« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »

2011年4月

2011年4月29日 (金)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り16

『観無量寿経』を読んだことがない高森会長と講師部員は、創作の王舎城の悲劇しか知りません。『顕真』4月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」は、その創作王舎城の悲劇を長々と書き連ねているだけの、本当に中身のない文章でした。紹介するまでもないので、『顕真』からの引用は省略します。

正しく勉強したい方のために、原文に従って『観無量寿経』を簡単に解説しておきます。

韋提希が牢の中で、釈尊に懇願した内容は以下の通りです。

ときに韋提希、幽閉せられをはりて愁憂憔悴す。はるかに耆闍崛山に向かひて、仏のために礼をなしてこの言をなさく、「如来世尊、むかしのとき、つねに阿難を遣はし、来らしめてわれを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」

(現代語訳)

こうして閉じこめられた韋提希は、悲しみと憂いにやつれはて、遠く耆闍崛山の方に向かい、釈尊に礼拝して申しあげた。
「世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしをいたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおります。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしになって、わたしに会わせてください」

釈尊に来て頂きたいと韋提希は言っていませんでしたが、釈尊は韋提希の元に行かれました。そこで韋提希が釈尊に言ったことは、

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

です。
韋提希は「憂悩なき処」へ「われまさに往生すべし」と往生を願ったのです。それで、釈尊が阿弥陀仏と諸仏方の浄土を見せられて、

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。
ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

(現代語訳)

釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである」

そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか」

と、韋提希が、自分は釈尊のお力で浄土を見ることができたけれども、仏滅後の衆生はどうすれば極楽浄土を見ることができるのですか、と釈尊に請うて説かれたのが、定善です。定善は、『定善義』

業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

身口意業が所縁の境にしたがって移り禅定の想も波のように動いて、たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

とありますように、極めて難しい行です。しかし、誰もできないということではありません。善導大師、懐感禅師、法照禅師は、定善ができた方と言われています。このことは

雑毒の善ができる下品下生???

でも述べました。
釈尊は定善を説かれている途中で、韋提希のために定善とは別に除苦悩法を説かれます。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。
この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。

(現代語訳)

釈尊はさらに阿難と韋提希に仰せになった。
「そなたたちは、わたしのいうことをよく聞いて、深く思いをめぐらすがよい。わたしは今そなたたちのために、苦悩を除く教えを説き示そう。そなたたちはしっかりと心にとどめ、多くの人々のために説きひろめるがよい」
釈尊のこのお言葉とともに、無量寿仏が突然空中に姿を現してお立ちになり、その左右には観世音、大勢至の二菩薩がつきそっておられた。その光明はまばゆく輝いて、はっきりと見ることができない。黄金の輝きをどれほど集めても、そのまばゆさにくらべようもなかった。

ちなみに釈尊は姿を消されたとはありません。
韋提希の獲信後も、釈尊は定善の説明を続けられていますから、韋提希に定善をさせるために説かれたのではないことが判ります。

定善は、極々一部の人しかできない行ですので、定善のできない人に対して釈尊は続いて散善三福を説かれます。
なお、三福の行福に布施の行が含まれますが、

三輪不浄の布施?の結末

でも述べたように、三輪清浄でなければ布施にはなりませんので、散善三福も易しい行ではありません。
それで散善三福もできない人に対して、念仏を説かれたのです。

つまり、往生の行として定善、散善、念仏という3つを機に応じて説かれたのが、『観無量寿経』です。
定善ができる人は定善をして往生を願いなさい、散善ができる人は散善をして往生を願いなさい、定善も散善もできない人は念仏によって往生を願いなさい、と教えられているのです。
これは『観無量寿経』を読んだことのある人であれば、同じ解釈になり、聖道門でも浄土門でも共通です。

さて、『観無量寿経』の結論として

仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。

(現代語訳)

釈尊は阿難に仰せになった。
「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである」

と念仏1つを勧められたと教えられたのが善導大師です。
従って定善・散善のできない悪凡夫には、最初から最後まで念仏1つしか勧められていないのです。それが『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

です。

定善の内容を聞いて、定善は自分にはできると思った人は定善をするでしょう。
散善の内容を聞いて、散善ならば自分にはできると思った人は散善をするでしょう。
しかし定善・散善の内容を聞いて、自分にはとてもできないと思った人は、定善・散善ができると自惚れている訳もなく、往生するには念仏しかないのです。

こんな当たり前の理屈が理解できず、定善・散善ができないのにできると自惚れている極悪人が、全人類であると寝恍けたことを言っているのが高森会長です。

『観無量寿経』も読んだことがなく、仏教学の基礎である布施の意味さえも知らずに、あんな出鱈目な話を自信一杯お説き下さる方は、確かに”唯一無二”でしょう。

| | コメント (2)

2011年4月28日 (木)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り15

前回の続きです。
『本願寺なぜ答えぬ』と同じことが『顕真』3月号にも書かれています。

これは『三経往生文類』にも説かれているが、いまは『愚禿鈔』の文を挙げておこう。

として『愚禿鈔』の以下の御文を出してます。

ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり

これが親鸞会の言っているような意味にならないことは、すでに

「親鸞会教義の誤り」
親鸞会は諸行往生

で説明されています。この御文の前後を読めば、断章取義であることが簡単に判ります。『観経』の三心、19願では化土往生にしかならないので、『大経』の三信、18願に帰しなさいよ、という意味です。日本語の理解がお粗末であるから、このような解釈になるのです。そのこともすでに

”方便より真実に入れ”の正しい意味

で述べている通りです。『三経往生文類』については、全く御文を挙げていませんが、挙げたら間違いが判るからです。『三経往生文類』の内容については

曲がった教えだな、曲がった人物だな、と見るのが真っ直ぐな見方です。

でも述べておきました。

さて、今回は新たに『改邪鈔』

三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞと定め、『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさづけらるるところの仏智とわけられたり。しかるに、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」とをしへおきまします祖師[親鸞]聖人の御釈を拝見せざるにや。

が加わりました。これはM野講師ではないと強く否定する人物がよく出す根拠で、親鸞会は、それを採用したのでしょう。これも先程の

”方便より真実に入れ”の正しい意味

を読んで頂ければお判りになると思いますが、「方便より真実へ伝ひ、凡夫発起の三心より如来利他の信心に通入するぞ」より」は捨てて、という意味です。その証拠にこの後には、

まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。

とあります。国語力のない高森会長と会員のために同じ意味のお言葉をまとめると

『観経』の至誠・深心等の三心
=自力の三心
=方便
=凡夫発起の三心
=自力

『大経』所説の至心・信楽・欲生等の三信
=他力よりさづけらるるところの仏智
=真実
=如来利他の信心
=他力

です。「より」を通ってとしか考えられない愚かさが、ここでも判ります。

また親鸞会が好きな『御一代記聞書』

蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。

を出していますが、この意訳がまた酷いです。

「蓮如上人が仰せになった。
『方便など要らないなどとは、言語道断言うべきことではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってのみ弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことができるのである』」

方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」が「方便からしか真実に入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていないのだ」という意味になる訳がないでしょう。
方便を説くことで真実をより際立たせるという廃立の教えということです。
これは法然上人の『選択本願念仏集』にある

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

という廃立の教えを元に仰っているのです。『御一代記聞書』の意味を判りやすくいえば、

諸善という方便は念仏の素晴らしさを顕され、捨てさせるために説かれた。だから善巧方便の念仏によって真実信心を獲させていただけるのだ。

です。

方便については何度も何度も述べて来ましたが、復習されたい方は

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解

王舎城の悲劇が善巧方便

善巧方便がまだ判らない人のための補足説明

みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!

『歎異抄をひらく』の自己矛盾

『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています

これらも併せて読んで頂けるとよいと思います。

親鸞会のやっていることは豊田商事のペーパー商法と同様です。ないものをあるかのように装っているだけです。
会員は原文を読めないから、意訳の部分で騙そうという悪意が見え見えです。それを謗法罪というのです。

会員は馬鹿にされているのです。何を言っても簡単に騙されると見縊られているのですが、会員も知能を持った人間なら、少しは脳を使ってみてはどうでしょうか。

| | コメント (0)

2011年4月26日 (火)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り14

『顕真』3月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」については、余りにもレベルが低いので無視しようかと思いましたが、シリーズものですので、一応述べておきます。

 人の顔に億差兆別の違いがあるように、人間の心はもっと複雑多岐にわたる。しかも強情我慢のウヌボレ屋で、真実のカケラもないのが十方衆生の実相である。
 それらを平等に絶対の幸福に救い摂るには、本師本仏の弥陀でも難中の難事、種々の方便が必要不可欠だったのだ。

途中の文章に問題がありますが、ここでは最初と最後が重要です。

人の顔に億差兆別の違いがあるように、人間の心はもっと複雑多岐にわたる。

種々の方便が必要不可欠だったのだ。

この2つは対応しています。
ここから判ることは、十方衆生はそれぞれ機が違うから機に応じて阿弥陀仏(及び釈尊)が方便も施して下さったということになる筈です。理解力のない高森会長と会員のために、もう少し判りやすくいえば、方便は十方衆生共通ではないということです。

ところがこの後は、いつものように、

 十八願(真実)からは、我々の諸善は間に合わぬ捨て物だが、十八願(真実)を素直に聞く者など、絶対ないと見抜かれた弥陀が、そんな者を救う(絶対の幸福)には、絶対必要不可欠と建てられたのが、十九・二十の方便願なのである。

としています。この後、延々とその説明が続きますが、この矛盾が判りますでしょうか?
十八願(真実)を素直に聞く者など、絶対ない」ということは、「人間の心は複雑多岐」ではないし、方便も「十九・二十の方便願」だけで、「種々の方便」は必要ないということになります。
では釈尊が八万四千の法門を説かれたのは何のためでしょうか?

『教行信証』化土巻

宗師の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。

(現代語訳)

善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。

とあるように、機に応じてそれぞれの方便が必要であったから、それが八万四千の法門になったのです。仏教のイロハである対機説法ということを知っていれば、当たり前のことです。十方衆生が共通の機であるならば、八万四千の法門は必要ありません。
同じように阿弥陀仏は、それぞれの機に応じて18願・19願・20願を建てられたのです。簡単な話です。

以上のことが理解できなければ、仏教云々以前に、国語の理解力の問題でしょう。

高森会長のトリックは、誰も問題にしない「十方衆生」に拘っていることです。これまでに何度もその愚かな拘りについて論破してきましたが、同じことを何度も書くことは皆さんに失礼に当たるでしょうから、もしお判りでない方は

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善)

を読んで下さい。

さてこの後には、性懲りもなく

「願海に、真あり仮あり」と、阿弥陀仏の本願に”真実の願”と”方便の願”のあることを明言され、十八願を真実、十九・二十の二願を方便と断定し、三願は決して無関係に孤立したものでないことを喝破されている。
「真」と無関係の「仮」もなく、「仮」と関係なき「真」もなし。「真実」から流出したのが「方便」だから、「真実」と無関係な「方便」などありえないのである。

と言っていますが、先程述べたことを踏まえれば、「方便」「」の使い方がおかしいことに気が付かれると思います。
これも何度も紹介していますが、源信僧都は『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と仰り、それを親鸞聖人は『高僧和讃』源信讃

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と著わされ、それを『正信偈』

極重の悪人はただ仏を称すべし。

とされ、蓮如上人も『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解説して下されています。
『観無量寿経』を読んだことがあるならば、これらの意味は容易に理解できると思います。善という方便は善のできる善人に対してだけです。善のできない悪人に善を勧められていることはありません。悪人には念仏以外の方便はないのです。つまり、悪人には19願の方便願は必要ないのです。悪人に善が必ず要る、19願が必要だと仰ったお言葉は、mixiでの法論で、示すことができず、高森会長、教学課、こうへい氏(H講師)は皆逃走しました。

ところで善の勧め、善の勧め、とうるさく言っている高森会長は善をしているのでしょうか?

豊田商事とは関係がない、と断言しながら「豊田商事破産後に親鸞会は豊田商事関係の献金から1億3000万円を破産管財人に返還している」(判例時報 1321号『豊田商事詐欺被告事件第一審判決』)
「正本堂にワシの部屋はなくてもよい」と言いながら、200畳の部屋。
F館は5階建て、と最後まで言い張って、完成したらやはり会長の部屋は6階にある。

こんなことは朝飯前で、仏法の解釈も簡単にねじ曲げるし、捏造もするわ、仏法者以前に、人間としてどうなのよ、と言いたいですね。

そういえば、全国の受刑者約2800人から、東日本大震災の義援金として、合計約2156万円(11日現在)の寄付があったそうですが、金額も人数も親鸞会とほぼ同じです。しかし受刑者は所持金や作業報奨金から義援金を支出したといいますから、全国の受刑者の方が親鸞会よりも遥かに善に励んでいるのではないですかね。

ましてや義援金の一部を横領する人物などに、善の勧めを説く資格はありませんよ。

| | コメント (5)

2011年4月24日 (日)

三輪不浄の布施?の結末

なぜか最近の2chの親鸞会スレッドには、豊田商事のことが話題になっています。それを阻止するためにネット対策員が荒らしをするという醜い攻防が繰り広げられています。
豊田商事とは、悪徳商法で全国に数万人の被害者を出し、被害総額は2000億円という桁外れの金額を集め、豊田商事の永野会長がマスコミの面前で刺殺されるという衝撃的な事件で幕を閉じた四半世紀前の企業です。
この豊田商事と親鸞会とは深い繋がりのあったことは、当時の会員ならば誰でも知っている隠しようのない事実でした。概要は以下にあります。

豊田商事事件-Wikipedia

しかし、豊田商事の悪徳商法が社会問題化してからは、親鸞会は豊田商事とは関係がないと会員に言い続けて来ました。当時の会員はそれが嘘だと判っていましたが、私を含めてほとんどの会員は都合の悪いことには目を瞑りました。なぜなら、教えは正しい筈だから、無条件で高森会長に従わなければならない、と思い込んでいたからです。

さて、豊田商事の永野会長は、悪徳商法で巨額のお金を多くの人から騙しとりましたが、そのお金を”浄化”させたいと思って、親鸞会に多額の財施をしたと裁判で明らかになっています。
この考え方は、永野会長独自の考えではなく、親鸞会の古くからの”教え”が元となっていました。たとえば、昭和40年(1965年)12月15日号の顕正新聞の「大喝」には、

金はガメツク儲けてきれいに使え

 昔、月遷という画僧がいた。彼は金さえ、呉れゝば誰れ彼れの差別なく、その絵を売ったので大変ガメツイ坊主だと評判が悪かった。これをさげすんだ遊女が、ある時金で求めた彼の名画を、腹に巻いて彼の面前で恥かしめ、その欲深を責めたが彼はニコニコ笑っていた。やがて彼女は、彼が絵によって儲けた金が、彼の私欲の為にではなく悪路を修理したり、橋をかけたり乏しき者に与えられていたことを知って深く懺悔したという話がある。
 世間では仏法を信じている者が金儲けの話をすると丁度強盗の相談のように嫌う者がいるが、とんでもない仏法の誤解だ。金そのものは善でもなければ悪でもない。その使い方一つがそれを決定するのだ。その正しい使い方を教えるものが仏教といえるのだ。大いに金は儲けて、正法宣布の為に、きれいに使わねばならない。また、
金の持っている者からは正法のために、どんどん布施させるがよい。金をとり切らぬ信心は真の信心ではないのだ。法もまた財なり。財もまた法である。自損々他のアブク銭を正法宣揚の為に召しあげる税吏の精神に徹するのが大慈大悲の御心にかなうのだ。税吏を恥しいと思う者は、仏法を軽く見ている証拠であり、信心が徹底していないのだ。

とあります。豊田商事の悪徳商法と親鸞会への財施は、親鸞会の”教え”に、忠実に従ったものといえます。この行為がお金を”浄化”し、善になったのかどうかは、永野会長の悲惨な最期を見れば容易に判断がつきます。

仏教で布施といわれるのは、「三輪清浄」もしくは「三輪空寂」という心構えの上で成り立つものです。

三輪清浄」とは『大乗本生心地観経』の「三輪清浄偈」にある

能施と所施及び施物は、三世の中において無所得なり。

のことです。 能施(施す者)、所施(施しを受ける者)、施物の3つが無所得(とらわれのないもの)、言い換えれば清浄でなければ布施にはならないと教えられています。
参考までに、親鸞会でいう「三輪空」の「私が誰々に何々を、この3つを忘れるようにしよう」というのは、高森会長のいつもの幼稚な理解によるものでしょう。

三輪清浄」という布施の基本的な心構えに照らし合わせれば、悪徳商法によって儲けた永野会長は不浄な能施であり、不正なお金は不浄な施物であることは、疑いようのない事実です。
更には、所施の高森会長は、施物に対する執着が異常に強い不浄な者であることは、「さよなら親鸞会」に書かれてある通りで、当ブログでも何度か紹介してきました。

従って、永野会長の行為は、能施・所施・施物のすべてにおいて汚れに汚れたものですから、布施とは真逆の悪業であり、最悪の結果が来たのも当然のことです。

永野会長ほど極端なことはないにしても、親鸞会の会員のしている”財施”も同様です。
恩徳報謝賞等の名誉欲を親鸞会から提供されて、多額のお金を差し出すことは、不浄な能施施物を促すものでしかありません。高森会長の不浄な所施は繰り返し説明するまでもありません。これで善い結果が返ってくると会員に期待させて更にお金を巻き上げるのですから、酷いものです。

最近の顕正新聞も顕真も、

善のすすめ
善をしなければ善い結果はこない

の擦り込みに徹しています。同じことを何百回何千回と言い続け書き続けることで、会員を洗脳教育して、ミニ永野会長を大量生産しているのが親鸞会です。

親鸞会の”法施”の代表者T講師、”財施”の代表者永野会長の2人の最期が、親鸞会の”布施”の誤りを実証しています。

次の犠牲者に成る前に、親鸞会を離れることを強くお勧めします。

| | コメント (2)

2011年4月21日 (木)

そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長

ある会員さんから先日のテレビ座談会での内容を聞きました。
早速、「安心問答」でも取り上げられていましたので、違う視点から述べておきます。

高森会長は『歎異抄』第2章

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

の「総じてもつて存知せざるなり」を、

知りすぎた知らん

と解釈して、他の解説書でこのように書いたものがないことを自画自賛していましたが、実におめでたいことをまだ言っているのですね。懲りない人です。
そんなトンデモ解釈を誰もしていないのは当たり前のことであって、それを

自分だけが知っている真実

と言いたいのでしょう。ハッピーアドバイスの著者と話し合われる方が宜しいかも知れません。

これまでにこのことについて2度述べてきました。

浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

『執持鈔』を読めば、簡単に判ることですし、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と同じ信心であるならば、そんな愚かな解釈はしないでしょう。

詳しくは、上記のエントリーを読んで頂ければ結構ですが、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、極楽が判った、地獄が見えた、とは全く仰っていませんし、判る筈もないのです。もし極楽、地獄が判る、見えるということならば、その人は、最低でも定善は容易くできことでしょう。しかし、そのような智慧は親鸞聖人でも体得されていませんでした。
ですから、

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

は、その言葉通りなのです。

知らんものは知らん

です。信心決定しても、智慧のない凡夫は変わりません。それが『執持鈔』

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

なのです。弥勒菩薩でも往生という後生の一大事は判らないのです。まして凡夫の浅智で判るなんて考えるのは、今生で仏のさとりを開ける、今生で極楽に往生できる、という一益法門の異安心です。

信心が親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と異なっていても、『執持鈔』を読めば判ることですが、『執持鈔』を読んだこともなければ、古文を理解する能力もないし、真宗の教義について書かれた解説書も読んだことがないことが、ここでも明らかです。

大沼法竜師の味わいとして大袈裟とも言える表現を、そのまま受け売りして誤解したのが、高森会長です。

ところで親鸞会は、大学生だけでなく、社会人相手にも、親鸞会という団体名を隠して勧誘しています。団体名が”親鸞聖人に学ぶ会”としてチラシを配っていますが、その表現が傑作です。

今年は、親鸞聖人750回忌なのに親鸞聖人をよく知らない…

□名前は知っているけど、どんな方かと言われると答えられない。
□家は浄土真宗だけど、何も知らない。
□きみょうむりょう…、と正信偈は読んでいるけど、意味はサッパリ。
□そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない。

これって、高森会長のことではないですか。適当なことを会員には話をしていますが、少し突っ込んでみると、全く答えられないし、何も知らない。法話で正信偈の話をしているが、意味はサッパリ判らない。
親鸞聖人と真宗の教義について少しでも学んだことのある同行ならば、高森会長の話など漫才でしょう。
当ブログを初め、多くのブログで高森会長の出鱈目を散々教えて差し上げているのですが、

□そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない。

で一生を終えるつもりでしょうか、高森会長。
誰も誉めてくれないから、自分で誉めるしかない『歎異抄をひらく』の解説などする暇があるのならば、他の『歎異抄』解説本を読まれた方がよいでしょう。
大沼師の真似ばかりでなく、他の人の真似もすれば、少しはましな話ができると思いますがね。そうすれば、教義の批判も減ると思いますが、無二の善知識にはできないでしょうね。

| | コメント (4)

2011年4月18日 (月)

親鸞会は竪出ですか、 いいえ外道です

親鸞会は諸行往生を教えていないのに諸行往生を教えていると的外れな非難をしてくるものがある

と必死に否定していますが、確かに親鸞会の主張は諸行往生とは言えないでしょう。

『末灯鈔』

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。

とあり、『浄土真要鈔』には

親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。

されば得生は十八の願の益、来迎は十九の願の益なり。この両願のこころを得なば、経文にも解釈にも来迎をあかせるは、みな十九の願の益なりとこころうべきなり。

とあります。

諸行往生に対するのが念仏往生ですが、その関係をまとめると以下です。

諸行往生―19願―化土往生―臨終来迎―横出
念仏往生―18願―報土往生―平生業成―横超

親鸞会の主張は、化土往生を否定していますので、諸行往生ではありません。『会報』第5集には、化土往生を説く大沼法竜師に対抗して以下のように書いています。

 ここで特に注意しておかねばならぬことは真宗の道俗の中に、未だ大信海に入らずとも求めている者が死ねば、みんな間違いなく化土往生出来ると主張し同行の求道心をさまたげている人がいるということである。これは許すことの出来ない正法の怨敵である。三機のところでも述べたように十九願の邪定聚の機ならば化土へも行けるであろうが、真宗の道俗の中に、そのような者は見当らないから化土往生どころか必堕無間こそ間違いのない後生である。
 若し、信前の者も、求めてさえいれば化土往生が出来、やがて報土往生、弥陀同体成仏出来るのなら後生の一大事は立たない。後生の一大事生死の一大事の立たないところに仏法、また成立しないのである。
 若し、信前の者が、みんな化土往生出来るのなら、親鸞聖人は、なぜに「たとえ、大千世界に、みてらん火をもすぎゆきて、仏の御名をきけ」と仰言ったか。又『教行信証』総序に「もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、更りてまた昿劫を経歴せん」と悲嘆なされたか。化土往生してやがて必然的に報土往生が出来れば昿劫を経歴する心配がある筈がないではないか。
 蓮如上人も『御文章』の各処に「この信、決定されずんば極楽には往生せずして化土にまいるべきなり」とはいわれずに「無間地獄に堕在すべし」と教えられ、故に「一日も片時も急いで信心決定せよ」「命のうちに不審もとくとくはれられ候わでは、さだめて後悔のみにて候わんずれ、おん心得あるべく候」と手に汗握って御勧化になっていられる。本当は化土往生出来るのに故意に無間地獄に堕ちるぞと我々をおどろかされたのであろうか。そんなことがあり得る筈がない。
 これらの善知識の仰せの通り信前の者には必堕無間の後生の一大事があればこそではないか。信心決定という難関を突破させて貰わない限り誰人と雖も、化土どころか無間地獄に堕在するという後生の一大事は、まぬがれないことを深く牢記すべきである。

ところが、

高森会長は本心では化土往生を認めている?

でも述べたように、高森会長は臨終来迎は認めています。
行方不明のT講師についても、観音菩薩の説法があったと講師部員には発表されているようです。
臨終来迎を認めて、化土往生を否定するという、どこまでも思いつきの教義なのでしょう。

では念仏往生を勧めているのかといえば、平生業成ではありませんので、念仏往生でもありません。
浄土門内においては、平生業成に対するものが臨終来迎です。高森会長は、極一部の人は臨終に観音菩薩の説法という臨終来迎があると説きながら、臨終来迎のない圧倒的大多数の人は必堕無間で、昿劫多生を経ている間での業成と教えています。多生においてその時点での平生業成というのは、矛盾も甚だしいことです。

二双四重の教判

でも述べましたが、多生における平生業成とは

竪出(漸教)

大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
聖道権教、法相等、歴劫修行の教
聖道、歴劫修行の証

と同じことです。昿劫多生で善に励んでどこかの生での業成とは「歴劫修行の証」のことですので、高森会長の主張は、竪出に最も近いことになります。

参考までに、他の3つは

横超(頓教)

願成就一実円満の真教、真宗
易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等
選択本願・真実報土・即得往生

横出(漸教)

三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善
浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教
浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生

竪超(頓教)

大乗真実の教
難行聖道の実教、仏心・真言・法華・華厳等の教
即身是仏・即身成仏等の証果

ですので、少なくとも浄土門の横超・横出でないことだけは確かです。
しかしながら、煩悩にまみれ、戒律を破ることも平気で、一生造悪を宣言した竪出もありえませんので、竪出とも違います。

親鸞聖人は全仏教をこの4通りに分類されていますので、結局のところ、高森会長の教えていることは、仏教の範疇から外れているのです。
仏教のイロハも知らなければ、浄土門の条件も否定して、もちろん真宗とは全く逆の矛盾教義が、親鸞会教義なのです。外道としかいいようがありません。

しかし、こんな無知で狂った教義を説く人物が、無二の善知識を演じているのですから、驚きです。新興宗教でももう少し筋が通った教義を考えだしていますがね。トップの能力の差でしょうか。

| | コメント (5)

2011年4月15日 (金)

高森会長が勧めているのは、念仏往生でも諸行往生でもなく、必堕無間

東南アジアでは、諸善に励んで臨終来迎を願っている人が多い

と退会希望者を説得する係の講師部員は話をしているそうですが、自分の言っていることが判って言っているのでしょうか?
東南アジアの人たちは、諸善のできる前提で真面目に諸善に励んでいるのですから、理屈に合うのです。九品でいえば、自分は中品下生以上の者であるから、仏法の善、世俗の善をして往生を目指そうとしていますので、諸行往生の教えにあっているのです。
しかし、親鸞会の場合は、全人類は善ができない下品下生の者であると断言しておきながら善をさせて念仏往生するという、実に頓珍漢で支離滅裂な理屈です。
諸行往生を目指す東南アジアの人を例に出してきて、同じように善をしなければならないと主張するお目出度い思考を正してから話をせよ、と言いたいです。

これまでにも何度も述べてきましたが、親鸞聖人は全人類が下品下生の者だとは仰っていませんし、誰も善ができないとも仰っていません。
親鸞聖人が教えられていることは、中品下生以上の者が諸善に励んで往生しても、その諸行往生は化土往生であるから、報土往生の念仏往生を願いなさい、ということです。

また蓮如上人の『御文章』には善の勧めがないことを認めた上で、

当時の人は善に励んでいたから善を勧める必要がなかったのだ

と親鸞会では珍説を唱えていますが、蓮如上人時代と現代と人間が違うのでしょうか?
蓮如上人は『御文章』を書かれて、何万何十万の人を勧化せられました。その全員がものすごく善に励んでいたという理屈です。現代では、真宗門徒は2000万とも言われていますが、それらの人はすべて善に励んでいない人だから、善を勧めなければならないのだ、ということです。
親鸞会の会員は、親鸞会でいう”善”に相当励んでいるように思えますが、それでも19願の入り口にも立っていないと言っています。

これが矛盾していないと思うのであれば、余程思考がおかしいのでしょう。

先ほどのように、東南アジアの人は善に励んでいるということを言っている講師がいますが、それなら、東南アジアの人には善の勧めは必要ないということでしょうか?
日本でも諸行往生を目指している人は結構いますので、それらの人には善の勧めは不要ということでしょうか、あるいはそれらの人にでも、もっと激しく善を勧める必要があるというのでしょうか?
蓮如上人時代は、現代の人とは桁違いに善に励んでいて、家も田畑もすべて売り払って、仕事もそっちのけで、財施と法施に命がけで励んでいたとんでもなくすごい人達が何万何十万といて、そんな人たちに雑行を捨てよと蓮如上人は教えられたというのでしょうか?

何でも適当なことを言って、会員を騙すことに必死になっているようですが、話をすればするほど、泥沼に嵌って身動きがとれなくなることでしょう。

念仏往生するために、諸善に励めと主張するのは、浄土門が基礎の基礎から理解できていないのです。

さて、諸行往生について聖覚法印は『唯信鈔』で次のように教えられました。

諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざる ところなり。

諸行往生というのは、仏法と世俗の善をして往生を目指すものですが、これは阿弥陀仏の本願ではないというのです。19願をも本願と言う高森会長とは違います。

これに対して念仏往生については

二つに念仏往生といふは、阿弥陀の名号をとなへて往生をねがふなり。
(中略)
これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。
(中略)
さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。

念仏往生は、善のできない人でも、どんな悪人でも漏れずに往生できるというのです。最初に諸行往生を目指して、その後で念仏往生を願うというものではありません。諸行往生と念仏往生は並列の関係です。

これと同じことを蓮如上人は『御文章』2帖目第7通

これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。
その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。

と仰っています。智慧も才学も貴賎も関係なく、たとえ善のできない人、諸行往生さえも目指せない悪人に対しての教えが念仏往生です。真宗の聖教のどこを読んでも、そのことしか書かれていません。

親鸞会は完璧な選民思想です。しかし、高森会長が説いているのは諸行往生でもありません。高森会長が会員に勧めているものこそが、必堕無間です。無間地獄に堕ちることのない会員に念仏を誹謗させて、無間地獄に堕とさせる教えです。

| | コメント (5)

2011年4月13日 (水)

論も証拠もない、善のすすめ

古参のT講師が、今回の大震災により行方不明と聞いています。親鸞会から逃亡するために行方不明になっていることを願っていましたが、1ヶ月以上経ちましたので、その可能性も低く、大変に残念です。

現在の真宗は、善をすすめないから廃れている、善をしなければよい結果はこない

と、親鸞会では、往生と無関係の現世利益をやたら強調しますが、親鸞会で勧めるところの”善”をした結果は、どうなっているでしょうか?

親鸞会会員の模範である講師部員で、この世の利益に恵まれた人を見たことがありません。金銭的に恵まれているのは、高森会長の身内だけでしょう。しかも、それは会員から集めたお金を自分たちのために流用しているからであり、悪徳商法で儲けるトップと同じ構造です。高森会長と身内が”善”をしてきたからではありません。
もし本当に”善”を勧めていて幸せになれるのならば、講師部員はもちろん、末端の会員までそれが実感できなければ、その”善”は偽者だということです。

論より証拠です。

さて、親鸞聖人が善を勧められている論については、最近退会希望者を説得するための根拠として、『唯信鈔文意』

おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。

を出しているそうです。
この意味は、過去世において、三恒河沙の諸仏のみもとで諸善に励んできたことで、阿弥陀仏の18願に遇うことができたということですが、このお言葉のどこに善の勧めがあるというのでしょうか?
親鸞聖人が仰りたいことについては

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り4

でも述べました。現代文でさえ理解できない高森会長や講師部員に、古文が理解できる筈もないので、一文だけ加えて説明します。
この御文の次のお言葉が、親鸞聖人の仰りたかったことです。

他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。

信心決定した人は、決して念仏以外の善を謗ったり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩や聖者を蔑むことをしてはならない、ということです。善をしなさい、ではありません。日本語が不自由な高森会長と講師部員、幹部会員のために前文と併せてまとめておきます。

過去世において諸仏のみもとで善に励み迷ってきて、今、善悪無関係の信心を賜った。だからといって、善を謗ったり、諸仏・菩薩方を蔑むことをしてはならない。

です。
どこに善をしなさいという意味のお言葉かありますか?

この二文の前に、報土往生のためには、善を捨てて念仏をとりなさい、と親鸞聖人が強調されていますので、誤解する人のために、親鸞聖人が、善を謗ることを誡められたお言葉を加えられただけです。
蓮如上人の『御文章』2帖目第3通

当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。

これと同じ意味です。

親鸞聖人の体験に具体的に当て嵌めるならば、親鸞聖人は比叡山で20年間御修行をなされましたが、そのことが結果的に法然上人にお遭いする御縁になり、18願に帰依なされました。親鸞聖人は比叡山のお陰で法然上人にお遭いして救われたと、比叡山に感謝なされていると思います。親鸞聖人は、比叡山でのことを謗ったり、諸仏・菩薩方を見下すようなことをされてはいませんが、比叡山が念仏弾圧をしてきたことに対しては、教えが判っていない、と非難をなされているのはご存知の通りです。
さてこのことが、親鸞聖人は比叡山での修行を勧められている、という意味になりますか?

七高僧方は、皆最初は聖道門に入っておられます。しかし聖道門では救われないと18願に帰依なされました。七高僧方は、聖道門の教えを謗られていませんが、我々に最初は聖道門をしなさいと勧められていますか?
顕著な例として曇鸞大師は聖道門から道教に迷われたことで、菩提流支により浄土門に導かれました。曇鸞大師は道教を捨てられましたが、道教を謗ってもよい、とは仰っていません。これは曇鸞大師が道教を勧められているということですか?

親鸞会で間違った教えを聞かされて迷ってはきたけれども、高森会長のお陰で親鸞聖人の教えに遇うことができた、と感謝する親鸞会の退会者がいますが、その退会者は親鸞会を勧めていることになりますか?

自分には合わない、あるいは間違った教えではあっても、そこで迷ってきたことで結果的に18願の救いにあずかることができた、ということであって、皆さんも同じように迷ってきなさい、と仰ったことでないのは、中学生でも理解できるでしょう。

親鸞会のように間違った教えについては、非難されて当然ですが、聖道門や諸行往生の教えを謗ることがあってはなりません。それらは悪凡夫の我々の機にあわないから、善知識方は我々の往生の為には勧められていないだけなのです。
当ブログでの主張は、これで一貫しています。

もし、「余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれ」を読んでも、これは善を勧めていることになるとお目出度い主張するのなら、同じ理屈で諸仏・菩薩を崇めることも勧められた、としなければなりませんが、そこは完全に否定するのが親鸞会です。これが矛盾していると判らないのなら、中学生レベルの論理的思考から身につけてもらわなければなりません。そんな人のために、ある退会者が

「親鸞会のトリック」

というブログを書いています。思考が残っている会員は、論理的な思考と親鸞会のトリックをよく勉強してください。
なお、高森会長と講師部員は読んでも理解できないと思います。彼らが理解できるレベルを超えていますので。

| | コメント (4)

2011年4月10日 (日)

仏法をねじ曲げることは、髭を撫でるよりも易い

先日の座談会で高森会長は、

18願・19願・20願を親鸞聖人だけでなく、七高僧はじめ皆大切に教えられている。

といつものように大嘘をついていました。
もちろんそんな根拠はありません。

最も判りやすい例は、法然上人が19願について仰らなかったことで、聖道門からの非難が起き、承元の法難のきっかけになったことは、何度も述べてきました。

高森会長にとっては、私利私欲で仏法をねじ曲げることなど、髭を撫でるよりも易いことなのです。

参考までに曇鸞大師は、三願について仰っています。しかし、その三願は、18願・11願・22願です。19願と20願のことではありません。『浄土論註』に、

 およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。なにをもつてこれをいはば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。いま的しく三願を取りて、もつて義の意を証せん。

 願(第十八願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く〉と。仏願力によるがゆゑに十念念仏してすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る一つの証なり。

 願(第十一願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ〉と。仏願力によるがゆゑに正定聚に住せん。正定聚に住せるがゆゑにかならず滅度に至らん。もろもろの回伏の難なし、このゆゑにすみやかなることを得る二つの証なり。

 願(第二十二願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らしめん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱して諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ〉と。仏願力によるがゆゑに、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し、諸地の行現前するをもつてのゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る三つの証なり。

(現代語訳)

 そもそも、衆生が浄土に生れることも、浄土に生れてからさまざまなはたらきをあらわすことも、みな阿弥陀仏の本願のはたらきによるのである。なぜなら、もし仏力によらないのであれば、四十八願が設けられたのは無意味なことになるからである。今これを示す三つの願を引いてそのわけを証明しよう。

 まず第十八願に、<わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で信じ喜び、わたしの国に生れると思って、たとえば十声念仏する。もし、わたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、たとえば十声念仏して往生することができる。往生することができるのだからもはや迷いの世界をさまようことはない。浄土に往生することができ、もはやさまようことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第一の証である。

 また第十一願に、<わたしが仏になったとき、国の中の人々が正定聚に住して必ずさとりに至ることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、正定聚に住する。正定聚に住するから必ずさとりに至ることができ、迷いの世界をさまよい苦しむことがないというのが、速やかに仏となることができるということの第二の証である。

 また第二十二願に、<わたしが仏になったとき、他の仏がたの国の菩薩たちが、わたしの国に生れてくれば、かならず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。各自の希望によって、それぞれの菩薩が人々を自在に導くため、かたい決意に身を包んで、多くの功徳を積み、すべてのものを救い、さまざまな仏がたの国に行って菩薩として修行し、すべての仏がたを供養し、数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることも自由にできる。すなわち、通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、大いなる慈悲の行を実践できる。そうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい>と誓われている。この仏の願のはたらきによるから、通常に超えすぐれて、菩薩の徳をすべてそなえ、人々を救うはたらきをすることができる。通常の菩薩ではなく還相の菩薩として、菩薩の徳をすべてそなえるというのが、速やかに仏となることができるということの第三の証である。

と仰っています。これは『教行信証』行巻にも引かれています。

四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。いま的しく三願を取りて、もつて義の意を証せん。

とありますように、48の願は無意味に建てられたものではない、として三願を出されたのが18願・11願・22願です。一方で、曇鸞大師は19願・20願については言及さえもありません。曇鸞大師にとりましては、三願といったら、18願・11願・22願なのです。これも浄土真宗においては常識です。

前回の『三経往生文類』の「大経往生」の解説で、この18願・11願・22願に17願を加えて親鸞聖人は説明されています。
つまり、曇鸞大師も18願の往生だけを教えられたのです。
高森会長が言う、19願・20願にある「十方衆生」は、誰も問題とされていません。

では、19願・20願は無駄な願であったと言うのか

と親鸞会では目くじらをたてて反論するでしょうが、それは歴代の善知識方を誹謗しているのと同じです。

親鸞聖人が19願・20願について言及されたのは、親鸞会のようなことを聖道門から言われたから、その反論としてです。19願・20願は、自力にこだわって18願を受け入れられない人にとっての権仮方便の願とされ、その方便の願に留まっていては化土往生にしかならないと親鸞聖人は繰り返し仰っています。
特に19願について勧められたお言葉は皆無です。
その証拠に親鸞聖人が19願を勧められたお言葉を出すように、何十回求めても、無関係なお言葉を示すのみです。19願・20願を誡められた誡疑讃を、19願・20願を勧められたとお笑い解釈をしたり、要門釈・『一念多念証文』のお言葉を驚くような歪曲をしたりすることしかできません。

はっきり言いまして、余りにもレベルが低すぎるのです。

教義論争以前の問題として国語の能力が中学生並であり、時代背景も、七高僧方の仰ったことも何も知らず、嘘が大好き、それが会員が崇め奉る人物です。

| | コメント (2)

2011年4月 7日 (木)

曲がった教えだな、曲がった人物だな、と見るのが真っ直ぐな見方です。

私がまだ会員であった頃は、三願転入の話をしながらも、高森会長の話の中心は18願でした。ところが最近の話は、19願が中心で、18願のことにさえ触れていない状態だと聞きます。
先日の座談会でも本願とは18願・19願・20願のことだと言ったそうですが、親鸞聖人の教えをとことんねじ曲げています。

19願について、ここまで強調しなければならなくなったのは、「21世紀の浄土真宗を考える会」「安心問答」「苦笑の独り言」「親鸞会教義の誤り」等で、三願転入の教えを徹底的に否定され、その上一年前のmixi上での法論に惨敗したからです。

高森会長の言動は名利に対して実に素直です。非難されたら、非難している相手には言い返さず、どんな嘘をついてでも自分の正統性を会員に対して必死にアピールします。
非難が的を射ていれば、くどい言い訳と誤魔化しに徹します。
従って、言い訳誤魔化しの回数が多ければ多いいほど、高森会長が自分の間違いを深刻に感じていることになります。

それにしても、会員を騙す方法をいくら考えても、今まで以上の新しい詭弁は思いつかず、完璧に論破されたことを、”嘘も百回言えば真実になる”を実践するだけしかできないとは情けないものです。

とはいいながら、19願と善の勧めについては、ここ2年間それだけ言い続けてきたがために、熱心な会員さえも疑問を生じるのですから、よい傾向ではあります。

さて、「本願」とは18願のことを指していると、以前に

キレて真宗と断絶した謗言

でも述べました。親鸞聖人が19願・20願のことを「本願」と仰った箇所はありません。

「安心問答」
「本願=三願」と4月3日親鸞会二千畳座談会で聞きましたが、そうなんでしょうか?

でも取り上げられていました。
本願」の意味について最も判りやすいのが『正像末和讃』誡疑讃

自力称名のひとはみな
 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ
 七宝の獄にぞいましむる

本願疑惑の行者には
 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ
 或堕宮胎とすてらるる

弥陀の本願信ぜねば
 疑惑を帯してうまれつつ
 はなはすなはちひらけねば
 胎に処するにたとへたり

です。「本願」を信じていない行者は化土往生すると仰った御和讃ですが、この「本願」を19願・20願と解釈することは決してできません。

18願・19願・20願について仰った御著書は、『教行信証』以外に『三経往生文類』があります。「三経往生」とは、大経往生観経往生弥陀経往生のことで、

大経往生=難思議往生=18願
観経往生=双樹林下往生=19願
弥陀経往生=難思往生=20願

となります。それぞれの願について親鸞聖人の解説部分のみを挙げておきます。

18願

大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。

(現代語訳)

「大経往生」というのは、如来が選び取られた海のように広大で不可思議な本願のはたらきによるものであり、これを他力というのである。これはつまり念仏往生の願(第十八願)に誓われた因により、必至滅土の願(第十一願)に誓われた果を得るのである。この世において正定聚の位に定まって、必ず真実の浄土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向という真実の因によるものであるから、この上ない涅槃のさとりを開くのである。この教えを『無量寿経』のかなめとする。このようなわけで、「大経往生」といい、また「難思議往生」というのである。

19願

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。

(現代語訳)

「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。そこで『観無量寿経』には、定善・散善、三福の行や九品のさまざまな善、あるいは自力の念仏を説いて、九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。これは、他力の中で自力をかなめとして説かれた教えである。このようなわけで「観経往生」というのは、どれもみな方便の浄土への往生である。これを「双樹林下往生」というのである。

20願

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願(第二十願)によって「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。ところが、自力で修める行にとらわれている人は、阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、如来の名号を自分の善根とし、その功徳を自ら回向して、必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、たたえ尽くすことも、説き尽くすことも、思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。それは深く重い罪であり、浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じ込められて、五百年の間、自由に振舞うことができず、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、お仕えすることもできないと如来は説いておられる。それでも、如来の名号を称えるから、胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。あらゆる功徳をそなえた名号によるから、「難思往生」というのである。不可思議の本願を疑う罪によって、「難思議往生」とはいわないとしらなければならない。

ここから、先程の『正像末和讃』誡疑讃で仰る「本願」とは18願のことであり、19願・20願が親鸞聖人の仰る「本願」ではないことが判ります。
更には、18願・19願・20願は関連した願として親鸞聖人は仰っていないことも判ります。それぞれが全く別個の願として親鸞聖人は仰っているのです。三願転入という概念は、『三経往生文類』には見られません。これだけ三願について詳しく教えられながら、”親鸞聖人の教えの根基”とまで断言する三願転入について全く仰っていません。要するに『教行信証』以外には、三願転入という概念すら書かれていないのです。

レベルの低い高森会長の嘘も詭弁も、聖教を読めば簡単に見破ることができます。
2年前までは、「若不生者」の解釈を無二の善知識たる高森会長が間違えた、と大騒ぎでしたが、今やそんな小さな間違いはかわいいもので、親鸞聖人の教えの根本から間違っており、親鸞聖人の仰ったことと合致しているところが皆無に等しくなりました。

高森会長の教えていることは、どこからどう見ても、曲がった教えですから、会員も真っ直ぐに見ようといつまでも頑張らずに、曲がった教えだな、曲がった人物だな、と真っ直ぐに見てもらいたいと思います。

| | コメント (2)

2011年4月 5日 (火)

18願成就文の「聞」とは何か?

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

この「」を三願転入の教えを聞くことだと親鸞会では教えているようですが、とんでもない邪義です。

これは18願成就文の「」を説明されたものです。その証拠にこの御文のある『教行信証』信巻の前後をみると

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

とあります。親鸞会の幹部会員ならば誰でも知っていると思いますが、18願成就文は、

諸有衆生 聞其名号
信心歓喜 乃至一念
至心回向 願生彼国
即得往生 住不退転
唯除五逆 誹謗正法

です。18願成就文に19願、20願のことは全くでてきません。
かつて高森会長は「聞其名号」について、

その名号とは、「其」のですから、その前の17願に誓われた名号のこと

と強調して説明していましたが、よもや忘れたとはいわせません。18願に誓われた念仏を解説されたものが17願、とも高森会長は説明してきた筈です。その名号を「」くのですから、19願とは無関係な話です。

18願成就文については『一念多念証文』にも解説があります。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

以前にも述べましたが、親鸞聖人が本願と仰るのは、18願のことです。「本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり」とあるように、信心と「」とは同じことです。名号のいわれを如実に聞く、そのまま受け入れることが信心なのです。従って、「本願の嘉号をもって己が善根とする」20願の「聞我名号」とも異なります。

仏願の生起を聞く」とは、機の深信のことです。「仏願の本末を聞く」とは、法の深信のことです。

真実信心を説明する上では、基本中の基本です。19願、20願を聞くことが「仏願の生起本末を聞きて」だというのは、根拠が無いどころか、親鸞聖人の教えを根底から覆すほどの邪義です。

しかし、釈尊は善の勧めばかりを説かれ、阿弥陀仏が19願を建てておられるので、それも聞かなければ片落ちではないか、という気が利いて間の抜けた反論を高森会長は内輪だけにするでしょうから、真実信心について教えて差し上げましょう。

真実信心は深信です。『愚禿鈔』

いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

とある通りです。その内容を

文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。

と教えておられます。七深信は、善導大師の『散善義』にありますが、その第三深信が、

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

です。これについては、一年前のmixiの中でのこうへい氏との法論の際に、詳しく何度も何度も説明してきました。
定散二善、そして19願は浄土を欣慕せしめるためのもの、つまりは、浄土を欣慕していない聖道門の人を浄土門に入らしめるための権仮方便と深く知らされるのが真実信心なのです。

従ってすでに浄土を欣慕している人、浄土門を信じている人にとっては、不要なものということです。

結論をいえば、19願を18願に入るためには絶対に必要なもの聞く」ことは、聴聞になりませんし、19願を18願に入るためには絶対に必要なもの疑心あることなし」と「聞く」ことは間違った信心ということです。

高森会長もこのことは知っているのです。しかし、金集めのためにはどうしても19願の善の勧めが必要なのです。会員を18願に入れさせるためではありません。

前回不浄説法について少し触れましたが、不浄説法とは名利のために説法をすることです。高森会長の場合は、名利のために教えを完全にねじ曲げて説法していますので、不浄説法にも当たりません。念仏誹謗の謗法罪です。この事実を知りながら高森会長を擁護する講師部員や幹部会員も念仏誹謗です。

| | コメント (0)

2011年4月 3日 (日)

雑毒の善ができてもできなくても、親鸞聖人の教えは「弥陀を称せよ」だけ

世俗の中で生きている我々にとりましては、善導大師が『定善義』で「たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。」と仰っているように定善はできませんし、また道綽禅師が『安楽集』で「しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり」と仰っているように、行福も戒福もできません。

では高森会長が我々に雑毒の善ができると断言している善とは、何でしょうか?
参考までに高森会長が会員に勧めている六度万行とは、菩薩行である大乗善の行福です。従って、六度万行ができるとするならば、親鸞会の会員は行福のできる上品の三生ということになります。六度万行はできないというならば、できるという雑毒の善は何ですか?

常識的に考えても、定善、行福、戒福ができる人は極稀でしょうが、世間善である世福ならば、できる人はもう少し増えるでしょう。雑毒の善ができると断言するからには、最低の善である世福は、必ずできる筈です。つまり中品下生の人が少なからず存在しなければなりません。これと比較するために、下品上生、下品中生と併せて、『玄義分』を引用します。

中が下といふは、
(中略)

ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

次に下輩の三人
(中略)

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

なにをもつてか知ることを得る。下が上の文に説くがごとし。「ただ五逆と謗法とを作らず、自余の諸悪はことごとくみなつぶさに造りて、慚愧すなはち一念に至るまでもあることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗を説き、教へて仏を称せしむるに遇ひて一声す。その時阿弥陀仏、すなはち化仏・菩薩を遣はしてこの人を来迎し、すなはち往生を得しめたまふ」(観経・意)と。ただかくのごとき悪人目に触るるにみなこれなり。もし善縁に遇へば、すなはち往生を得。もし善に遇はざれば、さだめて三塗に入りていまだ出づべからず。

下が中とは、「この人先に仏の戒を受く。受けをはりて持たずしてすなはち毀破す。また常住僧物・現前僧物を偸み、不浄説法して、乃至、一念慚愧の心あることなし。命終らんと欲する時、地獄の猛火一時にともに至りて、現じてその前にあり。火を見る時に当りて、すなはち善知識の、ためにかの仏国土の功徳を説きて、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人聞きをはりてすなはち仏を見たてまつり、化に随ひて往生す」(観経・意)と。初め善に遇はざれば獄火来迎し、後に善に逢ふがゆゑに化仏来迎す。これすなはちみなこれ弥陀願力のゆゑなり。

(現代語訳)

 中品下生については、
(中略)
これはまだ仏法に遇わない人であって、父母に孝養をつくすといっても、心に出離をねがい求めたことはない。ただこれは臨終に、はじめて善知識が往生を勧めてくださるのに遇い、この人はその勧めによって浄土に心を向けて、そこで往生を得るのである。またこの人は平生のとき自然に孝養を行ったのであって、出離のために孝養をつくしたのではない。

 つぎに下輩の三種の人
(中略)
この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

どうしてそれが知られるかというと、下品上生の文に説かれている通りである。
ただ五逆と謗法を作らないだけで、そのほかの悪は皆ことごとく造り、わずか一念も慚愧する心がない。そういう者が命終わろうとする時、善知識がその人のために大乗を説き、教えて念仏させるのに遇う。一声すると、そのとき阿弥陀仏は化仏・菩薩をつかわして、この人を来迎し、そこで往生を得る。

 このような悪人は、すべて人の常に見るところである。もし善知識の縁に遇えば往生を得るが、善知識の縁に遇わなければ必ず三途に沈んで出ることができない。

 下品中生とは、

この人は、さきに戒律を受けたけれども、受けおわってこれをたもたずにすぐ破り、また寺にいつも備え付けてある常住僧物や、時々に供養される現前僧物をぬすみ、名聞利養のための不浄説法などをして、わずか一念の慚愧心もない。命が終わろうとするとき地獄の猛火が一時に共に来てその人の前に現われ、その火を見る時にあたって、善知識がその人のために、かの仏国土の功徳を説いて往生を勧めてくださるのに遇う。この人はそれを聞きおわって、すぐに仏を見たてまつり、その化仏にしたがって往生する。

とある。初めには善知識に遇わないで地獄の火が迎え、後には善知識に遇ったから化仏の来迎にあずかる。これはすなわち弥陀の願力によるのである。

さて、以上から判ることは、

中品下生とは、出離のために善をしたのではない一般の善人のこと。

下品上生とは、仏法の善はもちろん、世俗の善もしていないで、五逆罪と謗法罪以外の悪ばかりを造っている悪人で、そのまま死ねば、三悪道に沈む。

下品中生とは、戒を授かりながらそれを破った人で、そのまま死ねば地獄に堕ちる。

ということです。
つまり、世俗の善である世福をしている人が、必堕無間になるということはないのです。中品下生の人は、もともと仏法を聞いていないのですから、仏法を聞いていない人が謗法罪を造っているという親鸞会の説明も嘘になります。

またたとえ雑毒の善さえもできない人であっても、五逆罪と謗法罪を造っていなければ、下品上生ということで、必堕無間ではありません。

しかし、僧侶や布教師の立場で破戒の罪を造り、不浄説法をしているならば、地獄に堕ちると教えられています。ただし、無間地獄ではありません。親鸞聖人はこの下品中生を御自分のことであると懺悔されたものと思われます。それが『歎異抄』

地獄は一定すみかぞかし

であり、『唯信鈔文意』

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。

です。下品下生のところに敢て下品中生の「不浄説法」を加えられていることからも、親鸞聖人は御自身を下品中生と見做されていたことも判ります。もし親鸞聖人が御自分のことを五逆の者と思われていたならば、下品下生の説明に「不浄説法」を加えられる必要はないのです。
もう少し丁寧に説明すれば、親鸞聖人は「不浄説法」の者という自覚を持っておられたからこそ、「不浄説法」を加えられることによって、下品中生の救いは、下品下生同様であり、更には下品上生、そして善人の救いも、同じく「ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり」と明らかにされたのです。

それが『教行信証』化度巻・要門釈の結論である

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

なのです。

雑毒の善ができる人も、できない人も、五逆の者も、18願他力念仏だけを勧められているのであって、雑毒の善を勧められた箇所は皆無です。当たり前のことです。

くどいようですが、全人類が下品下生というなら、「ただ弥陀を称せよ」以外の教えはありませんし、雑毒の善ができる中品下生以上の人ならば、必堕無間ではありません。

無茶苦茶な理屈をいつまでも言い続ければ、恥を長く晒すだけですよ、高森会長。

| | コメント (0)

« 2011年3月 | トップページ | 2011年5月 »