生における平生業成とは

竪出(漸教)

大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
聖道権教、法相等、歴劫修行の教
聖道、歴劫修行の証

と同じことです。昿劫多生で善に励んでどこかの生での業成とは「歴劫修行の証」のことですので、高森会長の主張は、竪出に最も近いことになります。

参考までに、他の3つは

横超(頓教)

願成就一実円満の真教、真宗
易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等
選択本願・真実報土・即得往生

横出(漸教)

三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善
浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教
浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生

竪超(頓教)

大乗真実の教
難行聖道の実教、仏心・真言・法華・華厳等の教
即身是仏・即身成仏等の証果

ですので、少なくとも浄土門の横超・横出でないことだけは確かです。
しかしながら、煩悩にまみれ、戒律を破ることも平気で、一生造悪を宣言した竪出もありえませんので、竪出とも違います。

親鸞聖人は全仏教をこの4通りに分類されていますので、結局のところ、高森会長の教えていることは、仏教の範疇から外れているのです。
仏教のイロハも知らなければ、浄土門の条件も否定して、もちろん真宗とは全く逆の矛盾教義が、親鸞会教義なのです。外道としかいいようがありません。

しかし、こんな無知で狂った教義を説く人物が、無二の善知識を演じているのですから、驚きです。新興宗教でももう少し筋が通った教義を考えだしていますがね。トップの能力の差でしょうか。

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コメント

S会は善の勧めと口では言いながら悪を実行しておりますし、組織があれば規律が必要だなどと嘯き釈尊の戒律を無視して勝手な戒をつくっています。
ただの外道ではなく、仏陀とその法を否定しているので謗法の外道ですね。本来なら地獄に落ちる必要のない人に謗法を勧める危険な宗教です。

投稿: | 2011年4月19日 (火) 21時46分

真剣に求道していた人は、臨終に観音菩薩の説法に遇える。この説の根拠は何なのでしょうか。ご存知ならば教えて下さい。

投稿: 広島の名無し | 2011年4月20日 (水) 00時16分

名無し 様

同感です。それで会員にブログで警告をしているのです。


広島の名無し 様

これです。聖教上にはありません。

『華光誌』第5巻、第5号
「死後の説法」伊藤康善

宿善・無宿善の問題を抜きにして、人は最後まで聞法すべきである。臨終まで、解らなくとも歎くことはない。この身が臨終の時に、観世音菩薩の説法があるようである。

投稿: 飛雲 | 2011年4月20日 (水) 05時33分

飛雲様
ご回答、有難うございます。お聖教上には無いような気がしていましたが、やはりそうですか。「ルール無用」になってしまっている感がありますが、「ワシがルールじゃよ」ってことでしょうか。

投稿: 広島の名無し | 2011年4月20日 (水) 21時13分

広島の名無し 様

「ワシがルールじゃよ」ということなのでしょうね。

投稿: 飛雲 | 2011年4月22日 (金) 12時50分

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