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2011年3月17日 (木)

今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり

大震災の上に福島原子力発電所の問題と、日本にとりましては危機的な状況が続いています。これまで親鸞会は不安を煽って、善のすすめという名目で、一層の金集め人集めを会員に強いてきました。今回も同様のことをするでしょう。
冷戦時の核戦争、阪神大震災などで不安を最大限に煽ってきましたが、親鸞聖人の教えには、不安を煽るようなことはありません。もちろん、死後に無間地獄に堕ちると脅されているところも皆無です。

前回のエントリーで紹介しました『観無量寿経』で韋提希が釈尊に懇願したことを再度読んでください。

世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。

韋提希は苦しみの世界から出離して浄土往生をしたいと願ったのです。それに対して釈尊はその願いに応じて説かれているのであって、韋提希に「このままでは、もっと苦しむことになるぞ、しかも死後は間違いなく地獄行きだ」とはもちろん仰っていません。釈尊は浄土往生についてのみ説かれています。
仏教は、ネガティブな教えではありません。ポジティブな教えです。悪業の抑止のために、悪報について説かれることはありますが、不安がらせるような説き方をされることはありません。なぜなら、不安を取り除くのが仏教なのですから当たり前です。

このことは、蓮如上人も同じです。邪義・異安心に対しては厳しく誡められていますが、社会不安を煽るようなことは仰っていません。
たとえば『御文章』4帖目第3通では、以下のように仰っています。

 それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

しかれば諸仏の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。ありがたしといふもなほおろかなり。これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。

このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 そもそも、今の世の戦乱のありさまは、いつ落ち着くとも思われない様子です。そのため、国々を行き来する道にいたるまでも容易に通行のかなわない時世ですから、仏法においても、世俗の事柄においても、何をどのようにしてよいか困惑します。このゆえに、あるいは霊験あらたかな寺院・神社へ参詣する人びともおりません。
 これについけても、人はみな、誰がいつ死ぬやら定めのないものであると聞いているからには、急いで、どんな善行をもおさめ、また、さとりや涅槃をも願うべきなのです。
 しかしながら、今の世は末世の乱れた世であるとはいうものの、阿弥陀如来の本願は、この時世において、不思議にもますます盛んです。
 ですから、在家の生活を送る人びとは、如来のこの広大なる慈悲の誓願におまかせし、疑いなく阿弥陀さまの仰せに従う信心をいただいて、完全なさとりの世界、すなわち極楽に往生しなければなりません。そうでなければ、まさに、宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなものではありませんか。くれぐれもよく心を静めてこれを考えてください。
 そこで、もろもろの仏の本願を詳しく探って明らかにしてみれば、五障の女性、五逆の悪人については、どの仏もこれをお救いにはなれないと思われます。
 ところが、阿弥陀如来こそはただおひとり、「罪悪のはなはだしい者、五障の女性を、わたしがたすけよう」と、このうえなくすぐれた尊い誓願を起こしてくださいました。ありがたいといっても、なおいい足りません。
 さて、昔、お釈迦さまが霊鷲山にいらっしゃって、一乗の教えと讃えられる『法華経』をお説きになっていたときに、提婆が阿闍世をそそのかして、親殺しの罪を犯させるという事件が起こりました。
 そこでお釈迦さまは、もったいなくも、霊鷲山での『法華経』の説法の座を立たれて、王宮へおいでになり、韋提希夫人が極楽を願うようにされました。こうして、お釈迦さまが韋提希夫人のために浄土の教えをひろめられたので、阿弥陀さまの本願が今の時代に盛んとなったわけです。そして、このために、『法華経』と『観無量寿経』のお念仏とは同じときに説かれた教えであるといわれています。
 これはとりもなおさず、末世の五逆の悪人と女性に、極楽への往生を願わせるための手だてとして、釈迦、韋提・提婆・阿闍世が力を合わせて、五逆の罪を犯すというドラマを作りあげたものと考えられます。そして、このような罪の深い者であっても、人知では思いはかることのできぬ阿弥陀如来の本願に帰依すれば、かならず極楽への往生をとげることができるのだ、とお知らせくださったのである――とお受け入れください。

これは、11年続いた応仁の乱が背景にあって書かれたものですが、この戦乱を今回の大震災・原発の事故に置き換えてみれば、蓮如上人の仰っていることがよく理解できるかも知れません。
蓮如上人は、聖道門と浄土門、自力と他力とを比較しながら、悪人正機の18願について明らかにされ、不安に満ちた世界(『観経』では「濁悪の処」)を離れて、苦しみのない世界(『観経』では「憂悩なき処」)への往生を勧められているのです。
不安を煽られるどころか、希望を与えられています。

なお、「人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。」が、獲信・往生のために善を勧められたお言葉でないことは、全体を読まれれば判りますし、

私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白

で、すでに述べた通りです。いつ死ぬか知れないような状況で、善をして信仰を進めて、とか、まず19願の修善に励んで、などと悠長なことを言っておれるものではありません。苦悩と不安に喘ぐ悪人に必要なのは、遥か彼方の多生の救いではなく、今すぐに救われる教えなのです。

蓮如上人の時代だけではなく、現代も

今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり

このように言えるのが、親鸞聖人の教えです。「末法濁乱」の不安を煽るのは、カルトの教えです。

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