« 『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています | トップページ | ”無常の虎”とは何? »

2011年3月 7日 (月)

”方便より真実に入れ”の正しい意味

高森会長がヘンテコ真仮論を考えだしたのは、30年前の本願寺との論争の時です。『本願寺なぜ答えぬ』には、

 誰もが、意識すると、しないとに、かかわらず、方便(仮)の道程を通らなければ、真実(真)の、絶対界には出れないのだ。
 方便(仮)を通らずに、真実(真)が、どうして、真実と、知れようか。真実を、真実と、知らすための、方便なのだから。
 ならばこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、悉く、方便と真実を比較して、説かれ、”方便より真実に入れよ”との、教えなのである。
 その方便(仮)を、知らないのは、真実(真)も、わかっていない証拠、と結論づけられる。

と書いています。余りに幼稚な理論であったがために、本願寺が呆れて無視したのですが、それに気をよくして、未だに同じことを言い続けています。

この詭弁を見破れない人がいますので、簡単に解説しておきます。

現在、北アフリカ・中東諸国では、デモが頻発しています。デモの参加者が訴えていることは、

独裁政治より民主政治に変えよう

ということです。このデモ参加者の考えを、独裁政治を通らなければ民主政治には絶対になれないのだ、と理解する人はいないでしょう。ならば、

方便より真実に入れ

方便を通らなければ、真実に入れないと考えるのは正しいでしょうか?

少し考えればお判りになると思います。
デモで訴えていることは、現在独裁政治の状態になっているから、それを民主政治に改めたい、というのであって、民主政治にするためには、独裁政治から始めて、独裁政治に耐えられなくなってから民主政治に移行しなさい、というものではありません。
それと同じで、現在方便に迷っている人に対して、それは方便だから捨てて真実に入りなさい、であって、方便に迷っていない人に、先ずは方便に迷って、方便では救われないことが知らされてから真実に入りなさい、という意味になる訳がないです。

これを踏まえて、『本願寺なぜ答えぬ』で引用されている根拠を見てみましょう。

『高僧和讃』曇鸞讃

万行諸善の小路より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなはちひらくなり

も、「万行諸善の小路」を通らなければ、「本願一実の大道」に出ることができないのではありません。「万行諸善の小路」に迷っている人はこれを捨てて、「本願一実の大道」を速やかに信じて入りなさい、ということです。

これだけ説明しても、「それこそお前の詭弁だ」、とひねくれ者が言ってくるかも知れませんので、曇鸞大師の根拠を出しておきましょう。『教行信証』行巻にも引かれている『浄土論註』のお言葉です。

まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。

かくのごときらを名づけて自力とす。また劣夫の驢に跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分することなかれ。

(現代語訳)

さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が、地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつから禅定を修めることができ、禅定を修めるから神通力を習得し、神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。

このようなことを自力という。また、力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、転輪聖王にしたがって行けば、空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。このようなことを他力というのである。
自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。後の世に道を学ぶものよ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはならない。

万行諸善の小路」=「自力」にとらわれることを愚かなことと仰り、「本願一実の大道」=「他力」に「乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし」なのです。ここでの「自力」は自力仏教、「他力」は他力仏教のことです。当たり前のことですが、「信心を生ず」の前に、「自力」の教えを捨てて「他力の乗ずべきを聞きて」になります。

愚かなるかな後の学者」と曇鸞大師が仰っているのは、「万行諸善の小路」=「自力」にとらわれている高森会長と会員のことです。

そして最期に、「みづから局分することなかれ」、と「万行諸善の小路」「自力」の教えにこだわることを厳しく誡めておられます。
親鸞聖人も同じことしか教えられていませんし、他の善知識方も同じです。法然上人の三選の文も、親鸞聖人の三願転入の文も、皆同じ意味です。

したがって高森会長の下記の言葉、

 ならばこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、悉く、方便と真実を比較して、説かれ、”方便より真実に入れよ”との、教えなのである。

は、正しいのです。もちろん、”ただちに方便を捨てて真実に入れよ”の意味で。

|

« 『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています | トップページ | ”無常の虎”とは何? »

コメント

初歩的な質問ですが、会でよく使われる「従仮入真」、会館にその書が飾ってある「従真垂化」(垂仮ではなかったと記憶していますが)の本当の意味は何でしょうか?

投稿: | 2011年3月 7日 (月) 16時01分

名無し 様

これはいろいろいのブログですでに説明されています。

「用管窺天記」
従仮入真
http://hongwan.net/4d748ce52b788

「元会員から見た浄土真宗親鸞会」
従真垂化??ー「従真垂仮」と「従仮入真」
http://shinrankaikansatu.blog133.fc2.com/blog-entry-84.html

が判りやすいので、こちらを読まれるのがよろしいかと思います。
従仮入真に関しては、このエントリーで説明した通りです。
従真垂化は、大沼師が従真垂仮としていたのを高森会長がパクリ損ねたものです。
たまたま仏教学に同じ言葉があり、それは間違いではないと騒いでいる講師部員もいますが、高森会長の使っている意味とは異なりますので、知られなくてもよいと思います。

投稿: 飛雲 | 2011年3月 7日 (月) 17時30分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています | トップページ | ”無常の虎”とは何? »