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2011年3月

2011年3月31日 (木)

一生造悪とは?

かつては後生の一大事を末寺でも教えていたが、今は全く聞かれなくなった、と顕正新聞に書いて、親鸞会の正統性を証明しようとしています。かつての末寺を根拠にしているところが、なんとも微笑ましい限りです。
しかし、すべての人が必堕無間だという後生の一大事など初めからありません。
前回も書いたように、必堕無間とは九品でいえば下品下生ですが、親殺しの五逆罪を造っていなければ、下品下生にはなりませんから、後生の一大事がすべての人が必ず無間地獄に堕ちる、という意味になる訳がありません。

詳しくは以下でまとめておきましたので、そちらを御覧下さい。

会員との問答(五逆罪、謗法罪について)
会員との問答(一切衆生必堕無間について)
会員との問答(闡提について)
会員との問答(一切衆生悉有仏性について)
会員との問答(後生の一大事について)
会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)
会員との問答(帖外御文の「後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事」について)

末寺で教えていたことを根拠にするなら、悪人に対して往生のために善の勧めは昔も今もありませんが、それは無視するのです。

さて、すべての人は「一生造悪」である、と教えながら、雑毒の善ができるのだから雑毒の善を勧める、という訳の判らないことを高森会長は教えています。
聞いている会員も訳が判らないが、凡夫には判らないことだろうと思考停止をして、無理やり納得させている状態です。
しかし、これは高森会長自身が「一生造悪」という意味を判っていないから、こんなことになるのです。
一生造悪」とは、道綽禅師の『安楽集』にあります。

当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。

また一切衆生すべてみづから量らず。もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、すなはち那含・羅漢に至るまで、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分にあらず。たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや。

(現代語訳)

今は末法の時であり、現に五濁悪世である。ただ往生浄土の一門だけが、われらの通入すべき道である。こういうわけで《大経》に説かれてある。

もし衆生があって、たとい一生のあいだ、悪を造っても、臨終において、わが名を称えて十念相続するものが、もし往生しなければ、正覚をとるまい。

またすべての衆生は、みな自分の力をはからない。もし大乗の法によれば、真如実相第一義空のごときは、いまだかって心に考えたことがない。小乗の法をいえば、見道・修道に入って、ついには不還果・阿羅漢果に至るまで、それには欲界につなぐ煩悩である五下を断ち、色界・無色界につなぐ煩悩である五上を除かねばならぬが、僧俗を問わずに、それができるものはない。たとい人天の果報を持たもつのにも、みな五戒・十善をつとめて、よくこの果報を得るのである。しかるに、その五戒・十善をたもちうるものは甚だ稀である。もし悪をおこし罪を造ることをいうならば、どうして暴風駛雨と異なることがあろうか。こういうわけで諸仏は大慈悲をもって弥陀の浄土に帰することを勧められる。たとい、一生悪を造っても、ただよく専ら心をかけてつねに念仏するならば、すべての障りが自然に消されて、必ず往生を得る。どうして往生することを考えないのであろうか。

これを『高僧和讃』道綽讃には、

濁世の起悪造罪は
 暴風駛雨にことならず
 諸仏これらをあはれみて
 すすめて浄土に帰せしめり

(現代語訳)
濁りきった世の中の悪を行い罪を作ることは、
暴風やにわか雨があるのと違わない。
すべての仏がたはこれらを憐れんで、
お勧めにより浄土の教えに帰依させられる。

一形悪をつくれども
 専精にこころをかけしめて
 つねに念仏せしむれば
 諸障自然にのぞこりぬ

(現代語訳)
一生涯にわたって悪を行うとも、
もっぱら好み心がけさせられて、
つねに念仏させられるならば、
すべての障害がおのずから除かれる。

縦令一生造悪の
 衆生引接のためにとて
 称我名字と願じつつ
 若不生者とちかひたり

(現代語訳)
たとえ一生悪を行ったところの
人々をも導きとるために、
「わが名を称えなさい」 と願って、
「もし生まれなければ (私は仏になるまい) 」と誓われた。

と教えられています。最後の御和讃の左訓には

たとひ一期悪を造るものなりとも、弥陀のちかひをたのみまゐらせて往生すべしとなり

とあります。
また『正信偈』にある「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」について蓮如上人は『正信偈大意』

「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」といふは、弥陀の弘誓に値ひたてまつるによりて、一生造悪の機も安養界に至れば、すみやかに無上の妙果を証すべきものなりといへるこころなり。

と解説なされています。

一生造悪」とは、「たとひ一生悪を造れども」という意味です。九品でいえば、下品の三生のことですが、すべての人が「一生造悪」とは誰も仰っていませんし、「一生造悪の機」に善を勧められた御言葉など全くありません。「一生造悪」とは雑毒の善もできないことをいうのですから、善のできない者に善を勧められる筈がありません。勧められているのは、18願他力念仏のみです。

これを源信僧都は『往生要集』

極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得

と仰っています。「極重の悪人」には善という方便はないのです。18願他力念仏しか勧められていない、と同じことを仰っています。

自分が悪人と思うならば、18願他力念仏以外は不要です。悪人に対して往生ために善を勧める教えは真宗には皆無です。

また道綽禅師が「一切衆生すべてみづから量らず」と仰るように、「五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり」であるから、「一生造悪の機」ではない人にも、18願他力念仏を勧められるのが、浄土門です。

外道も聖道門も浄土門も混乱している高森会長はいつも拡大解釈します。

一生造悪の者でも すべての人は一生造悪
五逆謗法の者でも すべての人は五逆謗法
善人には善という方便がある 悪人にも善という方便が必ず要る

一切衆生必堕無間と善の勧めは元々相反するものですので、筋を通すならどちらかは諦めるべきです。しかし、高森会長は私利私欲を満たすことしか考えていないのですから、どんなに矛盾していようがお構いなしなのでしょう。

二兎追うものは一兎をも得ず

教養の無い高森会長には、難しい諺でしたかね。

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2011年3月28日 (月)

雑毒の善ができる下品下生???

最近の法話や座談会では、親鸞会に都合の良い”善”を、必死になって会員にすすめています。組織を通じてもそれが徹底され、熱心な会員でさえも、うんざりしているそうです。
以前に

親鸞聖人はファーストクラスに乗れると思われたでしょうか?

でも述べましたが、高森会長は我々に雑毒の善ができるとしながら、死後は必ず無間地獄に堕ちる、と断言していますが、明らかな矛盾です。

もし『観無量寿経』か善導大師の『観無量寿経疏』を読んだことがあるなら、そんなことは言えない筈です。
『観無量寿経』では、善悪の内容で機を十種に分けられています。

定善の機―──定善
上品上生─┐
上品中生  ├─行福
上品下生─┘
中品上生─┐
中品中生─┴─戒福
中品下生───世福
下品上生───無善十悪
下品中生───無善破戒
下品下生───無善五逆

ここで必堕無間は下品下生だけです。
親鸞会では、すべての人が下品下生で、下品下生に定善・散善三福を勧められたのが『観無量寿経』だと教えていますが、『観無量寿経』を全く読んでいないことがこれで判ります。
以前に

M野講師が質問に答えれば、容易に判る話です

でも『玄義分』の九品について解説されたところを紹介しましたが、定善のできる人が定善の機、行福のできる人が上品上生・上品中生・上品下生、戒福のできる人が中品上生・中品中生、世福のできる人が中品下生、善のできない十悪ばかり造っている人が下品上生、善ができず授けられた戒律を破る人が下品中生、善ができず五逆罪を造った人が下品下生なのです。

参考までに定善について『定善義』に、

ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

(現代語訳)

ただよろずの事をともにすてることが、失意の人・聾・盲・無智の人のようになれば、この定は必ず成じやすい。もしこのようにしなければ、身口意業が所縁の境にしたがって移り禅定の想も波のように動いて、たとい千年の命をかけても智慧の眼は開けない。

とあります。世俗の中にいる我々には、千年かかっても定善はできませんが、「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師、そのお弟子の懐感禅師、また後善導と呼ばれた法照禅師は、定善ができた方と言われています。
そんな善導大師でも、『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と仰っているのですから、定善も三福も真実の善ではありません。雑毒の善です。

一般の人が五逆罪を造っていないことは、何度も何度も述べてきました通りですので、敢て繰り返しません。その上雑毒の善ができるなら下品下生ではありません。下品の三生については『玄義分』

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

とある通りです。もし雑毒の善ができるなら、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」にはなりません。それとも親鸞会でいっている雑毒の善とは、「仏法・世俗の二種の善根」以外の善なのでしょうか? 詳しく説明してほしいですね。

親鸞聖人は、雑毒の善である定善・散善三福について『教行信証』化土巻

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。

(現代語訳)

しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

と仰っています。我々のような常没の凡愚には、定善も散善三福もできない、ということですが、かといって誰も定善・散善三福ができないということではありません。龍樹菩薩も善導大師も定善ができた方ですし、智覚禅師は上品上生の方と親鸞聖人も仰っています。
ただし、定善も散善三福がたとえできたとしても、真実の善ではないから真実の報土に往生はできず、雑毒の善では化土往生にしかならないのだ、と親鸞聖人は教えられているのです。

よって要門釈の結論として、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と仰ったのです。定善・散善三福のできる善人も、五逆の極重の悪人も、「ただ弥陀を称せよ」なのです。定善・散善三福ができるといっても所詮は雑毒の善でしかないのだから、自分の能力をよく弁えろよ、ということです。

従って我々には雑毒の善ができるのだから、雑毒の善をせよという教えなど、真宗にはある筈がありません。雑毒の善ができてもできなくても、18願他力念仏1つを願え、というのが真宗です。

それにしても雑毒の善のできる必堕無間の下品下生などと平気で言える支離滅裂さに、会員も気が付いて欲しいものです。

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2011年3月26日 (土)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り13

『顕真』3月号の「宿善と聴聞と善のすすめ」は、お粗末な内容というよりも如何に会員を騙すかに苦労している様子が見てとれます。

「安心問答」
顕真3月号の意訳がどう読んでも異訳になっている件

にも取り上げられていましたが、『教行信証』化土巻・要門釈のお言葉、

然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。
偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。

の訳として

苦悩が絶えず、迷い深き人類は、数知れぬ外道邪教を逃れて、ようやく仏教にたどり着いても、因果の道理を信じて光に向かう者は、ほとんどなく無きに等しい。

内心は、みな外道に汚染され、善の勧めさえ非難する輩ばかりである。

悲しいこの人間の実態を見られた釈迦は、阿弥陀仏の十九願(福徳蔵)を『観無量寿経』一巻に集中して説き明かし、十方衆生にすべての善を勧められ、なんとか阿弥陀仏の十八願(絶対の幸福)まで導かんとご苦労なされたのである

としていますが、よくもまあ、ここまで大嘘が付けるものだと感心しています。丁度一年前に、mixiでこうへい氏(H講師)とるぅでる様氏、sutybi氏が法論した中心のお言葉で、高森会長と弘宣部がこうへい氏の代わりに文章を作っていたのですから、このお言葉の正しい意味を知らないはずがありません。

★親鸞聖人★ トピック 三願転入

当ブログでも昨年4月から6月までこのことを繰り返し取り上げてきました。
今回の騙しで一番酷いのが「半満・権実の法門」の意味です。

学問的な知識として一応述べておきます。

半満」とは、半字教と満字教のことです。『涅槃経』に、子供に文字を教える時に、最初は半字を教えて、後で満字を教えるということから、釈尊もお弟子に半字教から満字教を教えていかれた、とあります。ここで、半字教は小乗教、満字教は大乗教という意味になります。
権実」とは、権教と実教のことです。大乗教の中で、権仮方便の教えと真実の教えとがあるということです。
半満・権実」は、二双四重の教判でいえば、竪出・竪超のことです。
『教行信証』化土巻

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

(現代語訳)

 総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

あり、この「半満・権実」が「大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超」です。

『愚禿鈔』では

一には大乗の教、二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。

難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。

難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。

小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。

にあたります。

権実」というと18願が実と思われるかもしれませんが、「難行聖道の実教」を指しています。従って、「半満・権実」で、聖道門のことを総称して仰っているのです。

これは当時、こうへい氏も認めていたことですので、陰で操っていた高森会長も弘宣部も知っているのです。
親鸞会で教学的にはほぼ完璧とまで絶賛されていた『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)の解釈では

然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。

となっています。
阿弥陀仏は、浄土往生を願っている人だけではなく、浄土往生を願っていない聖道門を信じている人をも浄土往生させようとして、聖道門の人が信じられる19願を建てられたということを親鸞聖人が仰っているのです。

今、親鸞会が教えていることは19願だけです。18願のことなどどこかに忘れ去られています。
昔々会員であった方ならば覚えておられると思いますが、高森会長はよく以下のことを語っていました。

皆さんはどうしたら救われるかということを聞きたいと思われるでしょうが、親鸞聖人は『教行信証』全6巻のうち、5巻までは救われたらどうなるかについて書いておられ、残りの1巻だけにどうしたら救われるかについて書かれています。これは、救われた後どうなるのかを聞く方が、どうしたら救われるかを聞くよりも早く救われるからです。

残り1巻(化土巻)にどうしたら救われるかについて書かれてある、というのは間違いですが、少なくとも救われたらどうなるのか、18願について聞くことが救われる近道、とかつては言っていたにも関わらず、今は19願の話ばかり。もともと救われにくく話をしていたのに、更に救われないように話をしているようなものです。現実に、平生業成を昿劫多生業成の教えと公言しているのですから呆れたものです。

19願の話を聞いて救われるのなら、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が至る所に19願について書いておられる筈です。しかし、法然上人が19願について仰ったのは、『西方指南抄』(親鸞聖人御真筆)に

第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏の願に帰せしむと也。

とある位で、『選択本願念仏集』には言及さえありません。もちろんこのお言葉も、19願は「諸行之人」(聖道門の人)を18願に帰せしむための願という意味です。
蓮如上人は全く仰っていません。
親鸞聖人は19願について仰っていますが、19願を勧められたお言葉はありません。それは、mixiで高森会長、弘宣部、こうへい氏がそれを示せないでいる現状からも判ります。

教えをねじ曲げるのは、とことん平気なのが高森会長と親鸞会です。会員を騙して、お金を巻き上げること以外には考えていないのでしょう。少しでも間違いを正そうなんて、少しも思っていないようです。

当ブログを読んでいる高森会長、反論があればいつでもどうぞ。1年経っても、mixiで答えられないのですから、無理でしょう。

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2011年3月24日 (木)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り12

『顕真』2月号にある「宿善と聴聞と善のすすめ」の結論として

 心のままにやりたい放題でもよいのだろうか。
朝晩の勤行もやってもやらなくとも宿善とは何の関係もないのだろうか。
 真摯な親鸞学徒なら最も真剣に知りたいことに違いない。
 その方角を親鸞聖人は、弥陀の十九願であり二十願だと教導されているのである。

と書いてあります。親鸞聖人の仰せと真逆です。途中が間違っていますから、結論が間違っているのは当然です。

二双四重の教判

でも書きましたように、19願・20願は漸教なのです。救われるのに、長い時間がかかる教えであるから、頓教の中の頓教である18願を願い求めよ、と親鸞聖人が仰ったことを根底から覆しているのです。

今まさに死なんとする人に、法施と財施を勧めている親鸞会の実態をコメント欄に頂きましたが、親鸞会は会員を今生で救われないようにしている、というよりも、最期の最期まで親鸞会に利用されてすべてを奪い取って捨てることしか考えていません。

死期の迫った人に、何を勧めるのか?

でも書きましたが、悪凡夫の臨終に釈尊が勧められているのは念仏だけです。自分が悪凡夫と思い、真宗を信じているのであれば『観無量寿経』のお言葉を素直に信じるべきです。象徴的な下品下生のところを紹介しておきます。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。

命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。

 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。

 そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。

 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

もちろん善導大師の『観無量寿経疏 玄義分』にも以下のような解説をなされています。

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

(中略)

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

(中略)

下品下生とは、

これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。

とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

善導大師の教えをそのまま受け継がれた法然上人は『選択本願念仏集』

下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。
この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

下品下生とは、これは五逆の罪人である。臨終の十声の念仏で罪が滅して往生を得る。
この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と仰っています。
親鸞聖人は『唯信鈔文意』で更に詳細な解説をなされています。

「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。

『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

臨終の悪凡夫に善を勧めるのは、浄土仏教ではありません。臨終と言っても、平生と隣り合わせですから、平生から往生のために善を勧められてはいないのです。

親鸞会でも建前上は、善は往生の足しにならないと言いながら、結局は最期の最期まで善をしなければ必堕無間の解決はできないと脅迫しているのです。

オウム真理教とどこが違うのでしょうか?

教義上で反論があるならいつでも受けます。
しかし親鸞会のすることといえば、法律までも強引な解釈をして、批判者に圧力をかけることだけです。親鸞会の弁護士連中は、学歴は高くても全員思考停止しています。

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2011年3月22日 (火)

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り11

『顕真』2月号でも、「宿善と聴聞と善のすすめ」がまだ続いていますが、その内容は、弥陀の救いに値うまでの”方便”の必要性を必死に訴えているだけです。
この幼稚な理論の間違いは、これまでに述べてきた通りです。一言で言えば、善巧方便と権仮方便の違いが全く判っていないだけのお粗末さです。最近も以下のところで詳細に説明してきました。

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解
王舎城の悲劇が善巧方便
善巧方便がまだ判らない人のための補足説明
みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!
『歎異抄をひらく』の自己矛盾
『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています
”方便より真実に入れ”の正しい意味

方便については繰り返しませんが、今回もおもしろい内容がありましたので紹介しておきます。”餓鬼が寒林で骸を打つ”の話です。

 釈迦が林を遊歩中、餓鬼が泣きながら骸をたたいている。
 訳を聞かれると、
「人間界におった時、なぜ真剣に仏法を聞いてくれなかったかと、前生の頭の骨をたたいているのです」
と答えたと『仏説譬喩経』に説かれる。
 臨終に号泣しても間に合わない。死んで骸を打っても時すでに遅しである。

以前に『仏説譬喩経』の全文を紹介しましたので、読まれれば判るように、『仏説譬喩経』にはこの話はもちろんありません。似た話は、『涅槃経』にあります。原文は難しいので、Wikipediaにあるものを引用しておきます。

善星は、十二部経を受持読誦し四禅定を獲得したが、悪友である苦得外道(くとくげどう)に親近したために、四禅定を失い邪見を起し「仏無常なり、法も無常なり、涅槃もまた無常なり。衆生の煩悩と解脱には因果の理法はない」などと、仏の教えを否定するようになった。苦得外道はジャイナ教(六師外道の一、尼乾子=にけんし等ともいう)の教徒である。善星比丘はこの苦得に近親した。

善星は「苦得こそ真の阿羅漢」と言うと、仏は「苦得は阿羅漢に非ず」といった。善星は「世尊は証悟しているのに苦得に嫉妬するのですか」、仏「苦得が羅漢でない証拠に、彼は7日後に命終し、食吐鬼(じきとき、餓鬼の一種)になり同学の者がその屍を寒林に運んで置くだろう」と予言した。善星はこれを聞いて苦得にこの件を告げ食事に注意するように促した。これを聞いた苦得は断食して6日経ち、7日目に安心して黒蜜を食べて冷水を飲むと、腹痛を起こして命終した。そして同学の者が苦得の屍を寒林に運んで置いた。善星は苦得が死んだのを聞いて寒林に行くと、苦得は食吐鬼となり身を低くしうずくまって屍の側にいた。善星は苦得に事の顛末を聞くと、苦得は「釈迦仏の言ったのは本当である。善星よ、お前はなぜ仏の言を聞けないのか。もし信じなかったら私と同じようになるだろう」と言った。しかし善星は仏所に赴き「苦得は命終して三十三天に転生した」といった。仏は「悟りを得た羅漢が六道の天界に輪廻することはない、なぜ嘘をつくのか」と叱責すると、彼は「苦得は三十三天に生ぜず、食吐鬼となりました」と認めた。しかし善星はなおも「世尊の言はすべて不信である」と言い張った。

釈迦仏は、大衆に向かってこの話を教下し「我は善星が為に真実の法を説くも、彼は信受する心なし。彼は十二部経を読誦し四禅を得るも、悪友に親近して四禅を失い邪見を生じた。汝らがもし如来の真実語を不信するなら、彼は尼連禅河(にれんぜんが、ナイランジャナー河)にいるから、共に行って見るがよい」と言った。釈尊は迦葉菩薩らと共に赴いた。すると善星は釈尊を見つけると悪心を生じて、生身のまま阿鼻地獄に堕したという。

闡提の善星に対して、餓鬼界に堕ちた苦得が言ったことであり、『顕真』の内容とはずれています。
なおこの話は、日蓮宗系団体でよく使われるものです。これ以上は言わなくても、皆さんお判りになられると思います。

この話を通して、死んで必ず無間地獄に堕ちるのではないことが判ります。親鸞会は自分で一切衆生必堕無間を否定しているのです。

参考までに善星については、『教行信証』真仏土巻にも闡提の者として『涅槃経』を引かれています。

迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。

(現代語訳)

 迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、善星比丘が善い資質を失うだろうと、きっと知っておられたはずです。どのようなわけで、善星比丘の出家をお許しになったのですか>と申しあげる。

 釈尊が仰せになる。<善良なものよ、昔わたしが出家したばかりのころ、弟の難陀、従弟の阿難と提婆達多、息子の羅羅などが、みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、思いのままにその力を使って、仏法を破壊したであろう。このようなわけで、わたしは、出家して仏道を修めることを許したのである。善良なものよ、善星比丘は、出家しなかったとしても、やはり善い資質を失ったであろう。そうすれば、はかり知れない長い間何の利益もないことになる。すでに出家し、後に善い資質を失ったが、戒律をたもち、長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、さまざまな段階の禅定を修めるということは、善の因となる。このような善の因は善を生じる。善が生じたなら仏道を修めるであろう。仏道を修めたなら、ついにはこの上ないさとりを得るであろう。だから、わたしは善星の出家を許したのである。善良なものよ、もしわたしが、善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、わたしのことを、十力をそなえた如来と称することはできないであろう。>

闡提(断善根)の善星を通して、すべての人が闡提でないこともこれでお判り頂けると思います。

高森会長は、自分を大学者と見せようと、いろいろの話を”引用”していますが、悉く間違っています。それにしても、高森会長オリジナルの話と宣言すれば盗作と指摘され、引用と公言すれば根拠も内容も間違っていると非難され、どうしようもない善知識です。

ここまで嘘で固められた親鸞会を批判する者に、法的圧力をかけることに尽力している特専部の弁護士達は、批判者の主張を知っているのですから、通常なら辛い立場だと思います。もし辛くないのなら、講師部員並の知能ですね。

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2011年3月20日 (日)

二双四重の教判

福島の原発事故について一日中報道されていますが、意図的な情報操作がなされていることに気が付く方もあると思います。原子力の素人の私でもそれは判ります。データを提示されると説得力がありますので、そのデータが都合のよい部分だけ抽出されたり、関係ないデータと比較されたりすると簡単に騙されてしまいます。

ただし不安を煽らないようにしている意図が感じられて、結果的にはそれがよいことかもしれませんが、ひとつ間違えると非常に危険な行為にもなりかねません。

当ブログの趣旨は、原発について述べることではありませんので、詳しくは関係のサイトやブログを読まれればよいと思いますが、私が言いたいことは、専門家やそれなりの立場の人が言ったことが、必ずしも正しい情報ではないことを知って頂きたいということです。

高森会長は、日本一、世界一の仏教の先生と聞かされて、私は信じてきました。しかし、自分で聖教を拝読してみると、余りにも出鱈目な教えに驚嘆しています。聖教は専門用語が使われている上に古文であったことで、それを部分的に取りだされて断言されたら、専門的に勉強していない会員がそれを信じてしまうのも仕方がありません。
それで、当ブログではその嘘を暴いて、皆さん御自身で判断して頂きたいと思って書いています。読者の方には難しいこととは思いながらも、多くの根拠を挙げているのはそのためです。

さて法然上人は、いわば結論しか仰いませんでした。『選択本願念仏集』はその名の通り、18願1つについて教えられたもので、19願・20願への言及もありません。従って、往生のためには19願・20願について知る必要もなければもちろん実践する必要もないのです。法然上人は、往生のための最も近道だけを教えられたのです。

ところが、これでは根拠が曖昧に感じられるのです。都合のよいデータだけを抽出しているのではないか、聖道門は要らないのか、19願は無駄な願であったというのか、という非難が出てくるのは当然なことであったのです。

そこで親鸞聖人が仏教全体と18願との関係について体系的に教えられたのが、二双四重の教判と言われるものです。

「親鸞会教義の誤り」
親鸞会は諸行往生8
親鸞会は諸行往生9

に詳しく解説されています。
『教行信証』信巻・横超釈

横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

とあり、『愚禿鈔』にも

聖道・浄土の教について、二教あり。
 一には大乗の教、      二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
 一には頓教、        二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
 二教とは、
  一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
  二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
 二超とは、
  一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
  二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
 二教とは、
  一には難行道 聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
  二には易行道 浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
 二出とは、
  一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
  二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
小乗教について、二教あり。
 一には縁覚教    一に麟喩独覚、二に部行独覚。
 二には声聞教なり。 初果・預流向、第二果・一来向、第三果・不還向、
           第四果・阿羅漢向、八輩なり。
ただ阿弥陀如来の選択本願(第十八願)を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。

とあります。
二双四重の教判を親鸞聖人のお言葉を列記してまとめると以下のようになります。

竪超(頓教)

大乗真実の教
難行聖道の実教、仏心・真言・法華・華厳等の教
即身是仏・即身成仏等の証果

竪出(漸教)

大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教
聖道権教、法相等、歴劫修行の教
聖道、歴劫修行の証

横超(頓教)

願成就一実円満の真教、真宗
易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等
選択本願・真実報土・即得往生

横出(漸教)

三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善
浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教
浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生

親鸞聖人は、このように仏教全体を4つに分けられて、法然上人が仰ったのは、真教・真宗の横超(18願)のことであると明らかにされたのです。もちろん膨大な根拠を挙げられた上で、法然上人の教えの正しさを証明されているのです。
更には、竪超竪出横出は、横超へ導くための権仮方便と見做されているのです。

何度も何度も言っていますが、権仮方便とは、それが権仮方便と判らず真実と思っている人には権仮方便として必要なのであって、権仮方便が権仮方便と判っている人には不要なのです。法然上人は後者の立場で仰ったに過ぎませんが、そのために激しい非難があったので親鸞聖人は前者を説明されたのです。

この基本的なことを踏まえれば、親鸞聖人の教えは実に簡単なのです。法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、竪超竪出横出という回り道をするな、横超の直道だけだ、としか仰っていません。
ですから、法然上人も親鸞聖人も蓮如上人も、竪超竪出横出を勧められたお言葉は、1つもないのです。

こんな初歩的なことを間違えて教えているのが高森会長です。原子力のことは難しくて理解できなくても、読者の皆さんならば親鸞聖人の教えを正しく理解することはそれほど難しいことではありません。

高森会長の教えていることから、断章取義、捏造、改竄、歪曲を取り除いたら、残るものは私利私欲の教えだけになるとはっきりします。

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2011年3月17日 (木)

今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり

大震災の上に福島原子力発電所の問題と、日本にとりましては危機的な状況が続いています。これまで親鸞会は不安を煽って、善のすすめという名目で、一層の金集め人集めを会員に強いてきました。今回も同様のことをするでしょう。
冷戦時の核戦争、阪神大震災などで不安を最大限に煽ってきましたが、親鸞聖人の教えには、不安を煽るようなことはありません。もちろん、死後に無間地獄に堕ちると脅されているところも皆無です。

前回のエントリーで紹介しました『観無量寿経』で韋提希が釈尊に懇願したことを再度読んでください。

世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。

韋提希は苦しみの世界から出離して浄土往生をしたいと願ったのです。それに対して釈尊はその願いに応じて説かれているのであって、韋提希に「このままでは、もっと苦しむことになるぞ、しかも死後は間違いなく地獄行きだ」とはもちろん仰っていません。釈尊は浄土往生についてのみ説かれています。
仏教は、ネガティブな教えではありません。ポジティブな教えです。悪業の抑止のために、悪報について説かれることはありますが、不安がらせるような説き方をされることはありません。なぜなら、不安を取り除くのが仏教なのですから当たり前です。

このことは、蓮如上人も同じです。邪義・異安心に対しては厳しく誡められていますが、社会不安を煽るようなことは仰っていません。
たとえば『御文章』4帖目第3通では、以下のように仰っています。

 それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

しかれば諸仏の本願をくはしくたづぬるに、五障の女人、五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。ありがたしといふもなほおろかなり。これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。

このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 そもそも、今の世の戦乱のありさまは、いつ落ち着くとも思われない様子です。そのため、国々を行き来する道にいたるまでも容易に通行のかなわない時世ですから、仏法においても、世俗の事柄においても、何をどのようにしてよいか困惑します。このゆえに、あるいは霊験あらたかな寺院・神社へ参詣する人びともおりません。
 これについけても、人はみな、誰がいつ死ぬやら定めのないものであると聞いているからには、急いで、どんな善行をもおさめ、また、さとりや涅槃をも願うべきなのです。
 しかしながら、今の世は末世の乱れた世であるとはいうものの、阿弥陀如来の本願は、この時世において、不思議にもますます盛んです。
 ですから、在家の生活を送る人びとは、如来のこの広大なる慈悲の誓願におまかせし、疑いなく阿弥陀さまの仰せに従う信心をいただいて、完全なさとりの世界、すなわち極楽に往生しなければなりません。そうでなければ、まさに、宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなものではありませんか。くれぐれもよく心を静めてこれを考えてください。
 そこで、もろもろの仏の本願を詳しく探って明らかにしてみれば、五障の女性、五逆の悪人については、どの仏もこれをお救いにはなれないと思われます。
 ところが、阿弥陀如来こそはただおひとり、「罪悪のはなはだしい者、五障の女性を、わたしがたすけよう」と、このうえなくすぐれた尊い誓願を起こしてくださいました。ありがたいといっても、なおいい足りません。
 さて、昔、お釈迦さまが霊鷲山にいらっしゃって、一乗の教えと讃えられる『法華経』をお説きになっていたときに、提婆が阿闍世をそそのかして、親殺しの罪を犯させるという事件が起こりました。
 そこでお釈迦さまは、もったいなくも、霊鷲山での『法華経』の説法の座を立たれて、王宮へおいでになり、韋提希夫人が極楽を願うようにされました。こうして、お釈迦さまが韋提希夫人のために浄土の教えをひろめられたので、阿弥陀さまの本願が今の時代に盛んとなったわけです。そして、このために、『法華経』と『観無量寿経』のお念仏とは同じときに説かれた教えであるといわれています。
 これはとりもなおさず、末世の五逆の悪人と女性に、極楽への往生を願わせるための手だてとして、釈迦、韋提・提婆・阿闍世が力を合わせて、五逆の罪を犯すというドラマを作りあげたものと考えられます。そして、このような罪の深い者であっても、人知では思いはかることのできぬ阿弥陀如来の本願に帰依すれば、かならず極楽への往生をとげることができるのだ、とお知らせくださったのである――とお受け入れください。

これは、11年続いた応仁の乱が背景にあって書かれたものですが、この戦乱を今回の大震災・原発の事故に置き換えてみれば、蓮如上人の仰っていることがよく理解できるかも知れません。
蓮如上人は、聖道門と浄土門、自力と他力とを比較しながら、悪人正機の18願について明らかにされ、不安に満ちた世界(『観経』では「濁悪の処」)を離れて、苦しみのない世界(『観経』では「憂悩なき処」)への往生を勧められているのです。
不安を煽られるどころか、希望を与えられています。

なお、「人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。」が、獲信・往生のために善を勧められたお言葉でないことは、全体を読まれれば判りますし、

私は『教行信証』を読んだことがありません、と告白

で、すでに述べた通りです。いつ死ぬか知れないような状況で、善をして信仰を進めて、とか、まず19願の修善に励んで、などと悠長なことを言っておれるものではありません。苦悩と不安に喘ぐ悪人に必要なのは、遥か彼方の多生の救いではなく、今すぐに救われる教えなのです。

蓮如上人の時代だけではなく、現代も

今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり

このように言えるのが、親鸞聖人の教えです。「末法濁乱」の不安を煽るのは、カルトの教えです。

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2011年3月14日 (月)

釈尊はなぜ韋提希のもとへ行かれたのか?

今回の大震災は、日を追う毎に悲惨な状況が判明し、言葉もありません。
この惨状を知りながら、親鸞会に財施をするために、被災者への募金を僅かしかしない講師部員、幹部会員は、人間性を失っているとしか言い様がありません。

さて、供養と救いとの関係についての質問をコメント欄に頂きました。
すでに

平等な慈悲と不平等な救い?
布施の功徳

でも述べましたが、補足しておきます。

釈尊が苦しんでいる人が多い中で韋提希のもとに行かれたのは、韋提希が釈尊に供養していたからだという考え方には、大いに問題があると思います。
このことは韋提希と同様の立場であった頻婆娑羅王と比べてみるとよいでしょう。

『観無量寿経』から関連部分を抜粋します。

頻婆娑羅王は牢から釈尊に対して以下のように懇願しています。

「大目犍連はこれわが親友なり。願はくは慈悲を興して、われに八戒を授けたまへ」

(現代語訳)

「世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授けください」

八斎戒とは、戒律のことです。
一方で韋提希は、

「如来世尊、むかしのとき、つねに阿難を遣はし、来らしめてわれを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしをいたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおります。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしになって、わたしに会わせてください」

と頻婆娑羅王同様に、釈尊ではなくお弟子に来てほしいと要望しています。ここは、高森会長の説明と違いますが、ここではこれ以上は触れません。
しかし、釈尊御自ら韋提希のもとに来られました。そこで韋提希が釈尊に言ったことは、

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

です。

頻婆娑羅王と韋提希との違いが判られたでしょうか。

頻婆娑羅王は、「われに八戒を授けたまへ」と戒律を授かりたいと願ったのです。
一方の韋提希は、「わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。」と往生を願ったのです。
判りやすく言えば、頻婆娑羅王は聖道門を求め、韋提希は浄土門を願ったということです。

頻婆娑羅王はその後

そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。

(現代語訳)

すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少ししもさまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけて礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世界に帰ることのない位に至ることができたのである。

と「阿那含」になっています。
阿那含」については、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』には、

梵語アナーガーミンの音写。不還と漢訳する。再び迷いの世界にもどらない者の意。声聞の修道の階位、四果の第三位で、欲界の煩悩をすべて断ち切って、再び欲界に還ってこない位をいう。この果を阿那含果(不還果)といい、この果を得ようとして修行する位を阿那含向(不還向)という。

とあります。要するに頻婆娑羅王は「阿那含」になれる善人であったということです。一方の韋提希は、「阿那含」にはなれない悪人であるから、釈尊が韋提希の求めに応じられて韋提希のもとに行かれて、浄土往生の教えを説かれたということです。善人の頻婆娑羅王には、釈尊が行かれるまでもないことでしたが、悪人の韋提希には釈尊が行かれなければなければならなかったということです。

これを『教行信証』総序

しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。

(現代語訳)

ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。

と韋提希によって、浄土門を説かれる機縁が熟した、と親鸞聖人は仰ったのです。
従って、韋提希が供養したから釈尊は韋提希のもとに行かれたということではなく、釈尊は浄土門を明らかにされるために韋提希のもとに行かれたということです。

聖道門的発想は浄土門とは違いますが、仏の平等の慈悲を知れば、親鸞聖人が仰った通りと受け取っていくべきでしょう。

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2011年3月13日 (日)

死期の迫った人に、何を勧めるのか?

大地震で被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。
亡くなられた方、被災された方、更にはご家族の方々のことを思うと、本当に心が痛みます。
財を高森会長と親鸞会に対して施せば、高森会長個人の数多くの住居か装飾品に費やされたり、無駄な設備に使われて、喜ぶのは一族と上層幹部だけです。しかし、本当に困っている方に施せば、財を施した方も施された方も共に喜ぶことができます。
親鸞会の会員は、財施についてよくよく考えてほしいものです。

また残念なことですが、死期の迫っている人に対して、どんな話をすべきなのかも考えて頂きたいと思います。

そのことで、「私の白道」を思い出しました。

 そんなある日、私がよく知り、講師部の時お世話にもなった方(男性)が癌でもう聴聞に来られないことを知りました。

 80歳過ぎで、30年近く求められ、聴聞も県で一番位回数が多く、アメリカ、ブラジルだろうと高森先生の御法話には一座も欠かされたことが無く、支部の御法話、会合も全日程参加でアニメ頒布にも、実に真面目に回われました。

 財施額も常に県でも上位、高森先生との高額財施者の親睦会、会食会は常連でした。副支部長として生活の全てを親鸞会の活動にかけられ、本会からも、貴方は会員の模範だと、何度も表彰状を受けた方でした。

・2月に見舞いに自宅へ行くとベットに横になり、変わられた姿に驚きました。
 そして開口一番、「こんなになって聴聞に行けんようになったー、どうしょうー。宿善積めんようになったー。困ったーた弱ったー」でした。

 自分の病に気付いておられるなと直感しました。
 もう世間並みの見舞いの言葉なんか言っておれない。
「Tさん、本部で座っているだけが聴聞ではありません、なにを聞いたかです。何を聞いて来られましたか。こうなったら、これまで聞かせて頂いたことを思い出して下さい。私も聞かせて頂いた事を話に来ますから、このベットの上が聴聞会場ですよ」

 私はこの時、このTさんに数十年聞かせて頂いたことをお伝えしよう、亡くなった父と同じ年齢のTさんに何とか救われてもらいたいと思いました。

 それから本棚に積み上げてあった高森先生の「会報」「こんなことが知りたい」「法戦」など仕事以外の時間は読み続け、ここを話そうと思うところをコピーし準備しては月2回程行きました。

 何を話しても、Tさんも30年近く聴聞をしてきた方ですから私の話することは全部分かるのです。話するのも、Tさん体調からは1時間が限度でした。

 しかし「無常観をとりつめたら後生の一大事の驚きがたつだろうと、今死んだらどーするー、と思うけど、まだ死なん、まだまだとしか思わん」と頭を叩かれ、
「罪悪感をとりつめようと、自分の悪をいろいろ思うが、もー悪い奴やと思えん、こいつが」と腹を叩かれた。

「こんな者どうすりゃいいんですかー、教えて下さいー、助けて下さいー」と遂に男泣きに泣かれ、私の腕にすがりつかれた。

 私はこの時、自分の慢心に気付いた。よし俺が導いてみせようとは、何たる傲慢。Tさんは目前の後生に命がけに取り組んでいるのに、覚えた教学、読んだ要で何とかしようとは、自分こそ後生の一大事が全く分かっていないではないか。

 まだ教える立場で考えて、自分の問題にしていないではないか。お前はまだ講師様か、何という馬鹿者だ、俺は。

「阿弥陀様が分からーん、どう信じたらいいのか、どう思ったらいいのか。私みたいな者は助からんのか。あー私は宿善が浅いから助からんのや。

 高森先生、申し訳ありません。もっと宿善求めて頑張ればよかった、済みませんー」とまた号泣された。

 かって数十年前、谷本貞三さんも同じ癌で入院し苦しまれた時、浅倉講師が見舞いに行き、高森先生は何度も葉書を出されて阿弥陀仏の御心を伝えられ臨終間際に救い摂られた話は有名でビデオにもなっている。

 その葉書の文句も見せて話するが、読んでる肝心の私がその意味が分からない。
 その時の私は三願転入しか頭に無く、宿善求めて、19願、20願と信仰進んだ宿善厚い谷本さんだからこそ獲信されたのだろう。宿善浅く、読んでも意味が分からんと泣いておられるTさんには無理な言葉だったのかとしか思えず、言葉が無くなってしまった。

 私はとっさに両手を握って「念仏称えましょう」と言った。仏法を聞き始めて数十年、私は初めて人に念仏を勧めたのだ。

 Tさんは驚いたように「念仏称えて助かるですか、いいんですか」と聞いてきた。
 親鸞会で信前の念仏は助からん、本願寺は念仏称えて死んだら極楽、死んだら仏と教えを捻じ曲げていると、30数年聞かされてきたTさんは始め躊躇されたが、私はかまわず念仏を称え出した。

 3分ーー5分ーー念仏と共に何の涙か分からないが止まらない。一緒に泣きながら念仏を称えた。

 Tさんの姿は私の姿だ、決してTさんだけの姿ではない、親鸞会会員さんも皆平生業成の身に成らなければこうなるのだと深く心に刻んだ。

 病気の進行は早く、Tさんは自宅から病院へと移られ私も病院へ通ったが、行くのが辛かった。行く度落ちてゆく体力、10分間聞くのも脊髄へ移転した病魔に苦しみ話が中断する。

 こんな身になって諸善なんか勧めておれない。しかし念仏勧めるが心は依然として暗い。

もう一つ思いだしたものがあります。それは『教学聖典』のこんな問答です。

(問)
 念仏無間という狂人どもを破る根拠を三つ以上あげよ。

(答)
 ○勿論、一切経に出ていない言葉である。
 ○それどころか「汝好くこの語を持て、この語を
  持てとはすなわちこれ無量寿仏の名(念仏)を持
  てとなり」と観無量寿経にある。
 ○釈尊が臨終の父王に念仏三昧を勧められる訳が
  ない。                 (観仏三昧経)

実にカルト的な問いですが、そのことには触れません。
私が言いたいことは、釈尊が臨終の父親に勧められたことは、諸善ではなく念仏であると親鸞会でも認めている事実です。
これは『教行信証』行巻にあります。

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

『観無量寿経』で下品上生から下品下生で臨終の悪人に勧められているのは、念仏であることもこれまでに何度も述べてきました。

死の近い人に、諸善を勧めるのが仏法者でしょうか?
財産は死後までもっていけませんから財施しましょう、と迫るのは、まさにカルト教団です。
親鸞会の教えは、諸善の勧め一辺倒ですが、臨終の人にだけは念仏を勧めることになるとでもいうのでしょうか?
もしそうであるならおかしなものです。今回の大地震でも判るように、平生と臨終とは紙一重です。ですから、親鸞聖人は他力念仏以外には勧められていません。要するに、親鸞聖人は18願しか勧められていないのです。19願の遠回りでは平生業成にはなりません。

『教行信証』信巻

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

会員さんは、自分の人生と法施について、真剣に考えて下さい。

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2011年3月10日 (木)

”二河白道の譬え”はどう?

”無常の虎の譬え”は『仏説譬喩経』に説かれている内容と大きく異なっていることに、驚かれた方が多いようです。掛け軸の絵に騙されてしまったのですが、もう一つの掛け軸の”二河白道の譬え”はどうでしょうか?
これは既に

「親鸞会教義の誤り」
宿善とは7
宿善とは8

で間違いが指摘されていますし、当ブログでも

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

で少し触れました。高森会長の根本的な間違いは、白道を信前の求道としていることです。
高森会長の間違いについて難しい御文を挙げて説明しても、真宗教義の基礎が欠落している高森会長や講師部員、幹部会員には理解できないと思いますので、今回は違う視点から述べてみます。

『教行信証』は、真実を顕された前5巻と、方便を顕された第6巻とに大別されます。
教巻以外には、各巻の最初に阿弥陀仏の願名が挙げられています。

行巻―諸仏称名の願(17願)
信巻―至心信楽の願(18願)
証巻―必至滅土の願(11願)
真仏土巻―光明無量の願(12願)、寿命無量の願(13願)
化土巻―至心発願の願(19願)、至心回向の願(20巻)

各巻の最初にこのように書かれてあるということは、各巻は最初に挙げられた願の解説であるということです。
これは『教行信証』を読む上での常識です。

では、”二河白道の譬え”は『教行信証』のどの巻にあるか?
それは信巻です。18願意を説明される中で、”二河白道の譬え”を親鸞聖人は出されているのです。従って、”二河白道の譬え”は、18願の他力信心について顕されたものと判ります。

信巻の初め

この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。

と仰って、18願の他力信心について明らかにされています。そこに”二河白道の譬え”が引かれているのですから、白道は当然ながら他力信心として親鸞聖人は教えられているのです。

もう少し詳しく解説すると、”二河白道の譬え”は善導大師の『散善義』の三心釈にあるものです。この三心とは、『観無量寿経』に説かれている至誠心・深心・回向発願心のことです。この三心について親鸞聖人は顕説と隠彰とに分けられて、顕説は自力の三心、隠彰は他力の三心と教えられています。
他力の三心は、18願の三心(至心・信楽・欲生)と同じであることを信巻で教えられています。ですから、白道は他力信心を顕すものとして引かれています。

一方、自力の三心は、化土巻で教えられています。『散善義』三心釈の一部を化土巻に引かれていて、自力の三心を顕されました。しかし化土巻には、”二河白道の譬え”は引かれていません。従って、”二河白道の譬え”は信前の自力信心、求道心でないことは明白です。
親鸞会では、化土巻にはどうすれば信心決定できるかの方法を教えられている、と言っていますが、”二河白道の譬え”はその方法ではないことになります。矛盾も甚だしいです。もちろん、化土巻は信心決定するための方法について書かれたものではありません。間違った行と信、そしてその利益について教えられたものです。

参考までに、この自力の三心と他力の三心については『唯信鈔文意』にもありまして、以前に、

他力の三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり
一心かけぬれば生れずといふなり

でも述べました。親鸞聖人が仰る通り、自力の三心を通って、他力の三心へ入るということではありません。自力の三心にこだわるのではなく、他力の「三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり」が親鸞聖人の結論です。

以上のことを常識的で論理的思考を持った人ならば、たとえ”二河白道の譬え”の詳しい解釈を知らなくても、”二河白道の譬え”は、真実の他力信心を譬えられたものであることが判る筈です。

しかし、非常識かつ非論理的な思考の人は、”二河白道の譬え”を信前の求道について教えられたものと主張します。尤も、親鸞会では最近その間違いに気が付いたようで、『顕真』ではぼかした表現になっています。秘かに教えの修正を目論んでいるようですが、講師部員のブログには間違った教えが未だにそのまま載せられていますし、白道を信前の求道心とするために屁理屈を捏ね繰り回している講師までいる始末です。

”二河白道の譬え”だけをとっても、高森会長は『教行信証』を読んだこともなければ、その構成について何も知らないことを世界中に公言しているようなものです。
『教行信証』さえ読んでいないのですから、他の聖教、浄土三部経その他の経典など、読んでいる筈もありません。

高森会長が話をすればするほど、真宗とは懸け離れた話が飛び出すだけで、真宗界では物笑いの種になっています。これ以上恥をかきたくなければ、

親鸞会は浄土真宗及び親鸞聖人とは無関係です

と宣言されることをお勧めします。

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2011年3月 8日 (火)

”無常の虎”とは何?

先日の2000畳法話は学生大会でした。演題は後生の一大事で、”無常の虎”についての話であったと聞きました。”無常の虎の譬え”は、親鸞会の会員なら誰でも知っている内容ですが、真宗界では誰も知りません。

なぜなら、一般的には”黒白二鼠の譬え”と言われます。しかも内容が随分違います。”黒白二鼠の譬え”は

本願寺教学伝道研究所

にも載っていますので、引用します。

(3)甘い蜜

【概要】

昔、一人の旅人が広い野を歩いていると、後ろから悪ゾウが追いかけてきました。
周りを見まわしても、身を隠すところがありません。
木の根が垂れている、から井戸があるのを見つけました。
その木の根をつたってから井戸の中に身を潜めました。
ほっとするのも束の間、目の前に黒と白の二匹の鼠が出てきて、かわりがわりに木の根をかじっています。
下を見れば古井戸の底で、一匹の大きな毒龍が口をこちらに向けており、四匹の毒ヘビ井戸の四辺にいて、男の落ちてくるのを待ち受けているではないですか。このままでは確実に細い根はちぎれて、龍やに食べられてしまいます。
男は恐怖に身を震わせていました。
木の根にはミツバチの巣がありました。その巣から甘い蜜が五滴、口のなかに堕ちてきました。そのなんとも言えない蜜の甘さに心が奪われ、もっと甘い蜜をなめたいと思って、いまにも切れそうな木の根をゆさゆさと揺すっています。その上さらに、野火がこの木を焼こうとしています。

ここに出てくる広い野とは私たちの永い迷いを喩えています。
ゾウとは無常、井戸は人生、木の根はいのちを喩えています。
黒白の二匹の鼠は昼と夜を喩え、私のいのちが徐々に終わりに近づいていることを示しています。
井戸の周りの四匹の蛇は地・水・火・風の四大を、五滴の蜜は色・声・香・味・所触の五欲を喩えています。
蜂はよこしまな思いを喩え、は老病を喩えています。
そして龍は死を喩えています。
私たちは、このように知って、世間の楽に心奪われることなく、人生の無常に思いをいたして、苦悩の解決を求めていかなければならないのです。

【解説】

  • 世間の楽に執着することの愚かさに気づき、生死を超える道を求めるべきことを喚起する話です。
  • 甘い蜜に夢中になっていたほうが幸せであるという考え方もあるかもしれません。
    しかし、私たちは、生死の問題と向き合っていくべきでしょう。
    なぜなら、この苦難の状況を根本から超えていくことのできる教えが、私たちにはすでに示されているからです。

【補足】

  • この話は『仏説譬喩経』(大正蔵4、801頁中~下)、『衆経撰雑譬喩』8話(大正蔵4、533頁上~中)に説かれています。
  • 『衆経撰雑譬喩』では迷いの世界である三界を喩えた牢から逃げ出した罪人として説かれています。
  • 『戦争と平和』などで有名なロシアの小説家であるトルストイが、その著『わが懺悔』(創元社文庫、27~28頁)のなかで、「古い東方の寓話」として紹介しています。
    龍に気付いてからは蜜の甘さに惑わされることなく、鼠と龍、つまり自らの死から目をそらすことができなくなったと結んでいます。

如何でしょうか。似ていますが、だいぶ違います。『仏説譬喩経』に説かれている内容と説明している本願寺が間違っているのでしょうか?

高森会長も”無常の虎の譬え”は、『仏説譬喩経』に説かれていると話をしています。

どちらがウソか

『仏説譬喩経』を見てみましょう。『仏説譬喩経』は短いので、漢文ですが全文紹介します。

佛説譬喩經
大唐三藏法師義淨譯
如是我聞。一時薄伽梵。在室羅伐城逝多
林給孤獨園。爾時世尊於大衆中。告勝光王
曰。大王。我今爲王略説譬喩。諸有生死味
著過患。王今諦聽。善思念之。乃往過去。於
無量劫。時有一人。遊於曠野爲惡象所逐。怖
走無依。見一空井。傍有樹根。即尋根下。潜
身井中。有黒白二鼠。互齧樹根。於井四邊
有四毒蛇。欲螫其人。下有毒龍。心畏龍蛇
恐樹根斷。樹根蜂蜜。五滴墮口。樹搖蜂散。
下螫斯人。野火復來。燒然此樹。王曰。是人
云何。受無量苦。貪彼少味。爾時世尊告言。
大王。曠野者喩於無明長夜曠遠。言彼人者。
喩於異生。象喩無常。井喩生死。險岸樹根
喩命。黒白二鼠以喩晝夜。齧樹根者。喩念
念滅。其四毒蛇。喩於四大。蜜喩五欲。蜂喩
邪思。火喩老病。毒龍喩死。是故大王。當知
生老病死。甚可怖畏。常應思念。勿被五欲
之所呑迫。爾時世尊重説頌曰
    曠野無明路 人走喩凡夫
    大象比無常 井喩生死岸
    樹根喩於命 二鼠晝夜同
    齧根念念衰 四蛇同四大
    蜜滴喩五欲 蜂螫比邪思
    火同於老病 毒龍方死苦
    智者觀斯事 象可厭生津
    五欲心無著 方名解脱人
    鎭處無明海 常爲死王驅
    寧知戀聲色 不樂離凡夫
爾時勝光大王聞佛爲説生死過患。得未曾
有。深生厭離。合掌恭敬。一心瞻仰。白佛言。
世尊。如來大慈。爲説如是微妙法義。我今
頂戴。佛言。善哉善哉。大王。當如説行。勿
爲放逸。時勝光王及諸大衆。皆悉歡喜。信
受奉行
佛説譬喩經

さて、白骨は落ちていましたか?は出てきましたか?は?三匹の毒龍は?深海は?
『仏説譬喩経』を読めば、本願寺の解説の通りであることが判ります。

参考までに『衆経撰雑譬喩』8話は

(八) 一切衆生貪著世樂不慮無常。不以大
患爲苦。譬如昔有一人遭事應死。繋在牢
獄恐死而逃走。國法若有死囚踰獄走者。
即放狂象令蹈殺。於是放狂象令逐此罪
囚。囚見象欲至走入墟井中。下有一大毒
龍張口向上。復四毒蛇在井四邊。有一草
根此囚怖畏一心急捉此草根。復有兩白
鼠噛此草根。時井上有一大樹。樹中有蜜。
一日之中有一滴蜜墮此人口中。其人得
此一滴。但憶此蜜不復憶種種衆苦。便不
復欲出此井。是故聖人借以爲喩。獄者三
界囚衆生。狂象者無常。井衆生宅也。下
毒龍者地獄也。四毒蛇者四大也。草根者
人命根也。白鼠者日月也。日月尅食人命
日日損減無有暫住。然衆生貪著世樂不
思大患。是故行者當觀無常以離衆苦

です。『衆経撰雑譬喩』は『仏説譬喩経』と若干異なりますが、白骨深海も全く出てきません。

無常の虎の譬え”を通して、地獄に堕ちることも知らずに、五欲の蜂蜜舐め舐め地獄に堕ちていく後生の一大事を、高森会長は強調していますが、『仏説譬喩経』には地獄のことは説かれていません。
高森会長の書いた『会報』にも、後生の一大事を説明する中で、この”無常の虎”の話を出していますから、必堕無間という後生の一大事の”根拠”としてこの譬えを利用していることが判ります。

説教本で象を虎としているものもありますが、高森会長が話をしている内容のものを私は知りません。華光会か大沼師かどこからか拝借したものと思われます。創作部分もあると思います。

高森会長が創作した譬えとして話をするならば、その程度に聞き流せばいいですが、『会報』でも説法の中でも、これは『仏説譬喩経』にある譬え話と説明している訳ですから、『仏説譬喩経』に忠実に話をしなければ嘘になります。
高森会長自宅の書斎にあると伝え聞く『大正大蔵経』には、『仏説譬喩経』が収録されていますので、調べる気になれば簡単に調べられるのに、それもしなかったのです。尤も『教行信証』さえ読んだことがないのですから、当然なことと思います。

譬えにはある程度の自由度があって、話をかえてもいいではないか

という会員もいますが、釈尊の御説法以上の話が高森会長にできると思っているのでしょうか?
そんな人は、どこかの宗のように高森本仏論者なのでしょう。

高森本仏論者には、何を言っても無駄ですが、高森会長よりも釈迦牟尼仏の方が偉大に決まっていると当たり前の思考ができる人であるならば、釈尊の譬えと異なることを釈尊の御説法として話をすることは大問題と判る筈です。

さて、”黒白二鼠の譬え”については、高森会長は本当に知らなかったのでしょう。高森会長には、その程度の知識しかないのです。

座談会でも手紙でも結構ですから、高森会長にこの件を質問してみては如何でしょうか。担当講師に尋ねてみてもいいです。どんな反応を示すか知りたいものです。

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2011年3月 7日 (月)

”方便より真実に入れ”の正しい意味

高森会長がヘンテコ真仮論を考えだしたのは、30年前の本願寺との論争の時です。『本願寺なぜ答えぬ』には、

 誰もが、意識すると、しないとに、かかわらず、方便(仮)の道程を通らなければ、真実(真)の、絶対界には出れないのだ。
 方便(仮)を通らずに、真実(真)が、どうして、真実と、知れようか。真実を、真実と、知らすための、方便なのだから。
 ならばこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、悉く、方便と真実を比較して、説かれ、”方便より真実に入れよ”との、教えなのである。
 その方便(仮)を、知らないのは、真実(真)も、わかっていない証拠、と結論づけられる。

と書いています。余りに幼稚な理論であったがために、本願寺が呆れて無視したのですが、それに気をよくして、未だに同じことを言い続けています。

この詭弁を見破れない人がいますので、簡単に解説しておきます。

現在、北アフリカ・中東諸国では、デモが頻発しています。デモの参加者が訴えていることは、

独裁政治より民主政治に変えよう

ということです。このデモ参加者の考えを、独裁政治を通らなければ民主政治には絶対になれないのだ、と理解する人はいないでしょう。ならば、

方便より真実に入れ

方便を通らなければ、真実に入れないと考えるのは正しいでしょうか?

少し考えればお判りになると思います。
デモで訴えていることは、現在独裁政治の状態になっているから、それを民主政治に改めたい、というのであって、民主政治にするためには、独裁政治から始めて、独裁政治に耐えられなくなってから民主政治に移行しなさい、というものではありません。
それと同じで、現在方便に迷っている人に対して、それは方便だから捨てて真実に入りなさい、であって、方便に迷っていない人に、先ずは方便に迷って、方便では救われないことが知らされてから真実に入りなさい、という意味になる訳がないです。

これを踏まえて、『本願寺なぜ答えぬ』で引用されている根拠を見てみましょう。

『高僧和讃』曇鸞讃

万行諸善の小路より
 本願一実の大道に
 帰入しぬれば涅槃の
 さとりはすなはちひらくなり

も、「万行諸善の小路」を通らなければ、「本願一実の大道」に出ることができないのではありません。「万行諸善の小路」に迷っている人はこれを捨てて、「本願一実の大道」を速やかに信じて入りなさい、ということです。

これだけ説明しても、「それこそお前の詭弁だ」、とひねくれ者が言ってくるかも知れませんので、曇鸞大師の根拠を出しておきましょう。『教行信証』行巻にも引かれている『浄土論註』のお言葉です。

まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。

かくのごときらを名づけて自力とす。また劣夫の驢に跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分することなかれ。

(現代語訳)

さらに例をあげて、自力と他力のありさまを示そう。人が、地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちることを恐れるから戒律をたもち、戒律をたもつから禅定を修めることができ、禅定を修めるから神通力を習得し、神通力を得るからあらゆる世界へ自由自在に行くことができるようになる。

このようなことを自力という。また、力のないものがロバに乗っても空へのぼることはできないが、転輪聖王にしたがって行けば、空にのぼってあらゆる世界へ行くのに何のさまたげもない。このようなことを他力というのである。
自力にとらわれるのは何と愚かなことであろう。後の世に道を学ぶものよ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはならない。

万行諸善の小路」=「自力」にとらわれることを愚かなことと仰り、「本願一実の大道」=「他力」に「乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし」なのです。ここでの「自力」は自力仏教、「他力」は他力仏教のことです。当たり前のことですが、「信心を生ず」の前に、「自力」の教えを捨てて「他力の乗ずべきを聞きて」になります。

愚かなるかな後の学者」と曇鸞大師が仰っているのは、「万行諸善の小路」=「自力」にとらわれている高森会長と会員のことです。

そして最期に、「みづから局分することなかれ」、と「万行諸善の小路」「自力」の教えにこだわることを厳しく誡めておられます。
親鸞聖人も同じことしか教えられていませんし、他の善知識方も同じです。法然上人の三選の文も、親鸞聖人の三願転入の文も、皆同じ意味です。

したがって高森会長の下記の言葉、

 ならばこそ、弥陀の本願から釈尊の説法、七高僧の教説は、悉く、方便と真実を比較して、説かれ、”方便より真実に入れよ”との、教えなのである。

は、正しいのです。もちろん、”ただちに方便を捨てて真実に入れよ”の意味で。

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2011年3月 4日 (金)

『歎異抄をひらく』には、高森会長の本心が著わされています

『歎異抄をひらく』は珍しく盗作ではないために、高森会長の本心が読み取れる貴重な著作です。
高森会長は、権仮方便について『歎異抄をひらく』の中で、後序以外にもう一箇所触れています。前回も述べましたが、後序の訳では「権仮方便」の註として

真実に導くために絶対必要なこと。

と書いていました。では高森会長は本気でこれを信じているのかといえば、どうもそうではなさそうです。
第2部の7 「念仏称えたら地獄か極楽か、まったく知らん」とおっしゃった親鸞聖人のところ では、以下の『浄土和讃』大経讃を引用しています。

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

この訳として、

念仏によって仏のさとりをひらく、これが真実の仏法である。それまで誘導する方便の教えが、他の仏教である。

としています。前半2行の訳としてはこれでよいでしょう。しかし、これだけです。後半2行の訳がありません。
なお、この「方便」の註としてやはり

真実まで導くために絶対必要な手段。

と書いています。
後半2行について、高森会長は、都合が悪いと思って削ったのか、本当に意味が判らなかったのかのどちらかですが、ここは前者でしょう。
後半2行の訳は、

真実の教えと、方便の教えとを区別しないで、
どうして阿弥陀如来の自然の浄土をよく知ることができようか。

です。会員に、念仏真実の教え)と万行諸善方便の教え)とを区別してもらっては、困ると思ったのでしょう。後半2行に触れると、正しい浄土往生の教えが知られてしまい、善の勧めが間違いと認識されるからです。

この御和讃の次が

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

(現代語訳)

聖道門、自力権仮方便の教えに、
衆生が久しい間止まっているため、自力によっては迷いを出ることができない。
それで、諸々の迷いの世界を生死流転する身となっている。
聖道自力を捨てて、早く弥陀本願一乗に帰順したてまつれ。

です。権仮方便の聖道門は捨てものなのです。同様に、権仮方便の19願も捨てものです。聖道門は捨ててもらわなければ親鸞会に留まってもらえませんので、聖道門は捨てよですが、19願を捨ててもらっては金集め人集めの口実がなくなるから、19願はせよなのです。
なお、浄土門に入るには聖道門を捨てなければなりません。当然ながら、獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。19願も同じです。獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。信一念の時にはじめて、権仮方便と知らされるのではありません。当たり前のことです。

高森会長は、本当は判っているのです。親鸞聖人の教えに善の勧めがないことを。
しかし、今更善の勧めの誤りを認めることもできませんし、何よりも教団の維持と私利私欲を満たす手段を失うことだけは避けたいだけなのです。どんなに親鸞聖人の教えをねじ曲げようが、会員がどれほど苦しもうが、たとえ地獄に堕ちようがそんなことはお構いなしです。

高森会長は、姑息な手段を使ってでも名利を満たすことしか考えていないことがよく判ります。もし違うと反論するならば、『歎異抄をひらく』の権仮方便についての見解をはっきり説明すればいいのです。

かつて退会者と会員との議論は、高森会長が善知識かどうか、正しい教えを説いているかどうか、でした。しかし今や、高森会長に人間性があるのかどうかのレベルです。教えの間違いは明々白々ですし、高森会長のやっていることも自分の利害のことだけですから、会員は何事においても議論には応じようとしません。高森先生信心が崩れてしまうからです。

会員は、親鸞聖人が『教行信証』総序

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。

と仰っている御心を、自分のこととしてよくよく考えてみて欲しいと思います。

親鸞聖人は20年間の比叡山での御修行を捨てられました。現会員も長年の親鸞会での理不尽な難行を捨てられることを、退会者は願っています。

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2011年3月 3日 (木)

『歎異抄をひらく』の自己矛盾

権仮方便については『歎異抄』の中でも、判りやすく書かれています。

『歎異抄』後序

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。

(現代語訳)

聖教というものには、真実の教えと方便の教えとがまざりあっているのです。方便の教えは捨てて用いず、真実の教えをいただくことこそが、親鸞聖人のおこころなのです。くれぐれも注意して、決して聖教を読み誤ることがあってはなりません。

これだけはっきり書かれてあれば、解説が要らないでしょう。
さて高森会長の『歎異抄をひらく』ではここの部分を以下のように訳しています。

 だいたい聖教には、真実がそのまま説かれているものと、その真実へ誘導する権仮方便が混在しているものである。
 ゆえに聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。
 だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。
 くれぐれも注意に注意を重ねて、お聖教の真意を取りあやまってはならない。

更に「権仮方便」の註として、

真実に導くために絶対必要なこと。

とあります。どうですか?
賢明な皆さんなら、気が付かれたと思います。
権仮方便」は絶対必要なものである筈なのに、

聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。

としています。高森会長は一体どんな思考をしているのでしょうか?
絶対に必要ならば、「方便を取り、仮について」でなければなりません。「方便を捨てて、仮を離れて」では、必要ではないという意味です。不要だから「方便を捨てて、仮を離れて」なのです。
こんな幼稚なことを一々説明しなければならないのでしょうか?

多分言い訳として、

獲信するときには、「方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につく」ということだ。それまでは絶対に必要なのだ。

と言うでしょうが、自分の文章をよく読んでみなさいと言いたいです。
聖教を拝読するときには」と書いているでしょう。「聖教を拝読するとき」は当然獲信の前です。
親鸞会的に言うならば、求道の過程で、権仮方便は捨てて離れるのです。求道の過程で「聖教を拝読」し、真仮を見極めていくのですから、信の一念のときまで、真仮が判らないというのも嘘、と自分で言っているではないですか。

高森会長は、何を書いているのか自分でも判っていないのでしょう。読んでいる会員は、訳が判らず、会長の深い御心と思考停止するより仕方がありません。

『歎異抄をひらく』は、講師部員、特専部員、弘宣部員を集めて会合を重ねて、でき上がったものと聞いています。会合の参加者も、皆思考停止の面々なのでしょう。こんな自己矛盾にも気が付かないとは、おめでたい限りです。

だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。
くれぐれも注意に注意を重ねて、お聖教の真意を取りあやまってはならない。

と訳していますが、これは高森会長そのものです。自分のことは、本当に判らないものですね。
根拠もなければ、理論も首尾一貫してない。実にお粗末です。
高森会長は、伊藤師、大沼師の書かれてていないことを書くと、途端にレベルが下がります。

『歎異抄』は化土往生するものがいることを歎いて書かれたものですが、肝心の化土往生について『歎異抄をひらく』では一言も触れていないことは前にも述べましたし、以下にも書かれています。

「親鸞会教義の誤り」
一切衆生は必堕無間なのか11(化土往生について)

第2章のところも、『執持鈔』と比較してみれば、高森会長の勝手な解釈が浮き彫りになります。これも以前に述べています。

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

はっきりいえば、『歎異抄』の意図を無視しているのが、『歎異抄をひらく』です。

こんな中身のない妄想の書を会員に大量に買わせて、”ベストセラー”を装っていますが、それはどこかの教祖と同じです。

このお粗末な『歎異抄をひらく』に対する反論書が出てない、と親鸞会では大喜びですが、まともな学者は相手にする気持ちなど最初からありません。幼稚な書に対して、反論書など誰が書こうと思いますか?

そんな中、退会者が幼稚な思考の人物の相手をしてくれていますので、大いに感謝してほしいものです。

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2011年3月 1日 (火)

みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!

「善巧」と「権仮」を知らざるによりて迷宮に入る、と言いたくなりました。

というコメントを頂きました。高森会長と会員についての的を射た名言だと思います。
高森会長は、「従仮入真」を「仮よりしか真に入れず」と読み、「方便よりしか真実に入れない」としています。もちろん出鱈目で、いくつかのブログでも論破されていますが、何も知らない会員はころっと騙されてしまいます。現会員だけではなく、退会した後も、これは正しいと思っている人もいるくらいですから、巧妙な詭弁といえるでしょう。

しかし、これまで述べてきましたように、高森会長は方便も真実も全く判っていないため、言葉遊びをして、好き勝手なことを言っているに過ぎません。

聖道門も方便であることは、前回も紹介した通りですが、それならば聖道門を通らずしては救われないということになります。
化土も方便ですが、化土を通らずしては報土往生できないということになるでしょう。

もっと極端な例を出せば、『御文章』2帖目第10通には

それ一切の神も仏と申すも、いまこのうるところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、もろもろの神・もろもろのほとけとあらはれたまふいはれなればなり。

とあります。また3帖目第10通にも

一切の神明と申すは、本地は仏・菩薩の変化にてましませども、この界の衆生をみるに、仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、神明の方便に、仮に神とあらはれて、衆生に縁をむすびて、そのちからをもつてたよりとして、つひに仏法にすすめいれんがためなり。

と蓮如上人が仰っているように、諸仏・諸神も方便ですから、諸仏・諸神を礼拝、称名、讃嘆、供養せずしては阿弥陀仏一仏になれないということになってしまいます。

もちろん真宗がそんな教えである筈がありません。
高森会長の理論は、都合のよい19願諸善のみが”特別の方便”としたいのでしょうが、そんな理屈は通用しません。どれだけ詭弁を弄しても、19願諸善は権仮方便でしかありません。

親鸞聖人は『一念多念証文』で、

「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と仰っています。「余の善」と「余の仏」とは同格です。

蓮如上人も『御文章』2帖目第9通で、

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。

と教えられていますように、「一切の諸神・諸仏・菩薩」と「万善万行」とは同格です。
諸善に向うことも、諸神・諸仏・菩薩に向うことも共に”雑行”です。諸神・諸仏・菩薩は、親鸞会でも最初に捨てよと教えていますが、獲信のために諸善をせよ、といいます。

雑行は獲信の一念で捨てさせられるのならば、諸神・諸仏・菩薩も獲信までは捨てることができず、五雑行が問題になっていない会員には、問題になるまで五雑行を勧めねば筋が通りません。

寝ているものに転んだということがないように、五雑行をしていない者に、五雑行を捨てたということはありません。

とは絶対に言いませんが、おかしいですよね。仏教では、阿弥陀仏以外の諸仏に礼拝、称名、讃嘆、供養することも勧められていますので、諸善万行だけを獲信と関係付ける理由が見当たりません。

高森会長の言っていることは、根拠が全くないのに強引な超論理で説明して、それを断言することで説得力を出そうとしているのです。

高森会長は最近、講師部員に以下のような御指導をしているそうです。

みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!

根拠の無いことを断言して他人を騙すのは、カルトや悪徳商法の常套手段です。
そんなことをしなければ、もはや会員を繋ぎとめておくことは無理と判断したのでしょう。

今後は、更に酷い教えが展開されるものと思われます。反社会的行為がエスカレートして、マスコミに大々的に取り上げられる日も近いかもしれません。

しかしその時が親鸞会の最期でしょう。

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