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2011年2月11日 (金)

諸久堕の三難とは弥陀を疑う心?????

先日の2000畳法話の内容について、コメントを頂きました。これも傑作です。

先日の2000畳の法話で龍樹菩薩の話があったのですが、

諸久堕の三難とは弥陀を疑う心なのでしょうか?

軟心の菩薩が諸久堕の三難に苦しんだという話が出てきて、これは横の線(弥陀の救い)を進んで行くと
必ず出てくるのだと説明がありました。

ちなみに
正確ではないですが「諸久堕の三難」についてはこのような説明がありました。
本当にこんな内容なのでしょうか?

諸―煩悩が邪魔になって進めない。こんな心が出てきては救われないのではなかろうかという心
  しかし煩悩具足と見抜いて救うを約束されているのが阿弥陀仏だから、それは阿弥陀仏を疑う心。
久―どれだけ聞けばハッキリするのか?安心・満足するのか?という心
堕―堕ちるのではなかろうかという心

最初は聖道門を求めている軟心の菩薩に龍樹菩薩が「仏道を求むるのは大宇宙を持ち上げるよりも重い」と
叱ったという話をしていたと思っていたのですが、その軟心の菩薩が苦しんでいたのは「諸久堕の三難」だ
と言い出し、それは阿弥陀仏を疑う心だと説明があったと思います。

聖道門を求めているなら、弥陀を疑う心は出てこないと思うのですが
いつの間にか軟心の菩薩が本願を疑う心で前に進めず苦しんでいることになっていて…。

“諸久堕の三難という弥陀を疑う心”で悩んでいた軟心の菩薩が龍樹菩薩に「仏道を求むるのは大宇宙を
持ち上げるよりも重い」と叱られたという話になると浄土門を求めている人にそのように叱るということ
になり、おかしい話になるとおもうのですが、みんな疑問も持たず聞いているようでした。

解釈が正しいかどうかという以前に、話している論理に一貫性がないと思うのですが、だ~れも疑問に
思わないのですねぇ。自分もそうでしたけど、ほんとに情けないですねぇ。

「諸久堕の三難」もそうですが、これまで使わなかった言葉を使うことが多いような気がします。
会長から発せられる言葉に間違いがないと思っていますから、説明が正しいかなんて疑問も持たずに、
初めて聞いて知識欲が満たされて喜んでいる人ばかりなんでしょうけど。

無知とは恐ろしいもので、こんな明らかな間違いを堂々と説いているのですからね。
諸久堕の三難」とは、龍樹菩薩の書かれた『十住毘婆沙論』「易行品」にあります。

問ひていはく、この阿惟越致の菩薩の初事は先に説くがごとし。阿惟越致地に至るには、もろもろの難行を行じ、久しくしてすなはち得べし。 あるいは声聞・辟支仏地に堕す。もししからばこれ大衰患なり。
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、なんぢが所説のごときは、これ儜弱怯劣にして大心あることなし。これ丈夫志幹の言にあらず。なにをもつてのゆゑに。もし人願を発して阿耨多羅三藐三菩提を求めんと欲して、いまだ阿惟越致を得ずは、その中間において身命を惜しまず、昼夜精進して頭燃を救ふがごとくすべし。
(中略)
大乗を行ずるものには、仏かくのごとく説きたまへり。「願を発して仏道を求むるは三千大千世界を挙ぐるよりも重し」と。なんぢ、阿惟越致地はこの法はなはだ難し。久しくしてすなはち得べし。もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

(現代語訳)

問うていう。この不退の菩薩が初地に入るまでの修行のありさまは、さきに説いた通りである。不退の位に至るについては、多くの難行を行じ、久しい間かかってようやくこれを得ることができるので、あるいは声聞・縁覚の地位に退堕することがある。もしそうなれば、これは大きな損失であり、災患である。
(中略)
こういうわけであるから、もし諸仏の説きたもう中に、易行道ですみやかに不退の地位に至ることのできる方法があるならば、どうか、わたしのためにこれを説かれよ。

答えていう。そなたのいうようなことは、根機の劣った弱い者のいうことで大きな志ではなく、これは雄々しく堅固な志を持つ者のことばではない。なぜかというと、もし人が願いを起こし無上仏果を求めようと欲して、まだ不退の位を得ないならば、その間は身命を惜しまず昼夜精進して、頭に付いた火を払い消すようにせねばならぬ。
(中略)
大乗を行ずる者には、仏は次のように説かれてある。「発願して仏果を求めることは三千大千世界をもち挙げるよりも重い」と。そなたが不退の位を得る法は甚だむずかしく、久しい間かかってようやく得ることができる。もしすみやかに不退の位に至ることのできる易行の道があろうかというならば、これはすなわち根機の劣った弱い者の言葉で、すぐれた人、堅固な志を持つ者のいうことではない。
しかしながら、そなたが、もし必ずこの方法を聞きたいと思うならば、今まさにこれを説くであろう。

過去にも紹介してきた御文です。

諸=「もろもろの難行を行じ
久=「久しくしてすなはち得べし
堕=「あるいは声聞・辟支仏地に堕す

これが「諸久堕の三難」で、難行道、つまり聖道門についての話であって、易行道、浄土門のことを仰っているのでないことは、『十住毘婆沙論』を読めば明らかなことです。もちろん「諸久堕の三難」とは弥陀を疑う心である筈がないです。

聖道門と浄土門との区別がついていないというよりも、すべて訳の判らない内容の話です。

難行道には「諸久堕の三難」があって、これを乗り越えなければなりませんが、我ら凡夫にはとても歩める道ではありません。そんな我ら凡夫に「諸久堕の三難」を離れた阿弥陀仏の18願を龍樹菩薩は勧められているのです。

従って高森会長の話が如何に頓珍漢なものであるかお判り頂けると思います。

難行道と易行道の違いについて龍樹菩薩は続けて

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。

(現代語訳)

仏法には量り知れない多くの門戸がある。たとえば世間の道路に難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩いて行くのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。菩薩の道もまたそのようである。あるいはいろいろな行を積んで行くものもあり、あるいは信方便の易行をもって速やかに不退転の位に至るものもある。

無量の門」とは『一念多念証文』のお言葉でいえば、「八万四千の法門」のことです。様々な教えを釈尊は説かれましたが、難行に堪えられない者には、「陸道の歩行」ではなく「水道の乗船」「信方便易行」という18願が説かれて勧められているのです。
18願について説明された後、

阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。

(現代語訳)

阿弥陀仏の本願はこの通りである。「もし人あってわたしを念じて名を称え帰依すれば、そのとき必定に入って、ついに無上仏果を得る」と。こういうわけであるから常に憶念すべきである。

と18願1つを教え勧められています。難行道である聖道門は出てきますが、19願は出てきません。
そして難行道を歩まれた龍樹菩薩自身も「水道の乗船」「信方便易行」に帰依なされています。
結論として、龍樹菩薩は「水道の乗船」「信方便易行」を勧められているのであって、「水道の乗船」「信方便易行」に入るために、19願という道を通ることを教えられてはいません。

聖教を読めば読むほど、高森会長がどれほどヘンテコな教えを説いているかが明らかになるだけです。

ヘンテコ「諸久堕の三難」については、高森会長が自分で考えたとはとても思えませんので、大沼法竜師が味わいとしてどこかに書いたものを拝借しただけと思います。もし出典を御存知の方があれば、教えて頂きたいと思います。

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コメント

諸久堕の三難 ですか ???

「摂生の願」という言葉もパク森会長は使っています

【十八、十九、二十願を摂生の願という】

仏教辞典や仏教学辞典で調べてみましたがありません

なんだかね~ ていう感じです

も少し調べてみようと思います

投稿: 摂生の願 | 2011年2月12日 (土) 08時49分

摂生の願 様

このことはすでに「21世紀の浄土真宗を考える会」で取り上げられています。

ちょっと疑問に思っていたこと 三願について
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-89.html

もし、これ以上のことが判れば、教えていただけると有難いです。

投稿: 飛雲 | 2011年2月12日 (土) 10時02分

M野講師と思われる人物が、下記のところで親鸞会邪義を書いて、いつもように逃亡しています。
「ジャンヌ雑談用掲示板」
http://hpcgi1.nifty.com/you/bbs2/petit.cgi

御参考までに。

投稿: | 2011年2月12日 (土) 15時03分

浄土真宗に善のすすめはあるか? 誤解を恐れずに言えば「ない」でいいと思います。

高森会はこう言うと、「仏教に善のすすめがないはずがない、善のすすめがないのは仏教ではない」と反論しますが、最初にあえて「浄土真宗に」と限定しているのに、「仏教に」と質問の土台が広くなってしまっています。

単純化するために、

 「仏教」を「野球」に、
 「浄土真宗」を「三塁ランナー」に、
 「善のすすめ」を「一塁まで全力で走れ」

にしてみます。

「野球」には「一塁まで全力で走れ」という教えはもちろんあります。でも、「三塁ランナー」には「一塁まで全力で走れ」は必要ありません。ホームに向かって走ればいいだけです。

三塁(浄土真宗)まで達したならば、次のバッターの阿弥陀仏がホームランをかっとばしてくれて、、というとカッコいいですが、もっと他力のイメージに近いのは、阿弥陀仏がバッターとしたら、押し出しの四球を選んでくれて、のびのびホームインできるイメージでしょうか。弥陀の出塁率は10割で、100%四球を選んでくれるので、ランナーはのびのびホームインできるのです。

それなのに、三塁まで達したランナーに向かって、

「一塁まで全力疾走しろ」

と叱咤しているのが高森親鸞会、というおかしな図式が目に浮かんでしまいますね。

投稿: | 2011年2月13日 (日) 11時29分

先の名無し 様

エントリーで取り上げてみました。


後の名無し 様

おもしろい譬えですが、よく判ります。よく考えてみれば、おかしなことなのですが、言葉にとらわれると騙されてしまうのです。会員も思考を働かせて欲しいものです。

投稿: 飛雲 | 2011年2月13日 (日) 11時58分

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