死期の迫った人に、何を勧めるのか?
大地震で被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。
亡くなられた方、被災された方、更にはご家族の方々のことを思うと、本当に心が痛みます。
財を高森会長と親鸞会に対して施せば、高森会長個人の数多くの住居か装飾品に費やされたり、無駄な設備に使われて、喜ぶのは一族と上層幹部だけです。しかし、本当に困っている方に施せば、財を施した方も施された方も共に喜ぶことができます。
親鸞会の会員は、財施についてよくよく考えてほしいものです。
また残念なことですが、死期の迫っている人に対して、どんな話をすべきなのかも考えて頂きたいと思います。
そのことで、「私の白道」を思い出しました。
そんなある日、私がよく知り、講師部の時お世話にもなった方(男性)が癌でもう聴聞に来られないことを知りました。
80歳過ぎで、30年近く求められ、聴聞も県で一番位回数が多く、アメリカ、ブラジルだろうと高森先生の御法話には一座も欠かされたことが無く、支部の御法話、会合も全日程参加でアニメ頒布にも、実に真面目に回われました。
財施額も常に県でも上位、高森先生との高額財施者の親睦会、会食会は常連でした。副支部長として生活の全てを親鸞会の活動にかけられ、本会からも、貴方は会員の模範だと、何度も表彰状を受けた方でした。
・2月に見舞いに自宅へ行くとベットに横になり、変わられた姿に驚きました。
そして開口一番、「こんなになって聴聞に行けんようになったー、どうしょうー。宿善積めんようになったー。困ったーた弱ったー」でした。自分の病に気付いておられるなと直感しました。
もう世間並みの見舞いの言葉なんか言っておれない。
「Tさん、本部で座っているだけが聴聞ではありません、なにを聞いたかです。何を聞いて来られましたか。こうなったら、これまで聞かせて頂いたことを思い出して下さい。私も聞かせて頂いた事を話に来ますから、このベットの上が聴聞会場ですよ」私はこの時、このTさんに数十年聞かせて頂いたことをお伝えしよう、亡くなった父と同じ年齢のTさんに何とか救われてもらいたいと思いました。
それから本棚に積み上げてあった高森先生の「会報」「こんなことが知りたい」「法戦」など仕事以外の時間は読み続け、ここを話そうと思うところをコピーし準備しては月2回程行きました。
何を話しても、Tさんも30年近く聴聞をしてきた方ですから私の話することは全部分かるのです。話するのも、Tさん体調からは1時間が限度でした。
しかし「無常観をとりつめたら後生の一大事の驚きがたつだろうと、今死んだらどーするー、と思うけど、まだ死なん、まだまだとしか思わん」と頭を叩かれ、
「罪悪感をとりつめようと、自分の悪をいろいろ思うが、もー悪い奴やと思えん、こいつが」と腹を叩かれた。「こんな者どうすりゃいいんですかー、教えて下さいー、助けて下さいー」と遂に男泣きに泣かれ、私の腕にすがりつかれた。
私はこの時、自分の慢心に気付いた。よし俺が導いてみせようとは、何たる傲慢。Tさんは目前の後生に命がけに取り組んでいるのに、覚えた教学、読んだ要で何とかしようとは、自分こそ後生の一大事が全く分かっていないではないか。
まだ教える立場で考えて、自分の問題にしていないではないか。お前はまだ講師様か、何という馬鹿者だ、俺は。
「阿弥陀様が分からーん、どう信じたらいいのか、どう思ったらいいのか。私みたいな者は助からんのか。あー私は宿善が浅いから助からんのや。
高森先生、申し訳ありません。もっと宿善求めて頑張ればよかった、済みませんー」とまた号泣された。
かって数十年前、谷本貞三さんも同じ癌で入院し苦しまれた時、浅倉講師が見舞いに行き、高森先生は何度も葉書を出されて阿弥陀仏の御心を伝えられ臨終間際に救い摂られた話は有名でビデオにもなっている。
その葉書の文句も見せて話するが、読んでる肝心の私がその意味が分からない。
その時の私は三願転入しか頭に無く、宿善求めて、19願、20願と信仰進んだ宿善厚い谷本さんだからこそ獲信されたのだろう。宿善浅く、読んでも意味が分からんと泣いておられるTさんには無理な言葉だったのかとしか思えず、言葉が無くなってしまった。私はとっさに両手を握って「念仏称えましょう」と言った。仏法を聞き始めて数十年、私は初めて人に念仏を勧めたのだ。
Tさんは驚いたように「念仏称えて助かるですか、いいんですか」と聞いてきた。
親鸞会で信前の念仏は助からん、本願寺は念仏称えて死んだら極楽、死んだら仏と教えを捻じ曲げていると、30数年聞かされてきたTさんは始め躊躇されたが、私はかまわず念仏を称え出した。3分ーー5分ーー念仏と共に何の涙か分からないが止まらない。一緒に泣きながら念仏を称えた。
Tさんの姿は私の姿だ、決してTさんだけの姿ではない、親鸞会会員さんも皆平生業成の身に成らなければこうなるのだと深く心に刻んだ。
病気の進行は早く、Tさんは自宅から病院へと移られ私も病院へ通ったが、行くのが辛かった。行く度落ちてゆく体力、10分間聞くのも脊髄へ移転した病魔に苦しみ話が中断する。
こんな身になって諸善なんか勧めておれない。しかし念仏勧めるが心は依然として暗い。
もう一つ思いだしたものがあります。それは『教学聖典』のこんな問答です。
(問)
念仏無間という狂人どもを破る根拠を三つ以上あげよ。
(答)
○勿論、一切経に出ていない言葉である。
○それどころか「汝好くこの語を持て、この語を
持てとはすなわちこれ無量寿仏の名(念仏)を持
てとなり」と観無量寿経にある。
○釈尊が臨終の父王に念仏三昧を勧められる訳が
ない。 (観仏三昧経)
実にカルト的な問いですが、そのことには触れません。
私が言いたいことは、釈尊が臨終の父親に勧められたことは、諸善ではなく念仏であると親鸞会でも認めている事実です。
これは『教行信証』行巻にあります。
『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(現代語訳)
『安楽集』にいわれている。
『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。
『観無量寿経』で下品上生から下品下生で臨終の悪人に勧められているのは、念仏であることもこれまでに何度も述べてきました。
死の近い人に、諸善を勧めるのが仏法者でしょうか?
財産は死後までもっていけませんから財施しましょう、と迫るのは、まさにカルト教団です。
親鸞会の教えは、諸善の勧め一辺倒ですが、臨終の人にだけは念仏を勧めることになるとでもいうのでしょうか?
もしそうであるならおかしなものです。今回の大地震でも判るように、平生と臨終とは紙一重です。ですから、親鸞聖人は他力念仏以外には勧められていません。要するに、親鸞聖人は18願しか勧められていないのです。19願の遠回りでは平生業成にはなりません。
また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
会員さんは、自分の人生と法施について、真剣に考えて下さい。
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コメント
飛雲様。私はいつも私の白道のこのお話をよく思い出します。
親鸞会では「臨終に暗い後生に驚いて、なぜ仏法を求めなかったのか、馬鹿だった馬鹿だったと頭を拳で叩きながら泣いて死んでいかなければならない」という話(正確でなくて済みません)で、後悔のないように聞法求道せよという話になっていますよね。
しかし、同じじゃないですか。親鸞会の信心をもったままの臨終では、「なぜ宿善もっと求めなかったのか」と泣かなければならないのです。「聞く」≠「宿善を求める」なのに、この方の言葉にもあるように親鸞会では聞法=宿善を求めることで、自分で宿善を求め切ったときに聞ができるかのように思わされているからではないでしょうか。
「なぜ仏法を聞かなかったのか」と後悔するという話は正しいのかも知れませんが、真実に遇っているはずの会員さんが後悔しなければならないということは、「法を聞いていなかった」ということなのですね。それはそうですね聞いたら後悔しないはずの浄土真宗がほとんど説かれていないですから。19願を、宿善を求めるのが浄土真宗と聞かされて思っている限りは雑行を捨てられませんから本願に帰すことはできません。
親鸞会の、宿善求道信心・雑行を捨てるために雑行に励めというような間違った信心を臨終までつかまされてしまったばかりのこの悲劇・・罪なことですよ。浄土真宗なら、聖人の仰せのとおりただ本願の念仏に帰すことが信心であることを知っていただきたいものですね。
投稿: | 2011年3月13日 (日) 09時21分
名無し 様
仰る通りです。最近の親鸞会のたとえでいうならば、月行きの切符を手に入れるために、世界中どこへでも行ける切符を集めたり、ファーストクラスはいいなと空想しているだけで、肝心要の月行きの切符のことを忘れているのです。
全く見当外れのことをさせて、獲信させないようにさせないようにと妨げている張本人が高森会長です。
会員さんが不憫でなりません。このTさんのような方が、たくさんあるのです。
投稿: 飛雲 | 2011年3月13日 (日) 13時51分
「平生と臨終とは紙一重」
まさに私が声を大にして言いたかったことです。親鸞会の会員は、
如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。(口伝鈔)
のお言葉はよく知っているはずですが、短命の根機、いのち一刹那につづまる無常迅速の機とは誰のことだと思っているのかと不安に思います。
投稿: 淳心房 | 2011年3月13日 (日) 20時48分
今回の大震災は、悲惨の一言に尽きます。この中で、被災者を一度に救うことはできません。結果的に優先順位ができますが、最優先の人は瀕死の状態にある人であり、軽傷の人や元気な人は後回しになります。
同じように、仏の慈悲は平等ですが、苦しみの深い極悪人が優先して救われるというのが、浄土仏教だと思います。
しかし、苦しんでいる人は世界中にいくらでもいるのに、韋提希夫人を釈尊は優先させたのは、韋提希夫人が釈尊やお弟子に対して供養していたからだという人がいます。
これは明らかにおかしいと思いますが、如何でしょうか。
投稿: 岡崎 | 2011年3月14日 (月) 09時03分
淳心房 様
会員は、善知識方の多くのお言葉を知りながら、断片的な理解と歪曲された理解しかしていませんので、教えの全体像を理解できていないのです。
岡崎 様
エントリーで取り上げましたので、そちらを御覧下さい。
投稿: 飛雲 | 2011年3月14日 (月) 20時47分