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2011年3月31日 (木)

一生造悪とは?

かつては後生の一大事を末寺でも教えていたが、今は全く聞かれなくなった、と顕正新聞に書いて、親鸞会の正統性を証明しようとしています。かつての末寺を根拠にしているところが、なんとも微笑ましい限りです。
しかし、すべての人が必堕無間だという後生の一大事など初めからありません。
前回も書いたように、必堕無間とは九品でいえば下品下生ですが、親殺しの五逆罪を造っていなければ、下品下生にはなりませんから、後生の一大事がすべての人が必ず無間地獄に堕ちる、という意味になる訳がありません。

詳しくは以下でまとめておきましたので、そちらを御覧下さい。

会員との問答(五逆罪、謗法罪について)
会員との問答(一切衆生必堕無間について)
会員との問答(闡提について)
会員との問答(一切衆生悉有仏性について)
会員との問答(後生の一大事について)
会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)
会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について)

末寺で教えていたことを根拠にするなら、悪人に対して往生のために善の勧めは昔も今もありませんが、それは無視するのです。

さて、すべての人は「一生造悪」である、と教えながら、雑毒の善ができるのだから雑毒の善を勧める、という訳の判らないことを高森会長は教えています。
聞いている会員も訳が判らないが、凡夫には判らないことだろうと思考停止をして、無理やり納得させている状態です。
しかし、これは高森会長自身が「一生造悪」という意味を判っていないから、こんなことになるのです。
一生造悪」とは、道綽禅師の『安楽集』にあります。

当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。

また一切衆生すべてみづから量らず。もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、すなはち那含・羅漢に至るまで、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分にあらず。たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや。

(現代語訳)

今は末法の時であり、現に五濁悪世である。ただ往生浄土の一門だけが、われらの通入すべき道である。こういうわけで《大経》に説かれてある。

もし衆生があって、たとい一生のあいだ、悪を造っても、臨終において、わが名を称えて十念相続するものが、もし往生しなければ、正覚をとるまい。

またすべての衆生は、みな自分の力をはからない。もし大乗の法によれば、真如実相第一義空のごときは、いまだかって心に考えたことがない。小乗の法をいえば、見道・修道に入って、ついには不還果・阿羅漢果に至るまで、それには欲界につなぐ煩悩である五下を断ち、色界・無色界につなぐ煩悩である五上を除かねばならぬが、僧俗を問わずに、それができるものはない。たとい人天の果報を持たもつのにも、みな五戒・十善をつとめて、よくこの果報を得るのである。しかるに、その五戒・十善をたもちうるものは甚だ稀である。もし悪をおこし罪を造ることをいうならば、どうして暴風駛雨と異なることがあろうか。こういうわけで諸仏は大慈悲をもって弥陀の浄土に帰することを勧められる。たとい、一生悪を造っても、ただよく専ら心をかけてつねに念仏するならば、すべての障りが自然に消されて、必ず往生を得る。どうして往生することを考えないのであろうか。

これを『高僧和讃』道綽讃には、

濁世の起悪造罪は
 暴風駛雨にことならず
 諸仏これらをあはれみて
 すすめて浄土に帰せしめり

(現代語訳)
濁りきった世の中の悪を行い罪を作ることは、
暴風やにわか雨があるのと違わない。
すべての仏がたはこれらを憐れんで、
お勧めにより浄土の教えに帰依させられる。

一形悪をつくれども
 専精にこころをかけしめて
 つねに念仏せしむれば
 諸障自然にのぞこりぬ

(現代語訳)
一生涯にわたって悪を行うとも、
もっぱら好み心がけさせられて、
つねに念仏させられるならば、
すべての障害がおのずから除かれる。

縦令一生造悪の
 衆生引接のためにとて
 称我名字と願じつつ
 若不生者とちかひたり

(現代語訳)
たとえ一生悪を行ったところの
人々をも導きとるために、
「わが名を称えなさい」 と願って、
「もし生まれなければ (私は仏になるまい) 」と誓われた。

と教えられています。最後の御和讃の左訓には

たとひ一期悪を造るものなりとも、弥陀のちかひをたのみまゐらせて往生すべしとなり

とあります。
また『正信偈』にある「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」について蓮如上人は『正信偈大意』

「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」といふは、弥陀の弘誓に値ひたてまつるによりて、一生造悪の機も安養界に至れば、すみやかに無上の妙果を証すべきものなりといへるこころなり。

と解説なされています。

一生造悪」とは、「たとひ一生悪を造れども」という意味です。九品でいえば、下品の三生のことですが、すべての人が「一生造悪」とは誰も仰っていませんし、「一生造悪の機」に善を勧められた御言葉など全くありません。「一生造悪」とは雑毒の善もできないことをいうのですから、善のできない者に善を勧められる筈がありません。勧められているのは、18願他力念仏のみです。

これを源信僧都は『往生要集』

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

と仰っています。「極重の悪人」には善という方便はないのです。18願他力念仏しか勧められていない、と同じことを仰っています。

自分が悪人と思うならば、18願他力念仏以外は不要です。悪人に対して往生ために善を勧める教えは真宗には皆無です。

また道綽禅師が「一切衆生すべてみづから量らず」と仰るように、「五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり」であるから、「一生造悪の機」ではない人にも、18願他力念仏を勧められるのが、浄土門です。

外道も聖道門も浄土門も混乱している高森会長はいつも拡大解釈します。

一生造悪の者でも すべての人は一生造悪
五逆謗法の者でも すべての人は五逆謗法
善人には善という方便がある 悪人にも善という方便が必ず要る

一切衆生必堕無間と善の勧めは元々相反するものですので、筋を通すならどちらかは諦めるべきです。しかし、高森会長は私利私欲を満たすことしか考えていないのですから、どんなに矛盾していようがお構いなしなのでしょう。

二兎追うものは一兎をも得ず

教養の無い高森会長には、難しい諺でしたかね。

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コメント

いつも読んで、教学の指針としています。有難うございます。浄土真宗の教えの理解を少しづつ深めていますが、s会は、法然上人や親鸞聖人が興され深められた浄土真宗のみ教えを、根底から覆えすような事を平気でやっているということが判って来ました。ところで、長らく真剣に求め、積極的に活動しているある会員さんが、言っておりました。ーーー仏語を、別の言葉で言い換えると、このようにも言えるということは判っても、その仏語の本当の意味は、何十年聞いて来たがいまだ判らないーーーと。s会の教学が矛盾だらけであるから、或いはわざと混乱させているから、何十年聞いても判らん大きな原因(少なくとも原因の一つ)ではないかと私は思っています。このホームページ応援していますので、継続してください。

投稿: a | 2011年4月 1日 (金) 17時46分

a 様

コメント、有難うございます。
仏語の意味を、高森会長自身が判っていない上に、私利私欲を満たす目的で勝手な解釈を加えてきましたので、親鸞会で千年聞いてきても、仏語の本当の意味は判らないでしょう。
御自身でいろいろと勉強されるのがよいのでしょうが、それが会員にはなかなかできないのです。
会員でも高森会長の出鱈目を理解してもらえるよう、今後も継続していくつもりですので、また御意見を御聞かせ下さい。

投稿: 飛雲 | 2011年4月 3日 (日) 23時00分

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