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2011年2月16日 (水)

布施の功徳

宿善だの、19願で誓われているだの、釈尊が布施の功徳を説かれているだの、と言いくるめられて、親鸞会にお金を出していることにどんな意味があるのか、会員さんは真面目に考えてみたことがあるでしょうか?

布施を正しい相手に、正しく行えばそれなりの功徳はあるでしょう。しかし、それが報土往生とは関係がないと法然上人がはっきり仰ったがために、聖道門から猛反発があったのです。そして、法然上人の仰ったことの正しさを証明されたのが親鸞聖人です。
この歴史的な事実を知るだけでも、布施と報土往生とを関連付けて教えることが、法然上人、親鸞聖人の教えに真っ向から歯向かっていると御判り頂けると思います。

このことを最も端的に教えられたのが、こんにちは氏が引用されていた『選択本願念仏集』の以下の部分です。

また『往生要集』に、「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。ゆゑに法照禅師の『五会法事讃』にいはく、
「かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へに来らん。
貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、
多聞にして浄戒を持つを簡ばず、破戒にして罪根の深きをも簡ばず。
ただ心を回して多く念仏せば、よく瓦礫をして変じて金となさしめん」と。

(現代語訳)

また《往生要集》に、

問うていう。すべての善業にはそれぞれ利益があり、いずれも往生することができるのに、どういうわけで、ただ念仏の一門だけを勧めるのか。
答えていう。いま念仏を勧めることは、その他の種々のすぐれた行をさえぎるのではない。ただ男でも女でも、身分の高いものでも低いものでも、行住座臥の区別なく、時・処やいろいろの場合を論ぜず、これを修めるのにむずかしくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏に及ぶものはないからである。

といわれている。故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。そういうわけであるから、すべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者は甚だ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者は甚だ多い。もし、多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者は甚だ多い。もし、戒律を持たもつことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者は甚だ多い。そのほかの諸行はこれに準じて知るべきである。故に、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。そういうわけであるから、弥陀如来は法蔵比丘の昔に平等の慈悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。故に法照禅師の《五会法事讃》にいわれてある。

かの仏は因位のとき弘い誓いを立てられた 「名を聞いて我を念ずる者をすべて迎えとろう」と
貧富や汽船をえらぶことなく 知識や才能の高下をえらばず
博学多聞の者も浄らかに戒をたもつ者も 戒を破った者も罪深い者もえらばず
ただ信を得てよく念仏すれば 瓦や小石のようなものも黄金とするのである

この法然上人の御言葉を聖覚法印は『唯信鈔』で簡潔にまとめて教えられています。

これによりて往生極楽の別因を定めんとするに、一切の行みなたやすからず。孝養父母をとらんとすれば、不孝のものは生るべからず。読誦大乗をもちゐんとすれば、文句をしらざるものはのぞみがたし。
布施・持戒を因と定めんとすれば、慳貪・破戒のともがらはもれなんとす。忍辱・精進を業とせんとすれば、瞋恚・懈怠のたぐひはすてられぬべし。余の一切の行、みなまたかくのごとし。
これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、
(中略)
さてつぎに、第十八に念仏往生の願をおこして、十念のものをもみちびかんとのたまへり。まことにつらつらこれをおもふに、この願はなはだ弘深なり。名号はわづかに三字なれば、盤特がともがらなりともたもちやすく、これをとなふるに、行住座臥をえらばず、時処諸縁をきらはず、在家出家、若男若女、老少、善悪の人をもわかず、なに人かこれにもれん。

「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)
このこころか。これを念仏往生とす。

もちろん親鸞聖人も『唯信鈔文意』で、『五会法事讃』を通して同じことを教えられています。
布施のできる人しか救われないのであれば、布施のできない人は救いから洩れます。従って、全ての人を洩れなく救うためには、誰でもできる易行でなけれならないのです。それが念仏です。

報土往生と布施とは関係がないことを踏まえた上で、ダムを造ったり巨大な弁当屋を造ることが、万が一多くの人の幸せに貢献するのであれば、その建設資金を喜捨するのもよいでしょう。仮に、高森会長が正しい教えを説いているとして会長個人の施設建設の資金を喜捨したいというのであれば、したい人はすればいいでしょう。

しかし、ダムも弁当屋も多くの人を幸せにするとは考えにくく、ましてや会員に秘密で高森会長専用の施設を造り続けながら集められる行為が正しい布施にはなる筈もありません。しかも往生・獲信と関連付けて強要されていますので、もっての外のことです。

会員さんが出された浄財は、往生・獲信の妨げにしかならず、”相対の幸福”を獲るための功徳にさえなりませんので、会員さんは今生、来生ともに苦しみの中でもがき続けなければならないのです。

悲劇としか言い様がありません。

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コメント

 「会長専用の施設」など、高岡に本部があった頃の地面に穴を掘ってトタン板で囲っただけの簡易トイレで充分です。

投稿: 立山そばファン | 2011年2月17日 (木) 21時17分

どっかの「供養がどうの」「信後の行がどうの」言ってる人にも、よくよく読んでいただきたい記事です。

投稿: ハルトマン | 2011年2月17日 (木) 23時33分

高岡会館で思い出しました。かつて報恩講の際には「報恩講に信をとれ」の横断幕が張られていました。勇ましい言葉を好んで使う親鸞会ではありますが、もうこういった言葉はお役御免になった感がありますね。

投稿: 広島の名無し | 2011年2月18日 (金) 03時13分

立山そばファン 様

そこまでは言いませんが。


ハルトマン 様

皆さんに読んで頂きたいですね。


広島の名無し 様

信よりも善が優先ですから、「報恩講で善を積め」が会長、会員の本音でしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年2月18日 (金) 22時10分

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