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2011年3月 1日 (火)

みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!

「善巧」と「権仮」を知らざるによりて迷宮に入る、と言いたくなりました。

というコメントを頂きました。高森会長と会員についての的を射た名言だと思います。
高森会長は、「従仮入真」を「仮よりしか真に入れず」と読み、「方便よりしか真実に入れない」としています。もちろん出鱈目で、いくつかのブログでも論破されていますが、何も知らない会員はころっと騙されてしまいます。現会員だけではなく、退会した後も、これは正しいと思っている人もいるくらいですから、巧妙な詭弁といえるでしょう。

しかし、これまで述べてきましたように、高森会長は方便も真実も全く判っていないため、言葉遊びをして、好き勝手なことを言っているに過ぎません。

聖道門も方便であることは、前回も紹介した通りですが、それならば聖道門を通らずしては救われないということになります。
化土も方便ですが、化土を通らずしては報土往生できないということになるでしょう。

もっと極端な例を出せば、『御文章』2帖目第10通には

それ一切の神も仏と申すも、いまこのうるところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、もろもろの神・もろもろのほとけとあらはれたまふいはれなればなり。

とあります。また3帖目第10通にも

一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。

と蓮如上人が仰っているように、諸仏・諸神も方便ですから、諸仏・諸神を礼拝、称名、讃嘆、供養せずしては阿弥陀仏一仏になれないということになってしまいます。

もちろん真宗がそんな教えである筈がありません。
高森会長の理論は、都合のよい19願諸善のみが”特別の方便”としたいのでしょうが、そんな理屈は通用しません。どれだけ詭弁を弄しても、19願諸善は権仮方便でしかありません。

親鸞聖人は『一念多念証文』で、

「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰っています。「余の善」と「余の仏」とは同格です。

蓮如上人も『御文章』2帖目第9通で、

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と教えられていますように、「一切の諸神・諸仏・菩薩」と「万善万行」とは同格です。
諸善に向うことも、諸神・諸仏・菩薩に向うことも共に”雑行”です。諸神・諸仏・菩薩は、親鸞会でも最初に捨てよと教えていますが、獲信のために諸善をせよ、といいます。

雑行は獲信の一念で捨てさせられるのならば、諸神・諸仏・菩薩も獲信までは捨てることができず、五雑行が問題になっていない会員には、問題になるまで五雑行を勧めねば筋が通りません。

寝ているものに転んだということがないように、五雑行をしていない者に、五雑行を捨てたということはありません。

とは絶対に言いませんが、おかしいですよね。仏教では、阿弥陀仏以外の諸仏に礼拝、称名、讃嘆、供養することも勧められていますので、諸善万行だけを獲信と関係付ける理由が見当たりません。

高森会長の言っていることは、根拠が全くないのに強引な超論理で説明して、それを断言することで説得力を出そうとしているのです。

高森会長は最近、講師部員に以下のような御指導をしているそうです。

みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!

根拠の無いことを断言して他人を騙すのは、カルトや悪徳商法の常套手段です。
そんなことをしなければ、もはや会員を繋ぎとめておくことは無理と判断したのでしょう。

今後は、更に酷い教えが展開されるものと思われます。反社会的行為がエスカレートして、マスコミに大々的に取り上げられる日も近いかもしれません。

しかしその時が親鸞会の最期でしょう。

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コメント

みのもんたは、人気は有るかもしれませんが、全く尊敬されてません。世の中の事は、深く調べれば調べる程、どちらか一方が絶対に正しい、或いは間違っているということは殆どありません。彼は言いたい放題だと皆感じています。そんな人を例に出すなんて、感覚を疑います。

投稿: | 2011年3月 7日 (月) 20時22分

名無し 様

高森会長は、

人気がある=尊敬されている

と思っているのでしょう。今の高森会長の頭の中は、どうすれば会員がやめないですむか、どうすれば自分の言うことを信用させる(騙す)ことができるか、そればかりだと思います。

精神的には追い詰められていることが想像できます。

投稿: 飛雲 | 2011年3月 8日 (火) 21時56分

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