« 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り13 | トップページ | 一生造悪とは? »

2011年3月28日 (月)

雑毒の善ができる下品下生???

最近の法話や座談会では、親鸞会に都合の良い”善”を、必死になって会員にすすめています。組織を通じてもそれが徹底され、熱心な会員でさえも、うんざりしているそうです。
以前に

親鸞聖人はファーストクラスに乗れると思われたでしょうか?

でも述べましたが、高森会長は我々に雑毒の善ができるとしながら、死後は必ず無間地獄に堕ちる、と断言していますが、明らかな矛盾です。

もし『観無量寿経』か善導大師の『観無量寿経疏』を読んだことがあるなら、そんなことは言えない筈です。
『観無量寿経』では、善悪の内容で機を十種に分けられています。

定善の機―──定善
上品上生─┐
上品中生  ├─行福
上品下生─┘
中品上生─┐
中品中生─┴─戒福
中品下生───世福
下品上生───無善十悪
下品中生───無善破戒
下品下生───無善五逆

ここで必堕無間は下品下生だけです。
親鸞会では、すべての人が下品下生で、下品下生に定善・散善三福を勧められたのが『観無量寿経』だと教えていますが、『観無量寿経』を全く読んでいないことがこれで判ります。
以前に

M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です

でも『玄義分』の九品について解説されたところを紹介しましたが、定善のできる人が定善の機、行福のできる人が上品上生・上品中生・上品下生、戒福のできる人が中品上生・中品中生、世福のできる人が中品下生、善のできない十悪ばかり造っている人が下品上生、善ができず授けられた戒律を破る人が下品中生、善ができず五逆罪を造った人が下品下生なのです。

参考までに定善について『定善義』に、

ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

ただよろずの事をともにすてることが、失意の人・聾・盲・無智の人のようになれば、この定は必ず成じやすい。もしこのようにしなければ、身口意業が所縁の境にしたがって移り禅定の想も波のように動いて、たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

とあります。世俗の中にいる我々には、千年かかっても定善はできませんが、「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師、そのお弟子の懐感禅師、また後善導と呼ばれた法照禅師は、定善ができた方と言われています。
そんな善導大師でも、『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と仰っているのですから、定善も三福も真実の善ではありません。雑毒の善です。

一般の人が五逆罪を造っていないことは、何度も何度も述べてきました通りですので、敢て繰り返しません。その上雑毒の善ができるなら下品下生ではありません。下品の三生については『玄義分』

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

とある通りです。もし雑毒の善ができるなら、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」にはなりません。それとも親鸞会でいっている雑毒の善とは、「仏法・世俗の二種の善根」以外の善なのでしょうか? 詳しく説明してほしいですね。

親鸞聖人は、雑毒の善である定善・散善三福について『教行信証』化土巻

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。

(現代語訳)

しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

と仰っています。我々のような常没の凡愚には、定善も散善三福もできない、ということですが、かといって誰も定善・散善三福ができないということではありません。龍樹菩薩も善導大師も定善ができた方ですし、智覚禅師は上品上生の方と親鸞聖人も仰っています。
ただし、定善も散善三福がたとえできたとしても、真実の善ではないから真実の報土に往生はできず、雑毒の善では化土往生にしかならないのだ、と親鸞聖人は教えられているのです。

よって要門釈の結論として、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰ったのです。定善・散善三福のできる善人も、五逆の極重の悪人も、「ただ弥陀を称せよ」なのです。定善・散善三福ができるといっても所詮は雑毒の善でしかないのだから、自分の能力をよく弁えろよ、ということです。

従って我々には雑毒の善ができるのだから、雑毒の善をせよという教えなど、真宗にはある筈がありません。雑毒の善ができてもできなくても、18願他力念仏1つを願え、というのが真宗です。

それにしても雑毒の善のできる必堕無間の下品下生などと平気で言える支離滅裂さに、会員も気が付いて欲しいものです。

|

« 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り13 | トップページ | 一生造悪とは? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り13 | トップページ | 一生造悪とは? »