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2011年2月 9日 (水)

自称獲信者との論争 続編

『一念多念証文』「八万四千の法門」のお言葉は、私が親鸞会に在籍していた時には高森会長から全く聞いたことがありませんでした。最近になって突如頻繁に引用され始めたものです。

これは高森会長もしくは教学課が自分達で調べたのではなく、親鸞会を批判するブログを読んで、親鸞会に都合よく解釈できると思って、断章取義し、解釈を歪曲したと考えられます。

「元会員から見た浄土真宗親鸞会」
突然使われるようになる根拠の背景を推測する

しかし『教行信証』を正しく理解していれば、誤解する筈のない御文です。前々回にも説明した通りです。

さて以前に、自称獲信者との論争について書きましたが、その自称獲信者なおたん氏が、高森会長から聞いた『一念多念証文』の解釈を、最近になってmixi上に自信満々に書いていました。

mixi ★親鸞聖人★コミュニティ
善知識について

私は、先日、親鸞聖人の一念多念証文から、お釈迦様45年間、諸善をすすめておられたのだという事を学ばせていただきました。

その理由を如是我聞。書かせていただきます。

凡そ八万四千の法門(凡そ釈迦45年間の仏教)は、
みな是れ浄土(=阿弥陀仏)の方便の善なり、
これを「要門」といふ、これを「仮門」と名づけたり。
この要門・仮門といふは、即ち『無量寿仏観経(観無量寿経)』一部に説きたまへる定善・散善是れなり。
定善は、十三観なり、散善は、三福九品の諸善なり。
これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門よりもろもろの衆生をすすめこしらえて・本願一乗・円融無碍・真実功徳(名号のこと)大宝海に教え勧め入れたまうが故に、
よろずの自力の善業をば「方便の門」と申すなり。

          (親鸞聖人~一念多念証文より)(真宗聖典P・609)

これを読ませていただくと、自力の善業は、「方便の門」とあります。

方便=真実に導くために、必要の要、必ず通らなければならない道程の事です。

この要門、仮門より、本願一乗・円融・無碍・真実功徳(名号)大宝海に教え勧め入れたまうと、釈尊は、極めて分かりやすく、善をすすめておらます。

自力の心で、善をさせていただくから、それを雑行といい、自力の心で、朝晩の勤行をやるから、それを雑修といって嫌われます。

蓮如上人が、雑行を捨てよと言われたのは、善をやるな!と言われたのではなく、自力の心でやる善だから、心掛けが悪い、その自力の心を捨てよと言われたのです。

捨自帰他です。自力を捨てて、他力に帰せよと言われただけで、善をやるなと言われたのではありません。

一念多念証文から、以下のご和讃を読解してわかったことは。。。

諸善万行ことごとく 至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の 善とならぬはなかりけり
(浄土和讃~親鸞聖人)

これも、親鸞聖人が、阿弥陀仏の19願について教えられたご和讃です。

諸善万行(もろもろの善)は、至心発願せるゆえに(阿弥陀仏の19願でやりなさいと勧められているように)
往生浄土の方便の善とならぬはなかりけり(阿弥陀仏に救われるために、必要な善とならないものは、ひとつもない)

阿弥陀仏に向かってやる諸善万行は、すべて、往生浄土の方便の善となるのだと、
ここでも親鸞聖人は、阿弥陀仏の本願19願から、仏教の善の勧めの教えが
出てきているのだとおしえておられます。

悪を止めよというのならわかります。阿弥陀仏の19願は、廃悪修善の教えですから。。以上です。

もちろん、すぐに論破されています。全部紹介すると相当に長くなりますので、EMS氏のまとめの部分だけ紹介しておきます。

難しい御文を理解できない人のために簡単にまとめると、

親鸞聖人は、万行諸善を聖道門の人を浄土門に導き入れるための方便の善だとされ、それは善導大師の深心釈を根拠にされています。

深心釈とは、二種深信に代表される七深信を明らかにされたもの、真実信心そのものです。この七深信の第三深信が、先程の御文ですが、善導大師、法然上人、親鸞聖人も同じく、万行諸善は聖道門から浄土門へ誘引するためのものであった、と深信させられたと仰っています。

しかし、浄土門に入ったならば、18願で救われるにはもう不要のものですから、浄土門に入った人は、諸善や19願に心をかけずに、念仏1つに向いなさい、というのが、「一向専念無量寿仏」です。諸善と念仏両方は「一向」ではありません。もちろん諸善だけ、は問題外です。念仏1つにならなければ、報土往生はできません。平生に獲信することもありません。もちろんこの念仏は他力念仏のことです。

念仏を勧めずに、諸善を勧める人を善知識とはいいません。蓮如上人も仰っている通りです。

なおたん氏が高森邪義を延々と説明しても、それは根拠のないことであるどころか、それを完全に否定された根拠しかないことも知らないのです。

これに対して、なおたん氏は

いろんな仏教観があるものだなというのが、正直な感想です。

はじめから、聖道門⇒浄土門へ導くのが、浄土方便の善であるというのが、
EMSさんの解釈だと理解いたしました。

私が、先に、書きました一念多念証文の解釈の仕方は、聖道門の人だけを対象として、浄土門に導くための、方便の善だという解釈ではありません。

なぜなら、19願は、設我得仏 十方衆生とありますように、十方衆生相手の本願だからです。これによって、

浄土の方便の善=阿弥陀仏の方便願の19願で勧められている諸善万行という解釈となり

すべての人(十方衆生)を導く阿弥陀仏の19願の方便の善として、釈迦は、
八万四千の法門を説かれたのだと、親鸞聖人が、説明して下されているのです。

これでも、読解力の問題だと言われるのなら、仕方ありませんね。

ここで、始めから、お互いに、解釈の仕方が、異なっているのを承知の上で、書いていますから。。。

そして、どれを選択するのかは、その人の自由です。

それに、私は、はじめから『念仏を全く称えないで、諸善万行だけを勧めている』と、大きな誤解をされていたようです。

そうではありません。

南無阿弥陀仏(ご名号)に向かって、合掌礼拝して、念仏も称えますし、勤行もしています。そして、日常生活は、諸善万行をさせていただくように心がけています。

今日は、五重の義を拝読いたしました。

阿弥陀仏に救われるには、、

1には、宿善、2には、善知識 3つには、光明 4つには、信心 5つには、名号、この五重の義成就せずば、往生は叶うべからす。

とあります。

浄土の方便の善=宿善とこうへいさんが言われたのは、
これを根拠として言われているのではないでしょうか??

されば、善知識というは、「阿弥陀仏に帰命せよ」と言へる使いなり。宿善開発して善知識にあわずば、往生は叶うべからざるなり。

宿善開発して、この自力の心が、すたった時が、たのむ一念。
そのときに、阿弥陀仏から、まことの信心を賜りますから、仏恩報謝の念仏を称える身になるのだという事を蓮如上人は、御自分の体験から

領解文には、

もろもろの雑行・雑修・自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、
我等が今度の一大事の後生、御助け候らへとたのみ申して候。

たのむ一念のとき、往生一定御助け治定とぞんじ、このうえの称名は、御恩報謝と存じよろこびもうし候。』と述べておられます。

領解文とは、阿弥陀仏に救われた、体験文です。

阿弥陀仏に救われるとこのようになるのだと学ばせてただきました。以上です。

と反論してきましたが、すでに三願転入のトピックでこうへい氏が完敗して逃走した内容ですので、それをEMS氏が繰り返し説明します。

これも長いので省略しますが、当時の内容をまとめたものは、

[mixi]三願転入議論の解説1
[mixi]三願転入議論の解説2
[mixi]三願転入議論の解説3

[mixi]三願転入議論の解説4
[mixi]三願転入議論の解説5
[mixi]三願転入議論の解説6
[mixi]三願転入議論の解説7
「定散諸機」とは

です。
なおたん氏も一度は読んでいる筈なのですが、親鸞会脳になっていますので、理解できないのでしょう。

問答形式でもまとめておきました。

会員との問答(19願、諸善について)
会員との問答(方便について)
会員との問答(宿善について)
会員との問答(十方衆生について)

このあたりのことが理解できれば、高森会長が如何にお粗末な解釈をしているかが判ると思います。

最後になおたん氏は

長々と、御説明くださり、有難うございました。

残念な事に、どう読ませていただいても、EMSさんの独特な解釈の意味を綴られているとしか、私には、受け取れませんでした。

高森先生のお話しの方が、私の機に合っているように感じました。

今後も、浄土真宗親鸞会の高森先生のお話しを聞かせていただこうと思います。
失礼いたします。

と書いて、やはり逃亡しています。解釈の反論ができなかったこうへい氏が、頻繁に言っていた

解釈が異なる

と同様の言い訳です。解釈が異なっているなら、どこが間違っているのか説明すればいいのですが、その説明は全くできません。なぜなら、自分が間違った解釈をしていると気が付いているからです。

こうへう氏は、なおたん氏に加勢することなく、議論はあっけなく終了となっています。
EMS氏は現会員のために述べています。

無宿善の機には、話をしても阿弥陀仏の18願は理解できませんので、仕方がないです。

息子さんから古語の読み方を習われてから、再度読み返してください。

この意味もおわかりにならないと思いますが、他の方のために法然上人の御言葉を紹介しておきます。

『勅伝』

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

自分のことを悪人と思うのであれば、悪人に勧められた念仏1つと定めていけば、信心決定し、往生できるのです。善人に勧められた善を自分の往生と関係付けては信心決定できず、往生も叶いません。

善知識方が正しい解釈を示されて、それを受け継いでこられたのに、不勉強の上自分勝手な解釈をしていると往生できない、と法然上人も親鸞会を非難されています。

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