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2011年2月13日 (日)

高森会長は本心では化土往生を認めている?

論争の情報を頂きました。「ジャンヌ雑談用掲示板」で、M野講師ではないと否定する人物が、他人のハンドルネームを使って、親鸞会邪義を書き続けましたが、退会者にすべて否定されて、珍説と妄想と負け惜しみの言葉を残して、逃亡しています。
下品(げひん)な書き込みが多いので、敢えて読まれる必要はないと思いますが、もし読まれるのであれば、最後から4分の1位、1月10日以降の分だけでいいです。

いつものように話がずらされたりしていますが、議論の中心は化土往生についてです。
これまでに、当ブログでも何度も何度も取り上げてきた内容ですし、昨年化土往生について3人の講師部員と法論がありましたが、3人共逃亡しています。
ただ今回、興味深い部分がありますので、少しだけ説明しておきます。

M野講師ではないと否定する人物は、真宗は0点か100点しかないとか、御和讃に「雑修の人をきらうには万不一生とのべたもう」とあるから、化土往生は誰もできないと主張していました。
共に間違いですが、これを読んで元講師部員のS氏が書かれた「私の白道」の以下の記述を思い出しました。

・教学問題真宗学4号問49

今は教学聖典ですが、以前は教学問題と言われました。

(問)真宗は0点か100点かの二通りしかないことを教えられた和讃を一首かけ

(答)専修の人をほむるには千無一失とおしえたり
   雑修の人をきらうには万不一生とのべたもう

  (高僧和讃)

 この問題は教学聖典から無くなっています。
 削ってもいい内容でしょうか。
 0点か100点それ以外の人は無いという話でしたがこの問題は何か都合が悪くなったのでしょうか。
 化土へ行く人は0点とは言えないからでないでしょうか。

・まだ「信前の会員でも、私の法話を聞き、参詣、財施、顕正の諸善、活動に頑張っている人は皆、化土往生です」と正式に言われません。
 しかし25年前、高速道路を逆走行してトラックと正面衝突し即死した、細川、松田両講師の死に対して高森先生は「私は二人の後生は心配していない。臨終に観音菩薩の説法にあったと思う」と言われた。
 細川講師は過労のあまり、福井県のパーキングで仮眠し、寝ぼけて、来た道を戻って逆走行したのだ。
 松田講師は助手席で寝ていて即死した。こんな状態で観音菩薩の説法にあえるのか、当時おかしいと思ったが、親しい友だから、そうであって欲しいという感情が入り、何となく納得してしまった。本当ですか、と高森先生に聞く講師はいなかった。
 先生がそう言われるのだから、と思ったもです。
 善知識高森先生に絶対間違いはないのですから。
 私らに分かるはずがないのですから、と思ってしまった。

・昨年の香港御法話でも、真剣に求めている人は観音菩薩の説法にあえると言われたとか。感動した会員さんが、手紙に書いて来た。
 根拠がどこだろうか、そんなことどうでもいい、高森先生が、そう言われるのだから、それでいい。

これらは、古くから会員を続けてこられた方なら誰でも知っている事実です。
最初にある教学問題のことを根拠として、M野講師ではないと否定する人物は、主張しているのでしょう。

さて、『高僧和讃』源信讃

専修のひとをほむるには
 千無一失とをしへたり
 雑修のひとをきらふには
 万不一生とのべたまふ

(現代語訳)

専修念仏の人をほめるときは、
「千人の中に一人も失敗がない」 と教えられた。
雑修の人を嫌うときには、
「万人に一人も(報土に)生まれることがない」 と述べられた。

は、0点か100点かを教えられたものではありません。
万不一生」の左訓(註書き)には、

万に一人も報土に生れずとなり

と親鸞聖人は書いておられます。雑修の人は報土往生ができないということは、化土往生になるということを仰っているのです。
そんな意味にどうしてなるのだ、という人もあるでしょうから、一応その根拠を示せば、この御和讃の直前と直後に

霊山聴衆とおはしける
 源信僧都のをしへには
 報化二土ををしへてぞ
 専雑の得失さだめたる

(現代語訳)
霊鷲山で聴衆であった、
源信僧都の教えでは、
報土と化土とが説かれ、
(利益を) 専修で得るか雑修で失うかが定められた。

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

(現代語訳)
真実報土への往生は、
多くはないと著した。
方便化土へ生まれる人々は、
少なくはないと教えられた。

とあります。雑修の人は化土往生になる、と源信僧都が教えられ、親鸞聖人はそのまま仰っています。他にも根拠はたくさんありますが、これ以上出すまでもないでしょう。

つまり教学問題を正しい問題文に改めれば

(問)真宗は0点か100点かの二通りではないことを教えられた和讃を一首かけ

になるのです。全く逆の意味なのです。

この御和讃の正しい意味を知ってか知らずか、改訂された『教学聖典』ではこの問答がなくなっています。

それともう一つ、臨終に観音菩薩の説法にあうという話が都合の良い時に高森会長の口から稀に出てきます。
このようなことを仰った歴代の善知識方はありませんが、ある方から情報を頂きました。

『華光誌』第5巻、第5号
「死後の説法」伊藤康善

宿善・無宿善の問題を抜きにして、人は最後まで聞法すべきである。臨終まで、解らなくとも歎くことはない。この身が臨終の時に、観世音菩薩の説法があるようである。

やはり盗作でした。文面から、化土往生を示唆していることが判ります。

それにしても、高森会長は化土往生を口では否定しながらも、本心では認めているようです。それで身内には甘いのかもしれませんが、造悪無碍で念仏誹謗している一族は、化土往生もできないでしょうから、その考えも甘いです。

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コメント

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。(御文章2帖目11通)
布教使が聞法者に臨終での観世音菩薩の説法を期待させることは、上のお言葉に反するのではないでしょうか。

投稿: 雑草 | 2011年2月13日 (日) 09時40分

雑草 様

臨終での観世音菩薩の説法があるとするのが正しいのかどうか疑問はありますが、少なくとも、親鸞聖人は化土往生を肯定的に仰ってはいません。報土往生を願えとしか教えられていませんので、真宗の布教師は、親鸞聖人の教えられた通りに説くべきと思います。しかしながら、報土往生を真面目に願ってはいても、現実的には信心決定していない方もいますので、その方が信心決定していないことを嘆いて落ち込むようなことがあれば、結果論として化土往生の話をすることもあり得るとは思います。
ただし、化土往生を勧めるようなことがあってはなりませんので、そこは気を付けなければならないでしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年2月13日 (日) 11時11分

高森会長は「化土往生を認めている」というのとは違うのかも、と思っています。
観音菩薩の臨終説法にあった=化土往生、ではなく、
観音菩薩の臨終説法にあった=救われた=信心獲得して報土往生(時間的には臨終の一念のみで)
という理屈ではないでしょうか。
これなら、いつも主張している化土往生否定と矛盾はありませんし、化土往生をすすめていることにもなりません。
教学聖典の問題が削られたのは、会のすすめる19願の諸善万行を「雑修」と解釈されないように、という意味かも?
(最近では「雑行を捨てよ」→「自力の心を捨てることで善を止めることではない」という表現になってるようですが)

もともと「信心獲得か必堕無間か」の分かりやすく明確化された二者択一の理論で出来ている教義ですから、化土往生という曖昧な概念があると
むしろ不都合なだけに、今でも講師なんかが全力で否定をしようと挑んでくるんだと思います。
ただ、会に人生を捧げてきたのに信心決定できずに死んでしまった人(事故死した講師等)などは周りの会員に与える影響も大きく、
そこで「心配ないよ」っていうために観音菩薩が利用されたのではないかと思います。これによって、会員を落ち着かせると同時に
「会の活動に真剣に取り組みなさい、そうすれば今信心獲得できなくても臨終には…」ということも言えるようになります。

結局伊藤康善の言葉にしても、最後まで聴聞していくことの大切さを述べたものであって、観音菩薩の臨終説法が一番大事なポイントでもないのに
ポイントのズレた安易な引用をするから変なことになるんでしょうね。

投稿: | 2011年2月13日 (日) 15時37分

名無し 様

会長がどんな意味で言っているかは、誰も聞いたことがないので、想像の域を脱することはできません。普通の思考であれば、化土往生のことを言っているのだと思いますが、普通ではない思考の持ち主ですから、報土往生だと説明するかもしれません。
以前にどんな話をしてきたかなども簡単に否定する人物ですので、会長の”正しい御心”は、誰にも判らないでしょう。多分本人も判らないと思います。

投稿: 飛雲 | 2011年2月13日 (日) 17時12分

上田氏のブログ「幸せのこころとかたち」に、仏は御恩のある人(仏に供養をした人?)を先に救うというようなことが書かれてありました。これでは浄土門の教えではなく、聖道門の教えだと考えますが、どう思われますでしょうか。

以下引用
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仏の慈悲
こんにちは上田です。

いつも読んで頂きありがとうございます。

仏様は平等に人々を救われるのか?

もし、それが本当だとしたら、みんな平等に救われていなければならない。

しかし、実際は救われている人もいれば、救われていない人もいる。

明らかに救いとは不平等なものである。

これは仏の慈悲は平等なのに、救われる人は不平等なのか?

雨は平等に大地に降り注ぐが、その雨水を木は成長し大きくなるほど、多く頂く。

仏によって育てて頂いた方は時空を越えて仏の御心が大きくかかる。

今生助けられなかったら、次の生、それでもダメならば、その次の生と追いかけて助けてくれる。

そういう人もあれば、全く後回しの人もある。

御恩のある方を重く扱う。

それが仏の慈悲なのかなと思いました。

【2010/12/07 23:39】 | 全体 | TRACKBACK(0) | COMMENT(8) |

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この記事に対するコメント

そもそも誰が救われているんです?
【2010/12/08 10:18】 URL | #- [ 編集]

>今生助けられなかったら、次の生、それでもダメならば、その次の生と追いかけて助けてくれる。
>そういう人もあれば、全く後回しの人もある。
>御恩のある方を重く扱う。
>それが仏の慈悲なのかなと思いました。

これはどういう意味ですか?
仏様はご自分にとって恩があるか否かで救いを差別される、ということでしょうか?

「しかるに諸仏の大悲は苦ある者においてす、心ひとえに常没の衆生を愍念したまう。これを以て勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかに、すべからく、ひとえに救うべし、岸上の者、何ぞ済うを用いるをなさん。」

この善導大師の観経疏のお言葉に、真っ向から反しているのではないですか?
【2010/12/16 11:14】 URL | こんにちは #RcG9vm2o [ 編集]

そうですね。仏の救いには差別があります。だから、救われている人もいれば救われていない人もいます。苦しんでいるから助けてくれるのは仏様にとって御恩のある人だけです。
【2010/12/16 22:26】 URL | 幸せのこころ #- [ 編集]

確かにそう思う人がほとんどですね。
【2010/12/18 08:37】 URL | 幸せのこころ #- [ 編集]

仏の慈悲は大慈悲=無縁の慈悲ですから、平等で差別はありません。

「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す」(観無量寿経)

「正道大慈悲 出世善根生とは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道となす所以は、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに「正道大慈悲」といへり。慈悲に三縁あり。一には衆生縁、これ小悲なり。二には法縁、これ中悲なり。三には無縁、これ大悲なり。大悲はすなはち出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根となす。ゆゑに「出世善根生」といへり」 (曇鸞大師)

「一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもって本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望を絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤の者ははなはだ多し。もし智慧高才をもって本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望を絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもって本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望を絶たん。しかも多聞の者は少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもって本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望を絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒の者ははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもって本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざる者は多からん。しかればすなわち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんが為に、造像起塔等の諸行をもって、往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもって、その本願となしたまへり」(法然聖人)

管理人さんの所説は釈尊、曇鸞大師、善導大師、法然聖人の教えに反しています。
救いに前後があるのは仏様(法の側)に差別があるからではありません。
平等に回向されている救いの法を受け入れない、衆生の側の機の失です。
【2010/12/18 09:07】 URL | こんにちは #RcG9vm2o [ 編集]

そうでしょうか?

あなたの言われる根拠を読ませて頂きましたが、だから、救いは平等だと言えるものはありませんでした。

実際に仏の3不能の中に同時に複数の方を救うことができないと説かれていますし、

何らかの優先順位をもたれて救われていると考えるのが正しいのではないでしょうか?
【2010/12/19 07:34】 URL | 幸せのこころ #- [ 編集]

>あなたの言われる根拠を読ませて頂きましたが、だから、救いは平等だと言えるものはありませんでした。

これだけ読んでも理解できないというのも不可解ですが・・・。まさか「無縁の慈悲」という基本的な仏教用語の意味もご存知ないのでしょうか?
平等の慈悲である以上、「仏の側(法の側)に差別があるゆえに救いに遅速がある」などという説は出てきようがないはずです。

>今生助けられなかったら、次の生、それでもダメならば、その次の生と追いかけて助けてくれる。
>そういう人もあれば、全く後回しの人もある。
>御恩のある方を重く扱う。
>仏の救いには差別があります。だから、救われている人もいれば救われていない人もいます。苦しんでいるから助けてくれるのは仏様にとって御恩のある人だけです。

↑上記のあなたの所説を裏付ける根拠が、お聖教上のどこにありますか?

あなたも「浄土真宗の教えを説いている」と仰るのであれば、当方の「救いに前後があるのは仏の側(法の側)に差別があるからではない。平等に回向されている救いの法を受け入れない、衆生の側の機の失である」という主張に異議があれば、独断によらず、お聖教の上にみられる文証をはっきり示して反論されるようにすべきです。
お聖教の上で「仏の救いには差別がある。だから、救われている人もいれば救われていない人もいる。苦しんでいるから助けてくれるのは仏様にとって御恩のある人だけである」とある文証を挙げなければ、どれほどもっともらしいことをいったとしても、結局、それは私見に過ぎないのであって、正しい反論にはなりません。 また、実際、そのような文証があるはずはありません。
【2010/12/23 01:13】 URL | こんにちは #RcG9vm2o [ 編集]
追伸
なお、当方の
「救いに前後があるのは仏の側(法の側)に差別があるからではない。平等に回向されている救いの法を受け入れない、衆生の側の機の失である」という主張の根拠は、
曇鸞大師の「論註」に
「問うて曰く、若し無碍光如来の光明無量にして、十方国土を照らし給うに障碍するところなしといわば、この間の衆生何をもってか光照を蒙らざらんや。光り照らさざるところあらば豈に碍あるに非ずや。
答えて曰く、碍は衆生に属す、光りの碍には非ざるなり」と書かれてあるものを読めば、よくお分かりになるかと思います。
【2010/12/27 01:47】 URL | こんにちは #- [ 編集]

投稿: 岡崎 | 2011年2月13日 (日) 20時44分

そもそも奴はもはや金と権力しか信じてはいまい、
阿弥陀仏さえも信じていないだろう、でないと彼の
数々の行為が全く理解できない。ようするに金と人集め
の為に都合の良い部分を切り貼りしてその場、その場で
語っているだけ、そこに考えが至らないと、奴が会員の
脳髄に埋め込んだリモコンの受信機をはずしたことに
ならない。

投稿: | 2011年2月13日 (日) 23時27分

岡崎 様

エントリーで答えておきました。


名無し 様

仰る通りだと思います。会員からリモコンの受信機を早く取り除いてあげたいです。

投稿: 飛雲 | 2011年2月14日 (月) 20時58分

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