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2011年3月 3日 (木)

『歎異抄をひらく』の自己矛盾

権仮方便については『歎異抄』の中でも、判りやすく書かれています。

『歎異抄』後序

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。

(現代語訳)

聖教というものには、真実の教えと方便の教えとがまざりあっているのです。方便の教えは捨てて用いず、真実の教えをいただくことこそが、親鸞聖人のおこころなのです。くれぐれも注意して、決して聖教を読み誤ることがあってはなりません。

これだけはっきり書かれてあれば、解説が要らないでしょう。
さて高森会長の『歎異抄をひらく』ではここの部分を以下のように訳しています。

 だいたい聖教には、真実がそのまま説かれているものと、その真実へ誘導する権仮方便が混在しているものである。
 ゆえに聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。
 だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。
 くれぐれも注意に注意を重ねて、お聖教の真意を取りあやまってはならない。

更に「権仮方便」の註として、

真実に導くために絶対必要なこと。

とあります。どうですか?
賢明な皆さんなら、気が付かれたと思います。
権仮方便」は絶対必要なものである筈なのに、

聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。

としています。高森会長は一体どんな思考をしているのでしょうか?
絶対に必要ならば、「方便を取り、仮について」でなければなりません。「方便を捨てて、仮を離れて」では、必要ではないという意味です。不要だから「方便を捨てて、仮を離れて」なのです。
こんな幼稚なことを一々説明しなければならないのでしょうか?

多分言い訳として、

獲信するときには、「方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につく」ということだ。それまでは絶対に必要なのだ。

と言うでしょうが、自分の文章をよく読んでみなさいと言いたいです。
聖教を拝読するときには」と書いているでしょう。「聖教を拝読するとき」は当然獲信の前です。
親鸞会的に言うならば、求道の過程で、権仮方便は捨てて離れるのです。求道の過程で「聖教を拝読」し、真仮を見極めていくのですから、信の一念のときまで、真仮が判らないというのも嘘、と自分で言っているではないですか。

高森会長は、何を書いているのか自分でも判っていないのでしょう。読んでいる会員は、訳が判らず、会長の深い御心と思考停止するより仕方がありません。

『歎異抄をひらく』は、講師部員、特専部員、弘宣部員を集めて会合を重ねて、でき上がったものと聞いています。会合の参加者も、皆思考停止の面々なのでしょう。こんな自己矛盾にも気が付かないとは、おめでたい限りです。

だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。
くれぐれも注意に注意を重ねて、お聖教の真意を取りあやまってはならない。

と訳していますが、これは高森会長そのものです。自分のことは、本当に判らないものですね。
根拠もなければ、理論も首尾一貫してない。実にお粗末です。
高森会長は、伊藤師、大沼師の書かれてていないことを書くと、途端にレベルが下がります。

『歎異抄』は化土往生するものがいることを歎いて書かれたものですが、肝心の化土往生について『歎異抄をひらく』では一言も触れていないことは前にも述べましたし、以下にも書かれています。

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか11(化土往生について)

第2章のところも、『執持鈔』と比較してみれば、高森会長の勝手な解釈が浮き彫りになります。これも以前に述べています。

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

はっきりいえば、『歎異抄』の意図を無視しているのが、『歎異抄をひらく』です。

こんな中身のない妄想の書を会員に大量に買わせて、”ベストセラー”を装っていますが、それはどこかの教祖と同じです。

このお粗末な『歎異抄をひらく』に対する反論書が出てない、と親鸞会では大喜びですが、まともな学者は相手にする気持ちなど最初からありません。幼稚な書に対して、反論書など誰が書こうと思いますか?

そんな中、退会者が幼稚な思考の人物の相手をしてくれていますので、大いに感謝してほしいものです。

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コメント

高森さんはまさに歎異抄で歎かれている対象であるにもかかわらず、
歎異抄をひらいていらっしゃいます。
まずは自分のことがかかれていると思って拝読してもらいたいものです。

投稿: YGM | 2011年3月 3日 (木) 08時55分

YGM 様

その通りですが、会長に期待しても無理でしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年3月 3日 (木) 20時12分

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