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2011年2月 2日 (水)

五劫思惟の願

前回の2000畳座談会の内容について、またコメントを頂きました。
19願を疑う心を疑情とか、五劫思惟の願を19願というなど、どれだけ教えを捻じ曲げれば気が済むのでしょうか。19願だけのことを言っているのではないと言い訳もしていたようですが、おかしいことに違いありません。この件は、

「安心問答」
親鸞会が五劫思惟の願が19願だというたった一つの理由

でも取り上げられていました。

私が会にいた時には、そんなことは聞いたことがありませんでした。とにかく19願を全面に出して、善という名目の金集めに必死な様子が伺えます。財政的に逼迫していることがよく判ります。

法然上人は『選択本願念仏集』の本願章の中で、18願についてのみ仰った上で、『大無量寿経』から阿弥陀仏の五劫思惟の御文を引用されています。

親鸞聖人も『正像末和讃』で、

超世無上に摂取し
 選択五劫思惟して
 光明・寿命の誓願を
 大悲の本としたまへり

と、「選択五劫思惟」と仰っていますので、18願のことです。

『口伝鈔』には親鸞聖人のお言葉として

かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。

とありまして、親鸞聖人は悪人正機の願である18願のこととしてしか仰っていません。19願は善人正機の願です。このことは

「指を看て月を視ざるや」のM講師

のところでも書きました。
また『安心決定鈔』にも

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。(中略)かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。

と「五劫兆載の願行」は18願のことを指して言われています。

蓮如上人は『御文章』3帖目第2通

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。

と仰っています。もちろん18願のことです。

当たり前過ぎて、解説するのも馬鹿らしいことです。
阿弥陀仏の御苦労は、善のできない極重の悪人でも善悪関係なく救うためのものです。十方衆生洩れなく救うための御苦労を、善のできる善人を救うための御苦労にすり替えてしまっては、『歎異抄』後序

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

も軽くなってしまいます。

これでは、

19願も阿弥陀仏が建てられた本願のうちの1つではないのか

という反論が当然あるでしょう。その反論は、聖道門の学僧が法然上人を激しく非難した内容なのです。

承元の法難の直接的な切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とあり、18願だけと仰った法然上人は間違っていると攻撃しました。高森会長は、浄土門の怨敵なのです。

親鸞聖人は、19願は聖道門の人を浄土門に誘引する願と教えられました。もちろん、これは親鸞聖人が考え出されたことではなくて、善導大師、法然上人の解釈を承けられてのことです。

しかし19願に留まったままでは、阿弥陀仏の本意に反しますので、18願1つを願い求めよと歴代の善知識方は異口同音に仰っているのです。
18願を随自意の願と言い、19願・20願を随他意の願と言います。
19願・20願は阿弥陀仏の本意ではありませんが、自力に拘る人がいますので、それらの人に応じて建てられた願ということです。
ここまで教えられても19願・20願に拘っている人がありますので、その人は化土往生させるというのが、19願・20願です。
真実の行信により真実の報土往生を遂げさせて頂けますが、方便の行信によっては方便化土往生という利益になるのです。

いわば、18願での往生を願うことを拒否して19願・20願の方便願を願う人でも、それなりの利益を与えて下されるのが、阿弥陀仏のお慈悲なのです。そのことを『御消息』

仏恩のふかきことは、懈慢・辺地に往生し、疑城・胎宮に往生するだにも、弥陀の御ちかひのなかに、第十九・第二十の願の御あはれみにてこそ、不可思議のたのしみにあふことにて候へ。仏恩のふかきこと、そのきはもなし。

と仰っておられるのです。

聖道門的な本末転倒思考では、浄土真宗など理解できる筈もなく、いつまでも金集め人集めのための外道教義を説き続けることでしょう。

会長も会員も哀れなものです。

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コメント

さらに財政難に陥ればそのうち、、
「選択の本願とは19願のこと」
とか言いそうですね。

投稿: YGM | 2011年2月 3日 (木) 16時15分

YGM 様

ここまできたら何でもありでしょうね。
釈尊がこの世にお生れになられた目的は、ただ一つ阿弥陀仏の19願を説かれるためであった

も言いそうです。

釈尊一生涯説かれたことの99%は善の勧めだ

とすでに言っていますから、可能性はありますよ。

投稿: 飛雲 | 2011年2月 3日 (木) 19時19分

飛雲様

もうすでにそれに近いことを言っていますよ。
「浄土真宗親鸞会 射水市周辺地区の紹介」切れ味鋭い断言
http://blog.goo.ne.jp/fujita_srk/e/fd3dac3d5e7f2dd505d3faee3f60a937
では以下のように書かれています。

『八万四千の法門』とは、お釈迦様一代の教えのことです。お釈迦様が生涯教えられたことは、一切経として書き残されており、その数七千冊以上にのぼる膨大な数です。

釈迦一代の教えとは、一切経に書き残されていることは、仏教とは、何を教えられたものなのか。

親鸞聖人はズバリ一言で断言されています。

それは「浄土方便の善なり」

「浄土」とは、「阿弥陀仏」のことです。親鸞聖人は阿弥陀仏を、よく「浄土」とは「安養」と仰います。

仏教とは、弥陀の方便の善一つを教えられたものだ。

こんな短いお言葉で、七千余巻の一切経に教えられていることを喝破されています。

一切経を何度も読み破り、正確に理解した方でなければ、こんなに切れ味鋭く、断言できることではありませんね☆

(引用ここまで)

以前は、
「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」について、
『七千余巻の一切経に教えられていること一言で教えられている。
仏教とは、弥陀の本願一つを教えられたもの。
一切経を何度も読み破り、正確に理解した方でなければ、断言できることではない。
弥陀の本願一つ聞けば、仏教を全て聞いたことになる』
と説いていたのに、「弥陀の本願」が「弥陀の方便の善」にかわってしまっています。

こんなことを聞いて、疑問に思わないどころか、ブログにまで書けるのが私には理解できません。
「高森先生信心」のなせる業でしょう。

投稿: いつもの元会員 | 2011年2月 3日 (木) 21時26分

いつもの元会員 様

教えて頂き、有難うございました。
私の想像を越えていましたね。
「鰯の頭も信心から」
といいますから、
「高森の邪義も信心から」
なのでしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年2月 3日 (木) 23時01分

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