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2011年3月10日 (木)

”二河白道の譬え”はどう?

”無常の虎の譬え”は『仏説譬喩経』に説かれている内容と大きく異なっていることに、驚かれた方が多いようです。掛け軸の絵に騙されてしまったのですが、もう一つの掛け軸の”二河白道の譬え”はどうでしょうか?
これは既に

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは7
宿善とは8

で間違いが指摘されていますし、当ブログでも

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

で少し触れました。高森会長の根本的な間違いは、白道を信前の求道としていることです。
高森会長の間違いについて難しい御文を挙げて説明しても、真宗教義の基礎が欠落している高森会長や講師部員、幹部会員には理解できないと思いますので、今回は違う視点から述べてみます。

『教行信証』は、真実を顕された前5巻と、方便を顕された第6巻とに大別されます。
教巻以外には、各巻の最初に阿弥陀仏の願名が挙げられています。

行巻―諸仏称名の願(17願)
信巻―至心信楽の願(18願)
証巻―必至滅土の願(11願)
真仏土巻―光明無量の願(12願)、寿命無量の願(13願)
化土巻―至心発願の願(19願)、至心回向の願(20巻)

各巻の最初にこのように書かれてあるということは、各巻は最初に挙げられた願の解説であるということです。
これは『教行信証』を読む上での常識です。

では、”二河白道の譬え”は『教行信証』のどの巻にあるか?
それは信巻です。18願意を説明される中で、”二河白道の譬え”を親鸞聖人は出されているのです。従って、”二河白道の譬え”は、18願の他力信心について顕されたものと判ります。

信巻の初め

この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。

と仰って、18願の他力信心について明らかにされています。そこに”二河白道の譬え”が引かれているのですから、白道は当然ながら他力信心として親鸞聖人は教えられているのです。

もう少し詳しく解説すると、”二河白道の譬え”は善導大師の『散善義』の三心釈にあるものです。この三心とは、『観無量寿経』に説かれている至誠心・深心・回向発願心のことです。この三心について親鸞聖人は顕説と隠彰とに分けられて、顕説は自力の三心、隠彰は他力の三心と教えられています。
他力の三心は、18願の三心(至心・信楽・欲生)と同じであることを信巻で教えられています。ですから、白道は他力信心を顕すものとして引かれています。

一方、自力の三心は、化土巻で教えられています。『散善義』三心釈の一部を化土巻に引かれていて、自力の三心を顕されました。しかし化土巻には、”二河白道の譬え”は引かれていません。従って、”二河白道の譬え”は信前の自力信心、求道心でないことは明白です。
親鸞会では、化土巻にはどうすれば信心決定できるかの方法を教えられている、と言っていますが、”二河白道の譬え”はその方法ではないことになります。矛盾も甚だしいです。もちろん、化土巻は信心決定するための方法について書かれたものではありません。間違った行と信、そしてその利益について教えられたものです。

参考までに、この自力の三心と他力の三心については『唯信鈔文意』にもありまして、以前に、

他力の三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり
一心かけぬれば生れずといふなり

でも述べました。親鸞聖人が仰る通り、自力の三心を通って、他力の三心へ入るということではありません。自力の三心にこだわるのではなく、他力の「三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり」が親鸞聖人の結論です。

以上のことを常識的で論理的思考を持った人ならば、たとえ”二河白道の譬え”の詳しい解釈を知らなくても、”二河白道の譬え”は、真実の他力信心を譬えられたものであることが判る筈です。

しかし、非常識かつ非論理的な思考の人は、”二河白道の譬え”を信前の求道について教えられたものと主張します。尤も、親鸞会では最近その間違いに気が付いたようで、『顕真』ではぼかした表現になっています。秘かに教えの修正を目論んでいるようですが、講師部員のブログには間違った教えが未だにそのまま載せられていますし、白道を信前の求道心とするために屁理屈を捏ね繰り回している講師までいる始末です。

”二河白道の譬え”だけをとっても、高森会長は『教行信証』を読んだこともなければ、その構成について何も知らないことを世界中に公言しているようなものです。
『教行信証』さえ読んでいないのですから、他の聖教、浄土三部経その他の経典など、読んでいる筈もありません。

高森会長が話をすればするほど、真宗とは懸け離れた話が飛び出すだけで、真宗界では物笑いの種になっています。これ以上恥をかきたくなければ、

親鸞会は浄土真宗及び親鸞聖人とは無関係です

と宣言されることをお勧めします。

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コメント

現役会員時代、二河白道の譬を通して「求道とは煩悩と闘って行く道である」と聞き、「やはりそうか、そうならざるを得ないよな」とちょっとした落胆と共に(笑)、諦らかに見た(?)ことを思い出しました。
白道は「道」ですから、求道とマッチして、「これは求道の道程を表した譬だ」と言われれば、あっさり信じてしまうのでしょう。それが他力信心を表す譬だったとは。アッと驚くタメゴロー、でした。全ての現役会員さんに、この高森先生が用意されたサプライズを受け取ってもらいたいものです。

投稿: 広島の名無し | 2011年3月11日 (金) 12時04分

広島の名無し 様

高森会長の嘘と無知がわかれば、高森会長の話のすべてが疑わしいです。
調べれば、まだまだおかしなところが出てくると思います。

投稿: 飛雲 | 2011年3月12日 (土) 07時20分

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